「戦術の世界史」人物解説(紀元前15世紀から紀元前5世紀)

トトメス3世(在位BC1458〜1425年)
近隣の征服に乗り出したエジプトのファラオの中では最も偉大な存在と言ってよいトトメス3世は、エジプトの新しい総合戦略を確立するうえで、他のいかなるファラオにもまして大きな功績をあげました。 トトメス3世の未成年期に摂政を勤めた女王ハトシェプスト(在位BC1473〜1458年)はひたすら内政だけに関心を向けたので、エジプトの北東国境はカデシュ王の指揮するパレスチナ諸国(カナン)連合軍に脅かされてしまいます。紀元前1458年に即位したトトメス3世はすぐに全軍を率いて危険な北東国境に出征し、「メギドの戦い」でカデシュ王を破り、メギドの町を攻略することに成功しました。トトメス3世はその治世のあいだに15回もシリア、パレスチナへ遠征します。これに匹敵する偉業を成し遂げたのは後のラムセス2世(在位BC1290〜1224年)だけでした。
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ラムセス2世(在位BC1290〜1224年)
ラムセス2世は、大王と呼ぶにふさわしいエジプトのファラオです。前の王朝から持ち越されていたヒッタイトとの対決のためパレスチナに遠征し、現在のレバノンにあるカデシュの戦闘で危機に陥りますが、卓越した勇気と戦闘指揮によって無事に切り抜けたのでした。ヒッタイトとの戦いはさらに16年も続き 、彼の統治21年目にしてやっと和平条約が結ばれます。 ラムセス2世は60年以上ファラオの位にあり、前半が戦争に明け暮れたのに対し後半の統治は平和なものでした。彼の統治した時代はエジプト帝国の広大な版図のほとんどを守ることができ、経済的にも栄えた黄金時代でしたが、彼のあとエジプト帝国は少しずつ衰退していくのです。
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サルゴン2世(在位BC721〜705年)
サルゴン2世がアッシリア帝国の王位についた時、帝国中には反乱の火の手が上がっていました。 サルゴン2世は彼以前の王たちと同じ様に近隣諸国の征服によってアッシリア帝国に新しい領土を加える努力をしましたが、それに劣らぬ努力が反乱の鎮圧や旧領土の奪還に必要でした。彼は統治の後半に都をカラからニネベ近くのドル・シャルルキーンに移します。10年間かけてそこに大規模な都市を建設しますが、彼自身は完成した都市でゆっくり過ごすこともなく戦場で殺されてしまいました。サルゴン2世の死後、アッシリア帝国の各地には再び反乱が頻発し、特にパレスチナとフェニキアはエジプト帝国と新たな同盟を結んでしまいアッシリア帝国には危険な状態になってしまいます。
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ミルティアデス(BC550年頃〜489年)
「マラトンの戦い」でアテナイのとった戦術は完璧でした。せっぱつまって大至急に立てた策が見事に功を奏したまれにみる例といえます。作戦を成功に導いたのは、有能で決断力にとむ将軍ミルティアデスでした。彼は以前にトラキアの植民市総督をしていたことがあるのでペルシャ軍の戦術には詳しかったのです。ミルティアデスは、ペルシャ軍の攻撃の前に出撃してマラトンの野で敵を迎え撃つよう、味方の将軍たちを説き伏せました。彼はアテナイの国土をできるだけ戦火から遠ざけ、味方の中から敵に内通するものが出るのを防ぎたかったのです。 ミルティアデスは「マラトンの戦い」で勝利するとそれを知らせるための伝令を急いでアテナイに送り、 自らはファレロン方面に向かうペルシャ軍に備えました。 スニウム岬をまわって再上陸をねらったペルシャ軍はここでもミルティアデスに先を越されてしまいます。 ついにアテナイ軍の優勢を認めたペルシャ軍はやぬなく故国ペルシャへ撤退しました。 ミルティアデスの送り出した伝令はマラトンからアテナイまでの35キロ以上を休みなく走り続け、アテナイに到着すると「勝利我が手にあり」の一言を残して息をひきとったということです。
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ダティス(?)
