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「戦術の世界史」人物解説(19世紀) 12歳の時にイギリス海軍に入ったネルソンは、アメリカ独立戦争に従軍したのち、フランス革命戦争では35歳の若さで戦列艦アガメムノン号の艦長となりました。戦いになるといつでも先頭に立つネルソンは、 1794年にコルシカ島のカルヴィ要塞を攻略した際に敵弾の破片で右眼を失明します。 1797年のセント・ビンセント岬沖の海戦で2隻のスペイン艦を捕獲した勲功によって海軍少将に昇進しますが、カナリヤ群島のサンタ・クルーズ港では上陸部隊を率いて戦闘中に負傷して右腕を失ってしまいました。翌年、ナイル河口のアブキール湾においてナポレオンのエジプト遠征軍を撃破した際も、ネルソンは前額部に瀕死の重傷を受けています。 中将に昇進した1801年の4月、コペンハーゲン港の海戦で決定的な勝利を収め、5月にはバルチック艦隊司令長官に任命され、ナイル男爵の称号と故郷のバーナム・ソープの土地を領地として授かりました。1803年、地中海艦隊司令長官に任ぜられたネルソンはフランスのトゥーロン港を封鎖するため出撃し、トラファルガー岬沖でヴィルヌーブ率いるフランス・スペイン連合艦隊を発見してこれを破ります。「トラファルガー海戦」でフランス艦隊が大敗したため、ナポレオンが計画していたイギリス上陸作戦は完全に挫折しましたが、ネルソン自身はこの戦闘で戦死してしまいました。 /「トラファルガー海戦」へ戻る 18歳でイギリス陸軍に入隊し、オランダでフランス革命軍と戦ったウェリントンは、1796年にインドでの戦闘に参加、マラータ戦争の戦功によって「ナイト」の称号を授かります。1806年にトーリー党の下院議員となり、翌年アイルランド相に就任しますが、対フランス戦が再開するとイベリア半島でフランス軍を相手にゲリラ戦を展開しました。ナポレオンのロシア遠征が失敗した1814年にイギリス軍を南フランスへ侵攻させます。その功によって公爵となったウェリントンは、ウィーン会議でイギリス代表をつとめ、 ナポレオンがベルギー国境を越えたという知らせを受けた時には、ブリュッセルで舞踏会に出席していました。どんな緊張した状況でも絶対に沈着冷静であるウェリントンの資質は「ワーテルローの戦い」で如何なく発揮され、我が身の危険を気にすることなく味方と敵の軍隊の動きに全神経を集中して、イギリス・オランダ連合軍に勝利をもたらします。 1818年まで北フランス駐留の連合軍司令官を務めた後は政治家として活躍し、1828年に首相となって翌年にはカトリック教徒解放令を成立させました。 /「ワーテルローの戦い」へ戻る コルシカ島で生まれたナポレオン・ボナパルトはパリ士官学校に入学し、16歳で少尉に任官します。 フランス革命中の1793年、ボナパルト家は、コルシカ島の完全独立をめざすパオリ派によって襲撃され、 ナポレオンは家族と共にフランスに亡命しました。同年、トゥーロン市内の反革命軍を援助していたイギリス・スペイン艦隊を砲撃して撃退します。1795年にパリ市内のヴァンデミエールの反乱軍を鎮圧して有名になったナポレオンは国内軍最高司令官となり、まもなく師団長に昇進すると「ヴァンデミエール将軍」として革命政治の主役の1人となりました。翌年、イタリア遠征軍司令官に任命されると「兵力の集中、中央突破、各個撃破」のナポレオン戦術を実践して、オーストリア・イタリア連合軍を見事に分断しました。 サルデニャ王にオーストリアとの同盟を破棄させ、パルマ大公と休戦条約を結ぶと5月にミラノ市に入城、 1797年2月要塞都市マントヴァを降伏させてロンバルディア征服を成し遂げます。 オーストリアとカンポ・フォルミオ講和条約を結んだナポレオンは、1798年6月に350隻の艦隊で兵力3万8千名の軍隊をエジプトに送りました。ナポレオンの軍隊は、当時のエジプトを支配していたマムルーク族の大軍を撃破してカイロに入城しますが、アブキール湾に停泊していたフランス艦隊をネルソン率いるイギリス艦隊に発見され砲撃によって全滅させられてしまいます。1799年7月にはイギリス艦隊に護衛されたトルコ軍がアブキールに上陸しましたが、フランス軍はアレクサンドリアでこれを撃破します。イギリスとの休戦交渉の最中に、本国の総裁政府が危ないことを知ったナポレオンは急いで帰国し、ブリュメール18日クーデターを断行すると第一執政となりました。 軍事独裁政権を樹立して国内体制を整えると1804年に共和政を廃止して自らが世襲皇帝に即位します。 