山ノ上の碑駐車場から上城山(根小屋城址)



 今回も群馬県内の一等三角点の山に登る。一等三角点に関する書籍によると、高崎市の「上城山(かみじょうやま)」というところに一等三角点があるとのこと。標高も200m未満と低山派のねくらハイカーにはちょうどいい。

 この山の名前は三角点の点名から来ているようで、地図等に山名の表記はない。ネットで探すと記録は結構出ていた。山歩きの記録よりも山城や城郭マニアの見聞記が多い。それによると、この山は中世期西上州に進出した武田氏の山城「根小屋(ねごや)城」があったことで有名らしい。そこで今回もネットの記録を参考にして、2月中旬頃高崎市南東部の山名(やまな)丘陵方面に出かけてみた。
藤岡市上落合付近から山名丘陵方面  藤岡市から県道30号(寺尾藤岡線)を北上すると、前方に低い山並みが見えてくる。多分、上城山(根小屋城址)がある山名丘陵だ。鏑川に架かる橋(鏑川橋)の手前で左の町道へ入り、写真を撮る。

 あの丘陵に一等三角点峰があるわけだが、どれなのかわからない。そこで地形図を出して見較べると、どうも南側からは見えないようだ…。写真を撮る場所を間違えたということで再び県道に戻り、鏑川を渡って高崎市山名町に入る。

 先人の記録によると、駐車場がある登り口へは途中から県道200号(後賀山名停車場線)に曲がって上信電鉄上信線の西山名駅(旧入野駅)付近を直進して行けばいいそうだ。しかしてねくらハイカーはこのあたりは精しくないので、県道30号をそのまま進む。

 山名駅の入口を過ぎて、次の南八幡中学校付近の信号交差点を左に曲がる。すぐに上信線の踏切を渡り、町道を左に進む。さらに住宅地を抜けて柳沢川右岸の細い道を南へ走る。道幅が1車線ギリギリの町道を歩行者に気をつけながらノロノロ行く。
山ノ上碑登り口付近にある駐車場を示す看板  道なりに進むと、地蔵尊が祀られたT字路となる。そこは右折して柳沢川を渡り堀沿いの道を西へ進む。

 間もなく右手に高崎自然歩道「石碑(いしぶみ)の路」の道標や看板が見えた。山ノ上碑への登り口らしい。傍らには無料駐車場を示す標識や看板もある。

堀を渡った左手に駐車場あり  そこで標識に従って堀沿いをさらに西へ進むと、左側にコンクリートとフェンスで囲われた駐車場があった。「山ノ上の碑駐車場」だ。平日ということで車は1台も停まっていない。今日はここから上城山(根小屋城址)に登る。

 ネットの記録では短時間で登れるということなので、カメラだけ持って出発する。気温は12℃ほど。2月にしては暖かい。天気予報では今日は関東などの各地で春一番が吹くと出ていた。

山ノ上の碑登り口、道標・案内板・トイレなどあり  堀沿いを先ほどの道標がある登り口まで戻り、民家と畑の畦際につくられた遊歩道に入る。ガイドマップの案内板を見ると、上信電鉄の根小屋駅から遊歩道のルートが描かれていた。地元の人には結構歩かれているコースらしい。

 少し進むとトイレと水道栓付きの流し台があり、傍らに石碑も見える。それには万葉集の歌が彫られていた。石碑の横にはその読みと解釈が書かれた看板が併置されている。これは一般の者にも手軽に万葉の詩歌が鑑賞できそうだ。

山ノ上の碑・古墳への石段  傍らにチラホラ咲いたヤブツバキの花を眺めながら歩道を進むとすぐに石段となる。

 ステンレス製の手すりがついた立派な石段を上がって行くと、途中に看板があった。看板の説明書きによると、昔この上にある古墳に馬頭観音が祀られて観音堂が建てられたということだ。観音堂は江戸時代に札所として賑わったらしい。しかし時が過ぎてお堂が廃滅すると、札所の信仰も廃れ参道の石段だけが残ったそうだ。つまり、この石段は観音堂への参拝道というわけだ。

