吉ヶ平から鞍掛峠・木ノ根峠


 新潟の中越地方と福島の会津地方を結ぶ山越えのルートに「八十里越(はちじゅうりごえ)」という峠道(旧街道・往還)がある。地形図にはその道筋が浅草岳や守門岳の北側付近に破線道で描かれている。この峠道は昔から越後と会津の物資を運ぶための交易路になっていて、大体、中越と会津を結ぶ道路や鉄道網が整備される昭和の初め頃まで実際に使われていたそうだ。特に奥会津の人々にとっては越後への重要な連絡路のひとつということで人の往来もかなりあったらしい。また、この道は別名「越後裏街道」とも呼ばれて軍事的にも重要だったという。

 ルートは新潟県南蒲原郡下田(しただ)村*の吉ヶ平(よしがひら)から福島県南会津郡只見町の叶津(かのうづ)までの約八里。八十里というのは、昔の人が難儀をして越えたため一里を十里としてそう呼んだそうだ。旅人は一日をかけてこの峠道を歩いた。険しい山越えのルートのため苦難も多かったらしい。そこで途中には茶屋やお助け小屋もあったということだ。

 それから、この道は慶応4年(1868年)の北越戊辰戦争のときに長岡藩の家老・河井継之助が通ったことで特に有名だ。彼は重傷の身ながら戸板や特製の駕籠に乗せられてこの八十里越のルートを通り会津へ向かった。しかして何とか八十里越えを果たしたものの、脚の傷が悪化して奥会津塩沢村の地であえなく没してしまった。後年、作家の司馬遼太郎氏がこの幕末期の悲運の志士に光を当てて小説『峠』を書いた。これによって河井継之助は一躍有名になる。そこで地元の下田村は河井氏を追慕するため、八十里越の道筋に道標を立てたそうだ。

 ということで、現在この八十里越の道は「歴史の道」として保存整備されているらしい。地元では今でも山菜採りなどのためにこの道が使われているということだ。山歩きのガイドブックなどにも八十里越を歩いた記録が載っている。それからネット上には沢山の記録がアップされている。ハイカーや登山者以外にも峠道マニアや街道愛好家の方々に人気があるようだ。そこで野次馬根性のねくらハイカーもガイドブックやネットの記録などを参考にして、新潟側からこの峠道の一部を歩いてみようと7月下旬の梅雨明け頃、新潟県三条市方面へ出かけてみた。

[*南蒲原郡下田村は2005年3月に隣接する三条市および南蒲原郡栄町と合併し三条市になった。]
県道183号、早水地区付近から南方向  関越道からそのまま北陸道へ入り三条燕ICで降りる。そこから早朝の国道289号を南東へ突っ走る。五十嵐川沿いを走るようになると、左前方に川内(かわち)・下田山塊の主峰・粟ヶ岳の山影が目に入ってきた。粟ヶ岳は相変わらず秀麗な姿をしている。それから、右方向の遥か彼方には守門岳の山並みも確認できる。

 さらに南東へ走ると前方に八木ヶ鼻(八木ノ鼻)の特徴的な断崖が見えてくる。八木橋の手前を東へ進み、その先を右折して県道183号に入り守門川沿いを南へ走る。南の空は真っ青で快晴だ。梅雨明け後の安定した天気がつづいている感じだ。この分だと雨の心配はない。

 通行車両のない長閑な県道を快調に走行すると、やがて水ノ木峠からの県道210号が合流してくる地点を過ぎる。道路わきには何かゲートのようなものが見えた。冬場はここで通行止めになるようだ。夏場は通行できるのでそのまま進む。

 そこから先は1車線幅の林道となり、ねくらハイカーのボロ車は守門川左岸のカーブ道を低速で走ることになる。平日の早朝ということで、対向車はない。安全運転でノロノロ行く。道幅は狭いが舗装されているので走りやすい。そのうちに東寄りの方向へ進むようになった。
吉ヶ平西側付近の林道から南東方向、正面に番屋山  さらに新しい感じのコンクリート橋で守門川を渡って右岸に進むと、路面は未舗装になった。このあたりは何か地図の道とは若干違う。新しくつくられた林道らしい。

 そこで車から降りて前方(東)に目をやると、何やら少し目立った山影が見えた。地形図を参照すると、どうも番屋山のようだ。八十里越のルートはあの番屋山の山腹を通っている。

左下(守門川左岸)に分校の建物あり  そこからもうひとつコンクリート橋を渡って再度左岸沿いを進むと、間もなく左下の平地に二階建ての木造家屋が見えた。吉ヶ平の小学校(分校)の校舎だ*。建物はいくらか補修されている感じなので、現在も「吉ヶ平山荘」として利用されているのかもしれない。さっそく入口の坂道(車道)を下って校舎のわきに駐車する。校庭の東側には物見台のような櫓も建っていた。それから、西側には国交省が設置した雨量観測計などもあった。

 校舎は無人で閑散としている。入口のガラス戸には「吉ヶ平分校(山荘)保存会」の貼り紙が表示されていた。教室の中を覗くと、テーブルや折り畳み椅子などが無造作に置かれていた。現在は休憩所として使われているようだ。比較的小奇麗なので、保存会の人たちが定期的に掃除をしているらしい。今日は時間的に余裕がないので山荘内部の見物はキャンセルとする。

[*旧下田村の吉ヶ平集落は過疎のため昭和45年(1970年)11月に住民一同が集団離村をして廃村になった。廃村後も分校の建物は壊されずに山小屋(「吉ヶ平山荘」)として昭和56年(1981年)末まで使われたそうだ。小屋はその後無人となり、現在に至っている。]

校庭から南側、正面に守門岳登山口あり 守門岳登山口(吉ヶ平口)、登山届のボックスあり  気温は23℃。朝日がモロに当たっている割りには涼しい。さっそく準備をして校庭からトコトコ階段を登る。校門を抜けて再び林道に出ると、そこは守門岳登山口(吉ヶ平口)になっていて、登山道の入口には三条市が設置した登山届用の木製ボックスが立っていた。

 北側からのルートだが、ここから守門岳に登る人も結構いるようだ。今日は天気がいいので、守門岳からの好展望が期待できる。これは、ちょっと守門岳に登りたい気分になる。

守門川に架かる樽井橋  しかして今日は峠道歩きが目的ということで、ねくらハイカーは心を鬼にして林道を東へ進む。すぐに守門川に架かるコンクリート橋(「樽井橋」)の袂に出る。

 そこには「奥早出粟守門県立自然公園」なる案内板が立っていた。それによると、この付近は昭和34年(1959年)に新潟県が自然公園に指定したそうだ。また、その一部は昭和62年(1987年)に特別区域に指定されたらしい。まぁ、よそ者にはどういう公園か不明だが、開発を免れて自然が保たれているというわけだ。