1805年、第3回対仏同盟が成立すると、約22万名の兵士を7個軍団の「大陸軍」に編成して戦闘を開始、10月20日の「ウルムの戦い」でオーストリア軍を降伏させました。しかし21日の「トラファルガー海戦」においてフランス・スペイン連合艦隊はイギリス艦隊に完敗してしまいます。 これによりナポレオンはイギリス本土上陸作戦を放棄せねばなりませんでした。12月2日「アウステルリッツの戦い」によってロシア・オーストリア連合軍を撃破し、翌年の10月14日「イエナ・アウエルシュテットの戦い」でプロイセン軍を破ってベルリンを占領します。この時に大陸封鎖令を発布、11月にはロシアに対して軍事行動を開始し、1807年2月8日「アイラウの戦い」でロシア軍を退却させました。6月にフランス軍は、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世を追撃してティルジット市を占領し、ティルジットの和約を結びます。 1812年、ナポレオンの率いる42万名のフランス軍がロシアに侵入、8月中旬にスモレンスクでロシア軍と交戦しますが、決戦にはいたらずロシア軍は市街を焼いて退却してしまいます。9月上旬の「ボロディノの戦い」でロシア軍は兵力の半数を失って後退し、16日にナポレオンはモスクワのクレムリン宮殿にはいりました。しかしロシア軍がモスクワに火を放ったため、市街は3日間燃え続けて焦土と化し、越冬の準備をしていないフランス軍はモスクワから退却するしかありませんでした。 軍規は乱れ、食料も不足していた退却中のフランス軍にコサック騎兵や農民のゲリラが襲いかかり、ナポレオンのロシア遠征軍は事実上ほぼ全滅してしまいます。これをきっかけにしてフランスの支配下にあった国々は一斉に反抗するようになりました。 1813年8月「ドレスデンの戦い」で反仏連合軍に敗れたフランス軍は、10月16日「ライプチッヒの戦い」でも退却するしかなく、翌年にはパリが陥落してしまいます。将軍たちが戦意を失っていることを知ったナポレオンは退位を決意すると所有を許されたエルバ島に逃れました。フランスではルイ18世が即位して王政復古が実現しますが、ブルジョワや農民たちには不人気であったため、再びナポレオンの登場となります。1815年3月、フランス東南部サン・ジュアン湾から上陸したナポレオンの一行は、グルノーブルで7千名の兵士、30門の大砲を持つ軍団となり、3千名以上の農民をしたがえていました。3月19日、 ブルボン王家はパリを離れ、再度皇帝となったナポレオンの「百日天下」が始まります。 6月16日の「リニーの戦い」でプロイセン軍を破ったフランス軍は、2日後の「ワーテルローの戦い」においてイギリス軍とプロイセン軍に大敗してしまい、パリに帰ったナポレオンは22日に再び退位するしかありませんでした。アメリカに亡命するつもりのナポレオンは、絶海の孤島であるセント・ヘレナ島に流されてしまいます。1821年、癌で亡くなったナポレオンの最後の言葉は「フランス、軍隊、先頭…」でした。 /「ワーテルローの戦い」へ戻る バージニアの名門の生まれであるロバート・エドワード・リーは、貴族らしい気品と軍人としての勇敢さと共に、指導者としての責任感と冷静さを併せ持っていました。メキシコ戦争に従軍したリーは、道徳的な見地から奴隷制に反対しており、リンカーン大統領から北軍の総司令官に推されたにもかかわらず、故郷のバージニア州が1861年に連邦を脱退すると連邦軍を辞めて郷里に帰ってしまいます。数日後には南部連合の陸軍長官となったリーは、南軍を率いて南北戦争を戦うことになりました。 戦闘中のリーは戦況が不利になると持ち前の冷静さを失うことがあり、自ら先頭に立って無謀な突撃を指揮しようとすることもありました。「スポットシルベニアの戦い」では見かねた兵士たちが一斉に「リー将軍、 後へさがって下さい!」と叫んで彼の向う見ずな前進を止めさせたこともあります。 1863年の「ゲティスバーグの戦い」で北軍に破れたのちも2年間なんとか戦い続けましたが、南部には北部のような人的、金銭的、物質的な資源が無く、1865年の4月にアポマトックスで降伏することになります。北軍の司令官グラントが示した降伏条件は、南軍の将校と兵士がもう戦わないという誓約にサインすること、兵士の武器は放棄するが、将校は携帯武器と馬の保持を認めるという寛大なものでした。リーは、 農耕のために一般の兵士が馬を連れ帰るのを許して欲しいと頼み、グラントはこれを認めます。南北戦争後のアメリカ再建のためには教育が最も大切だと考えたリーは、バージニアのワシントン大学の学長に就任し、 教育活動に余生を捧げました。 /「ゲティスバーグの戦い」へ戻る |