バトゥ、スブタイ率いるモンゴル軍(兵力約8万名) 対 国王ベーラ4世率いるハンガリー軍(兵力約10万名)
モンゴル軍の偽装退却
1241年3月15日、バトゥ率いる約4万名のモンゴル軍部隊はドナウ川まで進んだところで、対岸に陣どるハンガリーの大軍と遭遇しました。バトゥは進軍を停止し、シェイバンの率いる別動隊(約1万名)の合流を待ち、スブタイ率いる約3万名の部隊は少し離れたところにとどまっています。この時、ハンガリー軍は兵力で優勢ながらも陣営内部で意見の対立があって、ベーラ4世はすぐに戦闘を始めることが出来ませんでした。数週間後、シェイバンの別動隊が合流したにもかかわらず、モンゴル軍はすぐに撤退を始めます。敵が撤退し始めたことを知ったハンガリー軍は「これは勝てる」と思い込んで進軍を開始すると、東へ移動していくモンゴル軍を追っていきました。 しかしこのモンゴル軍の退却は、ハンガリー軍を陣地から誘い出し、あらかじめ決めてあった戦闘地点へ導くための方策だったのです。ハンガリー軍はモンゴル軍を追って、サヨ川とヘルナッド川の合流地点の近くにあるモヒ平原に到着しましたが、そこは約10万名のハンガリー軍の陣地としてはあまりに狭いところでした。 戦闘経過
 4月10日、リーグニッツでの勝利を知ったバトゥはその晩に行動を開始しました。まずスブタイの率いる部隊が北へ向かい、サヨ川を渡ってハンガリー軍の側面を迂回して敵の背後から攻撃しようとします。しかしスブタイ軍は川の浅瀬を見つけることが出来ず、工兵部隊が橋をかけることになりました。 夜明け近く、バトゥの部隊はサヨ川のハンガリー軍陣地に近い石橋に接近して戦闘が開始されます。この石橋は狭く、1度に数名の騎兵しかわたることが出来なかったので、バトゥ軍は前進できなくなりました。 ハンガリー軍は、ここでモンゴル軍を阻止できるようにも見えましたが、バトゥが7台の投石機(カタパルト)を投入すると戦況が変わります。「雷鳴のようなとどろきと炎のきらめきをともなった」投石機の砲撃によってハンガリー軍が後退を始めると、モンゴル軍の主力部隊が次々と橋をわたっていきます。約4万名のバトゥ軍はついに対岸へわたりましたが、10万名以上のハンガリー軍と正面から戦うことは到底出来ませんでした。
 ハンガリー軍の騎兵隊は波状攻撃を何度も繰り返し、モンゴル軍は投石機と激しい弓矢の攻撃で彼らを押し戻します。数時間の戦闘の後、バトゥは疲れてきたモンゴル軍を川岸に後退させ、1列横隊に展開させました。ハンガリー軍が次の攻撃を準備している間に、モンゴル軍は巨大な半円隊形をつくります。 その隊形がハンガリー軍を包み込むように展開したその時、やっと川を渡ったスブタイ軍が戦場に到着しました。スブタイ軍はハンガリー軍の背後で、バトゥ軍と同じ様な半円隊形に展開するとゆっくりと敵を包囲していきます。前後から包囲されたハンガリーの全軍は、今やモンゴル軍の狩りの獲物となってしまいました。モンゴル軍は、包囲されて密集したハンガリー軍兵士たちに、情け容赦なく矢の雨を浴びせ始めます。ハンガリー軍の司令官ベーラ4世は、騎兵を突撃させて包囲を破ると全軍を退却させようとしますが、モンゴル軍のスブタイはこれを許しませんでした。 ハンガリー軍の陣地は焼き払われ、戦意を無くしたハンガリー軍兵士はモンゴル軍の重騎兵の剣で斬り殺されます。ハンガリー軍の一部は峡谷を抜けてペストの町に逃れようとしますが、モンゴル軍の軽騎兵に追撃されてしまい、ペストの町までの街道には「まるで石切り場の石のように」ハンガリー軍兵士の死体が散乱していたと記されています。ハンガリー軍の司令官ベーラは敵の追撃を振り切って、サヨ川を泳いで渡ると対岸の森から隠れ家へと逃れました。 この戦闘でのハンガリー軍の戦死者は6万名とされています。