![]() ![]() ゲティスバーグは、鉄道と12本もの道路の合流点になっており、両軍にとって集結や補給が簡単に出来ました。両軍とも新しい部隊を迅速に戦場に送りこむことが可能だったのです。 南北戦争中最大の会戦「ゲティスバーグの戦い」は、両軍の指揮官が遠くにあってこの地での決戦を望まなかったにもかかわらず、なりゆきで戦闘が開始されてしまったのでした。 1. 7月1日、早朝の午前5時頃、ゲティスバーグの西方で南軍の歩兵が北軍の騎兵に発砲して「ゲティスバーグの戦い」は始まりました。北軍の第1騎兵師団はスペンサー式7連発カービン銃で武装しており、機動力として馬を使いますが、戦う時は馬から降りて歩兵として戦いました。彼等は騎兵4個大隊の兵力で南軍の2個旅団を阻止することに成功します。 その間にゲティスバーグにつながる多くの道路を利用して両軍の増援部隊が続々と到着しました。午後になると南軍の総司令官リー将軍がゲティスバーグに到着します。そのころ、南軍の歩兵隊はゲティスバーグの町の西と北にある尾根の攻防戦で優勢でした。北軍は指揮官のジョン・レノルズ少将をこの戦いで失ってしまいます。北軍の総司令官ミードは新しい指揮官にウィンフィールド・スコット・ハンコック少将を急遽任命しました。優れた戦術家であった彼は、すぐにゲティスバーグ南方の高台に防衛線を構築し始めます。 守備隊はカルプス・ヒルの小山に置き、すぐ近くのセミタリー・ヒルとセミタリー・リッジの防備を固めて、 ラウンド・トップとリトル・ラウンド・トップという2つの小さな丘にも兵を配置しました。この全長4キロの防衛線は味方同士の連絡が容易なことから極めて効果的に戦えるものでした。 ![]() 2. 北軍の兵士たちが塹壕を掘る前に攻撃しなければならないと考えた南軍のリー将軍は、部下のリチャード・ユーエル中将にセミタリー・ヒルの攻撃を命じますが、ユーエル中将は自軍の疲労と損害を過大に評価して、その日は攻撃を行いませんでした。 夜中になってやっと北軍の総司令官ミードが戦場に到着します。彼は情況を把握するとハンコック少将の定めた陣地をすぐれたものとしてこのまま守り続けることにしました。 翌7月2日、南軍は早朝に攻撃をかける予定でしたが、戦闘態勢を整えるのに手間取ってしまい午後の4時過ぎになってやっと準備ができます。そのころ、北軍では敵が攻撃を予定している、まさにその地点で軍の配置を不利な形に変えてしまっていました。セミタリー・リッジの南端とリトル・ラウンド・トップとラウンド・トップに配置されていた兵力をダン・シクルズ少将が独断で前方に移動させてしまったのです。 ![]() 3. 今や無防備になったリトル・ラウンド・トップの岩の斜面に向かって南軍が前進を開始しますが、たまたまこの丘の頂上にいた北軍の通信兵がいちはやく敵軍の動きを報告し、ちょうど偵察に来ていたウォーレン准将がこれを確認します。南軍がリトル・ラウンド・トップを占領すればセミタリー・リッジ全体が敵の射程内に入ってしまうことに気付いたウォーレン准将は、すぐに数隊の兵力を丘の頂上へ送ります。 ジェイムズ・ロングストリート中将率いる南軍の攻撃はリトル・ラウンド・トップの西側の森と野原で強行されました。ここで戦われた4時間の戦闘は南北戦争中で最も熾烈なものとなります。この南軍の攻撃は極めて猛烈なものでしたが、結局、失敗に終ってしまいました。北軍の総司令官ミードが戦闘中に危険になった箇所に巧みに部隊を移動させたため、南軍はついに北軍の陣地を突破することは出来なかったのです。 そのころ北側でも弱腰のユーエル中将がやっと攻撃を開始しましたが、北軍の増援部隊に撃退されてあっけなく失敗してしまいます 。 ![]() ![]() 5. 7月4日のアメリカ独立記念日の夕刻、南軍総司令官のリー将軍は完全撤退する決意をします。 北軍は7月5日の昼頃まで南軍の撤退に気が付かず、また気付いても積極的に南軍を追撃して決戦を強いることはありませんでした。「ゲティスバーグの戦い」はアメリカ国内で戦われた戦闘としては最大規模のもので、犠牲者数も最も多くなりました。北軍の死傷者、捕虜、行方不明者の合計は約2万3千名、南軍は約2万7千名になります。 |