ペルシャ王ダリウス1世はエーゲ海諸島の攻略を目的とした艦隊を送り出しました。この航海を指揮するのがメディア人のダティスとダリウス1世の甥であるアルタフェルネスでした。 紀元前519年にサモス島を征服、続いてナクソス島、デロス島へ向かいます。紀元前499年にはエレトリア沖のエウボイア島にある神殿を破壊し、さらにアッティカ方面に進み、東岸のマラトンの野に上陸します。マラトン上陸はアテナイから追放された僭主ヒッピアスの手引きによって実現しました。ヒッピアスは彼の支援者たちからは歓迎されるはずだと言ってダティスを説得したのですが、現実にはそうはならず、マラトンでの戦闘に破れたダティスは事態を見抜くとさっさと撤退することにしたのです。
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クセルクセス1世(在位BC486〜465年)
ペルシャ王ダリウス1世の後継者であるクセルクセス1世は、父王から引き継いだ都ペルセポリスの建設整備工事を熱心に進めました。紀元前485年から484年まではエジプトに遠征して兄弟のアケメネスをエジプト総督に任命します。彼の率いるペルシャ軍はバビロニアの反乱を鎮圧したあとヨーロッパへと向かい、トラキア、マケドニア、ギリシャへと遠征していきました。 クセルクセス1世は「テルモピュライの戦い」ではギリシャ軍に勝利しましたが、紀元前480年9月のサラミス湾での海戦に大敗してしまいます。彼は軍の指揮をマルドニオス将軍に任せて小アジアに引き返しますが、紀元前479年の夏、「プラタイアイの戦い」においてマルドニオス将軍が戦死、助かった兵士たちは小アジアに撤退してしまいました。続いて同年8月、ミレトスに近いミュカレ岬でギリシャ海軍が勝利を治めるとクセルクセス1世のギリシャ遠征は完全に失敗に終ります。
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レオニダス(?〜480年)
レオニダスは伝説的な英雄となったスパルタ王です。彼は決死の覚悟を決めて臨んだ「テルモピュライの戦い」で壮烈な戦死をとげますが、彼の死体を奪いあうペルシャ軍とスパルタ軍の戦いがヘロドトスによって次の様に伝えられています。「レオニダスの死体をめぐって、いまやペルシャ軍とラケダイモン(スパルタの正式名称)軍との戦いはたけなわであった。敵を撃退すること前後4回、勇猛果敢なラケダイモン軍はついに王の遺体の奪回に成功した。」司令官を失ったギリシャ軍の必死の抗戦はまだ続きますが、もう兵力の残りはわずかでした。「剣あるものは剣で、剣折れたものは素手と歯で、彼等は最後まで戦った。さすがペルシャの荒武者どもも、この頑強な抵抗にはへきえきした・・・雨あられのような矢ぶすまでようやく最後の一兵のとどめをさした。」 この戦闘はスパルタの誇りとなり、伝説の戦いとして語り継がれることになります。
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キュロスBC427年頃〜401年)
キュロスは、ペルシャ王ダリウス2世の第2子に生まれ、小アジア西部地方の大守(サトラップ)になりました。母親のパリュサティスから支持を受けていたキュロスは、父王が死ぬと王位を継承した兄アルタ クセルクセス2世に対して反乱を起こします。2万名のギリシャ人傭兵を集めて進軍し、兄の軍勢と戦いますが、「クナクサの戦い」で戦死してしまいました。
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エパメイノンダスBC418年頃〜362年)
テーバイの政治家であり将軍でもあるエパメイノンダスは、紀元前371年にスパルタの平和会議に出席します。スパルタはこの会議において、テーバイがボイオチアの支配権を放棄するよう求めますが、エパメイノンダスはこれを拒否しました。これによりテーバイはスパルタと戦争状態となり、エパメイノンダス率いるテーバイ軍が、クレオンブロトスを司令官とするスパルタ軍とレウクトラで戦います。エパメイノンダスは見事な戦術でスパルタ軍を破り、その後の約10年間はテーバイがギリシャの指導権を握りました。その間にメッセニアをスパルタから解放してメッセネ市を建てたり、アルカディア同盟の中心となる都市メガロポリスを建設したりします。テッサリアに出兵し、アテナイに対抗するために海軍を編成してエーゲ海にも進出しました。紀元前362年、テーバイ軍はマンティネイアで再びスパルタ軍と戦い、 「レウクトラの戦い」の時と同じ戦術を使って再び勝利します。しかしながらエパメイノンダス自身はこの戦闘で、敵を追撃中に槍を受けて戦死してしまいました。
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