この世の摂理・法則        

 この世の摂理、法則と言いますと何か難しい話のように思いがちですが、実は太陽が東から上がり西に沈むように、本来誰もが簡単分かるはずのものなのです。しかし、現代の常識が摂理の道からあまりに外れているため、かえって突拍子もない話だと思われるかもしれませんし、また単純明快すぎて受け止めにくいかもしれません。ですから、科学的な物の見方を一時的に放棄して、素直に直感で感じとるところから始めていただきたいと願います。

この世の摂理・法則は下記の8項目に絞られます。この世に住む一切の人がこの法則を基に人生を営み、幸不幸を感受しています。もちろん、この分類については私独自の判断で表現したものですから、物を見る角度を変えればまた異なった表現にもできると思いますが、こうした摂理、法則を知り、実生活に活かすことで自分の人生が充実し、幸せの境地に近づけると思いますので、以下、「摂理、法則」について項目ごと解説します。

         この世の摂理、法則の8項目

 (1) 神界、霊界の実在 (2)霊界と現世はリンクしてい                                  (この世は霊と物質の二重構造)
 (3)魂の不滅と輪廻転生 

(4)霊主体従 (5)魂の清昇濁沈(有徳上昇・不徳下降) 

(6)不平等の原則、身魂相応 

(7)想念や言霊は即現象世界へ影響する (8)霊は血   

 また、これらを総合した究極の考え方として

徳の高さ=愛の大きさ、深さ=霊格の高さ=魂の大きさ、軽さ=波動レベル(周波数)の高さ=素粒子の高位性=光の強さ=精神、肉体の高質化=健康レベルの高さ=血液の清らかさ=幸せ度の高さ=徳の高さ

とする方程式が私たちの存在と、私たちが進むべき方向性を示しています。

(1)神界、霊界の実在について

神の実在や、霊界が本当にあるのかの問いに対しては、その世界へご案内さえできれば、誰もが簡単に納得できるでしょうが、それができない以上、神界、霊界の実在については人々の心に委ねるしかありません。しかし、霊的素質の無い人でも自分のレベル(霊的レベル、波動、魂の純化)が向上すれば、感性の向上によって何らかの現象で感じられたり、判るようになるものです。

ですから、霊界や神界の存在を本心で否定するような人は、感性が鈍く、霊的レベルの低い人としても過言ではないと私は思っています。また、ここでは、そういう人たちを感化したり説得しようとする気持ちはまったく無く、信じたいと思いながらも苦難の道に迷っている人、不思議な体験があるにもかかわらず意味が判らない人、信じていろいろチャレンジしているにもかかわらず実りが無いような人、真理を求めたいと思っている人などへお伝えすることを主眼としています。

 実は、信じるか否かも主神の試しであり、説得されて信じるようなものでもなければ、理屈で分かることでもありません。あくまで、心で感じ取る世界であり、心の琴線に触れ、自発的に心の奥から湧き上がってくるものだろうと思います。

とは言え、戦後の日本では、欧米文化を無批判に崇拝してきた結果、教育のあり方が物質的な合理性(経済志向、科学的思考)に偏って洗脳的な傾向があることも否めません。そして、死後の世界や神の存在などは御伽噺や迷信の世界に追いやられ、知能や教養程度の低い者、変り者の妄想などのように考えられがちとなっていますので、感じる能力も退化しているかもしれません。

私は霊的能力のない人間ですが、数々の人生の試練と挫折をくりかえしながら、導かれるように霊的な世界へいざなわれ、多くの霊的能力を持つ方々に出会い、それらの人を通じて神や霊と対話し、その実相を把握したり、それらに伴う様々な事象を通じて確信を掴めたように思いますので、特別な能力のない人は、求めつつ努力を重ね、五感を凝らして理解に努めれば分かるはずです。

 また、一般的に霊媒、霊能者などの話は、霊媒、霊能者自身の能力範囲の限られた情報でしかなく、偏った内容となりがちとなって、間違った固定観念や迷信的知識となる恐れがありますので、先に基本的な概要を掴んだほうが適切だと思われます。ですからここではまず、信頼に足ると感じられた本を紹介したいと思います。

@     長谷川光洋著「心霊能力入門」(発行/新星出版社)

論理的に神界、霊界の実相が説明されており、若輩者が先達に申し上げるには甚だ不遜な表現ですが、私の確信している方向性と一致しており、精緻で信頼性の高い情報内容と思います。しかし、古い本なので入手が難しいかもしれません。

A     スゥエデンボルグ著作「霊界探遊記」

 スゥエデンボルグは1688年、スゥエーデンの首都ストックホルムで生まれ、1719年には貴族に叙され、以後数十年にわたって貴族院議員として政界で活躍した一方、科学者、数学者、発明家として大きな業績を残しており、社会的にも極めて信頼性の高い人物です。その人物が霊界を旅するがごとく体験をし、そこで起きた出来事を事細かに記録したものが「霊界探遊記」であり、当時ヨーロッパでは、たいへんにセンセーショナルな話題を呼んだと伝えられています。
 この「霊界」を探遊したノンフィクションの記録は、霊界のイメージをとらえるには最適であり、日本でも数多く出版、紹介(タイトル名も各種あります)されています。
 
 その著書の中で霊界と現界との関係を、広大無辺な霊界の空間の中にポッカリ浮かんだ一つのゴムの球のようだと述べていて、「ゴムの球の中すべてにも霊界は、しみ込んでいるのだ。ゴムの球の中も実は霊界なのだ。ゴムの球以外の空間はすべて霊界なのだが、ゴムの球の中だけは例外的に、自然界と霊界の二つの世界が同じ空間にともに存在しているのだ」とあります。この言葉などは私が神々や、あの世の方々と対話させていただいく時に感じる気持ちと同質のものだと、感心するほど旨く説明されている気がします。

 Bその他として、昭和初期に活躍した浅野和三郎氏が霊界研究で高名であり、当時日本のみならず欧米でも盛んだった心霊研究に行脚を重ね、数々の実験、貴重な体験報告がされており、現在でもその一部が出版されていて傾聴に値すると思います。

 話しは変わりますが、近年の物理学では量子力学が最先端と言われており、その研究では、私たちの世界・宇宙と異なった別の世界の存在を認めていて、アメリカ・サンディエゴ州立大学教授のフレッド・A・ウルフ氏は著書「もう一つの宇宙」(訳/遠山峻征・大西央士、発行/講談社)でこう述べています。

