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           3. 神の存在論的証明



  (1) 伝統的な神の存在証明の破綻:


  伝統的神学では、使徒行伝時代(”初めの雨”(ヨエ2:23)の時代)のような奇跡としるしが起こらなくなり、さらに教会が制度的になったので、聖書のみことば以外に、理性”による神の存在証明を行う必要がでてきた。
  これらの論法は、すべて、神が存在するかもしれないという”可能性”から、神が存在しなければならないという”必然性”を導こうとするものであり、結論からすると、それぞれの論理的な推論形式は妥当であるが、哲学的に見て仮定の置き方に無理があり正しくない。(*)


  @ アンセルムスの演繹法(ア・プリオリ)(1078):

  定義: 神は、それよりも大なるものが可能でない対象である。
  仮定1: 神は、理解において存在する。
  仮定2: 神は、事実において存在する可能性がある。(可能性)
  仮定3: もし任意の対象が、理解においてのみ存在し、事実において存在する可能性があれば、その対象は、それ自身よりも大なる可能性がある。
  背理4: 神は、理解においてのみ存在すると仮定する。
  背理5: 神は、神自身よりも大なる可能性がある。  (・・仮定3より)
  背理6: 神は、神自身よりも大なるものが可能な対象となる。
  背理7: それよりも大なるものが可能でない対象が、それよりも大なるものが可能な対象となる。 (・・定義に矛盾)
  背理8: 神は、理解においてのみ存在することはない。
  結論: 神は、事実において存在しなければならない。(必然性)

  アンセルムスは、神を”それよりも大なるものが可能でない対象”と明確に定義したことが評価され、スコラ哲学の父 と呼ばれている。しかし、”並行推論”を用いて、”神”の代わりに、”それより大なるものが可能でない島”や”最大の自然数”などの、事実上存在しないものが同じように証明される。すべての順序数に後続する超限順序数 ω を定義すれば、ω は事実上存在しないのに人間が考えることができる。神も、そのような存在であるとすれば、仮定2 は否定される
  カントの言葉によると、”概念上の銀貨をいくら分析しても、事実上の銀貨は出てこない”のである。
  「神の国は、言葉ではなく、力にある」



  A アクィナスの帰納法(ア・ポステリオリ)(13c):

  仮定1: すべての結果には、原因がある。
  仮定2: 因果関係は、無限に連鎖しない。
  結論: 因果関係の最初に、第一原因(神)が存在しなければならない。

  スコラ哲学を体系化させたトマス・アクィナスは、アンセルムスの演繹法を却下し 帰納法を推奨した。ただし、経験に基づく推論である帰納法が、数学などの単純化された思索においては成立するが、具体的な事象については正当性を欠き、たとえ仮定が真であっても必ずしも結論を導くとは限らない論法である。(ヒューム)
  (帰納法は演繹法よりも論駁される危険性が少ないため、現代神学でも好んで用いられているようである。)

  科学理論についても、結局のところ、すべての帰納的な理論は 推測に過ぎないと言える。たとえば、50億年輝いてきた太陽が10年後にも同じように輝くとは誰も保証できない。また、地球上の物理法則が宇宙の遥か遠い所でも同じように成立しているという保証は何もない。科学は、一種の”信念である。(1964 マリナ4号による火星のにおける探査では地上と同じ観測データが送られてきた。1969 アポロ11号が有人月面着陸・月の石を持ち帰ったとされているが、これすら疑う人もいる。)
  ましてや、目に見えない神の存在について、”帰納的”な推論によって存在の”必然性”を証明することは不可能である。(だから制度的教会には偶像が多い)(精神的なきよめのあかしなどは神の存在の傍証にはなる)


  B デカルトの仮言三段論法肯定式(モダス・ポンネス):

  仮定1: 神は完全である。
  仮定2: もし神が完全であれば、神は存在する。
  結論: ゆえに、神は存在する。

  このモダス・ポンネスの論法も 古典論理の正しい推論形式の一つである。(もし A ならば B である。A である。ゆえに、B である。)
  デカルトは、すべてを疑っても 疑っている”我”そのものは消去できないことから、自己の”存在”を導こうとしたことで有名である。(我思う、ゆえに我在り) 彼は”完全”の性質には”存在”の性質が当然含まれると考えた。
  しかし、この”存在”ということについて、事実上の”存在”は、概念事実経験的な対応においてからしか得られない。(カント) したがって、”完全”という性質はそのまま経験的に認めることはできないから、仮定2 は否定される。

  (ゲーデルも神の存在論的証明を行った **)



  (2) 概念と事実の経験的対応:


  デカルトのモダス・ポンネスの論法も そのまま 並行推論ができる。たとえば、

  仮定1: 神はいやしの力を持つ。
  仮定2: もし神がいやしの力を持つならば、神は(ここに)存在する。
  結論: ゆえに、神は(ここに)存在する。

  韓国の80万人教会のダビデ・チョー・ヨンギ牧師は、(奇跡・いやし現象が集会などでよく起こるので)経験的に、”奇跡こそ 神の存在証明である”と言った。
  ここで、概念と事実の対応、すなわち、聖書の約束のみことばより、イエスの名奇跡の対応が明らかに示されるならば、(カント流に厳しく見ても) 神の奇跡の”存在”証明が成立する。そして、もし”いやし”の性質が、神の”存在”の性質を含むほどに強力であるならば、この仮定2 は哲学的に妥当であることになる。

  神の”存在”という点では、神の3つの現れの一つである聖霊様は、目には見えないが、この地上に局所的に臨在ことができる方であり、奇跡を起こす場所と時間との相関が明確にとれるのである。

