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「戦術の世界史」人物解説(4世紀から7世紀) 若い頃にフン族の人質として過ごした経験のあるアエティウスはフン族と親交があり、彼等の西ローマ帝国侵入を扇動したと考えられています。 西ローマ皇帝ヨハンネスのもとで高官として仕えた彼は、ヨハンネスの死後に不遇の身となり、昔なじみのフン族のもとに逃れました。その後、アエティウスはフン族の援軍を従えてイタリアに戻り、皇帝ウァレンティニアヌス3世のもとで西ローマ帝国の権力の座につくことに成功します。 ガリアの秩序回復に貢献し、ヴァンダル族の地中海征服を阻止した彼の次なる問題が、アッティラ大王に率いられたフン族の危険なほどの勢力拡大でした。アエティウスは、西ローマ帝国軍と共に西ゴート族、 アラン族などを指揮して「カタラウヌムの戦い」で強力なフン族を破ります。 西ローマ帝国を約20年間も事実上支配し続けたアエティウスですが、最後には皇帝ウァレンティニアヌス3世によって殺害されてしまいました。 /「カタラウヌムの戦い」へ戻る 434年頃からフン族の王として活躍したアッティラは、西はアルプス山脈からバルト海、東はカスピ海付近までを支配したと伝えられています。 441年、アッティラは東ローマ帝国に高額の貢納金を求め、その不払いを理由にして戦闘を開始しました。ドナウ川周辺に進出したフン族の軍隊は、東ローマ帝国領内にも侵入していきます。 443年に東ローマ帝国と講和を結ぶと、南方へ進撃してギリシャに侵攻、続いて西ローマ帝国をめざしました。451年にライン川を渡り、オルレアンを攻囲しますが、「カタラウヌムの戦い」で西ローマ軍とゲルマン諸部族の連合軍に敗北してしまいます。その後のフン族はガリア地方を経由して北イタリアに入り、ベルガモ、ミラノ、ベローナなどの都市に襲いかかりました。ローマは莫大な貢納金を払ってアッティラと講和を結びます。しかしこの時のアッティラの軍隊には数多くの疫病が流行しており、ローマに攻め入ることなど不可能に近かったのです。 イタリアから撤退したアッティラは、王国の都に戻ると次の年にイルディコという名の美女を娶ります。 彼女は、アッティラにとっては数多くの妻の一人でした。結婚式の祝宴で飲みすぎた彼は初夜の床で激しく吐血し、自らの血液に溺れて窒息死してしまいます。従者が発見した時、息絶えたフン族の王のかたわらには、新妻のイルディコがベールで顔をおおいながら震えて泣いていました。 アッティラの死後、フン族の王国は解体します。468年にアッティラの王子デンゲシクが東ローマ帝国に侵入しますが、捕えられて斬首されてしまいました。彼の首はコンスタンチノープルの円形劇場でさらしものにされ、フン族の王国は滅亡、他の民族に吸収されたフン族は歴史から消え去ります。 /「カタラウヌムの戦い」へ戻る 農民出身であったベリサリウスは、24歳で東ローマ帝国の将軍に抜擢されました。東方戦域司令官となった彼は、530年の「ダラス要塞の戦い」でペルシャ軍を破り、翌年には降伏したペルシャに「永遠の平和」を誓わせます。532年のコンスタンチノープルの大反乱(ニカの乱)では、約3千名の兵力で約3万名の暴徒を競馬場に押し返し、場内に閉じ込めて虐殺しました。 533年にはヴァンダル王国征討のためのアフリカ遠征作戦を指揮し、見事にヴァンダル王国を滅亡させます。しかしこの頃から皇帝ユスティニアヌスの嫉妬をかうようになり、535年にはイタリア(東ゴート)征服を命じられ、成功しそうなところで解任されてしまいました。 542年、不穏な動きを見せたペルシャ軍を撃破して帰国すると再びイタリア作戦に就きますが、作戦完了間近かでまたも解任されてしまいます。この後のベリサリウスは、退役してコンスタンチノープルで目立たないようひっそりと暮らしますが、スペイン南部に反乱が発生すると皇帝に呼び戻され、反乱が鎮圧されるとまたまた解任されました。559年にブルガール・スラブ連合軍がコンスタンチノープルに迫ってくると、皇帝は躊躇することなくベリサリウスにコンスタンチノープルの防衛を任せます。ブルガール・スラブ連合軍を見事に撃退したベリサリウスに皇帝は何らの感謝もせず、彼は再び静かな隠居生活に戻りました。562年、皇帝ユスティニアヌスはそんな彼に無実の罪を着せて侮辱し、投獄してしまいます。 翌年にはさすがの皇帝も反省してベリサリウスを釈放し、名誉と財産を回復してやりました。以後のベリサリウスが世に出ることはなく、皇帝の死の直前に60歳でひっそりと病死します。 /「ダラス要塞の戦い」へ戻る 東ローマ帝国の宮廷の一廷臣であった宦官のナルセスは、実直な人柄を買われて大財務官に昇進します。 ベリサリウス将軍の引退後はイタリア(東ゴート)征服作戦の総司令官に任命され、軍事的経験があまり無かったにもかかわらず「ブスタ・ガロルムの戦い」で東ゴート軍を破り、東ゴート王トチラを戦死させました。さらにローマ市の奪還にも成功し、東ローマ皇帝ユスティニアヌスの念願であったイタリアの再征服を成し遂げました。 /「カシリナムの戦い」へ戻る マホメットはイスラム教の創始者としてアラブ民族を統合し、強大なイスラム帝国に発展する素地をつくりました。メッカで孤児として育った彼は大変な苦労をして成長し、595年に金持ちの未亡人と結婚してやっと独立します。マホメットは裕福な商人となってからも社会の矛盾に関心を持ち続け、ユダヤ教やキリスト教の影響を受けて一神教への宗教改革と社会改革に乗り出しました。 ウマイヤ家の迫害から逃れるため、622年にメディナへ聖遷(ヘジュラ)した後は、単なる宗教指導者にとどまらず、軍事指導者や政治家としても活躍して、アラブ諸部族に「イスラム」という新しい共通指導原理を与えました。「イスラム」とは「唯一にして至大なるアッラーの神に絶対的に帰依する」という意味で、マホメットの言葉を記した聖典「コーラン」を読誦することで直接神に接することが出来るとしています。 /「ウフドの戦い」へ戻る |