 「空間というのは、これまで私たちが考えていたより、はるかに不思議なものである。電子のような原子以下の粒子が、同時に複数の位置に存在することができるのに、ある時刻にある位置でしか観測されないのと同じで、空間そのものも同時に複数の「空間」に存在できるのに、私たちの目には今見えるようにしか見えてこない。要するに、これらの空間、すなわち宇宙は、お互いに重なり合い、一つの箱のなかに別の箱が収納された入れ子のような構造になっているのである。ただ一つだけ違うのは、ここではどの箱もすべて同じサイズだと言うことである。」

 このような重なり合った世界を「多次元宇宙」「平行宇宙」と呼ばれていますが、先程、スゥエデンボルグの著書の部分で説明した、「空間に浮かんだゴム球」の概念と共通するものを感じますが、いかがでしょうか。

私も神々や霊界人との数々の対話、心霊現象体験をし、また奇跡や超常現象なども多く経験してきましたが、それらをまとめると、この世のできごとは神や霊界があるとする方が合理的だと思いますし、起きる現象に常に一定の秩序を感じています。

 ●神界、霊界の実相    

 人は死ぬと肉体を脱ぎ捨てて霊体となり、人間界に別れを告げて霊界へと旅立つのですが、霊界とはこの世とまったく異なった世界であり、大きな広がりのある順序、秩序の厳しい所だと言われています。

 大本教の出口王仁三郎師は霊界を天界(神界)、中有界(精霊界)、地獄界(幽界)の三区分として説明していますが、それとは異なる意見の方もいたりするなど、霊界にどんな世界があるのか、あるいはどのように秩序が保たれているのか、その全貌は未だ明らかでありません。それに霊界には幽幻界、動物界、植物界、鉱物界等々いろいろな世界もあるようで、ただ推測するのみで理解の難解な世界となっているようです。しかし、この世と別の世界が存在することだけは確かでしょう。

 ある神様からは「霊界のことはわからん、と思うようになって来たら、大分わかって来た証拠だ」 と聞いていますが、人間界とかかわりの深い部分世界については神々からのメッセージや実体験から、ある程度の範囲までは明解に把握できたと考えていますので、ここでは極めて基本的な事象、要素について紹介します。

 人間にかかわる霊界は数々の階層で構成されており、これを霊層界と呼びますが、人は死後、その人が現世において何を行ってきたか、どんな心で暮らしていたかに応じて相応の位置(霊層界)で霊界生活が始まるようです。

 こうして、死者は現世での行いに応じて、自分の住まうべき霊的位置(霊層界・霊格)が定まりますが、霊界での暮らしは人間界より遙るかに永く、かつ、厳格のようなので、現世での楽しみも大切なものの、死後なるべく良い位置(高い段位)へ行けるように努力することが賢明だろうと思います。また、この階層については大別して上中下段と三分割できますが、上部を天国界、中段は中有界、下部を地獄界と区分するのは一般的な概念と同じであり、それぞれの世界にはさらに数々の階層で別けられていると聞いています。

 いずれも段位が上がれば上がるほど軽く明るく、また温暖で歓喜溢れた幸せな世界となり、ついには最上段の主神の元へと至るのですが、逆に、下へ行けば行くほど重く暗く、寒冷無明、激苦の世界になるようです。

 中有界は、現界で暮らす人間の魂が存在する所であり、仏教でいう八街に相当します。この段位については、たった一段の差でも厳しい違いがあるようで、この一段位を上がるためには、人間世界の時間表現で通常30年程かかるとも言われています。したがって、たとえば同じ地獄界でも、最下段からスタートして地獄を抜け出すためには、約一千数百年の時間を要すると考えられます。

 一方、現世では正しい行いを積み上げれば(徳積み)どんどんと上昇し、極悪な行いを続ければ一気に下げることも可能な特殊な世界となっていますので、一年で数段位の急上昇も急降下も可能ですから、現世での行い如何によって甚だしい違いが生じるようです。ですから、魂は本来、急上昇を目指してこの世に生まれているはずで、生を受けた人はこのチャンスを活かすべき努力を重ねるのが、人の人としてあるべき姿と言えましょう。

人として生まれ、人生を送る価値や命の意味が実は、ここにあるわけですが、多くの人はこの世の快楽に本当の自分を見失ってしまうようです。私の知り合いが亡くなった後、それらの方々と憑霊現象を通じてお話させていただくこともしばしばありますが、  

「現世にいた時にしっかりと霊界の事を学んでおけば良かった。死後の世界がこんなであると知っていたら、もっとやるべきことがたくさんあったのに」

「あなたの言う通りだった。こちらへ来てやっと、あなたの言っていたことが分かりました。そして、あなた方の心を知ることが出来ました」

 などと、さめざめ泣きながら話される方が多いように感じています。とくに、無神論者や霊界を否定する考えの人、あるいは死の自覚が無いままにあの世へ旅立った人の多くは、死後の意識が現世と変わらない状態にあるため、自分の肉体的変化に気づかず、突然、異空間へとテレポートしたかのような感覚に陥り、錯乱して自分の置かれた立場を認識できないまま、死後に自分の行くべき道を見失い、哀れにも幽界をさまよって、幽霊として人の前に登場したり、霊界で痴呆症のようになってしまうなど、その魂がたいへんに苦しむ結果となるようです。

 突然死は苦しまないから良いなどと言って、ポックリ死願望がありますが、実は、死の覚悟が無いままで霊界へ行ってしまうと、死後に苦しみが倍増する結果となるだけであり、その意味では、三途の川や閻魔大王などの例え話さえ風化した現代人にとって、死の覚悟の認識は極めて重要でしょう。

 医学的には明解に死の時間を定め、その時間を境に人間から物質へと転換するかのように解釈していますが、霊的見地に立てばまったく異なり、肉体を持った人間が死ぬと直ちに魂が離脱するのではなく、徐々に離れて行くため、通常少なくとも1、2日間は肉体と霊体はつながった状態となっているので、その間は死体と言えども単なる物体ではないのですから、心して取り扱うべきです。