山ノ上古墳  石段をさらに上がると、中ほどに墓石などがある。民家の墓地らしい。それから、「マムシに注意」というヤバそうな貼り紙も見える。

 石碑や墓石などを見ながらトボトボ行くと、やがて「史蹟 山上碑及古墳」と彫られた大きな石柱が立っているところに出る。正面には横穴の入口がある古墳が見える。「山ノ上古墳」だ。

左側に石碑が安置された建物あり  古墳の左側にはお堂のようなモダンな建物がある。先人の記録によると、この建物の中に「山ノ上碑*」が安置されているとのこと。さっそく扉のガラス窓から覗き込むと、暗い部屋の中に茶色っぽい岩が見えた。看板等の説明文によると、古墳は7世紀後半のもので、建物の中にある石碑はこの古墳の墓碑ということだ。碑文は或る僧侶が亡き母のために墳墓を建てたことを述べたものらしい。

 それにしても、仏教が盛んになるにつれて古墳が造られなくなったわけだが、仏教を信奉する僧侶がこのような墳墓を造っているのがねくらハイカーには面白く感じられる。とにかく外来の仏教と祖先を祀る土俗宗教が混淆していた時代の遺跡だ。それから、道端の笹には「山ノ上観世音」の貼り紙が付いていた。よくわからないが、この古墳は今でも馬頭観音として信仰されているのかもしれない。

[*看板の説明書きによると、この「山ノ上碑」と丘陵北西側にある「金井沢碑」、そして西隣の吉井町にある有名な「多胡碑」の三つを総称して「上野三碑」と呼ぶとのこと。]

自然歩道を北へ  古墳の東側から明瞭な遊歩道が奥へつづいている。傍らには万葉歌が彫られた石碑と看板もある。歩道を少し行くと、「関東ふれあいの道」の石柱が立っていた。ということは、この高崎自然歩道は「関東ふれあいの道」にもなっているわけだ。

 歩道沿いには赤錆びたアングル材の杭が打たれ針金のワイヤーが張られている。それからフェンスが設置されているところもあった。どうもこのあたりは私有地になっているらしい。

 ヤブツバキが茂っているところを抜け、尾根筋を北へ進む。アカマツや落葉した雑木類の尾根道からは右下に新しく造成されたような墓地が見えた。幟なども立っているので、この東斜面には墓地の分譲地があるようだ。

山名城址分岐(右方向)  やがて看板や道標がある分岐地点に着く。看板には山名城址のことが書かれていた。それによると、源義家から数えて4代目の新田義範がこの山名の地に移り住んで山名氏を名乗ったそうだ。以後8代に渡り山名氏がこの地を治めたとのこと*。

 看板には城の見取り図も描かれているが、ねくらハイカーにはよくわからない。道標には左に「根小屋城址」、右に「山名城址」を示している。ここは右へ寄り道して山名城址に行ってみる。

[*ちなみに、この山名氏が応仁の乱で西軍の大将となった山名宗全の祖先となっている。]

山名城址本丸  丸太段が敷かれた道を東へ辿る。落ち葉が溜まった山腹道を進み土塁状の斜面につけられた坂道を上がって行くと、木製のベンチやテーブルが設置された広場に出る。城の本丸らしい。

 広場の中ほどに進むと、説明書きの看板や「山名城址」と彫られた石碑があった。やはり、ここが地形図の184m標高点になっている山名城址本丸だ。傍らの看板には城郭の構造や歴史がいろいろ書かれていた。

山名城址の展望テラスから北方向  石碑から北側に丸太材でつくられたテラス形の展望台があるので、そこから北方向を眺めてみる。

 天気は曇りということで、北側はどんより霞んでいて展望はない。晴れていればいくらか見えるのかもしれないが、今日は残念ながら見通しが利かない。

 そこから再び先ほどの分岐地点に戻る。自然歩道を西へ進むとまた看板があった。それにはなぜか「水戸黄門と山賊」と題する話が書かれていた。誰か昔の大衆読み物に詳しい人が『徳川栄華物語』とかいう文献から拾ってきた話らしい。