 それから、案内板には八十里越のルートも破線で表記されていた。やはり、以前から地元の人たちによって歩かれていたようだ…。

樽井橋から守門川上流方向、新しい砂防堰あり  橋を渡って行くと、川上の方に砂防堰が見えた。右岸の堰堤部分が新しいので、最近増設工事が行われた感じだ。右岸の河原には工事用の道が通っていた。

 八十里越の道はその右岸に沿って南東へつづいている。

守門川右岸の岸辺を南東へ  ところで、地形図には八十里越の破線道上に水準点のマークがいくつか記されている。事前に参照した佐藤れい子氏の『越後百山 改訂版』(新潟日報事業社刊)には、水準点の標石の写真が載っていた。そこで、その標石を見物してみようと、ねくらハイカーは道端をジロジロ見ながら行く。

 しかし視力が衰えたせいか、草むらの中に水準点を見つけることができなかった。代わりに左の山側の斜面にある庚申塔や記念碑などの石碑を見物する。吉ヶ平には分校の校舎以外に建物がないので、よそ者のハイカー風情にはここに集落があったことを想像することができない。しかしながら、苔むした庚申塔や日清・日露戦争に関連する従軍記念碑などを眺めると、やはりこの守門川の畔に人の住む集落があったことは間違いないようだ。

 吉ヶ平は夏は長閑なところだが、冬は雪に閉ざされてしまう孤立集落ということで、生活するには多大な困難があったに違いない。廃村となるのは必然的だったのだろう。

コンクリート舗装の坂道を東へ  そこから少し行くと、路面が一時的にコンクリート舗装になった。さらに守門川の岸辺を離れて人為的に開削したような坂道を東へ上がって行くと、途中の草むらに何やら看板が見えた。

 それには「源仲綱*墓所」とある。これは平安時代末の高倉宮以仁王(もちひとおう)に関連するものらしい。吉ヶ平には、以仁王が治承4年(1180年)の宇治川の戦いで破れた後に生き延びて、越後の小国城へ逃れるために一時滞在したという伝承**があるそうだ。それから、この八十里越の道筋にはその以仁王に関連する地名が残っているということだ。

[*源頼政の嫡男。治承4年に以仁王が出した平氏打倒の令旨に呼応して父・頼政とともに挙兵したが、宇治川の戦いで平氏に敗れて死亡。]
[**以仁王も宇治川の戦いで亡くなっているので、皇子が越後へ逃れたような歴史的事実はない。もしかすると、敗戦後に以仁王の廷臣またはその関係者が八十里越を通って吉ヶ平へ逃れて来たため各伝承が生じたのかもしれない。]

途中に登山届のボックスあり  坂道を上がって行くと、ちょっと拓けたところに三条中学校が設置した登山届用の木製ボックスが立っていた。何を今さら登山届という感じだが、ここが八十里越の入口ということらしい。

 ひとまずボックスの扉を開けて中のノートを覗いてみると、最近歩いた方々のご芳名が記されていた。やはり「歴史の道」ということで、最近は歩く人が多いようだ。ねくらハイカーは記入はパスとする。

「馬場跡」のY字路付近、石標あり、(左)雨ヶ池方面、(右)鞍掛峠方面  そこから草刈りされた村道のような道をてくてく東へ辿る。道沿いにはドクダミの花が咲いていた。すぐにY字路地点に着く。そこには文字が彫られた石碑というか、丸石形の標識が設置されていた。刻字は「馬場跡 標高四七〇米」とあり、さらに「左 雨ヶ池*、右 鞍掛峠」とも記されている。ここも以仁王に関連する場所なのだろうか?それとも、昔の馬の放牧地があったところなのだろうか?よそ者ハイカーにはイマイチわからない。しかし、何か面白そうな地名だ。

 ここは、右の鞍掛峠方面に進む。

[*雨ヶ池は地形図の「雨生(まおい・あまおい・あもお)池」のことらしい。雨生池は昔は「馬追(まおい・まおいが・まごいが)池」または「馬生(まおい・まおいが)池」といわれたそうだ。明治時代の地誌などによると、昔このあたりは牧場(まきば)になっていたという。しかして何か得体の知れない怪物が住んでいて、時折放牧の馬を追ったため「馬追」という地名が付いたそうだ。伝説では、かつてその地にひとりの奇僧がいたという。この僧は黄金の薬師仏と黄金の鉦鐘(たたきがね)と金鶏を持っていた。これを見たひとりの樵夫が欲心を起こして金製の三品を強奪しようと考えた。樵夫はのちに僧を謀殺して仏像と鉦鐘をまんまと手に入れる。そして僧の亡骸をその地に埋めて隠したところ、たちまち水が滲み出してきて大池が出現したそうだ。そこでこの大池は地名から「馬追池」と命名される。僧の祟りかは不明だが、馬追池ではその後も時々怪異なことが起こったらしい。そこで村人は「馬追明神」という一社を祀って僧の御霊を慰めた。その後寛永年間にこの地を治めていた領主が、馬追池に奇特があると感じて社号を「雨追明神」と改めたそうだ。そして、それ以来夏の旱のときなどに雨乞いに霊験あらたかな池ということで有名になったらしい。特にこの池に生息する白田螺(たにし)を使って雨乞いの行事が執り行われたという。つまり、「馬追」が「雨追」になり、さらに「雨生」と表記されるようになったようだ。(※藤島玄 著『越後の山旅』(富士波出版社刊)・中村謙 著『ふるさとの山』(富士波出版社刊)等参照。)]

「詞場」、標識類あり
 そこから少し行くと、また石標と丸太形の標柱が立つ地点に着く。標識には「詞場」とある。佐藤氏によると、「ほこらば」と読むそうだ。よくわからないが、以前何かの祠がった場所らしい。これも以仁王に関連するものなのか、よそ者の素人ハイカーにはまったくわからない。

スギ林沿いを南東へ  そこから南東方向へ進んでスギの植林地に入る。このあたりは私有地らしい。少し上り道になってきたのでねくらハイカーのペースは落ちる。気温は25℃。ちょうどいい。

 道沿いにはユキノシタ科のヤマアジサイやアカショウマなどがチラホラ咲いていた。それから村道のような道筋にはいくらか草が茂っていたが、至って明瞭。これは春先に一度刈り払いが行われたようだ。

途中、樹間が開けたところから前方に番屋山
 見通しの利かない樹林帯を進んで行くと、そのうちに樹間が開けたところに出る。そこから前方(南東)に番屋山の山影が見えた。地形図を見ると、八十里越のルートはあの山の南面を抜けて行くらしい。