通夜や葬儀などは霊体を直接的に清める最期の機会であり、心を込めて弔うことが死者の霊をより高い霊層界へ押し上げるので、質素でも死者に感謝をお返しするような深い思い入れが大切であり、坊さんに頼んだから良いとか、世間体にとらわれて豪華にすれば良いなどの考え方は感心できません。

こうした意味で、死の認定や献体、臓器移植などについては大きな問題をはらんでおり、人間的には善意に満ちているようでも、霊界から見れば極めて危険な行為と言えます。

 ●神は一神にして多神、多神にして一神

 神の存在については、キリスト教を始めとして唯一神を信じる宗教団体と、日本神道のように八百万(やおよろず)の神と言われる程、多くの神々を信仰の対象とする場合があり、また、各民族それそれ信じるところの神が至上の神であるなどとして、互いに争ったり、酷い場合は殺し合いが行なわれたり、同じ地球上で暮らし、しかも、神を信じながらも妙な現象となっています。

 この滑稽で、かつ悲惨な現象は神に対する考え方の違いで生じる問題ではなく、すべて、人が自分の欲望を満足させる目的で、その違いや神々の名を利用しているにすぎません。神は一神であろうと多神であろうと、そんなことは気にも掛けてないと思います。なぜなら「神は一神にして多神、多神にして一神」と仰せになっているからです。

 すなわち、霊格が高ければ高いほど分霊が可能であり、唯一神である主神からは多くの分け御霊が生まれますから、元の基の神(主神)は一神であるものの多神ともいえるわけであり、しかも、世界中で神の呼び名が異なっているのも同様の意で、主神は世界共通なのが本当の姿です。

 また、八百万神といえども上、中、下の区分があり、神界も人間の霊界同様に神格や役割が分けられていて、それぞれの神々は主神から千差万別な使命を受け、この地上の生きとし生けるものの幸せを願い、日々活動されているのが実相です。たとえば、地域で祀られている氏神様は、日に三度その地域を回り、地域の平安と人々の幸せのため尽くされていて、人が生まれた場合、その人がどこへ移転しようとも産土の神として一生加護してくださると聞いています。

 主神は地球上各地で異なる風土、気候、民族慣習など、それぞれに応じて適切な配慮の上、数々の聖者や宗教が世に出るよう計られたのであり、動物を神と仰いだり、人を呪ったり、明らかによこしまな動きのあるような特殊な例を除いて、宗教は押しつけるものでなく、我田引水に善悪、高い低いなどと批判すべき対象ではありません。お互いを認め合い、尊敬を持って謙虚に付き合っていくことが主神の御心に叶うものであろうと思います。

 ましてや、一神、多神で争ったり、自分の信仰を守るためと言いつつ他を弾圧したり、殺人を犯すなどはもっての他であって、神の名を騙る悪魔の所業でしかありません。

 話は余談ですが、神々が移動する際は丸い光の球となり、空間を非常な速さで移動するので、地球上であれば瞬時に別の場所へと転移できると聞いています。また、神格が高いほど大きく輝いており、神様に関する行事などを行う時には、その光の球がしばしば写真に映るようです。

 ●神界には正神界と邪神界がある

 神界にも人間の霊界同様上、中、下と幾くつもの階層に別けられていて、格の差があるようです。そして、それぞれの神々は、それぞれの使命に基づき、万物の清浄なる生育と幸せのため日々活動されていますが、神には正神と邪神との二つの神界があり、邪神も正神同様の階層となっていて、正神といえども、格の高い邪神には歯が立たないのです。

 しかし、この正・邪を善・悪や神・悪魔のような対比として単純に理解すのは間違いです。正神は時として厳しい面もありますが、明るく美しく誠意に満ちた心を育みながら、人の魂の向上を導くために様々な援助を行なう立場であり、邪神は人を堕落と虚偽の世界に陥れ、怨念や邪な心を助長し魂を降下へと導く働きをする立場と考えるのが妥当だと思います。

 人は物事がうまく進展しなかったり、不運や嫌な目に合った時など何か悪いものに邪魔されたような気持ちとなって、それを邪神のせいだと思い込む傾向がありますが、これはまったく見当外れな場合が多く、むしろ、事がうまく進み、どんどんと成功すような状況をつくりながら人を有頂天にさせ、調子に乗せておいてから、時間を掛けて知らず知らずのうちに人格や考え方などを歪めたり増長慢心にさせ、あげくの果てに魂を無明の闇に陥れ、奈落の底へと引きずり込んでいくのが邪神の常套手段です。また、高位の邪神であればあるほどその手口は巧妙であり、また、この現世で影響力の大きな人物の心を狙うものです。ですから、むしろ苦労、困難や謙虚を求めるのは正神のなせる術であり、快楽や奢り、慢心は邪神の領域であると思えばわかりやすいでしょうか。

 宗教戦争などと聞くと本当に情けなく、神の存在を否定したくなりますが、これらも自分の信仰する神の正しさを証明しようとする力みや、神の御心を実現しようと思うかたくなな真面目さのあまり、心のバランスを欠き、いつしか正神の仮面を被った邪神に翻弄されているのが実態でしょう。しかし、単純に邪神を忌み嫌うだけでは駄目なようです。と言うのは、現世は常に二つの相反する流れによって動かされているとしても過言ではなく、光と闇、プラスとマイナス、熱と冷、陽と陰、愛と憎悪、歓喜と恐怖など、これらの背反して対峙する二つのエネルギーによって人間も切磋琢磨されており、またそこに、宇宙のダイナミズムが生まれてくるのであって、邪神と言えどもなくてはならぬ存在で、彼らによっても私たちは、結果的に成長を促されている事実を見逃してはならないと思います。

 「邪神もまた、主神が人々の心を磨くため、お造りになった」

 と神が仰せなのもその意でしょう。信じがたい話ですが受け入れざるを得ない言葉であり、事件の渦中にいる者、それを傍観する者、いずれも何らかのかたちで正邪の影響を受け、時には厳しすぎると思われるような場合もありますが、人の心や魂がそこで磨かれて行くのだろうと思います。

 ところで、邪神は人の心の隙を衝いて、いつの間にか忍び込んでいるものですが、これらは私たち誰ものお腹にいる副霊、ほとんどが動物霊と言われていますが、この副霊が邪神とつながっており、邪神は副霊を媒介して人の心を読み取って利用しているようです。