 別に急いではいないで、ちょっと読んでみる。それによると、昔黄門様御一行がこの近くにある山名八幡宮へ参詣した帰りに、ちょうどこのあたりで山賊に襲われた巡礼の母娘を救ったとのこと。つまり、この付近でテレビドラマ仕立ての大立ち回りをしたらしい。別段オチめいたことは書かれていないのだが、この付近に関する有名人の逸話ということで載せているようだ。
途中、右下に農道(?)分岐  柵沿いの道をさらに先へ進み、ツバキやサカキ類が茂ったところをてくてく行くと、前方から中年男性がひとり歩いてきた。空身で何も持っていない。散歩の方らしい。軽く挨拶して擦れ違う。

 少し行くと万葉の歌碑や道標があり、その先で右下(北)に小道が分岐していた。道標は、西に「根小屋城跡へ 約1.1KM・金井沢の碑へ 約2.5KM」となっている。どうも、右下の道は遊歩道ではなさそうだ*。

[*ネットで拝見した個人の方のガイドマップによると、北東側の薬師沢川沿いから上がってくる農道とのこと。]

尾根沿いの自然歩道  そこは西へ進む。するとまた左側に看板があった。それには「鹿島神社と防人(さきもり)」と題する文章が書かれていた。

 それによると、飛鳥時代に東国の人が筑紫へ防人として招集されて国を出るとき鹿島の神を祀って無事を祈ったそうだ。その鹿島神社がこの看板がある尾根付近から北東側の麓にあるとのこと。

 地形図を見ると、確かに鳥居のマークがある。そして何気に北へ延びる支尾根上に目をやると、微かな踏み跡が通っていた。やはり、この地点からその鹿島神社への道があるようだ。

T字路地点、右に商科大学前駅への尾根道あり  さらに万葉の歌碑などを眺めながら尾根道をゆるゆる行くと、T字路のようになった尾根地点に出る。右(北東)からくる尾根道には白塗りの標識が立っていた。

 それには「商科大学前駅 1.2km 15分」とある。ということは、ここから尾根筋を北東へ辿れば上信電鉄の高崎商科大学前駅に行くらしい。地形図を見ると、確かに駅の方向へ破線道が描かれている。

遊歩道から北方向に上城山(根小屋城址)  そこは尾根沿いの歩道を左(西)へ辿る。ちょうどこのあたりは現在伐採中ということで、尾根の北側は切り株が多い斜面になっている。そして道沿いには伐られた丸木材が置かれていた。

 樹木が伐られて多少見通しが利くので、そこからは北方向に雑木で覆われたピークが見えた。地形図を参照すると、目的地の上城山らしい。

 さらに西へ進むと、左上の尾根筋に歌碑が建っているところがあり、リュックを背負った女性がひとり静かに看板の説明書きを読んでいる姿があった。鑑賞の邪魔をしては申し訳ないので、そこはそのまま山腹のショートカット道を進む。

 それから再び尾根筋を行くようになると、右(北)に上城山、左(南)方向に遠く御荷鉾スーパー林道が通っている山尾根を眺めることができた。しかし曇っているので、御荷鉾山方面の山影はぼんやり霞んでいる。
尾根道と山腹ショートカット道の分岐あり、左の尾根へ 望鉾山(190P)山頂、歌碑あり  尾根の右(北)側が間伐されている斜面になったところを西へ進むと、また尾根道と山腹道が分かれている地点となる。尾根には誰もいない感じなので、左の尾根筋に登る。丸太の階段道を上がるとすぐに万葉の歌碑が建つピーク地点に出る。歌碑の側には「山 一〇三ノ一」という番号があるコンクリート杭も打たれていた。何か曰く有りげなところだ。

 傍らに立つ白塗りの標識を見ると、薄っすら「望鉾山」と表記されていた。ということは、ここが地形図の等高線で190mの望鉾山だ。先人の記録にもこの山名があった。しかし、何と読むのかわからない。このあたりから南方の御荷鉾山が望めるので、このような名前が付いたのかもしれない。

