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「戦術の世界史」人物解説(9世紀から11世紀) 17世紀の歴史家によって「大王」と呼ばれるようになるアルフレッドは、871年に即位したイギリス・ウェセックスの王でした。デーン人(バイキング)の侵入に対して、兄のエゼルレッド1世と共に勇敢に戦い、878年にグスラム率いるデーン軍を破ります。敗北したバイキングの首領グスラムが、ここでキリスト教徒となったことからサクソン人とデーン人との共存が実現しました。 アルフレッドは、デーン人に対抗するために海軍を編成したことでも有名で、全長がバイキング船の2倍もある「長船」を建造させています。この新型の軍船は60本以上の櫂を持っており、速度と安定性でバイキング船より優秀でした。乗組員には、サクソン人の他に同じゲルマン系のフリジア人が選ばれます。 これはフリジア人の水夫が、デーン人相手の海戦で巧妙な戦術を使うことでよく知られていたからでした。 また文化人でもあった彼は法典を編集して国家統一の準備を行い、文化の振興にも積極的で「アングロ・サクソン年代記」の編集を開始させたりもしています。 /「アッシュダウンの戦い」へ戻る フランスのノルマンディ公ウイリアムは混乱していた領地内の治安回復に努力し、教会の支持を得てやっとこれに成功しました。1051年には、父ロベールの従兄弟にあたるイングランド王エドワード(懺悔王)から後継者としての地位を約束されたといわれています。1066年、エドワード懺悔王が死去するとハロルド2世がイングランド王に即位しますが、ウイリアムは自分こそが正統なイングランド王であると主張します。ウイリアムは軍隊を率いてドーバー海峡を渡り、イングランドの南岸、サセックスのペヴェンシーに上陸しました。この時にウイリアムはうっかりして砂浜で転んでしまい、部下から「上陸そうそうにつまずくとは、縁起が悪いですな!」と愚痴られてしまいます。ウイリアムは両手いっぱいに砂を掴むと「勇気を出せ、これは縁起のいいことなのだ。見ろ!わしは両手でここの土地を掴んでおるのだぞ!!」と言って立ち上がりました。「ヘースティングスの戦い」でハロルド軍を破ってイングランドの王位についた征服王ウイリアムは各地の反乱を鎮圧し、デーン人の侵入を退けて、イングランドの統一に成功します(1070年)。 ノルマン王朝のイングランドでは、支配階級であるノルマン人はフランス語を使い、庶民のサクソン人は英語(アングロ・サクソン語)を使い続けて、互いに「サクソンの百姓野郎!」とか「ノルマンの豚!」などと呼び合っていました。 /「ヘースティングスの戦い」へ戻る 1053年にウェセックス伯となったハロルド2世は、当時のイングランド王以上の権勢をふるい、1063年にはウェールズに遠征してこの地を平定しました。1065年に北方で発生した反乱をおさえて弟のトスティヒを追放、翌年にエドワード懺悔王が死去すると貴族の支持を受けてイングランド王に即位します。同年9月、弟トスティヒとノルウェー王ハロルド・ハルドラーダがイングランド北部に侵攻しますが、「スタンフォード・ブリッジの戦い」でこれの撃退に成功しました。 しかし、10月にはノルマンディ公ウイリアムが王位継承権を要求してイングランドに上陸します。9月の戦いで兵力の衰えていたサクソン軍は「ヘースティングスの戦い」でノルマン軍に完敗し、この戦場において指揮官ハロルドはあっけなく戦死してしまいます。 /「ヘースティングスの戦い」へ戻る 1088年、神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ4世から下ロートリンゲン候に任ぜられて、ブイヨンに居城をおいたゴドフロワは、1096年の第1回十字軍に指揮官として参加しました。 エルサレムを占領した十字軍の諸候たちは、聖地の統治にふさわしい指導者としてゴドフロワを選出します。彼が選ばれた理由は、「勇敢であるが大した勢力を持たず、人柄が良くて仲間から妬まれない」からでした。エルサレム王の肩書きを辞退したゴドフロワは、かわりに「聖墳墓教会の守護者」と名のり、死の直前までこの役職を勤めました。 /「第1回十字軍のエルサレム攻略」へ戻る |