 そしてまた、副霊を使って人の心を邪な考えで支配しようともしていて、人の心は正しい想念、波動を神から受け、邪念を副霊から受けていて、その二つの波動、エネルギーの渦によって磨かれもし、汚れもしますが、人の心への影響度合いが副霊0;守護神10であれば神の如くとなり、(しかし、現世に暮らす人として生きる力は無くなる)その逆は悪魔のような人間となってしまうのです。

 このバランスをとって生き抜くことが人間としての行であり、人がその心に怒りや憎しみ、悲しみなどと心を曇らせれば、それをエネルギー源として副霊は強くなり、逆に、人から感謝されたり陰徳を積むなどを行うと副霊は萎縮し、人の心への影響力を弱めます。一般に、程良いバランスと思われるのは副霊3;守護神7程度だと伝え聞いています。

  (2)霊界と現世はリンクしている。…この世は霊と物質(体)の二重構造

霊界と現世がリンクしていると想像すると、幽霊や怨霊を思うかもしれませんが、そうした部分は特殊な状態の話であり、ここでは霊・物の二重構造が人とどうかかわっているのかを概念的にお伝えしたいと思います。

人は物質である体によってこの世の生活を営むことができますが、体を動かしているのは目に見えない心の動きであり、心は現実のさまざまな状況に反応しつつも、実は心の奥の現魂(霊)から影響を受けているのが実相です。

現魂は霊界に存在する幽魂とつながっており、その幽魂こそが人の本当の実体(自己・意識体)ですが、目に映る現実世界の現象に惑わされ、幽魂の想いがそのまま人の心に反映されることはまずありません。とは言え、心の深いところでは感じ取っていて、無意識の行動や直感的な判断で命が救われたなどの例にみるように、時折、何かの弾みで魂の意識が人の心にまで浮き上がってくる場合もあります。

 すべての人は霊界から反映する霊と物質である体とが密合した存在ですが、人の実体は霊界にある意識体(魂)であり、霊界にはそれら多くの意識体(魂)が住んでいて、魂の意識状態がハッキリと露呈する明白な想念の世界となっており、意識体は常にレベル向上を願って精進しています。

ここでしっかりと認識していただきたいのは、霊界が自然にゆっくりと向上する世界に対して、現世では本人の言動によっては急激に向上できるチャンスのある世界(逆に言動によっては急降下もある)なので、人がこの世に生を受けるのも、己の魂の意識レベルを速やかに向上したいがためです(魂の向上)。

人は自分の魂の声(本当の意識、気持)をキヤッチし、その魂の望む方向へ自分の言動をシフトして行けば霊界の魂の意識レベルが向上し、魂が向上すれば現世の自分自身がその分幸せとなります。ただし、逆に魂の意識とは逆方向へ人生の舵をきれば魂は沈み、やがて現世の自分自身に不幸となって現われるのも摂理であり、実に霊界と現世とは相互にリンクしているわけです。

しかし残念ながら、現代の多くの人は「物」にとらわれてしまったため、霊界と現世のリンク性や、自分の魂の声を聞く謙虚な行為を忘れ、幸せへの道が閉ざされた状態になっていると思います。    
こうした点を踏まえ、真の幸せを得るためにはまず神界や霊界の実相を学び、この世とのかかわりをしっかりと理解しながら、己の魂の向上を目指すところから始まるのです。

 また一方、霊界人と我々とは密接に相関しており、霊界人は死によって物質的には消滅しているため、この世の人からは姿かたちが見えないものの、霊線と呼ばれる線によって結ばれています。この霊線は霊界人のみならず、神々や家族や親類、友人知人などと良くも悪くも現世で縁のある人々ともつながっており、それぞれの関係の強さに応じて太い細いがあるものの、お互いの意識等は心の奥底で交流し、影響し合っているのです。稀に、この魂でつながった線が見える人もいるようですが、世の中が線だらけに見えているかもしれません。

現世に生きる人が善徳を行い他者から感謝されると、それは光となって霊界の先祖に届き、先祖の霊格が上がり、幸せ度が高まります。先祖が霊格を上げると、こんどは先祖が現世の子孫に感謝し、子孫の幸せとために霊界から力を振るいます。人生の大転換期や危機的な場面などで、全く直観的なひらめきで万が一の危機を乗り切ったり、自分でも驚くような行動を咄嗟にし、命が救われたりすることが見られるのもけっして偶然でなく、霊格の高い先祖すなわち正守護神の働きです。

逆に、先祖の多くが地獄にいて、現世の子孫に救いを求めているような場合、子孫はなかなか幸せにはなりづらく、徳を積むどころか不運に負けて罪を犯しやすいのですが、犯罪で人を苦しめればその分霊格が下がり、自分だけでなく祖先もますます苦しむ循環に陥るので、現世の苦しみに耐えて善行を積むことで、互いに幸せの道を歩むのです。こうして日々、霊界人と現世人は助け合いいたわり合い暮らしているのが実相なのです。

 また、神や守護霊とのつながりについて言えば、額の中央部やや下あたりに天庭(てんてい)呼ばれている部分がありますが、ここは、その名のとおり天から直流的に降りてくる正しき想念(神の意思)とつながっている所であり、ご先祖の代表者である守護霊)は、人の肩にいつも乗っていて、神様と同様に人が正しき道を歩むように導きの努力をされています。守護霊以外にも幾人かの先祖が子孫に付き、行動を共にしながら修行しているのも事実ですから、人の言動によって清・濁の影響を受け、清浄な場所や清らかな信仰の話などによっても幸せとなれるので、私たちに責任ある生活態度が求められるのは言うまでもありません。

 こうすると、人は誰もが守られているのだから、もっと平和で安らかな暮らしができても良いはずだなどと考えがちですが、残念ながら物事はそんなに単純ではないのです。本守護霊を始めとして神々も安直に人を救おうとしたり、人間的な甘い優しさをかけたりはしないもので、ともすれば厳しい場合もあります。なぜなら、神々は人間一人一人が邪悪な心や弱い精神から脱皮し、巧妙に仕組まれた誘惑や卑しい欲望に打ち勝ち、自立して正しき道を歩める魂の創造を目的としているのですから。独り立ちを促すための愛の鞭と表現すればお分かりになるでしょうか。

したがって、直接的に手助けをするのは特別な場合を除いてほとんどなく、「虫の知らせ」のように、声なき声を五感でキャッチする程度しか表れないので、単に気のせいだと思えば、それですべては終わりとなり、この時点で神や霊界を認める人と認めない人との差が歴然となるでしょう。