 ここは単なる尾根のコブ地点で山というような感じではないが、地形図ではここから北の上城山方面に破線道が分岐している。

望鉾山北側の分岐地点、北方向に上城山  情熱的な万葉人の歌を鑑賞したあとで丸太の階段を北側へ下ると、すぐに歩道が三方向に分岐する地点に降りる。そこには道標や火の用心の看板、そして休憩用のベンチなどもあった。

 自然歩道の道標は、東に「山ノ上の碑900m・山名八幡宮1.9km」、南西に「金井の碑1.9km・寺尾中城址4.1m」、北東に「根小屋城址500m」を示している。それから地元の南八幡小学校が設置した白塗りの道標には「森林公園」の文字があった。どうも、このあたりは高崎市の森林公園になっているようだ…。

 ねくらハイカーはそこから根小屋城址へ向かってやや北東寄りの方向に進む。地形図の破線道と同じルートだ。

北側の上城山(根小屋城址)への尾根筋、歌碑や看板あり  右側がヒノキの植林地になっている尾根道を少し行くと、また石碑と看板があった。立派な石碑には万葉集の詩歌ではなく、大沢雅休という歌人の和歌が彫られていた。それからヒサカキやツバキが生えた尾根のコブ地点には大手拓次の歌碑があった。そうすると、この北の上城山(根小屋城址)へつづく尾根には群馬県に縁のある近代から現代にかけての文学者の歌碑や詩碑が置かれているのかもしれない…。

 しかして、次の地点にはなぜか新田義貞の歌碑があった。これは、やはり時代には関係なさそうだ…。

 凡俗ハイカーには、歌の内容というよりも文字が彫られた丸形や角形の石材に思わず目が行く。車道が通っていないこの尾根地点にどうやって大きな石材を麓から運んだのだろう?作業道を造って小型の重機で運んだのだろうか。それとも、ケーブルかヘリコプターを使ったのだろうか…?

根小屋城址「搦手」付近、東屋・看板あり  そこから少し進むと東屋があり、傍らに「武田信玄の財宝」と題する看板があった。それには武田氏の軍資金に関する伝説が書かれていた。

 説明書きによると、16世紀中頃に西上州に進出した武田信玄が、この根小屋城近くの山尾根に軍資金を隠して戦いに備えたとのこと。そして、その隠した場所は空洞になっているので、足で踏むと音が響くらしい。地元ではその地点を「鳴るが尾根」というそうだ。しかしこれは伝説ということで、真偽のほどは定かでない。

 ところで、この東屋地点には高崎市が設置した茶色の立札形の標識が立っていた。それには「搦手(カラメテ)」とある。ということは、ここが根小屋城の裏門にあたる地点らしい。そしてここから北側の山腹が、武田信玄が築いた城郭となっているようだ。

根小屋城址の案内板あり、後方は城址本丸(上城山山頂部)の斜面  東屋の北側にある村上鬼城の句碑を見物して少し下り山腹を北東方向に進むと、山村暮鳥の句碑があり、傍らに「根小屋城址」の看板があった。看板の背後は土塁状の急峻な斜面になっていて、如何にも人の手で築城されたような地形をしていた。

 看板には根小屋城の歴史のことが書かれているが、ねくらハイカーは最後の方の根小屋の地名についての説明が興味深かった。それによると、「根小屋」とは平素城兵が居住するところをいうそうだ。そこで「根小屋(ねごや・ねこや)」とかいう地名があるところには必ず山城の城址があるとのこと。平成の盆暗ハイカーには勉強になる。

掘割状の道、右上は曲輪W(?)  そこから人為的に開削された緩い掘割状の道を辿って左に周り込んで行く、右側に細長い平地*が見えた。

 さらに進むと、田島武夫の句碑や「恋の船橋」と題された悲恋話が書かれた看板があった。これは万葉集の東歌に由来するこの近くの烏川に架かる橋を題材にした話らしい。

[*城郭マニアの記録によると、「曲輪(くるわ)W」という地点。]

