スルタン、アルプ・アルスラーン率いるセルジュークトルコ軍 対 皇帝ロマヌス4世率いる東ローマ帝国軍
セルジュークトルコ軍について
セルジュークトルコ軍の兵力は、騎兵4万名、マムルーク(奴隷軍人)4千名、志願兵1千名でした。 アルプ・アルスラーンは、全軍を4隊に分けて戦闘を開始します。東ローマ軍に比べると将軍たちは優秀でしたが、兵力では明らかに劣勢でした。 東ローマ(ビザンチン)帝国軍について
3千台もの車両で構成された大規模な軍需品の輸送隊や、移動に1200名の人力が必要な巨大な投石機(マンジャニーク)などの立派な装備を用意していましたが、兵士の多くは種々雑多な民族(ブルガリア人、フランク人、ノルマン人、トルコ系遊牧民など)の傭兵たちでした。東ローマの正規軍は、装備も馬も満足に持たない実に貧相な状態で、往年の重装騎兵部隊(カタフラクト)は過去のものとなっていました。 戦闘配置は、左翼にニケフォロス・ブリュエンニオス率いるルメリア軍団が配置され、中央軍はロマヌス皇帝自身が指揮し、右翼にはトルコ系のグズ族の部隊が置かれます。また中央軍の後方にはアンドロニコス王子の後衛部隊もありました。 戦闘経過
 セルジュークトルコ軍を率いるアルプ・アルスラーンは、自軍が兵力でずっと劣勢であるために東ローマ皇帝ロマヌス4世に和平を申し出ますが、交渉は決裂して決戦が行われることになりました。 東ローマ軍がマンジケルト平原に到着した時、セルジュークトルコ軍はすでに周辺の丘を占拠して敵を見下ろせる有利な位置に布陣しています。 8月25日、セルジュークトルコ軍の騎兵隊が、イスラムの神アッラーの名を大声で叫び、ラッパを鳴り響かせ、 太鼓を打ち鳴らし続けるなかで両軍は戦闘準備を始めました。次の日の早朝、東ローマ軍のトルコ系部族の傭兵たちの一部が、セルジュークトルコ軍に逃亡しますが、まだまだ東ローマ軍の方が兵力では優勢です。 アルプ・アルスラーンは金曜日の礼拝を行うと、兵士たちに「全世界のイスラム教徒が我らの勝利を祈っている」と演説して彼等の士気を高めました。セルジュークトルコのスルタンは、トルコ人の習慣に従って馬の尻尾を結ぶと、弓を肩に掛け、鎚矛を手に持って自軍の中央で全軍の指揮をとることにします。
 戦闘はセルジュークトルコ軍の攻撃で開始されました。アルプ・アルスラーンは4つに分けた部隊のうち2つを出撃させ、敵の左翼と右翼をそれぞれ攻撃させたのです。数で劣勢なはずのセルジュークトルコ軍から攻撃を受けるとは思っていなかった東ローマ軍の両翼は、完全な奇襲を受けてしまいました。そのころ東ローマ軍の中央軍は前進を開始し、セルジュークトルコ軍の中央に迫ります。これを見たアルプ・アルスラーンは中央の2隊に後退を命じ、ロマヌス皇帝率いる東ローマ軍の中央軍はこれを追ってさらに前進していきます。後方にさがって行ったセルジュークトルコ軍の2隊が左右に分かれて反転し、激しい戦闘を開始すると、ロマヌス皇帝は自軍が敵の包囲網の中に入り込んでしまったことに気がつきました。 東ローマ軍の後衛部隊を指揮するアンドロニコス王子は中央軍が敵軍に包囲されたのを見ると、「皇帝は戦死した」というデマを流して早々に戦場から脱出していきます。これをきっかけに東ローマ軍の兵士たちは先を争って戦場から離脱していき、全軍が壊滅状態になりました。
東ローマ軍の中央軍は暗くなるまで戦い続けますが、大勢の兵士たちが刀で斬り殺され、多くの将軍たちと共に皇帝までもが捕虜となり、奴隷のしるしである耳輪をつけられてしまいます。 勝利したセルジュークトルコのスルタン、アルプ・アルスラーンは、寛大にもロマヌス皇帝を自由の身にすると和平を結んで帰国させてやります。しかしながら国に帰ったロマヌスは、コンスタンチノープルで毒を盛られて失明し、投獄されて死亡してしまいました。

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