感謝の心と恨みの想念

 (徳積みと不徳について)


 私たちは身魂を清め、魂の向上を目指して人生を歩むのが重要ですが、現実には口で言うほど簡単に進まないもので、人生ではさまざまな誘惑や試練が日常的に起きるのもご承知の通りだと思います。

濁った水も時間をかければ、沈殿作用で少しずつきれいな水となるように、霊界での清まる方法は黙々と修行を続けることしかありませんが、この現世では努力すれば一気に向上することも可能であり、さらには、自覚によっては自分だけでなく先祖やご縁のあった人々の魂も清め、救い上げることさえできます。

しかし、道を誤れば転げ落ちるような状況が起きる、両刃の剣のような世界でもありますので、私たちが何をすれば向上への道となり、何をすれば転落の道なのかを認識する必要があるうかと思います。

(1)  魂を向上させる方法について

魂を向上させる一般的な方法として、大別して二つのことが考えられると思います。積極的な方法として「徳積み」があり、これは社会や他人の幸せに役立つとか、人から感謝されることなどが考えられます。

 もう一つは、苦しみや悲しみを体験することです。喜ばしい気持ちにはなれないと思いますが、過去(前世)につくった自分の罪汚れは苦しんだり、悲しむことで清算できるため、辛いこと、悲しいことなどに心身を晒すことで魂が清まり、清まった分、魂が向上するのです。これを「浄化」と言います。

 ただし、現世での日常生活では、毎日掃除をしても積もる埃のように、悪いことなど何もしていないつもりでも自然と不徳が溜まるものですから、積極的に努力しないとなかなかに「徳積み」とはなりませんので、私たちが細かいことを気にして徳積みへの実行力が弱まると、神々や先祖は本当にがっかりされるようです。

 徳積みとは 

「自分が幸せになるためには、他人を幸せにすることがもっとも近道だ」と大神様は、仰せになっており、徳積みとは、人の幸せのために自分自身を活用するところに原点があると思います。もちろんこの場合の幸せとは享楽的な意味でなく、病気・貧困・争いがなくなり真・善・美に近づいて行くことです。しかし、これくらい人に尽くせば徳積みになるだろうとか、願いが叶うためにはこの程度やれば良いだろうなどと打算で行えば、根本に利己的目的が強いため徳積みの意味が薄まります。

 徳積みでは、尽くして求めずの心で誠を尽くす「無償の愛」が尊いのであり、人知れず行う徳積みを「陰徳」とよび、徳積みの行為として最も神の喜ばれる方法です。もちろん初心の頃は利己的要素があっても当然で、打算があっても積み重ねて行くうちに、知らずしらず身魂が向上し、いつの間にか打算や欲望も小さくなると思います。

 また、小さな善意を日々コツコツと積み上げるのが、徳積みの徳積みたるゆえんですから一気に大量の徳積みとする行為は難しく、私たち凡夫は日常生活の中で陰日向なく徳積みの心・言・行を心掛けるのが大切です。その意味で、信仰は年寄りのするものだと言うのは大いなる誤りであって、幼い頃から徳積みを躾けないと、年寄りとなってからでは間に合わない場合が多いでしょう。

 では、改めて述べるまでもないと思いますが、徳積みとなる事柄を以下に羅列しますので参考としてください。考えれば幾らでも拾い出せるでしょうが、知っているかどうかではなく、実行できるか否かの問題であり、初心の頃はそれらの行為を、一日一日区切りをつけて確認するようお勧めしたいと思います。

レベル1・自分自身を含めて、身の周りを清潔で美しくする。 時間や約束を守る。
    
        時間を大切に活用する。  与えられた仕事を一生懸命に努める。

     人へ挨拶など率先して行う。  前向きで明るい言葉を使う。 

       笑顔を絶やさない。 明るく優しく人に接する。  人をいたわり、励ます。  

レベル2・正直に謙虚に生きる。 明るく楽しむ心で精一杯に生きる。

     一切の生命や物を大切にする。 人に対して思いやりを持って行動する。

     感謝の気持ちを忘れない  親を大切にする。

     先祖への心を込めた供養、慰霊を行う。

レベル3・苦しく辛くとも生きていることへの感謝を持ち続ける。  

     人の幸せを神に願い、祈り、行動する。 

レベル4・人から感謝されることを行う。(無償の愛で) 

