「戦術の世界史」人物解説(紀元前3世紀から紀元前1世紀)

ハンニバル(BC247〜183年)
カルタゴの貴族ハミルカル・バルカの長男に生まれたハンニバルは、紀元前221年にリビュア・スペイン軍の総司令官に就任しました。紀元前219年、ローマの同盟都市サグントゥムを攻撃し、8ヶ月もかけて陥落させます。これによってローマはカルタゴに宣戦し、第2次ポエニ戦争が始まりました。翌年、 スペインから出陣したハンニバル率いるカルタゴ軍は、4万名以上の大軍を率いてアルプスの険しい山々を越えますが、15日間に及んだ雪のアルプス越えに成功したのは、約2万名の歩兵と6千名の騎兵そして20頭の戦象だけでした。 12月末、トレビア川でローマ軍を撃退したハンニバルの軍勢は、紀元前217年の6月にトラシメヌス湖畔でもローマ軍を敗北させますが、ローマの独宰官ファビウスは持久戦の構えをとっていたので、決戦は翌年まで延期されます。ローマ軍は一冬の間に人員と物資を集めて、総勢約8万名もの軍隊を準備したのでした。しかし8月2日、アプリア平原のカンネーで決戦を挑んだローマの大軍はカルタゴ軍の見事な包囲作戦によって全滅してしまいます。 「カンネー決戦」の結果、カプアなどの諸都市がローマから離反しましたが、新たに再編成されたローマ軍は徐々に強力になり、補給が困難になっていたカルタゴ軍を圧倒するほどになりました。 孤立していたカプアの町を救おうとしたハンニバルの作戦は失敗し、紀元前211年、ローマ軍はカプアを陥落させ、離反の責任者たちを捕らえて処刑します。この頃のカルタゴ軍の質は低下しており、「メタウルス川の戦い」ではローマ軍に敗れてしまいました。ローマの将軍スキピオはカルタゴの本拠地である北アフリカに軍隊を送り、イタリアから呼び戻されたハンニバルとザマの大平原で戦います。紀元前202年の「ザマの戦い」でハンニバル軍は大敗、カルタゴは敗戦国として不利な条件でローマと平和条約を結び、2年後にハンニバルは将軍職を辞任しました。 紀元前196年に行政長官(スフェス)となったハンニバルは国制改革や財政改革を行いますが、彼の急進的な政策に反対する勢力によってローマから嫌疑をかけられてしまいます。祖国を去る決意をしたハンニバルはシリアに移りますが、ローマから彼の引き渡し要求がきたため、次にビテュニアに亡命しました。 紀元前183年、ビテュニア王プルシアス1世はローマからの引き渡し要求を拒むことが出来ず、それを予期していたハンニバルは毒杯をあおってこの世を去ります。
「カンネー決戦」へ戻る スキピオ(BC236〜184年)
紀元前218年「ティキヌス河畔の戦い」で父を救って有名になったスキピオは、2年後の「カンネー決戦」で軍団の指揮官として戦いました。この戦いで敗れたローマ軍の残兵を集めて再編成し、紀元前210年にはスペインでの軍団指揮権を与えられます。翌年、新カルタゴ(カルタゴ・ノウァ)を包囲攻撃して陥落させ、紀元前208年「バエクラの戦い」でカルタゴの将軍ハスドルバル・バルカを破りますが、 カルタゴ軍の残兵はハンニバルの部隊を追ってイタリアに進軍していきます。スキピオはあえて敵軍を追撃することはせず、まずスペインにおけるローマの支配権を確立させました。 紀元前204年、元老院の強い反対を押し切ったスキピオはシチリアから北アフリカ上陸作戦を敢行し、 カルタゴの北、ウティカ付近に3万5千名のローマ軍を上陸させます。「バグラダス河畔の戦い」で約3万名のカルタゴ軍を完敗させ、カルタゴから20〜25キロ離れたテュニスを占領、ここに陣営を設けて周辺地域を荒らしまわりました。紀元前202年、ザマの大平原でイタリアから召還されたハンニバル率いるカルタゴ軍と戦い、これを壊滅させて第2次ポエニ戦争を終結させます。