新聞報道の表と裏4
二流記者
〈事件取材と記者たち〉
特種をとったのは、共同通信の米倉(久邦)という記者だった。共同通信というのは地方新聞にニュースを送っている。北海道新聞はそれを受けて1面トップにしたわけです。米倉は担当検事と同窓ということもあり仲が良かったのですが、持ち込みネタという話もあり、自分自身を慰めてもいました。
検察は特種をいやがります。要するに、情報漏れをいやがるのです。特種が出ると、誰がもらしたか徹底的に調べる。また、一般の検事のところには夜回りをしないという約束になっていて、それを破ると、他の取材には一切応じない、出入り禁止にするといった具合で、非常に厳しい。しかし、一方では義理堅いから、もらったことへのお返しはきちんとする。この場合、それだろうと思うのですが、抜かれは抜かれです。
北海道新聞も地元で抜かれたということになります。それで、警察、司法を握っていた道警キャップは、飛ばされるというおまけがつきました。もう一つのおまけは、検事正の奥さんが、私のお袋のケースを可哀想だと思ったということで、検事正から特種を一つもらいました。ぼうれんというブルドーザーの大きなのを購入するときに金を浮かし横領したというものだった。塚谷悟という検事正でしたが、2年ほど前亡くなりました。
抜いた記者は出世する。さっきいった米倉というのは、共同通信の論説委員長になった。その下にいた、江畑(忠彦)という記者も中々やるなという記者だったが、いま編集局長をしています。まあ、だいたい見ていて出来るなという記者は、やはりそれなりに処遇されているものです。成果主義とかは、あんまり関係ないなあという気がします。
札幌には4年半いました。普通1箇所2年ぐらいなのですが、当時、連合赤軍事件や大久保清事件で抜かれまくりました。その原因は地方にいる期間が短いからだ、ということになり、長く留め置かれるようになったわけです。
社会部に行ってからは、遊軍、運輸省といった担当で、警視庁、司法といった切った張ったの事件とは縁遠かったのです。それでも大きな抜かれをしました。
日航機の羽田沖墜落事故です。1982年、昭和57年ですか。「機長止めてください」というのに逆噴射させ、空港手前で墜落したやつです。機長は心身症だった。それで心身症というのがいっぺんに有名になりました。
私は運輸省を担当していました。事故原因が問題でした。運輸省に航空機事故等調査委員会というのがあり、そこが調べるわけです。ずっと後ですが、落ちた飛行機のボイスレコーダーにある「機長止めて下さい」という声を聞きました。もう音ですね。「キキ」というだけです。それを分析して声にするのですからすごい。
それはともかく、初めは機体に問題があったといわれていたのですが、「おかしな操縦をした人為的事故だ」と初めて書いたのは私でした。操縦桿の位置がおかしかったのです。そのまま行っていれば、私の数少ない勝利になったのですが、世の中そんなに甘くはなかった。普通なら、なぜそんな操縦をしたのかと追及するのですが、私自身、その情報をもらっても、半信半疑だったから、追及が甘かったんですね。
その1、2日後でしたか、取材から運輸省に帰ってきたらNHKでやってるぞ、といわれた。また、血が頭からサーと引いていったのを覚えています。要するに、片桐といいましたか機長が心身症で(いまだに松沢病院に入っているようです)、変な操縦をした、というのでした。このときは、NHKの記者と仲が良く、一緒に取材をしたりしていましたから彼ではない。後で知った話では、抜いたのは柳田邦男さんだったようです。彼は「マッハの恐怖」といった本を書いていましたから、現場に強かったわけです。