     人の幸せのために尽くす。(無償の愛で) 

     神や先祖に関する不思議体験があれば人に伝える。              

 この他にもいろいろな言葉で表現できると思いますが、後は自分自身でお考え下さい。

そして、どの程度したら徳積みとなるのか、あるいは、どうしたら効果的な徳積みとなるかは誰も分からず、神のみぞ知るところですから、実行しては反省するの繰り返しによって学ぶしかありません。しかし、強い想念、祈りを持って実行すれば必ず道が開けてきます。なぜならば、心が動けば霊界、神界に伝わりご支援がいただけるからです。

ただ、前述した徳積みに関する言葉は、実はつい最近まで日本の常識的としてあった心根の表現であり、昨今、そうした意識がどんどん薄れて行く感のあるのは残念です。

    浄化の考え方

もう一つの清まる方法「浄化」とは、簡単に表現すれば不幸を体験するとか、苦しむ、悲しむ、嫌な目に合うことなどを言いますが、精神的、肉体的、物質的などこの世の一切の苦悩や痛み、悲しみを心身に受けることです。

人間としては辛く悲しいものですが、苦しんだ分、霊界に積もった自分や祖先などの多くの罪穢の一部を清算、払拭することになるので、その分、自分の魂を含め多くの魂が清まるのですが、この払拭作用を「浄化」と表現するわけです。

 そして浄化し、霊界が清まった分だけ、現界で苦しんだ当人やその子供、子孫など血脈のつながった人々へ、幸せがやってくるのです。いわゆる、これまでに作った巨額の借金の一部を、辛い思いをして返済するようなものだと理解すれば良いでしょう。

 浄化は誰でも嫌ですが、私はどんなに苦しくとも、過去に播いた不徳の種を刈り取っているのだと自分に厳しく言い聞かせながら、「良くなるための浄化」と努めて明るく受け止め、大神様に感謝するように心掛けています。

この「浄化」を正しく受け止められるか否かが、この世の摂理を真に理解できたかどうかの分岐点だろうと思っています。しかも大神様は、「その人に乗り越えられない浄化(苦難)は決してさせない」と仰せになっていますので、どんな大変な浄化も実は、その人が乗り越えられるはずのレベルにできているようです。信仰の世界では俗に使命の大きい人ほど苦難も大きいと言いますが、それはこの意を表していると思います。とはいえ、清まると言っても大きな浄化をいただいた時は、たとえ一時的と分かっていてもうろたえるものであり、好意的には受け止められず、ともすれば神を呪い、運命を呪って、苦しみや悲しみから逃げようと必死にあがきたくなります。

 私自身、これまでの体験で「浄化」の解釈と理解が極めて難しいものだと分かっているつもりですが、こうした不徳の清算方法も、現世で清算する方が霊界で清算するよりも絶対的に楽だとい聞いているので、苦労、苦痛や悲しみは生きているうちにしておいた方が結果的には楽のようです。

 世の中には、良い人なのに真面目に一生懸命努力しても、行けども行けども悲運と苦悩から逃れられないような人もいますが、そういう人こそ、「藁をも縋って」の心境で神の門を叩くべきであり、先祖を含めた大勢の魂の代表として、この世の摂理を学び、徳積みを武器として、めげず挫けず自分の運命、家系の因縁と戦ってほしいと思います。

 これは事を裏返して考えてみれば、あらかじめから悪い因縁と戦う力を、神よりいただいて生を受けているはずですから、正直に生きてなお不運に泣く人がいるのなら、その人は元々大きな使命を与えられている人であり、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、最後の最後まで希望を捨てず神への道を目指せば、最後には神からの祝福を得、神の姿をかいま見ることが許される人だと思います。「碧落」の心で戦い、自分自身が浄化に負けない限り、必ず救われる時が来るのです。

 以上のように、不幸と見える事象を感謝で受け止め、それを期に摂理や徳積みの方法を学ぶという姿勢に変われば、どんな厳しい苦難、悲しみであろうと軽く早く終わり、すべての点で大きく飛躍するチャンスと成りえる意味を込めて「浄化」と表現するのです。