南方向、奥中央に袴腰〜守門岳(袴岳)〜青雲岳の稜線
 また、そこから右(南)の遥か彼方に青い山の稜線が見えた。守門岳だ。山頂部は雲ひとつかかっていないので、素晴らしい展望が広がっていることだろう。今日登っている人は山頂からの大パノラマを堪能しているに違いない…。

草刈りされた道筋を南東へ 右(南西)に守門大岳(中左)の稜線  さらに見通しのない山腹道をトボトボ行く。道筋は普通の登山道という感じなので別段問題はない。道沿いの樹木には青やピンクのテープ類が付いている。それからこのあたりには、少ないが雑草に混じってコゴミなども山菜類も生えていた。

 運動不足のねくらハイカーは途中の山陰になったところで一息つく。そのあたりから南西方向に目をやると、守門大岳から北へ延びる守門川左岸の山尾根が見えた。朝日に輝く緑の稜線はまさに夏山本番といった様相を呈している。

後方(北西)ふり返り、中央に猿ヶ城
 そこからまた山腹道を進んで守門川の谷からどんどん遠ざかる。途中、樹間がいくらか開けたところから北西方向をふり返ると、ちょっと目立った感じの山が見えた。吉ヶ平の北側に聳える「猿ヶ城」という名前の三角点ピークだ。この山はモッコリとした山容をして結構目立つ。

朝日の当たる山腹道を南東へ シモツケソウ  さらに樹木が茂っていくらか日陰になった道筋を進んで行くと、そのうちに岩がゴロゴロした傾斜地を登るようになる。このあたりには苔むした岩が階段状に並んでいるところも見られる。

 多少岩が多いが、草やシダが刈り払われているので歩くのに何の問題もない。周囲の草むらにはちょうどシモツケソウがピンク色の花を咲かせていた。

「椿尾根」、石標あり  それから草地を流れる細い沢沿いを登るようになる。さらに掘割状の道筋を進む。左上には番屋山が間近に聳えていた。その幾分急峻な感じの山肌を眺めながらトロトロ登って行くと、やがて日陰になった平坦地に着く。そこは番屋山から南西へ派生する小尾根の乗越地点になっていて、例の石標が山側に置かれていた。石標には「椿尾根 標高七三五米」とある。ということは、「椿尾根」という地点らしい。しかし、別段椿が生えているわけではない*。**

 ここでちょっと休憩しながら北西の猿ヶ城方面を眺めた。地図上では猿ヶ城の南麓に吉ヶ平があるはずだが、現在は樹林の中にすっぽり埋もれている。昔はこのあたりから集落の屋根がチラホラ見えたのかもしれない。

[*昔の吉ヶ平の住民はほとんどが椿姓だったということなので、この椿という名称は人名から来ているのかもしれない。]
[**のちに三峰山岳会の記録を拝見したところ、11月頃はこの付近は両側が椿林になっているとのことなので、やはり樹木から来た名称のようです。※2010年12月訂正追記]

大滝沢右岸の山腹道を南東へ  小休後、さらに南東へ辿る。ここからは大滝沢右岸の山腹道となる。右下に大滝沢の谷を意識しながら進む。このあたりは大体水平道のような感じになっていた。周りは高木が茂っているので展望はほとんどない。それでも右前方の樹間に大滝沢左岸の山尾根もいくらか見えた。

 道跡は依然としてしっかりしている。しかし、途中の小さな沢の横断箇所は崩れているところが多く、細い踏み跡程度になっていた。また、路面がじめじめしてぬかるみなどもある。それから、小沢付近の樹木にはビニール紐等の目印が沢山付いていた。これは残雪期に歩いた方の目印らしい。

 この山腹道沿いはブナが多く、広葉樹主体の雑木林になっていた。道筋は木陰が多いので、気温は25℃ほど。それほど上がらない。時折道下の谷から微風が当たると涼しく感じられる。

崩落地、上に巻き道あり  途中、大きな崩落地があった。赤土の崩落斜面には苔なども生えている。近年崩れたところらしい。崩落斜面の上には細い踏み跡が付いているので、そこを上り下りして通過する。

 さらにその先の小沢沿いの崩落地には固定のトラロープが設置されていた。そこはロープを補助にして慎重にトラバースする。

「山の神」、看板・小祠あり  そこを抜けると、再び歩きやすい山腹道になった。木漏れ日の中を快調に進んで行くと、途中、ナラの大木がある地点に立札形の看板(標識)が見えた。看板には「山の神」とあり、傍らに小さなコンクリート製の祠が置かれていた。よくわからないが、吉ヶ平の住民が祀ったものらしい。

 ここで休憩してもいいのだが、今日は時間的に余裕がないので一礼して通過する。

ブナ林を通る山腹道(尾根南側)  歩きやすい幅広の水平道をてくてく行くと、そのうちに斜面を北へ直登するようになる。

 息を切らして斜面を登って行くと、道筋は再び南東へ緩やかな水平道になった。このあたりは周囲がブナの樹林帯になっていた。多少日陰になっているが、ブナ林に沿って歩くのは気持ちがいい。

「番屋乗越(番屋峠)」、石標・小祠あり  そこからいくらか段差状になった斜面を登ってやや東寄りに進んで行くと、山尾根を人為的に開削して切り通しになったところに着く。そこには例の石標とコンクリート製の祠が置かれていた。石標には「番屋乗越 標高八九五米」とあるので、ここが、いわゆる「番屋乗越(番屋峠)」だ。

 この地点は地図上の番屋山から少し離れているが、番屋山からつづく尾根の乗越地点ということで名前が付いたのかもしれない。しかし、ちょっとした平地になっているので、何か番屋などの小屋掛けがあってもおかしくないところだ。

山腹道(尾根北側)を東へ  小休後、この切り通し状の地点を東へ抜ける。すぐに尾根の北側の山腹を歩くようになり、今度は左下に五十嵐川上流部大谷川の谷を眺めながら進む。

 このあたりはシダ類が多く生えていた。それから落ち葉の下は少しぬかるんでいる。梅雨明けからそれほど経っていないので、地面はまだ乾いていない感じがする。

 そして、ここからは左(北)方向の樹間に粟ヶ岳の姿が見えるようになった。

ブナの幹に先人の切り付けあり  途中、傍らのブナの木に目をやると、幹に先人の切り付けがあった。それには「昭和五十六年七月」の日付があり、名前の他に「五十三才」とも彫られていた。もしこの方がご存命なら、現在80歳を超えているわけだ…。

