「戦術の世界史」人物解説(15世紀)

ティムール(1336年〜1405年)
モンゴルの血をひくティムールは少年時代を貧しく過ごしましたが、しだいに持ち前の指導力を発揮して、 馬で狩りに興じる若者たちのリーダー的な存在となります。その頃のモンゴル帝国は危機に瀕しており、 中央アジアのチャガタイ・ハン国も東西に分裂して、遊牧部族の族長(アミール)達が権力闘争を繰り広げていました。バルラス部とキシュ地方のアミールとなったティムールは、中央アジア西部のマワランナフル(トランスオキシアナ)を統一すると30年以上の年月をかけて、東は天山地方から西はアナトリア西端まで、北はボルガ川中流域から南はデリーに至る広大な帝国をつくりあげます。彼の征服は、情け容赦の無い破壊活動で進められ、生首で塔を建てるなどの残虐な行為は特に有名になりました。ティムールはトルコ系のイスラム教徒であり、文盲ながらもトルコ語とペルシャ語を自由に話し、歴史についての知識はかなりのものであったと伝えられています。1404年、ティムールの軍勢は中国の明朝を攻めるためにタシュケントへ向かう途中、例年にない厳しい冬の寒波に襲われました。もうすぐ70歳というティムールの体はこの寒さに耐えられず、暖をとるために酒ばかり飲み続けて胃腸をこわし、高熱を出して倒れてしまいます。無理を続けていたために弱っていた彼の体が回復することはなく、雪に埋もれたオトラルの中でティムールは息を引き取りました。
/「アンゴラの戦い」ヘ戻る バディスワフ2世(1351年〜1434年)
1377年にリトアニア大公となったバディスワフ2世は、ドイツ騎士修道会に対抗するためにポーランド王女ヤドヴィガと結婚してポーランド国王に即位します(1386年)。その際にカトリックへ改宗したため、異教の地であったリトアニアのキリスト教化を進めることになりました。ドイツ騎士修道会はリトアニアの改宗は偽装であるとしてこれを認めませんでしたが、バディスワフは神聖な森を切り崩し、寺院を破壊することで異教を捨て去ったことをアピールします。リトアニア国民からもキリスト教に対する反発は起こらず、短期間のうちに多数の民衆が集団で洗礼を受けました。1409年、ドイツ騎士修道会は、ボヘミヤ、ハンガリーと同盟を結び、全ヨーロッパに対して異教国家リトアニアに対する「十字軍」に参加するように呼びかけるとポーランド国王に宣戦布告します。これを受けたポーランド・リトアニア連合軍は、ドイツ騎士修道会の本拠地マリエンブルクを攻撃して占領するという極めて積極的な計画をたてました。ポーランド・リトアニア連合軍は1410年7月9日にプロイセン領に侵入、13日にはドイツ騎士修道会軍の要塞ドブロブノを陥落させます。これを聞いたドイツ騎士修道会の総長フォン・ユンギンゲンは、マリエンブルクを守るためにグルンバルト村とタンネンベルク村の近郊に軍を進めました。この地で戦われた「タンネンベルク(グルンバルト)の戦い」でポーランド・リトアニア連合軍はドイツ騎士修道会軍を壊滅させますが、マリエンブルクの攻略には2ヶ月をかけたにもかかわらず失敗してしまいます。ポーランド・リトアニア連合軍が撤退したため、ドイツ騎士修道会は領土こそ失いませんでしたが、 戦争の被害と捕虜になった騎士たちの身代金の支払いで金銭的には致命的な大打撃を受けてしまったのでした。
/「タンネンベルクの戦い」ヘ戻る ヘンリー5世(1387年〜1422年)
ヘンリー4世の長子として生まれた彼は、幼い頃から武技に優れており人望もありました。父王から嫉妬されるほど彼の人気は高かったのです。イングランド王に即位するとまずは国内をかためて、1414年に休戦中だったフランスとの戦争を再開しました。1415年8月に3万名の軍勢を率いてフランスのノルマンディに上陸、セーヌ河口に近いアルフルールの町を2ヶ月近くかけて占領します。季節が寒くなると赤痢が流行したために5千名の病死者を出してしまい、パリに向かうことは諦めてカレーの沿岸を目指して北上することにしました。10月25日、カレーの南東50キロの地点で、イングランド軍は3倍以上の兵力のフランス軍と対決します。この「アジャンクールの戦い」でフランス軍は惨敗、オルレアン公シャルルは捕虜としてイングランドに抑留されました。ヘンリー5世はフランスのブルゴーニュ派と結んで勝利を確実なものにし、1420年にトロワ条約によってフランス王シャルル6世の娘カトリーヌと結婚します。こうして彼はフランスの王位継承権を手に入れましたが、フランスの王太子シャルル(7世)はこれを認めず、イングランドとの戦争を続行しました。1421年、フランスに駐屯していたイングランド軍がシャルル王太子の軍勢に敗れると、ヘンリー5世は再びフランスに渡って戦闘の指揮をとり始めます。翌年の8月、ブルゴーニュ公の救援に向かう途中に熱病にかかったヘンリー5世は、ヴァンセンヌの森において35歳で亡くなりました。
/「アジャンクールの戦い」ヘ戻る メフメット2世(1432年〜1481年)
オスマントルコ帝国第7代目のスルタンであるメフメット2世は、生まれながらにして主将の資質をもっていました。父ムラト2世が亡くなった時、21歳の彼はマグナシア(アナトリア西部)にいましたが、 驚異的なスピードでダーダネルス海峡を渡り、ガリポリを出ると馬でアドリアノープルに向かい、わずか数日で到着して、自らスルタンを宣言します。彼はビザンチン皇帝の抗議を無視して、ボスポラス海峡のヨーロッパ側に新たな砦(ルメリ・ヒサール)を造らせました。海峡のアジア側にすでに築かれていた砦(アナドル・ヒサール)と対をなす砦を造ることで、ボスポラス海峡を通行する艦船の全てを制することが出来るようになったのです。 メフメット2世が若い頃から狙っていたのが、コンスタンチノープルの征服でした。彼はコンスタンチノープルの大城壁を攻撃するために、ビザンチン側の待遇に不満をもってオスマントルコ側に来ていたハンガリーの技術者ウルバンに命じて巨大な大砲を造らせることにしたのです。1453年3月に出陣の命令が出され、4月からコンスタンチノープルの攻囲戦が開始されました。5月末にコンスタンチノープルは陥落、ビザンチン帝国は滅亡します。 メフメット2世は威儀を正してコンスタンチノープルに入城すると、大地にひざまずき、土を手にとって頭上に捧げました。オスマントルコ帝国の本拠地をアドリアノープルからコンスタンチノープルに移した彼は、帝国各地から多数の人々をこの新たなイスラム都市に移住させます。 メフメット2世の征服はこれで終わったわけではなく、東方では、アナトリアのカラマン候国を滅ぼし、 東アナトリアから西イランとイラクにまで勢力を伸ばしていたアク・コユンル朝(白羊朝)の君主ウズン・ハサンの軍勢を1473年の戦いで大敗させました。また西方では、ボスニア、セルビアを征服し、アルバニアまで進出して、アドリア海やエーゲ海で活動していたベネチアと戦います。イタリア南部にまで艦隊を送りましたが、メフメット2世の急死によってオスマントルコ帝国のイタリア進出は永遠に中断されました。
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