(2)  不徳について

 人の幸せのために尽くすことが徳積みとしたら、不徳とは人を騙したり、苦しめたり、嫌な思いをさせたりすることで、人を苦しませ悲しませて築いた地位や財産を霊界から見ると、ただ「不徳」を積み上げているだけに見えるはずです。ですから、一時的には華やかであっても、いずれ不徳の量に見合った不幸が訪れることとなります。

 また、当然、その対象は人に限らず、生きとし生きるもの総てですから、この点をしっかりと考えていただきたいと思います。ただし、世の中には多くの人々を悲惨な目に合わせながらも、本人自身には大した苦難もなく、人の羨むような幸せな状態で他界する人もいますが、これらも、けっして羨むようなものでなく、実際はまったくの逆となるはずです。と言うのは、こうした場合、大別して二通りの解釈ができ、一つはまれな例ですが、過去生に大きな善徳が積んであって、それを使い果たしながら人生を送ったことが考えられます。

もう一つは、現世と霊界では時間差が生じるため、現世での不徳が浄化として表に出ず、霊界に山積み状態のままとなっていたのだろうと思います。しかし、いずれにせよ、霊界ではその不徳分をきっちり清算しなければならないので、恐ろしい程の苦しい修行が待っているはずです。霊界で積み上がった不徳は、自分の子供や子孫など現世の人々を不幸にするだけですから、現界にいる間は、少しでも不徳を清算した方(浄化)が楽だったとなるに違いないでしょう。

 逆に、人間から見ると不徳であっても、神から見ると積徳に映るようなケースもあります。たとえば、財産家の息子が道楽者となり、一家没落の憂き目に遇ったどは巷によくある話ですが、一見、道楽息子が大変な罪を作ったかのように思われがちですが、そうばかりではなく、先祖の不徳の行為によって蓄えられた財産などは、霊界では逆の大借金となっていたに相違いないので、道楽者といわれる息子が財産を使い果たして、不徳を清算したこととなり、神の目から見れば善徳を行ったのと同じになるわけです。

 世間では大金持ちや権力者の子供に不良が出ることも多々ありますが、こうしたケースは親や先祖の不徳を子孫が正しているのであり、霊主体従の表われにすぎません。

    ●不徳を行なわない努力。消極的徳積み。

 不徳とは徳積みの反対ですから、前述した徳積み行為の逆をすれば不徳となるわけで、誰もが心に覚えのある事ばかりで少々不安になるでしょうが、その不安は的中しています。実際、生きて行くこと自体が不徳を積み上げていると考えた方が適切かもしれません。だからこそ、細かな点にとらわれず、積極的に徳積みへ向かわなければどうしょうもないのですが、徳積みが難しいとしたら、まず不徳の行為を慎むことから始めるの良いかもしれません。

 日々、平凡にしかも、ある一定の礼節を持って暮らしている中で、不徳に陥りやすい代表的として不平不満、愚痴の類があります。また、人を責める、裁く、中傷したり、くよくよ思い悩む、執着を持つことなども上げられますが、私たちがとくに注意したいのは人からの妬みや怨みの類です。

 まず不平不満や愚痴ですが、人の日々の暮らしでは、自分の思うようにならないことばかりなので天候、気候の不満から仕事の不満。家庭内の出来事や家族に対する不満。健康、収入などとキリがない程、ついつい愚痴ってしまうのは私たち凡人の常のようです。

しかし、神は生きとし生けるものすべての正しい生育を計っているのですから、一人の人間だけに都合良くできるはずもありませんし、また、すべてが良くなるための布石であり、「この世に偶然はない」とも仰せなので、不平不満、愚痴は我がままや利己主義の心の表われであって、神や先祖の心を踏みにじることにつながります。時と場合によっては神の冒涜になりかねない大罪の危険をはらんでいます。