アフリカ遠征を成功させたスキピオは「アフリカヌス」という尊称を受け、紀元前199年には監察官に選出されて元老院議員主席になりました。紀元前190年、スキピオは弟のルキウスと共にシリア遠征に出発し「マグネシアの戦い」でアンティオコス3世を破りますが、スキピオ一族の独裁化を嫌った有力者たちから弾劾されて人望を失ってしまいます。ひどい屈辱のうちに隠退したスキピオはローマを去り、ハンニバルが自殺する1年前にカンパニアのリテルヌムで病死しました。
「ザマの戦い」へ戻る カエサル(BC102?〜44年)
元老院派のスラが独宰官として絶対的な力をふるっていた時代、人民派のカエサルは迫害を避けて小アジアに逃れていました。紀元前78年のスラの死去でローマに帰り、翌年から政治活動を始めたカエサルは、財務官、按察官、大神官となって名声を高めます。紀元前60年、元老院に対抗するためポンペイウス、 クラッススと秘密同盟を結んだカエサルは、第1回三頭政治を始めてガリア地方の支配権を獲得しました。 紀元前58年から51年にかけてガリア遠征を行い、西ヨーロッパをローマの属州に変え、そこに自らの権力地盤を確立します。紀元前53年にクラッススが戦死すると、カエサルとポンペイウスの仲が悪くなり、ポンペイウスは元老院に対してカエサルの軍団を解散させるよう主張しました。 カエサルの率いる軍団は法を破ってルビコン川を渡るとローマを占領します。ポンペイウスは自分の軍隊と元老院議員の大半を連れてギリシャに渡っていきますが、紀元前48年「ファルサロスの戦い」で敗北すると今度はエジプトへ逃げていきました。あとを追ってカエサルもエジプトに向かいますが、ポンペイウスはエジプト王プトレマイオス13世によってすでに暗殺されています。カエサルは、プトレマイオスの姉であり共同統治者であるクレオパトラと恋仲になり、プトレマイオスをローマ軍との戦いで死に追いやるとクレオパトラをエジプトの王位につけました。 ローマに戻ったカエサルは、元老院の権威を圧倒してローマの単独支配者となり、ローマの行政機構を強力で合理的なものに改め、大規模な植民やイタリアを縦断する国道の建設を計画します。大図書館の建設、 太陽暦の採用など多くの優れた仕事を成し遂げたカエサルですが、彼の権力が絶対的なものになってくるにつれて、カエサルがローマの王になるのではないかと恐れるローマ市民が多くなってきました。紀元前44年3月15日、ローマの王政に絶対反対である共和派の人々によってカエサルは暗殺されます。
「アレシア包囲戦」へ戻る オクタビアヌス(BC63〜AD14年)
カエサルの姪を母に持つオクタビアヌスは、紀元前45年にカエサルと共にスペインへ遠征し、翌年マケドニアでカエサルの死を知らされます。正式な遺言状でカエサルの後継者に指名されていましたが、執政官のアントニウスがこれを没収して自分こそがカエサルの相続者であると主張しました。オクタビアヌスは元老院の支持をうけながらも執政官にはなれなかったので、軍隊を使ってローマを占領すると強引に執政官の座につきます。共和保守派に対抗するため、一時は不和であったアントニウスと手を握るとカエサルの副官だったレピドゥスとも結んで第2回三頭政治を開始しました。紀元前42年「フィリッピの戦い」で共和派の軍隊を破り、紀元前36年にレピドゥスを追い出してアフリカの属州とイタリアの支配権を手に入れます。そのころエジプト女王クレオパトラに夢中になっていたアントニウスを激しく非難し、紀元前32年にアントニウスの遺言を捏造して元老院で発表しました。その内容が、ローマの東方領を全てクレオパトラに与えるというものだったため、怒った元老院はアントニウスの全ての権利を抹消するとオクタビアヌスにクレオパトラと戦う権限を与えます。