神や霊界を信じないのも本人の自覚や感性の問題であり、悲しいことではありますが生まれてから何を学んできたかの表れでもあり、やむを得ない帰結の姿です。

 また、人のお腹(臍のちょっと上辺り)には、副霊と呼ばれる動物霊が付いていて、この副霊は自分自身の「欲望」を満たそうと常に働いています。そして、欲望というと邪悪な欲や不正な欲だけを連想しがちですが、食欲や性欲などの生理的な欲もあれば「立派になりたい。人の為に頑張りたい」などと思う向上心や意欲なども実は欲の一種です。ですから、こうした欲が人間から取り払われると、現世においては生活のできない腑抜けの役立たずとなるだけで、人生の意味が成り立たなくなってしまうわけです。欲には悪いものばかりでなく、この世での修行には欠かせないものでもあり、この欲とどう付き合って行か、どうコントロールするかも人としての大きなテーマなのです。

話しは変りますが、霊界の方々が本当に供物を食べていただいているかどうか、私は、度々テストを行っていて、神様、仏壇あるいは御霊屋(みたまや・神式の先祖の住まい)へ同じ食べ物を捧げ、後でそれぞれ味わってみると各々に違いが生じているのが分かります。とくに、オリジナルを別の場所にあずけておき、他と一緒にて食べ比べればもっと分かりやすいでしょう。体験的に霊界の方々は甘いものがお好きのように感じています。また、神様へ捧げたものは、味に甘味と深みが加わり、仏壇に出したものは旨味が消えるはずです。(ローソクや特に線香の影響を受けないようにすること。)

(3)霊魂の不滅と輪廻転生

 一切の物質には命が宿り、魂があります。もちろんそれぞれのエネルギーには強弱の違いがありますが、「物」と片付けられるようなテーブルや茶碗、本や壁にもあり、当然、鉱物や花、草木など植物にもあります。

 人の住まなくなった家は痛みが早いとか、道具は使わないとダメになるなどは一般的によく聞く話ですが、これなども、使われなくなった「物」は魂が抜けやすく、抜けた結果として朽ちたり壊れたりするのが早くなることを意味しています。また、植物に穏やかで旋律の美しい音楽を聞かせると、成長の度合いが良いとか、品質が高まるといって、実際に温室栽培などで活用されていますし、感度のよい植物は電気作用を応用して会話ができるとも言われ、植物にも好き嫌いとか、危ないなどの感情や心理的な動きなどがあると実験で立証されています。

 もちろん私たち人類も、単なる細胞の固まりとしての物質的存在ではなく、この体の何処かには霊界とつながる魂、すなわち現魂があり、霊界からのメッセージを声なき声として心の奥底で感じ取っているはずなのです。

 この私たちの魂は、霊界にある霊層界のどこかにいて、1段位の昇格でも普通30年かかると言われる霊界での修行を粛々と行なっているのです。この時、中有界のレベルの魂は人間として誕生できるチャンスがあり、人間界では心、言、行が霊線を通じて刻々と霊界の魂へ影響を与え、短期間に上昇したり下降する場合もあり得るわけですから、本来は、そのチャンスを活かして向上を果たそうと意気込んで誕生するのですが、そう簡単には行かないようにできているのです。

そして、人としての一生をまっとうし帰幽した際、現世での行いに応じて霊界での位置付けが決まり、再び霊界での修行が始まるのですが、この時、ほとんどの人は再び中有界へ戻るため、ある一定期間を経て新たな人間として生まれるのです。これを生まれ変わりと言いますが、幾度も幾度も生まれ変わる場合が多いので、この現象を輪廻転生と表現されるのです。

簡単には天国界へは到達できず、一生かけてチョッとだけ向上し、これを繰り返し繰り返ししながら魂の向上を果たして行く姿が人の実相でしょう。ただ、少数ではありますが天国界へと昇る魂もあり、そうなれば彼らの多くは人間界へは再生せず、天国界で神の手伝いをしつつ、さらなる魂の向上を目指して修行します。

しかし、日本古来から大切にされてきた謙譲や、思いやりの精神を忘れた昨今の日本人では、チョッとでも向上していればまだましで、知らず知らずの間に悪に属する行為を重ねて罪や汚れを作り出すことが多く、地獄界へと行かねばならない人が増え、近年は地獄界が満員で忙しいようです。とくに、獣、鬼のような人、あるいは犬、畜生にも劣るなどと呼ばれるような人であれば、まず間違いなくその通りの霊界へ行くそうです。

 今、私たちには過去生での私の記憶が無いように、今の私の記憶も未来生の私へとは続きません。その意味では、今の私は今生限りの私であるわけですが、その私の元である魂は、太古から人間や動物として生まれ変わり、死に変わりを繰り返しながら、永き年月をかけて上位の霊層界を目指してきたのです。

 この現世においては欲望を満たそうと願ったり、金や権力を求めて努力することを全面的に否定はしないものの、私たちは現世一代の幸せを追求するよりも、むしろ、永遠に続く魂としての存在や、輪廻転生を繰り返す自分自身の姿をも頭に描きながら、人生を歩まれたいと願うわけです。そして、人間としての使命や可能性を自覚し、霊界に住む数々の魂が心から喜ぶような徳積みをする人生が送れるならば、人間として生まれたことが極めて意義深いものになると想像できましょう。

 最近では輪廻転生についてのレポートや書物が世界各国で世に出ており、とくに、アメリカ・マイアミ大学付属病院の精神科首席教授ブライアン・L・ワイス氏が、1980年代の後半、自分の行った精神治療体験をまとめて世に発表した「前世療法」(訳/山川絋矢、亜紀子・発行所/PHP研究所)は、社会的に認められた学者が真実のために学者生命を賭して公表したものであり、治療をきっかけとして明らかとなった前世と現世を結ぶ数々の実話は、単に興味深いだけでなく、この世の摂理、法則の一断片として感銘しました。

 著者の社会的地位やそれまでの精神科医として疑いのない実績、そして治療結果からも驚嘆すべき内容となっていて、紙幅の都合もありここでは紹介しませんが是非読んでいただきたいと思います。