城郭東側の「追手」地点、左に本丸、奥後方に腰曲輪  そこを過ぎると、傍らに「追手(オウテ)」と表記された立札標識が立っていた。ここは城郭東側の地点で、おそらく根小屋城の大手(正門)にあたるところだ*。

[*地形図では190mピーク(望鉾山)からつづく破線道がこの地点からさらに北東方向へ延びている。城郭マニアの記録によると、ここに大手道のルート(廃道?)があるようだ。]

左上の丸太段を登って本丸へ  そこから掘割道をちょっと進むと、根小屋城址の道標があり、左上の土塁状の斜面に丸太材の階段道が見えた。根小屋城址本丸へ上がる道らしい。しかし、そこから右方向にも明瞭な踏跡があり、その先に「腰曲輪(コシグルワ)」と表記された立札標識がある平地*が見えた。

 ここは左上の本丸に登る。

[*城郭マニアの記録によると、「曲輪V」というところ。]

「枡形虎口跡」地点(城址東側)  丸太の階段を上がって行くと、少しヤブめいた感じの窪地があり、そこに立札形の標識が立っていた。それには「枡形虎口(マスガタコグチ)跡」とある。さらに「虎口とは城の重要な出入口」という説明書きも記されていた。つまり、ここが根小屋城本丸の正式な出入口というわけだ。

 そこから左上の地点にも石碑が建っているので、ちょっと寄って見物する。石碑には群馬県出身の新島襄の言葉が彫られていた。それには「良心ノ全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ」とあり、傍らの看板に書かれた住谷悦治氏の解釈文によると、「維新後の明治の日本社会をリードするに足る「良心」が全身に満ちている立派な男子が志をもって立ち現れてきてくれることを期待する」とのこと。ねくらハイカーは、何かこの言葉を霞が関の官僚に任せきりの今の日本の政治家の方々に送りたい気分になった。

根小屋城址本丸  枡形虎口から北側に上がって行くと、落ち葉が一面に敷きつめられた平地に出る。ここが上城山山頂部の根小屋城址本丸だ。周囲には休憩用のベンチやテーブルなどもあって公園のようになっている。

 ねくらハイカーの目的は上城山の一等三角点の標石を見物することなので、一通り広場を大きく見回してみたが、山名板などの標識類はなかった。

木の下に石祠あり(広場中央部付近)  仕方ないので、落ち葉を踏みながら北西方向に進んで行くと、広場中央部に昭和天皇御製の和歌の碑があった。そして、その近くの木の下に石の祠が置かれ、「本丸跡」の立札標識が立っていた。

 さらにその先には木製の古い展望台もあった。上城山の山頂部は樹木が茂っているので展望はない。展望台に上がればいくらか見えるかもしれない。

展望台から北西方向 展望台から城址広場  板材が朽ちていてちょっと危険な感じだが、何とか展望台に登って周囲を眺めてみる。

 しかし、天候は相変わらず曇りということで、ほとんど眺望は得られない。わずかに樹林越しに北西方向に見える丘陵が観音山らしい…。

 上城山山頂の城址広場に辿り着いたものの、三角点がどこにあるのかわからない。展望台から降りて、落ち葉が厚く溜まった地面をジロジロ見ながらを広場を歩き回る。散歩の人がねくらハイカーの姿を見たら、多分不審者に間違えたことだろう。今日は平日ということで広場には誰もいない。野良犬のように自由にうろつく。

 展望台から西へ進むと、城郭の縁に「坂虎口(サカコグチ)跡」という立札標識があり、そこから下はヤブの急斜面で窪地のような地形になっていた。城郭についての知識はまったくないが、どうもこの坂虎口という地点はこの城の非常口にあたるものかもしれない…。
上城山の一等三角点標石 枡形虎口の南西側に三角点の標石あり  標石を探しながら再び南東側の枡形虎口まで戻る。そのあたりから南西方向に目をやると、コンクリート製の丸テーブルや椅子があり、その手前にちょこんと白い杭が見えた。三角点を示す杭だ。