翌年の「アクチウムの海戦」でアントニウス、クレオパトラ連合艦隊を破ったオクタビアヌスは、ローマの単独支配者となりました。紀元前27年、オクタビアヌスは共和政の復活を宣言し、自らの権限を元老院に返還します。元老院は彼に「アウグストゥス(尊厳な人)」という称号を与え、オクタビアヌスは事実上皇帝に等しい地位につきました。 オクタビアヌスは、旧制度の組織をそのまま残しつつ政務の実権は自分が握ることで、合憲的な政府づくりを始めます。元老院をはじめあらゆる関係筋から制約されることのない絶大な権力を持って、辺境地に多くの植民都市を建設し、乱れていた属州の再組織化も行いました。
「アクチウムの海戦」へ戻る アントニウス(BC82〜30年)
カエサルのガリア遠征に従軍したアントニウスは紀元前49年に護民官となり、ローマ内乱の際にはポンペイウスと対立するカエサルを支持します。カエサルがポンペイウスを追ってエジプトに渡ってからは、 騎兵長官としてイタリアでの軍団の指揮権を任されました。暗殺されたカエサルを追悼する演説でローマ市民の支持を集め、そのために暗殺者たちはローマから退去せねばなりませんでした。一時は不和であったオクタビアヌスと和解し、レピドゥスと組んで第2次三頭政治を行います。紀元前42年の「フィリッピの戦い」でカエサルの暗殺者たちの軍隊を破って翌年にはエジプトへ渡りました。エジプト女王クレオパトラと会見し、彼女と恋愛関係になったアントニウスは、一冬をエジプトのアレクサンドリアで過ごしてからイタリアへ帰還します。 東方の属州の支配権を得たアントニウスは、オクタビアヌスの姉オクタビアと政略結婚して三頭政治を強化しますが、エジプトを訪れると再びクレオパトラに魅了されてしまいました。妻オクタビアを実家に返し、アルメニアを征服すると東方の支配者気取りで振る舞って、クレオパトラにローマ属州の多くを勝手に譲ります。オクタビアヌスは元老院にはたらきかけて、姉と正式に離婚したアントニウスの権限を剥奪すると、エジプトのクレオパトラに宣戦しました。アントニウスとクレオパトラの連合艦隊は「アクチウムの海戦」でオクタビアヌスのローマ艦隊に敗れてしまい、自分の軍団にも逃げられたアントニウスは捕らえられ処刑されるのを恐れて、自らの剣で自殺します。

「アクチウムの海戦」へ戻る クレオパトラ(BC69〜30年)
プトレマイオス12世の娘、クレオパトラ(7世)は18歳の時に弟のプトレマイオス13世と共同で王位につきましたが、弟側の勢力によって数年後には追い出されてしまいます。当時のエジプトはローマの庇護下にあり、プトレマイオス13世はカエサルの歓心を買うため、逃れてきたポンペイウスを暗殺しますが、これを喜ばないカエサルは逆に姉のクレオパトラと親密になってしまいます。ローマとの戦いで弟が死んだことにより、エジプト女王に即位したクレオパトラはカエサルの妾となって彼の子供(カエサリオン)を生みました。カエサルが暗殺されると再び不安定な立場になりますが、紀元前41年にカエサルの後継者の1人であるアントニウスと恋愛関係になることで自分の地位を保ちます。 紀元前31年「アクチウムの海戦」においてオクタビアヌスのローマ艦隊に敗北したアントニウスは、絶望のあまり自殺してしまい、クレオパトラはエジプトに逃げ帰りました。 オクタビアヌスの好意を得る望みはないと悟ったクレオパトラは、捕虜となってローマに連行される屈辱を避けるため、毒蛇に自分の胸を噛ませて自殺したと伝えられています。

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