(4)霊主体従

 霊主体従とは、霊界の状態がそのまま霊身に影響し、それが現世に生きる我々の肉体や精神に必ず移写することを指し示しています。すなわち、現世の一切の事象は霊界での状態に左右されますので、自分にかかわる霊界を良い状態としなければ、現世では良くなりようがないのです。

 たとえば、川上で水を汚せば必ず川下が汚れるように、霊界にいる魂が濁って低い霊層界にいるのであれば、この世でも汚れた生活となって幸せとはなりづらく、一方、清らかな魂で高い霊的位置にいる人(霊格の高い人)は、自然に幸せな人生を送ることができるという意味です。

 これは単に個人単位だけでなく、血脈という幾千年に渡る血の流れにも影響されるので、先祖が霊界で苦しんでいれば、その血を引く人も何らかの形で苦しみ、祖先が喜びに溢れた境遇であれば、現界に住む人々も幸せな暮らしができるのです。

 もっと具体的に説明するならば、かつて人間界で善徳を積み、再び生まれ変わって来た人は必然的に霊格が高いので、ほとんどの場合、初めから祝福されたように明るく、幸せな境遇、環境へと誕生するはずで、逆に、やっとの思いで地獄から這い上がって来たばかりの人は、霊格の高い人と比較して、生まれながらに何かしらの不幸を背負って生まれて来るわけです。

 もちろん、生まれた環境、境遇などの状態が、人生の未来まで続く固定的な条件として定められているわけでなく、その後の人生における行いによって上層にも下層へも変化でき、善行を心がけ、霊格が上がればその分だけ着実に幸せとなり、悪徳を重ねていれば、今が良くても、いつかは悲惨な状況となるのも必定です。したがって、霊格が低い位置にある人は徳積みをし、自らの霊格を上げない限り、どんなに知恵を振るい、骨折っても徒労と帰することとなり、まさに無駄骨となるだけでしょう。

 このように、私たちは霊界での魂の位置(霊格)に応じたレベルで、この世の生活を営むのですから、霊格が現世の人(体)の実体を支配している意味となり、これを「霊主体従」と呼んでいます。しかし、時代によって、霊界の実態が現世に移写するまでの時間には遅早の差があるので、悪行を重ねる輩が良い暮らしをしている世相や、逆に人として優れた良い人が不幸に苦しむ現実など、不公平があるように思われますが、これまで説明したような必然性が隠されていて、霊界での状況は必ず人間の運命として反映されるのです。

 さらにこの霊主体従の摂理は幅広く応用して考えれば、親子や夫婦、あるいは師弟関係や会社などでの上下関係にも関連し、その影響力に強弱の差はあるものの、一定の運命共同体的要素のある組織、グループ内での人間関係にも生じています。

 たとえば、子と親では親が霊であり、師弟では師が霊にあたります。同様に家庭であれば一家の主人が霊であり、会社では社長や役員、日本国では天皇、もう少し広く解釈すれば総理大臣や国会議員等も霊に当るのです。また、世界で考えれば霊は日本、心は東洋、体は西洋になると言われています。

 したがって、子供や部下など「体」の立場にある人達の不始末は、たとえどんなことであろうと、その因は「霊」たる立場である者の責任が大きいというわけで、「霊」たる立場に立つ人々は一般人よりも、さらに厳しく魂を清めて行く努力が求められるのは当然です。

 もっと具体的に表現するならば、例えば家庭内暴力、非行を始めとして家庭内のいざこざや病気さえも、一切が親あるいは夫に原因があるはずとなるのです。といっても責めてはいけませんが、そこを出発点として考える意味で責任があると言うことであり、家族として集まった人々もまた、永き年月を魂の向上にを求めていく存在である以上、霊たる立場の者へは心を尽くして支える努力をしつつ、お互いの力を合わせて幸せへの道を見つけ出すべきでしょう。

 もちろんそれらは、目で見える現象面を追うだけでは分からない場合も多く、また現代日本においてこの点の解釈と問題点の指摘ができる人は極めて少数であり、しかも、指摘される側も身体に染みついた癖を直していくようなものですから、性根をすえた真面目な取組みが要求される難解な問題と言えます。いずれにしても、霊主体従の問題を乗り越えずして、幸福という目的地には到達できないのが厳然たる事実ですから、心して立ち向かいたいと思います。

 また、話が横道にそれますが、かつて出口王仁三郎師が「大本教に起きたことは日本に起きる。日本に起きたことは世界に起きる」と言ったのも、この霊主体従の理の意味にあるはずであり、この地球規模での困難な時代へと向かう今こそ、日本人の思想、行動がいかに重いものであるかを認識してほしいと思います。

(5)清昇濁沈(有徳上昇・不徳下降)

 霊主体従がこの世界の摂理として厳然とある以上、この世での幸せ度は霊界にいる魂の位置によって決まりますが、霊界は魂と想念の世界、真実の世界ですから、霊界での霊的位置(霊格)を決める物差しは、現世で獲得した地位や権力、物質や金銭の力ではなく、魂の清まっている度合いだけです。

 人は自らの霊を清め、心を清め、体を清めて行くことで霊格が高められ、霊格が高まった分、霊界、現界いずれの世界でも幸せとなり得るのであって、それはけっして精神面のみでなく物質的、肉体的、あらゆる意味において霊格相応に思い通りとなり、豊かに満たされていくのです。

 一般的に「清貧」こそ聖者の姿と思われがちですが、それは本当ではなく「清く富む」が本当の高徳な姿であると大神様は仰せであり、「清富」とは、求めずとも思えば過不足なく、必要な分だけ自然に集まってくる豊かさのことです。もちろん、思い通りになると言っても清まって霊格が高まるにつれ、愛深く謙虚で高潔な精神と変化しているはずですから、一般庶民が考えるような飲む、打つ、買うと言った類の、享楽的な面で叶うのではないことは想像できると思います。

 また逆に、汚濁(曇り)すれば霊格が下がります。私たちが霊的に曇り、心を穢し体を汚していけば、霊格の降下によって、その分、物事も旨くいかず悪循環に陥り、やがて、雪だるま式に不幸への道を転げ落ちて行くでしょう。そして、落ちれば落ちるほど人間の精神は獣の如く変化し、日月神示の中にも「 …四ツン這いになりて着る着物もなく、獣となりて、這い回る人と、空飛ぶような人と、二つにハッキリ分かりて来るぞ、獣は獣の性来いよいよ出すのぞ… 」などと書かれているのは、霊格の向上した人と、降下した人の状態の差を示していると思われますが、私たちは日々刻々と魂の浮沈を繰り返しながら暮らしており、「沈み」の波を小さくして「浮」の波を高くするよう心掛けて進みたいと思います。

