ポーランド王バディスワフ2世率いるポーランド・リトアニア連合軍 (3〜5万名、うち騎士は約2万名)
対 フォン・ユンギンゲン総長率いるドイツ騎士修道会軍(2万名以上、うち騎士は約1万5千名)
両軍の配置
ドイツ騎士修道会軍は前面に歩兵隊を置き、その後ろに3列からなる騎士の戦列を並べ、第3列目を予備軍に当てました。ドイツ騎士修道会軍は兵士の数で劣勢でしたが、大砲などの装備と経験や錬度ではポーランド・リトアニア連合軍に勝っていました。
ポーランド・リトアニア連合軍は右翼に3列(リトアニア軍)、左翼に2列(ポーランド軍) の戦列を並べ、これらの戦列の後ろに予備軍が置かれます。連合軍総司令官のバディスワフ2世は安全のため予備軍の中に止まりました。 左翼のポーランド軍の実際の指揮はクラクフの貴族であるマシュコビッチのツィンドラムが取り、右翼のリトアニア軍は後にリトアニア大公となるビタウタスが指揮を取ります。
戦闘経過
 ドイツ騎士修道会軍が午前9時までには戦闘準備を整えたのに対し、ポーランド・リトアニア連合軍は総司令官のバディスワフ2世が朝のミサを聞いていたので戦闘隊形をとることが出来ず、しびれを切らした ビタウタスは独断で指揮下のリトアニア軍に戦闘準備をさせました。マシュコビッチのツィンドラムもポーランド軍騎兵を集めて戦闘配置につけます。 正午ごろドイツ騎士修道会総長フォン・ユンギンゲンの2人の使者がポーランド国王バディスワフ2世を訪れて挑戦の口上を述べるとやっとポーランド軍は戦列を整え始めました。 戦闘は、連合軍右翼の士気の高いリトアニア軍の砲撃で開始されます。リトアニア軍の騎士隊と歩兵隊が前進を始め、対面する騎士修道会軍の歩兵と前2列の騎士たちも敵を迎え撃つために前方に進み出ます。両軍の激しい白兵戦が1時間ほど続いた後、さすがのリトアニア軍も疲れ始め、わずかに後退を始めました。騎士修道会総長フォン・ユンギンゲンは、すかさず新しい戦力をここへ投入します。劣勢になったリトアニア 軍は後退を続け、ついにはリトアニア全軍が崩れ始めました。 指揮官ビタウタスは隊形を整え直そうと必死になっています。そんな中でスモレンスク出身のロシア人部隊だけは前線に踏みとどまり勇猛果敢に戦い続けていました。彼等の存在と予備軍の投入によって、リトアニア軍はなんとか壊滅をまぬがれることが出来たのでした。 このころツィンドラム指揮の連合軍左翼のポーランド軍も苦戦しており、敵に押されてじりじりと後退していました。すでに騎士修道会軍の兵士の多くが逃走したリトアニア軍兵士を追撃して戦場を離れ、捕虜と戦利品の獲得に精を出しています。騎士修道会軍はすでに戦いに勝利したつもりのようでした。
 騎士修道会総長フォン・ユンギンゲンは戦闘の最後の仕上げにかかります。 左翼部隊の大半に敵の中央を攻撃させ、自らは壊滅寸前に見える敵軍右翼のリトアニア軍を攻めることにしました。この攻撃で騎士修道会軍の1部隊がリトアニア軍を突破することに成功、わずかな兵しか持たないポーランド国王をめざしていきます。頭にきたポーランド国王バディスワフ2世は、我が身の危険も顧みず 近づいて来る敵軍に向かって飛び出してしまいました。チェコ人兵士が王の馬のくつわを押さえて無謀なポ ーランド国王を止めたところは、敵軍のすぐ目の前でした。 ポーランド国王の姿を認めた騎士修道会軍も進むのを止めます。そしてこの時、1人の騎士修道会の騎士が前に進み出て槍を低く構え、単独で王に挑戦したのでした。 この騎士は一気にポーランド国王めがけて突進しますが、王の側近に槍で横腹を払われて落馬してしまいます。ポーランド国王が地面に倒れた敵の騎士に軽い一撃を与えると、周囲にいたポーランド軍歩兵が集まってきてこの騎士をなぶり殺しにしました。
 こうしてる間に逃走したはずのリトアニア軍の大半が態勢を立て直して戦場に戻って来ました。 そして再び連合軍の右翼に結集し、騎士修道会軍の背後に迫ります。ポーランド軍の指揮官ツインドラムは、 今が最後のチャンスとして予備軍をすべて戦闘に投入しました。この新手の戦力は、中央へ兵士を移動させたため手薄になっていた騎士修道会軍の左翼に襲いかかります。ポーランド国王バディスワフ2世自身もこの戦闘に加わり、危うくなっていたポーランド軍の士気を一気に上げることになりました。両翼で激しい戦闘が繰り広げられ、戦利品を抱えて戦場に戻ってきた騎士修道会軍の兵士たちも再び戦闘に加わりますが、 時はすでに遅く、今や騎士修道会軍は劣勢になっていました。 ついに騎士修道会軍の左翼が崩壊し、総長フォン・ユンギンゲンは敵軍に完全に包囲されてしまいます。この包囲に閉じ込められたのは、騎士修道会の総長をはじめ、軍務長官、地方分団長、管区長などの高位な騎士たちも多く含まれていました。彼等は数少ない兵士と共に最後まで戦い続けます。 総長フォン・ユンギンゲンと他の幹部たちは、希望どおりの華々しい戦死を遂げ、シュレージェンのコンラート公とシュテッティンのカージミール公は捕虜となりました。騎士修道会軍の右翼もポーランド軍に完全包囲されて同じように壊滅してしまいます。 午後6時ごろ、ポーランド・リトアニア連合軍の勝利は確実なものとなり、騎士修道会軍の騎士や兵士たちが逃走を始めました。しかし、その多くは追跡されて捕虜となるか薮や湿地のなかで殺されてしまったのでした。

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