 こうゆう切り付けを見ると、やはり昔からこの八十里越の道が歩かれていたことがわかる。

枝尾根のカーブ地点から北方向、奥中央に粟ヶ岳[ズーム画像]  そこからちょっと行くと、山腹道は北東へ延びる枝尾根を乗り越して南へ向かうようになる。ねくらハイカーはその枝尾根のカーブ地点で立ち止まって暫し北の粟ヶ岳方面を眺める。粟ヶ岳は西の方に長い裾野を延ばして悠然と聳えていた。やはり川内山塊の主峰としての威厳と風格を備えている。

 それから、粟ヶ岳の左下には五十嵐川上流の大谷川に造られた「ひめさゆり湖」も見えた。その大谷ダム周辺には現在新道開削中の国道289号が通っている。

山腹道から東方向、会越国境1191.3m三角点P(奥中央)の山腹に掘削現場あり 山腹道(尾根東側)を南へ  ここからは左下(東)に大谷川上流部のブナ沢の谷に目をやりながらやや下り気味に進む。

 このあたりからは大谷川上流の深緑の谷あいに何やら灰色の傾斜地が見える。県境を貫くトンネルの掘削現場らしい。近い将来、三条市と只見町が国道289号のトンネル道で結ばれるそうだ。

山腹道から南方向、1135P・1122P・鞍掛峠〜1186Pの稜線  さらに南へ進むと、樹間が少し開けたところから前方にネットの記録で見覚えのある山尾根が見えてきた。鞍掛峠の稜線だ。これからあの尾根の鞍部付近を越えて行かねばならない。距離的にはまだまだ遠い。これはペースを上げないとマズイかもしれない…。

 山腹道は日向になったところが若干多くなってきた。日差しが強く、気温はすでに30℃を越えている。

いくらか草が茂った山腹道  このあたりの道筋はしっかりしているので概ね歩きやすいが、一部小沢付近の斜面が崩落して切れ落ちているところもある。そこには固定のトラロープが設置されているので、それを補助にして進む。

 道沿いの樹木には相変わらずビニール紐やテープの目印が沢山付いていた。それから、ルート上は多少草が茂っているが、それほどヤブめいてはいない。やはり、今年に入って一度草刈りが行われたようだ。

北東方向、奥左中央に青里岳・矢筈岳 幅広の山腹道  そのうちに一時的に幅広の道になる。このあたりは何か昔の峠道の面影を残しているようだ。昔の人は重い荷物を背負って脇目も振らずに山腹道をコツコツ歩いたのかもしれない。

 歩きやすい道筋を少し南東寄りに進みながら左(北東)の樹間に目をやると、粟ヶ岳からずっと東にある山々も見えてくる。幾重にも連なる川内山塊の山々の稜線を眺めると、このあたりの山域が如何にも奥深いところかがわかる。

「火薬跡」地点に置かれた石標  そこからまたトラロープが設置された急斜面を横切って行くと、山側がいくらかオーバーハング状の岩壁になったところを通る。そこには「火薬跡」と刻字された石標がポツンと置かれていた。

 佐藤氏によると、昔このあたりに鉱山か何かがあって、これはその切り出し跡らしい。またネットの記録によると、これは明治時代に道の改修をした際、火薬を使って岩を爆破して道幅を拡張したところということだ。よそ者のハイカー風情には何なのか判断がつかない。

山腹横手道から前方(南)に1186P〜烏帽子山(中央)  山腹の道をさらに南西寄りに進む。このあたりからは前方にちょっと目立つピークが見えた。守門岳の北東側に位置する烏帽子山だ。

 この山は何か威圧的に聳えている。標高は1350mということだが、山腹の傾斜が急峻でかなり際立っている。このような険しい山容を目の当たりにすると、守門岳近辺が太古の昔に火山であったことが何となく理解できる。

 それから、烏帽子山のさらに右奥には守門岳の稜線もちょこっと見えていた。

ブナ林の中を南へ
 そこを過ぎると、山腹の横手道からブナの樹林帯を進むようになる。このあたりは斜面を緩く折り返しながら南方向へ下る。峠道の道跡は一部不鮮明な感じのところもあるが、テープ類の目印があり、明るいブナの森には幅広の道筋が通っていた。

ぬかるみのあるフラットな道 ブナ沢(渡渉地点)、対岸(右岸)に標識あり  道跡に沿ってゆるゆる下って行くと、やがて小さな沢を渡る。さらに幅広の道を南へ進む。なだらかな斜面を登ってぬかるみのあるフラットな道を通り抜けて行くと、斜面の下に澄んだ流れの沢筋が見えてきた。ブナ沢らしい。

 左岸でちょっと呼吸を整え、岩の上を伝わって右岸へ渡る。右岸の草地には「ブナ沢」と書かれた丸太形の標柱がひっそり立っていた。やはり、ここがブナ沢(ブナ沢本流)だ。

草が茂った山腹の道を南東へ
 そこから再び山腹のルートを進み小沢を過ぎる。それから道沿いにヤマアジサイやシダ類が茂ったところを少し上り気味に進んで行くと、間もなく左下に若干水量の多い沢筋が見えてきた。高清水沢らしい…。

高清水沢(渡渉地点)  トラロープがあるところを下って岩がゴロゴロした河原に降りる。標識類はない。ひとまずGPSで確認すると、ブナ沢の上流付近を示した。やはり、ここが高清水沢のようだ。

 左岸の河原で休憩する。気温は25℃。清流の沢音を聞きながらぼけっとして休んでいると、いくらか清々しい気分になってきた。何か緑の中で心がリフレッシュされる感じだ。しかし、今日は行程が長い。ここでゆっくりしてはいられない。

広葉樹の森を南東へ  休憩後、岩の上を歩いて右岸に渡り、南東寄りの方向へ進む。このあたりの広葉樹の森の中にも明瞭な道跡が通っていた。それから、道沿いの倒木や邪魔な木は適当に切られて整理されていた。やはり道普請が行われたようだ。地元の方々がこの八十里越のルートをコツコツ整備しているのは間違いない。

 ところで、このあたりの道沿いには多年草のサンカヨウが沢山生えていた。それらはすでに熟した感じの青黒い実をつけていた。ねくらハイカーは試しにひとつ粒口に含んでみる。しかし外見と違い、酸味があり不味い。毒がないので一応食べられるようだが、他人に奨められるものではない。

「空掘小屋跡」付近、石標・標杭あり  そこから雑草やシダが生い茂る小道をトボトボ行くと、やがて石標と木杭があるところを通る。道の傍らには口部分が潰れたステンレス製の大鍋またはボウルのようなものが棄てられていた。

 石標には「空掘小屋跡」、木杭には「空掘茶屋跡」と記されている。ここが、いわゆる「空掘小屋跡」という地点らしい。明治から大正の時代までここに茶屋があったということだ。しかし、茶屋があったにしては見晴らしはよくない。おそらく、この茶屋は悪天候のときなどに避難小屋代わりに使われたのだろう。峠道関係のガイドブックによると、この「空掘(からぼり)」という名称も以仁王伝承に関連しているとのこと。