 「不平不満は悪魔につながる心である」と大神様が仰せになっているので、気をつけたいと思います。さらに考えを深くすれば、思い通りとならないのは自分に徳が足りないことに起因する場合が多いので、受け入れる謙虚さが必要でしょう。ですから、愚痴ってしまう自分に気がついた場合、自分を責めたりガッカリせず、すぐ反省し、神に向かって素直にお詫びを申し上げる気持ちが大切であり、いたらない私たちは、日々、神に反省と感謝を捧げたいと思います。

 霊的なものが見える人には、愚痴や人の悪口などからは黒い煤のようなものが出ていて、反対に、人として進むべき摂理の道などを、真心をこめて人に伝える時の言葉からは金粉が舞い飛ぶそうです。

 また、人を責めたり、裁いたりすることも意外な落とし穴であり、中傷もその類ですが、私たちは社会一般で認められた正義は正しく、善は善として捉えがちで、つい正義の押し売りや一方的な善悪の判定などで人を責めたり、怒ったりしがちです。しかし、正義と言えども「泥棒にも三分の理」や「小乗宗教の悪は大乗宗教の善」の言葉もあるように、必ずしも自分の思っている正義が、すべて正しいとはなかなか言い切れないのが本当だろうと思います。

 ですから、人を注意したり、間違いを指摘するなどは相手を打ち負かすとか、さげすむのではなく、あくまでもその人が幸せになることを願いつつ謙虚に諭す、忠告するのが賢明であって、行き過ぎて相手を怒らせたり、心を曇らせたりすればかえって不徳となりかねないでしょう。とくにそれが恨みや呪いにまでとなると恐ろしいことですが、これは自分にまったくそんな気持ちがなくても、相手がそう思ったとしたならば自分に非があり、言い訳無用の人の心なのです。

 人を責めるだけでなく自分を責める場合もありますが、これも同様で自分の失敗や、未来の出来事などに対してくよくよ思い悩んだり、いつまでも執着を持つのは心に曇りを作るだけですから良くありません。

(3)  恨みや妬みの恐ろしさ

 私たちは日々「想いと言葉」の渦の中で喘いでいると表現しても過言ではないと思いますが、霊能力の高い人が言うには、とくに恨みや妬み、怒りや呪いなどの想いは刃のように霊体を傷つけるので、本当に恐ろしいとのことです。しかも、霊体が傷つけば霊主体従の摂理によって、この現世においても何らかの忌むべき現象が起きるはずです。

昔の人は「人を呪えば穴(墓穴)二つ」と表現していますが、呪われた側が傷つくのは分かりやすいことですが、呪った側も、人を傷つけた不徳が加算されて霊格を下げ、結局自分も不幸せとなるのがこの世の摂理なのです。

実は、我が家系も呪われた一族だったので(下記の「怨念の行者さん参照」)、呪いの恐ろしさは身をもって知っているつもりですが、とかく競争世界の現代においては、謙虚、思いやりは本当に大切な心のあり方だと感じます。私たちは時にして「負けるが勝ち」のようなおおらかな気持ちで相手に接したいものです。

 恨みにも軽重がありますが、大きな家屋敷、カッコいい車やきらびやかな宝飾品などを所有して贅沢に暮らすことは、人から妬みをかいやすく、知らず知らずに自分の霊体に曇りを作るようなものかもしれません。また逆に、自分自身は、人へ恨みや呪いをぶつけない平常心を保つ心のあり方を修行するのも大切でしょう。

  ●色情因縁

色情因縁とは、男女関係で起きるさまざまな色恋沙汰のトラブルを指しますが、男女関係についてルーズになりがちな昨今の風潮では、色情因縁に対する意識が軽く扱われているように思われます。愛情のもつれから生じる心の動きについては、極めて本能的な感情に左右されており、心の深いところで湧き上るために、本人も気付かない場合がほとんどで、意外とやっかいでしかも強いものです。

そうした感情から生じた妬みや恨み、執着は知らず知らず自分の魂や相手の霊界に曇りを作って、それぞれの人生に大きな影を落とす結果ともなり、古今東西、霊的な影響を現世に及ぼす最も普遍的で難解な現象と言えましょう。ですから、今生きる人々にしても、数々の輪廻転生の中で積み重なった色情因縁の影響を受けながら暮らし、また新たな因縁を作り出しているのが実態だと思います。

