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「戦術の世界史」人物解説(16世紀) スペイン王の義理の弟であるガストンは、同時にフランス王ルイ12世の甥でもありました。 1511年、彼は21歳の若さでフランス軍の司令官となり、ローマ教皇ユリウス2世の「神聖同盟」軍に立ち向かうことになります。フランス軍は北イタリアにおいて、ベネチアの軍勢からなる教皇軍を駆逐すると、戦略拠点ラヴェンナに向かって進撃を開始しました。ラヴェンナを押さえられるとベネチアは、フランスに従わざるを得なくなり、ローマ教皇は本拠地ローマをフランス軍に直撃されるかもしれないのです。 1512年4月、ガストンはラヴェンナを包囲して攻撃を開始しました。数日後、スペイン軍を主力とする教皇軍がラヴェンナの救援に駆けつけたことを知ったガストンは、スペイン軍の司令官レイモンド・カルドナあてに挑戦状を送り、4月11日の朝に戦闘を開始することにします。砲撃で始まった戦闘は激烈を極め、 フランス軍の騎兵隊の効果的な突撃は、カルドナのスペイン軍に退却を余儀なくさせました。自らも馬にまたがり追撃に夢中になっていたガストンの前方にスペイン軍の槍兵が立ち塞がります。かまわず突撃していくガストンの脇腹に鋭く長い槍が突き刺さり、落馬した彼の体には、周りから集まってきたスペイン槍兵によって無数の槍が打ち込まれました。 「ラヴェンナの戦い」でフランス軍は司令官を失いましたが、戦闘ではなんとか勝利します。しかしながらフランス王ルイ12世は、なぜかそれ以上の進撃を命じませんでした。このチャンスにローマ教皇は、急遽、 公会議を開催して自らの権威をアピールすることに成功します。その結果、勝利したはずのフランス軍は撤兵するしかなくなりました。 /「ラヴェンナの戦い」ヘ戻る イタリア征服を断念したフランス王ルイ12世を継いだフランソワ1世は、自ら軍を率いてイタリア戦争に介入します。1515年には「マリニャーノの戦い」でスイス軍に勝利して、ミラノを支配しました。そして翌年に教皇とコンコルダート(政教和約)を結んで和解します。1519年、神聖ローマ帝国の皇帝選挙でハプスブルク家のカール5世に敗れると、これに激しく抵抗して、神聖ローマ皇帝に即位したカール5世とパヴィアで戦いました(1525年)。この戦いで大敗して捕虜になったフランソワ1世は、1年間も幽閉され、マドリード条約でやっと釈放されましたが、自由になるとすぐにまた戦闘を開始します。結局、1529年のカンブレー条約でイタリアから手を引かされたフランソワ1世は、その後も神聖ローマ帝国に対抗するために、イギリス王ヘンリー8世やドイツ国内のプロテスタントたちと手を結びました。1542年にはオスマントルコ帝国のスレイマン大帝と結んでカール5世に挑みますが、1544年のクレピーの和約において、彼は再び全ての要求を放棄させられてしまいます。 国内におけるフランソワ1世は、官僚制度の整備、財政機構の改革などで王権の強化に努め、文芸の保護にも力を注ぎ、フランス・ルネッサンスの発展に大きく貢献したのでした。 /「パヴィアの戦い」ヘ戻る チャールズ、ハワード・エッフィンガム(1536年〜1624年) イングランド貴族の最高ともいえるノフォーク公と同じ血筋であるハワード・エッフインガムは、女王エリザベス1世とも親戚の関係でした。1585年に海軍最高司令官に任命されましたが、当時のイングランドにおけるこの役職は、首相と海軍大臣と提督を併せたようなもので、実際の海戦の経験や能力については考慮されなかったのです。1588年の「アルマダ海戦」では、航海経験が豊富で指揮能力の優れたフランシス・ドレークを作戦本部長にして、ハワード自らは最高司令官として戦いに臨みました。すぐれた英知と才覚を持つハワードは善意の紳士でもあり、スペイン艦隊と戦った兵士や水夫たちに国庫の貧しいイギリス政府から十分な給料が払われないことがわかると、自らの財産を使って彼等に支払ってやったのでした。 /「アルマダ海戦」ヘ戻る 穏やかな性格で野心など全くないシドニアが、スペイン艦隊の最高司令官に選ばれた理由は、単に彼がスペインの大貴族として社会的地位が高かったからでした。とうてい司令官の器ではないシドニアは、スペイン王フェリペ2世に自らその旨を書き送ります。「私にはこの仕事はまったく理解できませんし、また、それについて何の知識ももっておりません。」このように自分の無力を認めるシドニアを、スペイン王は無理やり最高司令官に任命し、部下から全く信頼されていないフロレス・デ・バルデスを参謀本部長に選びました。 1588年7月、イングランド艦隊との戦闘で苦境に立っていたシドニアは、彼の旗艦の側を通過していく船の甲板上に勇敢な指揮官オケンドを見つけると思わず叫んでしまいます「これから我々はどうしよう?もう何もかもおしまいだ!」。これは最高司令官が言うべき言葉ではなく、あきれたオケンドは次のように答えました。「私は最後まで戦いますよ、男らしく死にます。」 結局、シドニアがスペインにできた唯一の貢献は、5百万枚のマラベディー銅貨の寄付だけでした。 /「アルマダ海戦」ヘ戻る 1567年にホーキングについてメキシコ湾に遠征、奴隷貿易で成功したドレークは、しだいにスペインの船や植民地を襲う海賊として有名になります。イングランドとスペインは表面的には友好国でしたが、エリザベス女王はドレークなどのスペイン相手の海賊を黙認していたのでした。 1577年、ドレークは女王に謁見すると「スペイン本国を攻撃することはできませんが、植民地を襲ってスペイン王フェリペ2世を苦しめることはできます。」と述べ、それに応えて女王は言いました。「襲撃に 失敗しても、イングランドは政治的な立場から貴方を見捨てるほかありません。」ドレークの艦隊はその年の11月にプリマスを出航して、翌年にマゼラン海峡を通過するとチリやペルー沿岸のスペイン植民地を略奪してまわり、遂にスペイン王の財宝を満載した宝船カカフエゴ号を捕獲しました。グアテマラの港グアタルコを5日間に渡って荒しまくり、メキシコの海賊討伐隊を簡単にかわすと太平洋を横断して1580年に帰港します。スペインから海賊ドレークを処罰するよう迫られていたエリザベス女王は、ドレークの乗艦ゴールデン・ハインド号に乗り込み、同行のフランス使節に剣を渡すと、ひざまずいたドレークの肩にその剣を当てさせ「立ちなさい。サー・フランシス・ドレーク」と呼びかけ、ナイトの称号を与えました。ゴールデン・ハインド号によって女王には30万ポンドが手に入ります。この額はイングランドの国庫歳入よりも多かったのでした。1581年にはプリマスの市長になったドレークですが、スペインとの国交悪化で再びスペイン領を攻撃します。1587年、カディス湾でスペイン艦隊を襲撃して、翌年の「アルマダ海戦」ではイングランド艦隊の実質的な指揮をとり、スペイン艦隊を壊滅させました。1594年からは西インド諸島を襲撃しますが、スペイン軍の守備が固いため思うようにいかず、1596年、何の成果もあげられないうちにドレークは赤痢で倒れてしまいます。最後は武人らしく死にたいと言うドレークは、病床に鎧を持ってこさせて、それを着ようとするなどの錯乱状態に陥ったまま息をひきとりました。 /「アルマダ海戦」ヘ戻る /ホームページヘ |