明瞭な道筋を南東へ  そこを過ぎて茶屋の上水道に使われていたと思われる小さな清流を跨ぎ南東へ進む。途中、道の真ん中にブナが倒れているところを通る。枝や幹が整理されていないので、最近倒れたものらしい。

 さらに明瞭な道筋をてくてく行くと、間もなく石標などが置かれた三叉路地点に着く。

「空掘」(三叉路地点) 石標あり、(左奥)大谷・笠掘方面、(右)鞍掛峠方面  石標には「空掘 標高七六五米」とある。ここが、いわゆる「空掘*」という地点らしい。今まで歩いてきた道筋をそのまま南東に進めば、大谷・笠掘方面への道となり、右へ折り返して西に進めば、鞍掛峠への道となる。いずれにしろ、ここからは旧国道289号の点線国道のルートになるようだ。

 ここで一息つく。近くには苔むした白い看板が落ちていた。それをよく見ると、国道289号の工事に伴なう林道通行止めの案内板だった。案内板によると、夏場は大谷川沿いの林道**が通行禁止になっているそうだ。とはいえ、ここから大谷・笠掘方面へは明瞭な道筋が通っているので、現在何らかの目的で歩く人がいるのは確かだ。結構古い看板なので、現在も通行止めになっているかは不明。

[*峠道関連のガイドブックなどによると、この「空掘」というところは以仁王が住んでいた要塞の跡ということだ。真偽のほどは定かではないが、昔このあたりに以仁王の関係者が居住していたのかもしれない。また、この近くには以仁王伝承に関連する「御所平」という場所があるという。]
[**旧国道289号として併用されていた塩野淵林道。また、この道は大白川と大江を結ぶ新潟県の県道にもなっていたらしい。]

旧点線国道(289号)の道筋を南へ サンカヨウ  小休後、右(西)の鞍掛峠方面の道に進む。ここからは旧点線国道のルートとなるが、道幅は今までとほとんど変わらない。ルートはすぐに左へ折れて南方向へ進むようになる。このあたりはブナの大木が多い。昔の伐採時に伐られなかったようだ。

 それから、日陰になった道沿いにはシダ類やサンカヨウが一面に生えていた。特にサンカヨウは実が地面に落ちずに葉の上に溜まっているものが多い。完全に熟しているわけだが、動物はなぜか食べないようだ。また、道沿いには少ないが、新潟県の刻字が入ったコンクリート杭も打たれていた。これは旧国道または県道を示すものらしい。

「桜の窟」付近、石標あり  そのうちに山腹道をちょこっと折り返して登って行くと、途中の日陰になったところに大岩が二つあり、その傍らに苔むした石標がひっそりと立っていた。

 石標には「桜の窟」の刻字がある。ということは、このあたりが以仁王伝承でいうところの「御所平」らしい*。現在は深い樹林に覆われて人が居住できる雰囲気ではないが、遠い昔に京から落ち延びてきた者がこのあたりに小屋掛けして住んでいたのかもしれない。

[*伝説では、宇治川の戦いで破れた以仁王が越後に逃れる際に一時この付近に居住していたという。「桜の窟(いわや)」は以仁王が身を隠した場所とのこと。ところで、新潟在住の山岳関係者の記録には、「御所平」があった場所を現在の「空掘小屋跡」付近とするものもある。確かにこの「桜の窟」は少し奥まった傾斜地にあるので、「…平」と呼ぶには相応しくはない。「空掘小屋跡」付近は多少拓けているので、京からの落人が居住した「御所平」に想定できる。しかしこれも真偽のほどは不明。]

山腹道を南東へ
 そこから山腹道を少し南寄りの方向に進む。左前方(南東)の樹間には鞍掛峠の東側に聳える1122m峰(鞍掛山)が見える。さらに緩い上りの道筋を南東へ進むようになる。

「殿様清水」付近、石標・標識あり、奥に湧き水  やがて草が刈り払われた道の折り返し地点にさしかかると、そこには道標や石標が設置されていた。石標には「殿様清水」とある。事前に拝見したネットの記録によると、戊辰戦争の折に長岡藩の藩主や家臣およびその家族がここで喉の渇きを潤したのではないかということだ。「殿様」という名称はそこから来ているのかもしれない*。

[*以仁王伝承では「御所平」の飲料水に利用した湧き水を「御所清水」というそうだ。おそらく、この「殿様清水」のことと思われるが、真偽のほどは定かでない。それから、「御所平」があった場所を「空掘小屋跡」付近と想定すると、「御所清水」は茶屋の傍らを流れる細い沢水と考えられる。]

「殿様清水」から西方向、正面に1186P東端部の岩壁  湧き水ということなので、石標の東側にある水場で水を汲んでみる。一口味見すると、普通の沢水と違って癖がなく旨い。なるほど、「殿様」と命名されただけはある。

 この水場付近からは、西に烏帽子山から北東側にある1186m峰の東端部*が魁偉な姿で聳えていた。冬場の雪で磨かれたスラブ状の岩壁が何とも見事だ。昔のお殿様はここから岩壁を見上げたのかもしれない。ねくらハイカーも湧き水に喉を癒しながら暫し眺め入る。

[*新潟在住の山岳関係者の紀行文によると、この岩壁には「御所ノ倉」という名称が付いているらしい。詳しいことは不明。]

山腹道を東へ 山腹道から前方(東)に1122P(鞍掛山)  小休後、山腹の道を西へ辿る。道はすぐに南東へ折り返す。これは地形図のルートとまったく同じ。道沿いにはヤマアジサイやサンカヨウが多い。それからコバイケイソウなども多少生えている。このあたりの広葉樹の樹木は密生していて何か原生林のような感じになっていた。道沿いの垂れた樹木の枝や幹を適当に潜りながら進む。

 山腹の道をいくらか東寄りに進んで行くと、前方の樹間に間近に見えてきた。鞍掛峠も近いようだ…。

山腹道から北方向、後方奥に粟・一本〜堂窪〜灰〜青里〜矢筈の稜線  ヤマウドが沢山生えたところを過ぎて急傾斜の山腹横手道を東へ進む。このあたりからは左(北)の樹間に遠く粟ヶ岳方面の稜線も見えてきた。

 体力が衰えたヘタレハイカーは、ここでちょっと立ち止まって遠方の山並みに目をやりながら呼吸を整える。それからまた前方の樹間に1122m峰を眺めながらトボトボ行く。

「鞍掛峠」、石標・標杭・石祠あり  そのうちに急斜面を南方向へ直登するようになる。ねくらハイカーは少し息を切らしながら登って行くと、ほどなく尾根の斜面が人為的に削られて平坦な草地となったところに出る。そこには石標や標杭そして石の祠があった。