(6)想念と言霊

 霊界と現世とは、まったく別次元の世界でありながら、それぞれの交わっている部分が存在しています。それは魂や心、思いであり、すなわち想念の世界で共通に行き来できる出入口があると考えても良いと思います。

 ですから、私たちの想念は必ず霊界や神界へ届いており、霊格の高さに応じてその想いが作用し、場合によっては具現化して再び現世へ影響を及ぼすようになるものです。 大本教のお筆先に「喜べば喜びごとが来るぞ」とあるように、感謝は感謝を生み、憎しみが憎しみを生む作用もあります。

こうした点を踏まえると、私たちの祈りは重要な意味を持つことになり、祈る「意乗る(イノル)思い」を指し示しますが、同じ想いであっても、その強弱によっては差が生じるので、私たちは身心を整えて祈るのが大切です。

 たとえば、仏壇などへ食べ物を捧げる時、「どうぞ、召し上がってくださいね」と、心をこめて言葉をかけたとすると、食べ物はすぐ霊界に届き、霊界人は食することができるわけです。この場合、その供物が想いのこもったものだったとしたら、たとえ僅かな品であっても霊界では大晩餐会となって、先祖を始めご縁のある方々がたいへん喜ばれると聞いています。逆にこの世とすれば大御馳走であっても、感謝どころか何の想いも無く出したとすれば、霊界では味気のない粗末な食事となってしまうのです。

こうして、自分自身の「想い」を整えるだけでも、霊界の方々に喜んでいただけると思います。話は横道にそれますが、霊界人は魂だけであり、物質のない世界にもかかわらず食事をするのかと思う人もいるでしょうが、彼らは肉体こそ無いものの生活そのものはこの現世と同じようであり、食べ物では精(エネルギー・霊)をいただくようです。と同時に、食事を用意してくれた真心が光となって霊界人へと届くので、食事に限らず、心を込めた慰霊などの価値が想像できると思います。

 ですから、心を込めるとはどんなことなのか、どうしたら心がこもるのかが、極めて大きな問題であり、現代では、多くの信仰者や道を求める人達でさえ、豊かさや現代文化の中で見失っている心のあり方かもしれません。思う行為をさらに一歩進めて言葉として口に出すと、言霊の作用によって強い力が生じる場合があります。

 たとえば、発芽したばかりで、しかも同じような状態に育った植物(比較的成長の早い花がわかりやすくて良い)を4から6鉢用意し、それらを二組に分け、同じような条件でしかも離れた場所へ設置します。2組の鉢は設置後も同じような状態で育てて行くのですが、一つだけ違うことを行うのです。それは、毎朝、夕と片方の組は「可愛い」とか「頑張って」など、褒め言葉や激励を優しく愛を込めて言い。もう片方は、けなしたり悪口などを散々にぶつけてやるのです。

 こうすると、日がたつにつれ次第に成長に違いが生じ、最後は歴然とした差となって表れます。良い言葉の方は元気で美しい花が咲き、悪い言葉の方は途中で枯れてしまうか、やっと生きている風情で細々とした元気ない状態となってしまうのです。しかし、これらの悪い言霊が人間の幼い子供たちに対して、毎日向けられたらどうなるでしょうか。しかも、思いを込めて。恐ろしいことですね。

また、「人を呪わば穴二つ」という言葉がありますが、これは人を呪う想念は確実に相手に届き、必ず葬ること(墓穴)ができるけれど、呪いの想念は霊界の自分の魂を汚すので、やがて自分に還り、もう一つ自分用の墓穴が必要になるという意味で、ここに想念の重要性や、恐ろしさがあると思います。

 このように、思いを言葉に託し、言葉の表現力をプラスさせて、より一層思いを強く伝えられるところから、言葉の使い方を言霊(コトタマ)と言い、とくに日本では万葉集にも歌われていて、言葉を大切にしていた民族でした。

「神代より 言い伝(つ)て来らく 

       そらみつ大和の国は 皇神の 厳しき国 

             言霊の幸はふ国と 語り継ぎ 言い継がひけり … 」

                      (巻五の八九四・山上憶良/長歌)

ギリシャの哲学者として有名なプラトンが、「霊界には言葉が空間を飛び交っている世界がある」と語っているのも、それらを意味しているのだと私は考えていて、神道における祝詞や、日本古来から伝わる「あわ歌」なども霊界、神界へ届く清めの言葉だろうと思います。

(7)不平等の原則、身魂相応

 すでに何度もお伝えしたように、私たちの本質は魂にあり、過去数千年に渡って輪廻転生を繰り返して来た意識体です。もちろん、中には最近誕生した魂もあるわけですが、いずれも、魂の向上を目的として精進を重ねているものの、人として生まれる時、その霊格に相応した条件の下に誕生するので、けっして平等ではあり得ません。

 すなわち、前世や過去に善徳が積んであれば、その分霊格は高まって幸せとなるものの、逆に霊格の低い状態で生まれてきた人は高い人と比較して、低い分だけ幸せにはなり難いのです。また、どんなに人間的に能力があり、しかも努力を重ねたとしても、霊格が低ければ幸せは簡単には手に入りません。

 そして、それぞれの霊的位置(霊格)が異なれば、たとえ同じ事をしたとしても結果に違いが生じてくるのは当然であり、人はこれらを「運」の善し悪しで事を判断して、自分の不運を嘆き、あるいは責任を他人に転化するなどして、人の道を外すような場合も時々見受けられますが、それらすべては運不運ではなく、一切が自分の霊格、不徳のなせるわざであることをしっかりと腹に収める必要がありましょう。もちろんそれは、経済的不遇はもちろん、生まれながらの精神的不随や、肉体的欠陥においてもしかりです。

 このように、この世の現象の一切は、すべて自分の霊格が反映され、霊格に相応したかたちで現れるものであり、これらを身魂相応と言い、不平等の程度も身魂相応に具現化するのです。