 そうした中にあって、欲望のまま、人の心や体をもてあそぶような行為、財産や金銭にからんだ偽りの心、水子など人の命にかかわる裏切りや行為、家庭崩壊や愛を引き裂くような圧力などは極めて激しい怨みとなり、いずれその因を作った人に戻って霊体を酷く汚す作用となるのです。当然、その人は、この世の法が裁かずとも摂理によって、いずれ不幸の坂を転げ落ちて行くこととなります。

不倫など他人に知られなければ良いだろうと思うのは間違いで、自分の魂は分かっているので、自分の霊界を汚していることに変わりはないのです。もちろん、霊界・神界からはお見通しです。事に軽重があるものの、人は愛を学ぶために人生を旅しているのですから、とくに恋愛などは、自分の感情や思いを満たすだけでなく、あくまで相手の幸せを考えた行動が求められるのです。

    ●怨念の行者さん

 今から20数年前になりますが、私はスポーツのやり過ぎで椎間板ヘルニアの手術を受けました。その事前説明の折り、担当医から車椅子の覚悟も必要だと説明された母は、心配のあまり、私の運命を霊能者に見て貰った時がありました。

 「…あなたが今どこにいるのかわからない。真っ暗です。家系にかかわる因縁が全部あなたにかかって来ています。その中で最も大きな災いとなっているのは、江戸時代寛保2年、あなたの祖先は大きな屋敷に住んでいたが、その門の前で焼身自殺をとげている人がいて、その人の恨みが強い。その人は後ろ姿しか見えないのでハッキリ判らないけれど、髪の毛が肩まで伸びた小柄で年配の女性のように思うが、これほど広い土地がありながら、この貧しい者のほんの僅かな土地のため、人を騙して奪った恨み、子々孫々、末代まで祟ってやると呪いながら死んでいった。その霊があなたの邪魔をしている。今から御祓いをするから大丈夫だよ」

 霊能者の言葉を聞いた後、私は御祓を受け、もう大丈夫と思ってその後すっかり忘れていました。それから十五年ほど経ち、私は、この道に入り、神の道をさ迷っていた頃でした。浄霊の最中、おかしな格好をする霊界人がお越しになり、私と何か因縁のある方だと分かりました。しかし、その後も時々出てみえましたが、どういう方かはっきりせず、髪が肩まで伸びた妙に顔の長い男の人だとか、焼けて指のくっついた拳を差し出しているとか、断片的に分かるだけで、ほとんどの場合、霊界人はどんな関係の方かハッキリするのが常でしたから不思議に感じていました。

そのうちに、断片的な情報が一つとなり、誰かなのか分かったのです。私はヘルニアの手術前、母と一緒に聞いた霊能者の言葉を思い出しました。あの時、髪の毛が長いので女性と聞き、この方が男性と聞いていたため、話がつながらなかったのです。

 「余るほどの土地を持ち、大きな屋敷に住んでいた者が、本当に僅かな土地欲しさで私から騙し取った。その心が許せない。一族郎党、末代まで呪ってやる。許さん」この怨念の方は、私の先祖の屋敷の近くに粗末な庵を結んでいた行者さんでしたが、燃えたぎる怨念によって竜神へと霊格を落としながらも、修行で鍛えた法力を駆使して、これまでの約250年の間、私たち一族に不幸をまき散らし、苦しみと悲しみのどん底へと突き落としていたことを白状しました。私の父も不運でしたが、母の兄姉妹も皆、大変な人生を余儀なくされてきましたが、その理由もはっきりしたのです。

もちろん私のヘルニアの手術も、これまでの私の不運も全部彼が仕組んでいたのですが、私が神を求め、道を求めることは復讐に邪魔だったようです。もう少し遅ければ姉の長男の命も危なかったと思われます。私は一生懸命お詫びしたつもりでしたが、気持ちは届かず、結局、その時は許してもらえませんでした。

1995年11月、伊豆半島に鎮座する神祇大社へ、15人程のグループで正式参拝した際にちょっとした奇妙な出来事があり、その後しばらくして、参拝中の出来事の意味が憑霊で判りました。実は、怨念の行者さんは私の姉に憑いて同行して来たものの、神祇大社の神々に取り押さえられ、これ以上続ければ主神によって魂が燃やされてしまうので、もう観念して怨念行為はやめろと諭されたと教えていただきました。