 石標には「鞍掛峠 九六五米」とある。ここが八十里越のルート上で最高地点の「鞍掛峠」だ。時刻は正午過ぎ。やはり、予定より時間がかかってしまった。しかし、これは体力が衰えた軟弱ハイカーということで、仕方がない。

 この峠地点は南側が樹木が茂っているので、風がほとんど通らない。日陰部分では大体25℃くらいだが、日向部分は30℃を超えていた。

鞍掛峠に祀られた石祠  ひとまず休憩しながら東側の斜面に祀られた小さな石祠を見物する。ワンカップの酒や賽銭が供えられた祠には山ノ神の木札が納められていた。石祠は苔むして少々古い感じだ。

 そこで側面に目をやると、「寛政十一年未七月吉日」の日付が微かに読み取れた。寛政年間というと、今から200年以上前のものということになる。やはり、この八十里越の道は昔から歩かれていたようだ…。

ブナが多い山腹の道を南東へ  休憩後、切り通し状になった峠地点から南東側へ抜けて平坦な道筋を進む。ここからは右下が平石川*の谷になった山腹道を辿る。それから行政区分でいうと、ここから魚沼市(旧入広瀬村**)に入る。

[*現行の地形図には平石川の表記はないが、昔の陸測図や以前の案内書などに載っていた略図には、この破間(あぶるま)川上流部は「平石川」と表記されていた。現在は破間川の本流ということで「破間川」と表記されているようだが、この記録では平石川とする。]
[**北魚沼郡入広瀬村は2004年11月に隣接する同郡守門村・広神村・湯之谷村・小出町・堀之内町と合併して魚沼市になった。]

鞍掛峠の南東側に埋設された951.8m水準点標石  緩い下り道をてくてく行くと、道端に何やら上辺に丸いボッチのある御影石の標石が見えた。これは…、もしかすると水準点らしい…。

 そこで標石の側面を見ると「水準…」の刻字があり、その反対側には「六七三」という番号が付されていた。やはり、水準点の標石*だ。ねくらハイカーは今まで八十里越の峠道に埋設された水準点を探しながら来たのだが、草が茂って標石を確認することができなかった。ここでようやく水準点の標石を見物できた。

[*地形図で鞍掛峠から200mほど南東側にある951.82m水準点(一等水準点)。山歩きのガイドブックなどによると、明治30年(1897年)にこの峠道に沿って約2kmごとに一等水準点の標石が設置されたそうだ。]

 そこからさらにブナの多い樹林帯を進む。このあたりから道沿いには膝丈ほどの雑草が茂ってきた。どうも、草が刈られていない感じだ。やはり、行政区域が変わったので草刈り作業は行われていないのかもしれない…。

 途中、草が茂って少しヤブめいた小沢の横断地点に何かの石積みの跡があった。これは、以前木橋が架かっていたところらしい。この峠道は明治時代に大改修が行われたということなので、多分そのときの石積みだろう。
山腹道から右前方(南西)に黒姫(1367.8m三角点P) 山腹道から右(西)に1527P(守門袴腰)〜烏帽子山の稜線  そこを過ぎると、山腹道を南へ進むようになる。途中、右前方の樹間に横長な感じのピークが見えてきた。守門岳の東側に聳える「黒姫」という名前の三角点峰だ。それから、右(西)方向には尖った三角峰姿の守門袴腰(1527m峰)が見えた。

 上空は先ほどから南西側に雲が立ちはじめた。雲の影に入って午前中のようにくっきりとは見えないが、ねくらハイカーは暫し立ち止まって平石川上流部の谷筋と守門袴腰から烏帽子山へ延びる稜線を眺める。

「小松横手」付近、石標あり、遥か後方(南東)に浅草岳  前方に黒姫の平頂部を眺めながら平坦な山腹の道を進んで行くと、やがて幅広の左カーブ地点にさしかかる。そこには「小松横手」と彫られた石標があった。傍らには地点名の由来になったらしいゴヨウマツ(ヒメコマツ)も生えている。

 この地点は南側が開けているので絶好の展望地となっていた。南にはなだらかな山容の浅草岳が望める。西には黒姫や守門岳が相変わらず際立った姿を見せている。それから、南西の遥か彼方の山の稜線も目に入る。越後駒ケ岳・中ノ岳方面らしい…。

 ここは日差しが強く、気温は35℃を超えていた。休憩して遠方の景色を眺めていたいところだが、時間がないので先へ進む。

いくらか草が茂った道筋を東へ  そこから山腹道を曲がって岩壁を削ったようなところを通り東へ進む。すぐに広葉樹の樹林帯に入る。

 このあたりのブナの幹にも昔の歩行者の切り付けがあった。それには「…平成九年 十八才」と彫られていた。地元の方だろうか?結構若い人がこの八十里越の道を歩いているようだ。

 さらに日陰の多い樹林帯を進む。道沿いにはギボウシやアザミ類の花が咲いていた。そこから一時的に腰丈ほどの草ヤブになったところを進む。そこを過ぎると、また幅広の道になる。

途中に「田代平」の石標あり(湿原分岐地点)  やや疲れた足取りでトボトボ行くと、やがて道標と石標が置かれたところに着く。丸い石標には「田代平*」とある。湿原への分岐地点らしい。今日は時間的に厳しいのだが、ここはちょっと寄り道する。

[*峠道関連のガイドブックによると、昔この付近に旅人が泊まれる小屋(「田代小屋」)があったそうだ。詳しいことは不明。]

田代平の湿原、古い木道あり、後方(西)に黒姫・1527P(守門袴腰) 草むらの中にトキソウあり  石標から南西方向へ分岐する道跡を下って行くと、間もなく草が茂って少しヤブめいた感じの湿原に出る。この湿原が、いわゆる「田代平」らしい。湿原には古い木道が敷設されていた。今回は時間がないので、湿原の見物はキャンセルとする。

 すぐに木道を北へ引き返して行くと、足元の草地に小さなピンク色の花の蕾が見えた。アレ、これはもしかするとヒメサユリかもしれない。そう思ってよく見ると、それはラン科のトキソウだった。関東在住のハイカーはヒメサユリの花には中々お目にかかれないので、残念。

幅広の道を南東へ
 再び石標地点まで戻り、峠道のルートを南東へ進む。そこからはよく歩かれた感じの幅広の道をてくてく行く。

五味沢林道終点付近の広場  5分ほどで広場のようなところに出る。奥に車道が見えるので、五味沢林道の終点らしい。この地点には別段標識類はないが、道端に先ほど「空掘」地点にあった国道289号の工事に関する通行止めの案内板が落ちていた。