 同じ花から生まれた種も、たまたま飛んで落ちた所の条件によって、咲きもすれば芽さえ出ない場合もあります。また、同じ草でさえその大きさ、高さもまちまちです。ましてや人たるもの、過去数千年にわたる罪汚れの量や、それぞれ生まれ落ちた由縁も違い、その人が成さねばならない課題や使命も異なる以上、平等はあり得ないのです。

また、世の中に多い話で、俺は優れているのに親が悪いとか、自分の女房が足を引っ張るなどと理屈をつけたり、他人のせいにすることもままありますが、これもこの世の摂理を知らずしての発言であり、人は自分自身の身魂相応の家庭に生まれ、身魂相応の女性と結ばれて身魂相応の生活を送るものであって、喜びも苦しみも身魂相応なのが摂理なのです。

 もちろん、不平等がこの世の摂理だと断言しても輪廻転生、霊主体従、清昇濁沈などの摂理の元には平等であるので、精進を積み、霊格の向上を果たせばその分、必ず幸せとなるのは間違いないので、いかなる逆境にあろうと耐えつつ、コツコツと徳積みしてほしいと思います。                      

(8)霊は血なり

 私たちが人類創世記の時代から続く、血の流れを受け継いで生まれてきたことは新ためて言うまでもありませんが、それらの親から子へと続く血統とは違って、霊を受け継いで続く霊統と呼ばれる流れもあります。

 この霊統は人種とも異なりますが、日本における霊統は、大別して大和系、出雲系、天孫系、土匪系のほぼ四分類と言われていて、これらの霊統が様々に入り乱れ、複雑に影響し合って織りなされて行くのが現世の実相でもあるようです。

 出口王仁三郎師は、日本は世界の雛形であると言いましたが、この霊統に関しても同様で、世界的な重要事件は、これら四霊統が中心となって展開すると考えられます。霊は「レイ」とも「ヒ」とも読み、ヒは日、火であり、実は「チ」でもあって「チ」は血であり本質的には霊と日、火、血は同じものを意味します。

 したがって、霊は血の中に存在しており、人の血が赤いのは日であり、火であるがためです。人も霊止(ヒト)であるといわれ、古事記などに記述されている古代の天皇の御名には、「日継」「日子」の言葉が入っていますが、これなども国体としての「日」を継承するのみでなく「血」「霊」の継承をも意味しているはずです。

 また、私は断じて国粋主義者でありませんが、日本国旗の日の丸は太陽としての「日」を象徴するのは当然で、同時に霊としての火の色を用い、霊の形である丸を表現しており、もちろんそこには、地球世界の霊たる位置付けも暗示されて神秘だと思います。

 霊が血であるとしたら、血を汚すことは霊を汚すことにつながり、そうなればこれまで幾度もお伝えしたように、霊主体従の法則が厳然としてあるのだから、霊格が降下し、不幸への道を歩むように余儀なくされるので、血を汚すことは極力避けなければなりません。その意味では、エホバの証人の方々が頑に輸血を拒否するのは理解でき、医学者の偏った価値判断には困ったものだと思います。

 もっとも、私はエホバの証人の教義を研究していないので、血に関する点については私の勝手なものの見方かもしれませんが、もう一歩深く踏み込んでみると、エホバの証人の方々の中には輸血問題によって、断腸の思いでお子さんを亡くされた方もおいでになるはずですが、輸血などによって血を汚すのは極力避けるべきであるものの、私の体験から言えば、輸血によって血が汚れたとしても、その後、家族が心を一つにして、死を覚悟するほどの決意で徳積みを精進すれば、かえって主神から祝福いただけるはずであり、それもきっと思いのほか短期間で清まり、むしろ以前より幸せになると思うのですが、命を放棄したのではいかんともし難いところです。

 たいへん生意気で失礼な言い方になるでしょうが、人の命の尊さや、人間としての役割の重さを学んでほしいと心から思うからであり、主神の熱き本意に触れずして頑に神の道を行く方々に涙するものです。

 とはいえ、麻薬類などは論外ですが、薬剤、食品添加物、開放的なSEXなどと現代ではあまりにも血を汚すもので満ち溢れていますので、日常生活のレベルで注意を払わないと、知らない間に汚れが蓄積するのも事実であり、エイズはその恰好のサンプルであって、不特定多数の性行為によって血を汚す結果、発病する確率が高くなると考えられます。この血の汚れに関しては人類の行為いかんで、今後幾らでも奇病、難病が発生するだろうと思います。

 また、貧血は貧霊であり、霊が希薄なことも意味するため、世間で思っている以上に怖い状態であるから心すべきでしょう。霊が希薄なのは、自分の霊が弱まっているわけですから、悪とつながる副霊の勢いが強くなって、邪神や動物霊、浮遊霊などの良くない影響を受けやすい状態となりやすく、場合によっては、それらに翻弄され幸せから遠ざかってしまうことも考えられるからです。

 そして、貧血は霊が原因ですから薬で直るわけがなく、逆に薬を飲めば霊が曇り汚れれて悪循環を重ねてしまいます。それゆえ、貧血を防ぐには徳積みをして祖先から自分へと続く不徳を解消し、霊界を豊かにするより他に方法はありません。

 以上の8つの摂理、法則は古代日本から脈々と継承され、神武天皇が出現した時代の頃から次第に、闇の中へと消えて行った「天成る道」の根本でもあったと私は信じていますが、江戸時代中期頃から再び、徐々ではありますがその影を神道の中に見せ始めており、こうした神道宗教の中にはかつて新興宗教と呼ばれ、さまざまな弾圧などを被りつつ今日へ至っている団体も多くあります。これら神道宗教の教義の中には基本的な教えとして、この世の摂理・法則がまとめられていると推察しています。

 そして、この世の摂理・法則に基づいた生活を営み、徳を積みながら日々感謝をもって生活できる人となれば、地震など天変地変や、飢餓、病気、争いごとなどに気を揉むことが減り、神にすべてを委ねながら健康で豊かで美しく、平穏で幸せな人生が送られるはずです。そのために私たちは一歩一歩霊格の階段を上がるのみです。

 日月神示にもこう書かれています。「行は、世界中の行、誰一人逃れるわけにはいかんぞ。メグリ果たしたものから、嬉し嬉しになる仕組み。そなたの心配一応は無理ないなれど、何処で、どんなことをしていても、身魂磨けてさえおれば、心配なくなるぞ。心配は、磨けておらぬ証拠ぞ」

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