  (新興宗教の御利益のうたい文句ように、なんだか良くわからないレベルのいやしでは存在証明にはならない。また、悪霊もしるしを行うことがあるので、神と区別するには、神のもう一つの中心的”性質”である”品性”を見分ける必要がある。(マタ7:16−))

  この並行推論は、”概念”と”事実”が経験的に対応付けられる聖書のあらゆる約束の言葉について適用される。
  ・・・ いやしの代わりに、悪霊追い出し、予告・予知、奇跡、・・・を代入しても良い。


  可能性・必然性を扱う論理形態は、信念・意識を扱う”認知論理”、過去・現在・未来に対応する命題を扱う”時制論理”、判断・意見に関する命題を扱う”義務論理”を含めて”様相論理”という。(R・スマリヤン) ”信仰・信念”をモダス・ポンネスで扱うと、上の述語論理に”信じる”という言葉を付け加えて(= 一個の未定義論理記号を付け加えて) 全く同様に、『もし A ならば B であることを信じる。A を信じる。ゆえに、B を信じる。』の形となる。たとえば 次のようになる。

  前提1: もし神が奇跡を行うならば、神が私を救うと信じる
  前提2: 神が奇跡を行うことを信じる
  結論: ゆえに、神が私を救うと信じる

  父・母を無条件で”信頼する能力”、これこそ、知能が発達する以前にある、神によって人間に備えられた能力である。神の国は、神の三位の人格(父・子・聖霊)どおしの関係から 完全な信頼関係で成り立って 一体になっている。地上に来られた 御子イエス様は、御父を信頼することによる完全な従順をあらわし、そして 十字架を忍んだ。人に対して神が定めたのは”信仰義認”(信じることによってのみ義と認められ、行いによらない)であり、これは神の本質ゆえの理由である。


  「わたしは、あなたをいやす者である。」 (出エジ15:26)

  「信じる人々には次のようなしるしが伴います。私(イエス)の名によって悪霊を追い出し、・・・・また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マコ16:17、18)

  「さもなければ、わざによって信じなさい。」(ヨハ14:11)



  (3) 理性を超える神 ・・・グリムの定理(1991):


  ゲーデルの不完全性定理から、次のような驚くべき定理が導かれる。
  神が、もし、すべての真理を知っているならば、自然数論も知っているはずである。 しかし、不完全性定理により、ゲーデル命題 G については 矛盾を犯すことなく その真理を決定できないことになる。 したがって、

  定義: すべての真理を知る無矛盾な存在を”神”と呼ぶ。
  グリムの定理: ”神”は存在しない

  これにはパトリック・グリム(ニューヨーク州立大・哲学者)の但し書きがあって、次の通りである。
  この定理が否定するのは、”人間理性によって理解可能な神”であり、”神の知識は、単純に無限であることを超えなければならない。それは、いかなる形式的な考察からも、本質的に認識不可能な知識でなければならない。”


  神の「三位一体」は 人間には理解不能である。もし、知的に三位一体が分かったとすればそれは間違いであり、三位一体を否定する教理は、霊が異なる”異端”である。
  (三神論、一位説(ユニテリアン)、エホバの証人(イエス・キリストを御父よりも低い位置に置くもの)など)

  したがって、神は、理性では認識不可能であり、立証不可能な存在である。神の存在を証明するためには、理性を超えた方法、すなわち、しるしと不思議によらなければならない。ただし、人が救われるのは、しるしと不思議によってではなく、十字架の贖い理屈抜きに信じる信仰による。ここに、理性から信仰への飛躍がある。このとき、瞬間的に 聖霊様が内側に宿ってくださるのである。


  「見よ、神はいと高く、私たちには知ることができない。」 (ヨブ36:26)  (ヨブはパレスチナ東方の異邦人

   ・・・ ヨブは試練に遭ったとき、異邦人特有の”理屈”が出てきた。それは、自分自身を神よりも正しいとするものだった。

  「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなた方の持つ信仰が、人間の知恵にささえられず神の力にささえられるためです。」 (Tコリ2:4、5)

  「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザ55:9)

   ・・・ 要するに全然比べものにならないくらい圧倒的に”高い”と言っている!


  * ローマ新法王が05’4月19日選出され、ベネディクト16世(ラッツィンガー氏)として着任した。彼はドイツ出身で厳格な保守派の理論家であり、地盤沈下の進むヨーロッパの信仰的再生を目標とし、世俗化に警鐘を鳴らし、全枢機卿に ”カトリックの原点”に返るよう語りかけている。(ヨハネ・パウロ2世(ポーランド出身)は政治的な人物で 共産主義との対決だった。)
  リック・ジョイナーの預言によると、「連続して着任する2人のローマ法王のうち、一人目は、カトリック内の 福音的、カリスマ的信仰を迫害し、その後不名誉な結果となって退く」そうである。(もしかしたら この人物かもしれない。) このときに備え、プロテスタント派は霊的にはもちろんのこと、理論的にも武装しなければならないと思われる。(もちろんカトリックにも救われている人がいる(念のため))
  (「2人目はカトリックに聖霊様によるリバイバルを起こし、他教派にも大きな影響を与えるが、その絶頂期に抹殺される。その後、終末のにせ預言者が現れる。」)

   ** ゲーデルも神の存在論的証明(1970)を試みた(”神性”を単純に”肯定的性質”とおいた)が、その理性的なアプローチによる証明は間違っていた。彼はこれに気づくと同時に彼の精神状態は非常に悪化した。ただし、1978年ゲーデルの死後(精神衰弱による餓死)の1984年にゲーデルの遺稿の一部としてこれが公開され、神学者のある人たちはこれを支持しているようである。


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