 よそ者ハイカーにはわからないが、この地点に通行止めの案内板があるということは、現在でも五味沢から鞍掛峠を経由して大谷・笠掘方面へ歩く人がいるというわけだ。

木ノ根峠方面入口(左側)、標杭あり  そこから草が生えた車道を南東へ進む。予定より遅れいるので、ペースを上げてスタスタ行く。そのうちに路面は砂利が多くなってきた。

 5分ほどで西方向への右カーブにさしかかる。すると、道の左側に木ノ根峠方面を示す小さな標杭があり、山道の入口が見えた。ここから左(南東)に分岐する山道が峠道のルートらしい…。

少しヤブめた道筋を南東へ  ここで車道と分かれ、左の草が刈られていない山道に入る。それから少し南寄りに下って行くと、途中、左(東)側に見通しのある地点に出た。そこからは、東に深緑の山尾根が見える。福島との県境になっている尾根のようだ。

 ところで、峠道のルートはさらに南へつづいているのだが、この地点から左下の笹ヤブの斜面に獣道のような踏み跡が通っていた。これはショートカットの道らしい。今回は峠道のルートを忠実に歩くのが目的なので、ここは小尾根に沿った山腹道をそのまま南へ辿る。

小尾根の山腹道を南へ
 倒木があるところを過ぎると、一時的に明瞭な道筋になった。このあたりは幾分峠道っぽい感じがする。さらに小尾根をヘアピンカーブ道で回り越して北へ進む。ここは地形図の破線道ルートとまったく同じ。

草ヤブの山腹を東へ  そこから低く垂れ込めた樹木の枝や幹を潜り抜けて行くと、草茫々の山腹道を東寄りに進むようになる。このあたりは草が刈られていないので、峠道という雰囲気は微塵もない。

 それから、道沿いには赤系の銀テープが二、三付いている程度で、最近人が歩いたような形跡はまったくなかった。どうも、五味沢林道から木ノ根峠へ歩く人はほとんどいないようだ…。

草ヤブの山腹道から南東方向、福島との県境尾根
 前方の樹間に県境の山尾根を眺めながら、暫しヤブめいた山腹道を東へ進む。別段迷うようなところではないが、ねくらハイカーは帰りは同じルートを戻る予定なので、自分用に適当にテープの目印を付けながら行く。

枝が垂れた山腹ルートを東へ  草が茂った道筋にはドブ状のぬかるみなどもある。それから、斜面が一部崩れているところもある。そこは上の草地の斜面に巻いて通過する。

 どうも、このあたりはかなり荒れていて道普請が行われていない感じだ。魚沼市の管轄ということで、峠道の草刈りや補修整備の予算がつかないのかもしれない。

 途中、小さな沢状の流れを渡り、さらにじめじめした山腹を南へ進む。

「木ノ根峠(八十里峠)」、石標・標柱・標杭等あり  そこからさらに左(東)へ回り込んで行くと、ほどなく人為的に開削されたような山尾根の鞍部地点に着く。そこには石標や標柱などがあった。

 ここが今日の目的地、福島県境の「木ノ根峠(八十里峠)」だ。時刻は午後1時58分。やはり、予定していたより時間がかかった。

北側に置かれた石標と標柱 南側に置かれた石標  ひとまずザックを下ろして一息つく。休憩しながら峠に置かれた石標などを見物する。今までと違って石標は二つあった。北側の石標には「木ノ根茶屋跡*」、南側の石標には「八十里峠 標高八四五米」と彫られていた。

 それから、北側の石標に立てかけられた古い木製の標柱には「県境・八十里峠」と表記されていた。よくわからないが、国境の峠ということで、石標が二つ置かれたようだ。

[*昔、叶津村が旅人のために通称「木ノ根」または「木ノ本」と呼ばれたこの国境地点にお助け小屋を設けたそうだ。小屋は雨露を凌ぐだけの粗末なつくりだったようだが、旅人に重宝されたらしい。ちなみに、河井継之助もこの茶屋で一泊している。それから、木ノ根茶屋は会津と越後の物資を交易するための継ぎ立て宿にもなっていたということだ。]

南側に打たれた「古道入口」の標杭  ここは日陰になっていて、風が少し当たる。気温は27℃ほど。佐藤氏はこの付近でも水準点の標石を確認している。野次馬ハイカーも周囲を見回したが、地面に草が生い茂っていて水準点を見つけることはできなかった。

 ところで、南側の石標の側には「八十里古道入口」という只見町設置の白塗りの標杭が打たれていた。そして、そこから県境の尾根筋に微かな踏み跡のようなものが付いていた。これは江戸時代に歩かれた古道のルートらしい*。幕末の河井継之助一行は木ノ根峠からこの古道のルートを辿って叶津に向かったそうだ。

[*ガイドブックやネットの記録などによると、この八十里越の道は江戸時代や明治時代に大きな改修工事が行われたそうだ。その際、多少のルート変更もあったらしい。越後側は大体現行のルートと変わりないようだが、会津側は改修の際に変更されたという。それは、時代とともに木ノ根峠から「古道」・「中道」・「新道」の三つのルートに付け替えられていったそうだ。現在通行できるのは県境尾根北側の山腹を行く「新道」ルートだが、明治時代以前は県境の尾根筋を行く「古道」や「中道」のルートが使われていたということだ。]

木ノ根峠から東の福島側、きれいに刈り払いされた峠道(「新道」ルート)あり  木ノ根峠からはさらに東へ峠道(旧国道289号)が延びている。いわゆる、明治27年(1894年)に開削された「新道」のルートだ。ここからは左下に叶津川支流の木ノ根沢の谷を見ながらの山腹道となる。

 行政区域は福島県南会津郡只見町ということで、峠道は思いっきりきれいに刈り払いされていた。まさに旧国道に相応しい幅広の道が東へ延びている。残念ながら、ねくらハイカーは今回は往復コースなので、ここから吉ヶ平へ引き返す。

木ノ根峠付近から西方向、樹間奥に黒姫  時刻は午後2時をまわっていた。これは少しペースを上げないと明るいうちに戻れないかもしれない…。

 峠から草茫々のヤブ道を西へ辿る。前方に樹間に黒姫の山影を眺めながらトロトロ進む。このあたりはアブやハエなどの毒虫が少ないので、刺される心配はない。それから往路を戻るということで、ルートに不安はない。

 問題は歩行者の体力だ。ねくらハイカーの体力だと、途中に長い休憩時間を入れないと持たないかもしれない…。でも、長めに休むと、日が暮れてしまう。今日はヘッドランプを持ってきていない…。これは、やはりペースを上げないとマズイ…。