そして、行者さんは諦めようとしつつも気持ちは納まらず、もう少しのところで一族郎党を地獄へ引きずり込めたのにと、悔さや憎しみ、怒りの入り混じった気持ちを露わにして泣き叫んだようです。

 しかし、私は自分自身の不運や辛かった体験を通じて、人の苦しみや憤りも自分に置き換えて理解できるようになっていたので、この竜神となった行者さんに対する怒りや呪う気持ちは全く湧かず、むしろ、同じような辛い体験を持った仲間として涙が流れ、我が祖先の過ちを心から詫びる気持ちになれました。

 こうした怨霊が浮いて出て、神に取り押さえられることなど奇跡中の奇跡であり、数々の霊能者でも体験がないと聞きましたが、これらも、私に何か特別な霊的能力があったわけでなく、私が道を求めて真っ直ぐ進もうした気持ちや、コツコツと徳積みを心掛けようと努力してきたことを神々が受け止めて下さり、働いていただけたのだと思っています。

御祓いは、その言葉通り、「払う」であり、一時的に追い払う程度であって根本的な解決にはなりません。ましてや、怨念は怨念を受ける側に原因があるわけですから、力ずくで押しやったり、どこかの霊能者が祈祷しても何の効果もないでしょう。自らが心から詫び、心から徳積みしてお届け申し上げる気持ちしか通じないと思います。 

 その後、神の下従として神龍となる道を選ぶか、再び人に戻って新たなる修行を積むかとの私の問いに対して、行者さんは人に戻りたいと言うので、私は主神にその事をお伝えし今後の魂の向上と幸せを祈らせていただきました。

そして先般、10年振りに行者さんとお会いする機会があり、最近勉強を始めた呼吸法を教えていただきましたが、どうやら竜体から人体まで向上を果たされたようで、お礼にお越しになったようです。私は、今後も一緒に修行し、一緒に魂の向上を目指して頑張りましょうと、お誓いさせていただきましたが、この方がこの世に再び生を頂き、いつかどこかで再会する時もあるのだろうと思います。

   ●霊界から怨念を実行する集団

 怨念話しは数々あって、大なり小なりどこの家系にもあるようです。ある人が癌の告知をされたので、何とか助からないだろうかと私たちのグループに相談があり、その後、様々な憑霊現象や霊視によって明らかとなった話です。

関が原の合戦以降、徳川幕府は政権を磐石とするために諸施策を実施しましたが、その中、約350年前、ある小潘では世継ぎ争いに乗じて、お取り潰しとされてしまいました。それに対して藩主は恨みを晴らすため、修行僧による祈祷師団へ呪術を依頼したらしく、取り潰しを担当した幕府側の責任者の子孫を苦しめ続けてきたようです。

 私も、その呪術師集団の長と憑霊現象で対面し、お詫びしたり諭したりもしましたが、「本人に詫びられるならともかく、そなた達に詫びられる筋合いはない、たとえ本人が詫びたとしても、我等も役目によりやっているので止めるわけには行かない。そなた達に最高神がついているのは分かっている。しかし、我等にも最高の悪の神がついておるぞ。我等はあの者を闇に必ず引き込んでみせる。そなた達はそなた達で正々堂々とやればよいが、総てはあの者の心の中にあるのではないか。そなた達に、あの者の心を変えることができるかな」

 この長は、背筋の凍るような底知れない恐ろしさを漂わせていたものの、正々堂々と名乗り、ある意味では極めて男らしく一本筋の通った感じで、正直言って私がイメージしていた悪神とはいささか異なる感がありました。

 その後二年程して、癌の人は亡くなりましたが、今思い起こせば、あの時、あの長はこうも言っていました。「もうすでに、あの者のことには決着がついておる。実は我々の狙いは、すでにその息子に移っておるのだ」

 怨霊と化した人々から、多くの悲しみや苦しみも聞かせていただき、時には歴史文献を詳細に調査し、それらが史実として残っているのかを確かめたこともありましたが、祟るには祟る理由があり、祟られる側にも祟られる何らかの因が必ずあるのです。

