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ハーバート・キッチナー率いるイギリス軍(2万5千名) イギリス軍には、イギリス人が訓練して指揮をとるエジプト人で構成された部隊がありました。またこのようなエジプト人部隊の中には、ダルウィーシュに敵対するスーダンの原住民で編成された歩兵大隊があり、 士気の高い優秀な部隊として知られていました。戦闘に備えてイギリス軍は、46門の大砲と多数のマキシム機関銃を用意し、ナイル川には重武装の砲艦10隻を浮かべました。 ダルウィーシュとは、スーダンの熱狂的なイスラム教徒(神秘主義的修道僧)のことです。イギリスの息のかかったエジプトの支配を嫌って反乱を起こし、スーダンの大部分を占領していました。 ハリーファ(後継者)と呼ばれる好戦的な指揮官に率いられたダルウィーシュ軍は、エジプトとの国境付近で、イギリス軍と小競り合いを繰り返します。業を煮やしたイギリス軍は、遂に反抗的なスーダン地域の鎮圧に乗り出しました。 1. 2日の早朝、偵察中のイギリス軍騎兵部隊が、前方8キロに展開しながら前進するダルウィーシュ軍を発見して戦闘が開始されました。ダルウィーシュ軍は、簡単な防御陣地で待機しているイギリス軍を見つけるとすぐに突撃していきます。イギリス軍の大砲は、敵軍が1800メートルまで近づくのを待って砲撃を開始し、さらに近づいた敵兵にはマキシム機関銃によつて猛烈な銃撃が浴びせられました。イギリス軍の歩兵部隊はリー・メトフォード・ライフル銃で武装しており、弾丸には数年後のジュネーブ条約で禁止されることになるダムダム弾を使用します。この弾丸は、命中すると粉々に砕けて、体の内部に治療が不可能なほどのひどい傷を負わせる殺人弾でした。決死の突撃をかけるダルウィーシュ兵たちの武器には、単発手動装填式レミントン銃とマルティニ・ヘンリー銃がいくらかありましたが、多くの兵士は槍を主な武器としています。勇猛なダルウィーシュ兵たちは、敵防御陣地の前方約450メートル付近まで進んだところで激しい銃撃にバタバタと倒れ、負傷者と死体の山を築き始めました。さすがのダルウィーシュ軍も、8時半頃にはオムドゥルマンに向って退却を始めます。 ![]() 2. イギリス軍の第21槍騎兵隊が、退却していく敵軍を追撃しますが、地面の深いくぼみに隠れていたダルウィーシュ軍に待ち伏せ攻撃をかけられてしまいました。約2千7百名のダルウィーシュ兵が縦12列の横隊を組んで、干上がった川底で待機していたのです。 彼等はイギリス軍の騎兵隊が90メートルまで近づくと、突如いっせいに立ち上がって戦闘を開始しました。 予想していない敵の出現に驚いたイギリス軍騎兵隊は、一瞬たじろぎましたが、すぐにスピードをあげて突撃していきます。地面にあいた400メートルほどの長さの溝の中で壮絶な白兵戦が展開されることになり、 ダルウィーシュ兵は敵の兵士や馬を槍で突き刺し、イギリス騎兵は情容赦なくサーベルで敵兵士を叩き斬りました。イギリス軍の騎兵隊は十分なスピードを持って突撃したので、ダルウィーシュ軍の横隊を突破することに成功します。隊形を立て直した彼等は敵の横隊の背後からも攻撃を開始したため、ダルウィーシュ軍はパニックとなり、戦列を維持できなくなってしまいました。ダルウィーシュ軍は敗走し始め、後にダルウィーシュ兵60名の死体と多数の負傷者を残していきます。イギリス軍第21槍騎兵隊は、このたった2分間の戦闘で将校5名、兵士66名、馬119頭を失いました。 ![]() 3. 10時15分頃、2波に別れたダルウィーシュの大軍は、ケレリ平原でイギリス軍第2スーダン人旅団を2方向から攻撃します。第2スーダン人旅団の指揮官ヘクター・マクドナルド中佐は、沈着冷静な態度で原住民兵士に複雑な機動展開を命じ、兵士たちは日頃の厳しい訓練のおかげでこの複雑な機動作戦を見事に成功させました。 ![]() イギリス軍のリンカーン連隊が援軍として駆けつけた時、第2スーダン人旅団はほとんど弾薬切れの状態でした。マクドナルド軍は、激しい銃撃のおかげでダルウィーシュ軍の突撃を押さえ、白兵戦を避けることが出来たのです。こうしてダルウィーシュ軍の攻撃は完全に失敗しました。 激しい戦闘がおさまると、スーダン人兵士たちは死んだ敵兵相手に略奪を始めます。まだ息のあるものを見つけるとたいていはその場で殺してしまいました。このような恥ずべき行為には、イギリス人兵士の幾人かも加わっていたのです。 この戦闘でのイギリス軍の死傷者は5百名以下、ダルウィーシュ軍の戦死者は1万1千名、負傷者は1万5千名程度でした。ロンドンの新聞「デイリー・メイル」は、この戦闘について「戦いというよりは、むしろ処刑である。」と報じます。 |