五味沢林道合流地点  そんなことをグダグダ考えながら山腹道を抜けて行くと、やがて五味沢林道と合流する。林道終点の広場で少し休憩。林道の日向部分はまだ30℃を超えていた。

 そこからまた広葉樹の樹林帯に入り鞍掛峠をめざす。途中、山腹道から南の浅草岳や西の黒姫・守門岳を眺めながら北へトボトボ進み、午後3時半過ぎに何とか鞍掛峠に辿り着く。

鞍掛峠北側、山腹ルートを西へ  鞍掛峠から北側の斜面に下り、山腹道を西へ辿る。下り道ではペースを上げながら行く。さらにブナの多い樹林帯に下り、沢を渡って再びブナ沢左岸の山腹道に上がる。

 このあたりでは日は西に傾いて日陰の樹林帯になっていた。バテバテのヘタレハイカーは途中で何度も立ち止まって水筒の水を補給しながら進む。ちょっと腰を下ろして休んでいたいところだが、時間的に厳しいので休めない。ゆっくりとした足取りでも歩きつづけるしかない。

番屋乗越西側付近、西日に向かって進む  それから北の樹間に西日に輝く粟ヶ岳の山並みを眺めながら山腹道をトロトロ進んでようやく番屋乗越に辿り着く。そこで草地に腰を下ろして少し休む。気温は23℃くらいになっていた。長く休んでいたいところなのだが、ゆっくりしてはいられない。行動食を補給してすぐに腰を上げる。

 そこからブナの多い樹林帯を北西へ辿る。このあたりでは西日を正面に受けながら進む。周囲の森からは蜩の鳴き声が淋しげに聞こえてくる。ねくらハイカーの足取りは速まる。

 山腹道を飛ばして「山の神」地点を過ぎる。時刻はすでに午後6時をまわっていたが、このあたりではまだ左前方から西日が当たって明るい樹林帯となっていた。

「詞場」付近から北西方向、正面の樹間に猿ヶ城の山影  そこからまたダラダラ長い山腹ルートを進む。途中のトラロープがある横断箇所を難なく通過し、さらに崩落箇所を上に巻く。暫し早足で行くと、やがて「椿尾根」の地点に出た。時刻は午後6時半。まだ西の空は明るい。日没まで時間があるようだ…。

 そこからは弱々しい西日に向かって北西へ下る。バテバテハイカーに余力などは残っていないのだが、日が暮れる前にどうしても吉ヶ平に戻りたいので、自然と足が速まる。そのうちに守門川右岸の山腹を進むようになると、前方の樹間に特徴的な猿ヶ城の山影が見えてきた。ようやく吉ヶ平近くになってきたようだ…。

 さらに進んで、「詞場」や「馬場跡」の石標地点を過ぎる。

守門川右岸の林道を下って吉ヶ平へ  そして周囲が薄暗くなってきた頃、登山届のボックスが立つ地点に辿り着く。ここまで来ればひと安心。

 そこから、暗くなってきた林道の道筋を西へトボトボとゆっくり歩いて守門川の畔の吉ヶ平に戻る。

 今回は峠道歩きだったが結構時間を食ってしまった。やはり、体力が衰えた者には峠道の往復は長かった。しかし、何とか八十里越の新潟側のルートを歩くことができたのでヨシとする。


日程2010年7月21日 (水)
天候晴れ
行程時刻吉ヶ平山荘(駐車地)6:42→守門岳登山口(吉ヶ平口)6:42〜6:44→(林道を進む)→樽井橋6:45〜6:50→(守門川右岸で休憩2分)→登山届ボックス地点6:58〜7:00→「馬場跡」(Y字路地点)7:03〜7:05→(右の山道へ)→「詞場」7:07〜7:09→(途中、休憩5分)→「椿尾根」8:10〜8:15→「山の神」8:57〜9:00→「番屋乗越(番屋峠)」9:12〜9:20→(途中、休憩5分強)→「火薬跡」9:51〜9:54→小沢(ブナ沢支流)10:10〜10:12→ブナ沢10:23〜10:25→高清水沢10:42〜10:50→「空掘小屋跡(空掘茶屋跡)」10:59〜11:02→「空掘」(三叉路地点)11:05〜11:13→「桜の窟」11:21〜11:23→「殿様清水」11:31〜11:37→(途中、休憩5分)→「鞍掛峠」12:10〜12:20→951.8m水準点12:24〜12:28→(途中、小休あり)→「小松横手」12:45〜12:48→「田代平」(湿原分岐石標地点)13:08〜13:10→(湿原へ寄り道)→湿原(「田代平」)13:12〜13:15→(戻り)→「田代平」(石標地点)13:19→五味沢林道終点広場(林道合流地点)13:24〜13:26→(林道を進む)→木ノ根峠方面入口(林道カーブ地点)13:30〜13:31→(左側の山道へ)→(途中、休憩2分)→「木ノ根峠(八十里峠)」13:58〜14:15→(戻り)→五味沢林道合流地点14:36→(林道を進む)→五味沢林道終点広場14:41〜14:47→(山道を進む)→「田代平」(石標地点)14:52→「小松横手」15:15→951.8m水準点15:31→「鞍掛峠」15:35〜15:40→「殿様清水」16:08〜16:10→「桜の窟」16:16〜16:19→「空掘」(三叉路地点)16:27〜16:29→(左へ)→「空掘小屋跡(空掘茶屋跡)」16:31→高清水沢16:36〜16:37→ブナ沢16:46〜16:49→小沢(ブナ沢支流)16:59〜17:00→「火薬跡」17:14〜17:17→(途中、小休あり)→「番屋乗越(番屋峠)」17:42〜17:50→「山の神」17:58〜18:00→「椿尾根」18:31〜18:35→「詞場」19:05→「馬場跡」19:07→(林道を進む)→登山届ボックス地点19:10〜19:12→樽井橋19:17〜19:18→吉ヶ平山荘(駐車地)19:19
備考♦八十里越のルートは地形図に描かれた破線道とほとんど同じです。上の行程時刻欄では少々煩わしいので進行方位は省略しました。
♦この記録は、文中に掲げた山岳関係者の著書以外に、笹川壽夫 編著『新版 会津の峠』(歴史春秋社刊)・誉田宏 著『ふくしまの峠』(不二出版刊)・羽賀一蔵 著『越後佐渡の峠を歩く』(新潟日報事業社刊)やその他のガイドブックの記録および紀行文等を参考にしています。また、HP「私の新潟の山歩き」・「越の山路」・「日本の道」および鵬翔山岳会の記録等も拝見し参考にさせていただきました。

◇ T N H C ◇

TOPへ戻る