 そこで近づいて行くと、杭の側に御影石の標石とそれを保護するための置石があった。さらに標石の周りの枯葉を掻き分けると、側面に一等の文字が見えた。やはりここが標高197.7mの上城山一等三角点だ。標石は結構新しい感じなので、近年交換されたものらしい。

根小屋城址本丸の下りから北方向、奥に平地(腰曲輪)あり 本丸北東側にある腰曲輪  上城山の一等三角点が確認できたので本日の目的は達した。小休後、往路を戻る。

 枡形虎口から丸太段を下り、北側ににある「腰曲輪」の標識が立つ平坦地に寄ってみる。主郭と腰曲輪の間には空掘りになった窪地(横堀)があるが、小さな水溜りもできていた。それにしてもこの城郭は複雑な地形をしている。まさに武田氏の洗練された築城法を目の当たりに見物できるというわけだ。戦国時代の人が色々知恵を絞ってこのような複雑な構造を編み出したのだろう。昔の人は大したものだ…。

望鉾山付近にある根小屋城址分岐地点、左に山ノ上の碑方面、右に金井沢の碑方面  そこから再び歌碑が建つ自然歩道に戻る。望鉾山付近の分岐地点から東へ進み、伐採地から北の上城山(根小屋城址)方面を眺めながらトロトロ行く。何気に上城山の右下にある谷あいの市街地に目をやると、ちょうど上越新幹線の車両が東京方面へ通過して行くのが見えた。

 上城山は現在は樹木が茂っているが、昔の山城があった頃は相当の眺望があったに違いない。それで明治時代になって、地図作成の測量のため一等三角点が設置されたのだろう。

自然歩道を東へ  そこからまたゆるゆる自然歩道を東へ進み古墳まで戻る。石段の最上部から南側の麓を眺めると、駐車地の山ノ上碑の駐車場が見えた。それから脇目も振らず石段をトコトコと駆け下るとあっという間にその駐車場に着いた。

 今日は山頂の城址広場から好展望は得られなかったが、一等三角点の標石と万葉の時代から現代までの群馬県に縁のある人物の歌碑や遺跡、そして戦国時代に造られた城跡などが見物できたのでヨシとする。


日程2009年2月13日 (金)
天候曇り 東寄りの微風
行程時刻山ノ上の碑駐車場10:50→山ノ上の碑登り口10:50〜10:52→山ノ上碑・古墳10:55〜11:02→(北へ)→山名城址分岐11:05〜11:09→(右へ)→山名城址本丸11:12〜11:17→(戻り)→山名城址分岐11:18→(西へ)→農道分岐11:23〜11:25→商科大学前駅分岐11:32〜11:34→望鉾山(190P)11:34〜11:38→(北側へ降りる)→根小屋城分岐11:38〜11:43→(北へ)→東屋付近(「搦手」)11:50〜11:55→「追手」12:00→(左上の城郭へ)→「枡形虎口跡」付近12:01〜12:04→上城山(根小屋城址本丸)12:04〜12:18→(戻り)→(北側へ寄り道)→「腰曲輪」12:19〜12:21→(戻り)→「追手」12:21→東屋付近(「搦手」)12:24→(南へ)→根小屋城分岐12:27→(東へ)→商科大学前駅分岐12:35→農道分岐12:41→山名城址分岐12:43〜12:44→山ノ上碑・古墳12:47〜12:52→登り口12:56→駐車場12:56
備考♦この記録はHP「赤城の詩」・「牛伏山岳会」・「石塚さんちのホームページ」・「高崎観音山の紹介」・「埋もれた古城」・「古城散策記」・「城郭図鑑」等の記録を拝見し、参考にさせていただきました。
♦この行程では途中で寄り道したり歌碑などを見物しているので、多少時間がかかっています。ストレートに歩けばもっと短時間で山頂(根小屋城址本丸)に着きます。

◇ T N H C ◇

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