 しかし多くの場合、祟られる側は彼ら怨霊を想像することもなく、彼らの思うがままに操られ、悲劇の淵へと沈み、怒り・呪いの心で一杯となって、やがて悪神の心と同化するのがほとんどだと思われます。

その一方で、怨霊自身は悪行を重ねれば重ねるほど霊格が下がり、惨めな境遇へと沈んで行く自分を知っており、怨みつつも、心の片隅では救われたいと願望しているのも事実のようです。ですから、怨霊に苦しめられている側の心が変り、神の道を求める気持ちへシフトし、自分が救われるためでなく、人が救われるように祈れる心に変わって、身の不徳を主神に詫び、見知らぬ怨霊をも救う気持ちで徳積みを行い、怨霊の心を神の光で満すことが怨念を晴らす唯一の方法だろうと思います。でなければ、お互いに堕ちて行くだけであり、御祓いなどでは、確かに一時的に遠ざけることは出来ても、いずれ元の木阿弥となるだけでしょう。

 真心のこもった祈りは光となって相手の体を包み、その分幸せとなるので、光を受けた魂は感謝の念を抱き、その感謝の念は光となり祈ってくれた人へと届く。これらは、すべて霊界、現世を結びリンクする、極めて不可思議なシステムによる作用です。

(4)  貧者の一灯

 本当にお金に困った時期がありました。母の命日に花を買うお金もなく、真冬の堤防を自転車で走りまくり、やっと見つけた一輪の花を採って供えた思い出があります。情けない、身も心も萎えていまいそうな気持ちが長く続いた頃ですが、この時代があるお蔭によって、信仰とは想いの世界であり、目に見える現象にとらわれず、どんな小さなことでも心を尽くし、コツコツと継続させるのが大切だと強く私の心に染み込んだと思います。そして、その思いは何時か必ず天に届き、霊界にも届くと確信できたように思います。

その苦しい時代の学びが私の宝ですが、この時代を思い出す度、仏教説で有名な「貧者の一灯」の話しが脳裏に浮かんでなりません。あまりにも有名な話で陳腐化しているかもしれませんが、信仰の原点だと思います。そして、エリートと呼ばれ、この道にも縁のなかった若い時代、私が鼻でせせら笑った話でもあります。

「昔、インドの祇園精舎があった町では、仏陀へ心を捧げたり、感謝の心を表すために祇園精舎までの路へ灯明を掲げる風習があった。貴族や大金持ちの人々だけでなく一般市民も油を買って灯明を路の脇に掲げ、その路を明るく、美しく照らしたという。

その町にナンダーという名の見すぼらしい老女が住んでいて、彼女は大変に貧しい暮らしをしていたが、一生に一度はその路を照らす灯明を上げてみたいと思い、その日その日の食べ物にも事欠くような暮らしの中から、僅かずつお金を貯めていた。

老女は長い長い年月をかけて、ようやく念願の灯明を一つ掲げることができ、他のお金持ちなどが掲げた灯明に並んで明々と火が灯った。

しかし、どういうわけか、その夜に限って強い風が吹き荒れ、次々と灯明が消されていってしまったが、貧しい老女の灯した明かりだけは強い風にも消されることなく、その火が尽きるまで、明々と路を照らしていた」

この説話は、苦しかった時代の私の姿に思えてなりません。そして老女の後ろ姿は私自分だけでなく、私の亡き父母の後ろ姿であり、これまで、営々と魂の火を継いで来た日本人の後ろ姿のような気がしてならないのです。

 霊格の低い者は一時的な幸福はあったとしても、全般として幸せな人生を歩むことは容易ではありません。しかし想念を強く持って、不平不満を思わず、今命あることに感謝し、挫けず、負けずコツコツと徳積みをすれば、必ず幸せとなる日が来ると私は断言したいと思います。

「継続は力なり」の言葉通りに陰日向なく、普段の何気ない努力の積み重ねが大切であり、先祖に心をくだき、家族を思いやり、他者の幸せのために力を貸す。そうした気持ちや行動が霊界を清め、自分の魂を清め、そして地上を清めていくと思います。

トップページに戻る