ジョージ・ミード将軍率いるポトマック軍(北軍)  対  ロバート・E・リー将軍率いる南部連合軍(南軍)
ゲティスバーグについて
ゲティスバーグは、鉄道と12本もの道路の合流点になっており、両軍にとって集結や補給が簡単に出来ました。両軍とも新しい部隊を迅速に戦場に送りこむことが可能だったのです。 南北戦争中最大の会戦「ゲティスバーグの戦い」は、両軍の指揮官が遠くにあってこの地での決戦を望まなかったにもかかわらず、なりゆきで戦闘が開始されてしまったのでした。 戦闘経過
 7月1日、早朝の午前5時頃、ゲティスバーグの西方で南軍の歩兵が北軍の騎兵に発砲して「ゲティスバーグの戦い」は始まりました。北軍の第1騎兵師団はスペンサー式7連発カービン銃で武装しており、機動力として馬を使いますが、戦う時は馬から降りて歩兵として戦いました。彼等は騎兵4個大隊の兵力で南軍の2個旅団を阻止することに成功します。 その間にゲティスバーグにつながる多くの道路を利用して両軍の増援部隊が続々と到着しました。午後になると南軍の総司令官リー将軍がゲティスバーグに到着します。そのころ、南軍の歩兵隊はゲティスバーグの町の西と北にある尾根の攻防戦で優勢でした。北軍は指揮官のジョン・レノルズ少将をこの戦いで失ってしまいます。北軍の総司令官ミードは新しい指揮官にウィンフィールド・スコット・ハンコック少将を急遽任命しました。優れた戦術家であった彼は、すぐにゲティスバーグ南方の高台に防衛線を構築し始めます。 守備隊はカルプス・ヒルの小山に置き、すぐ近くのセミタリー・ヒルとセミタリー・リッジの防備を固めて、 ラウンド・トップとリトル・ラウンド・トップという2つの小さな丘にも兵を配置しました。この全長4キロの防衛線は味方同士の連絡が容易なことから極めて効果的に戦えるものでした。

 北軍の兵士たちが塹壕を掘る前に攻撃しなければならないと考えた南軍のリー将軍は、部下のリチャード・ユーエル中将にセミタリー・ヒルの攻撃を命じますが、ユーエル中将は自軍の疲労と損害を過大に評価して、その日は攻撃を行いませんでした。 夜中になってやっと北軍の総司令官ミードが戦場に到着します。彼は情況を把握するとハンコック少将の定めた陣地をすぐれたものとしてこのまま守り続けることにしました。 翌7月2日、南軍は早朝に攻撃をかける予定でしたが、戦闘態勢を整えるのに手間取ってしまい午後の4時過ぎになってやっと準備ができます。そのころ、北軍では敵が攻撃を予定している、まさにその地点で軍の配置を不利な形に変えてしまっていました。セミタリー・リッジの南端とリトル・ラウンド・トップとラウンド・トップに配置されていた兵力をダン・シクルズ少将が独断で前方に移動させてしまったのです。

 今や無防備になったリトル・ラウンド・トップの岩の斜面に向かって南軍が前進を開始しますが、たまたまこの丘の頂上にいた北軍の通信兵がいちはやく敵軍の動きを報告し、ちょうど偵察に来ていたウォーレン准将がこれを確認します。南軍がリトル・ラウンド・トップを占領すればセミタリー・リッジ全体が敵の射程内に入ってしまうことに気付いたウォーレン准将は、すぐに数隊の兵力を丘の頂上へ送ります。 ジェイムズ・ロングストリート中将率いる南軍の攻撃はリトル・ラウンド・トップの西側の森と野原で強行されました。ここで戦われた4時間の戦闘は南北戦争中で最も熾烈なものとなります。この南軍の攻撃は極めて猛烈なものでしたが、結局、失敗に終ってしまいました。北軍の総司令官ミードが戦闘中に危険になった箇所に巧みに部隊を移動させたため、南軍はついに北軍の陣地を突破することは出来なかったのです。 そのころ北側でも弱腰のユーエル中将がやっと攻撃を開始しましたが、北軍の増援部隊に撃退されてあっけなく失敗してしまいます 。
 7月3日の早朝には北軍が、ユーエル中将の南軍部隊に奇襲攻撃をかけて彼等を北側の戦闘拠点から追い出してしまいます。南軍総司令官のリー将軍は、敵を北と南から同時にはさみ撃ちにしようと計画していたのですが、北軍の奇襲攻撃の成功でこの作戦は不可能になりました。 リー将軍はしかたなく北軍の中央に攻撃をかけることにしますが、ロングストリート中将は成功する見込みが無いとしてその攻撃に強く反対します。しかしリー将軍は彼の意見に納得しませんでした。 ロングストリート中将は攻撃準備に長い時間をかけ、午後1時になって初めて150門の大砲にセミタリー・リッジを攻撃させます。北軍も80門の野砲でさっそく応戦しました。 砲撃は2時間続きましたが、戦況に変化はありません。南軍に砲弾が無くなってきたころ、ピケット将軍率いる南軍の突撃隊(1万5千名)が隊列を組んで、見晴らしのいい2キロ足らずの田園を整然と進みます。 彼等はセミタリー・リッジに配置された北軍の兵士たちには格好の標的となりました。 北軍のライフル銃は情け容赦の無い無慈悲な斉射を浴びせかけ、北軍の野砲が無数の散弾をまき散らすその中を南軍の兵士たちは進み続けました。北軍の防御線に生きてたどり着き、さらに突入できた南軍兵士は約150名ぐらいで、その先頭には、軍帽を付けた剣を振りかざしたルイス・アーミステッド准将がいます。しかし幸運で勇敢な彼の命も、もはやここまででした。 ピケット将軍の突撃隊がほぼ全滅したことにより、南軍はもはや攻撃を続けることは不可能であると判断して退却を始めます。戦場に約7千名の死傷者を残したままの退却でした。

 7月4日のアメリカ独立記念日の夕刻、南軍総司令官のリー将軍は完全撤退する決意をします。 北軍は7月5日の昼頃まで南軍の撤退に気が付かず、また気付いても積極的に南軍を追撃して決戦を強いることはありませんでした。「ゲティスバーグの戦い」はアメリカ国内で戦われた戦闘としては最大規模のもので、犠牲者数も最も多くなりました。北軍の死傷者、捕虜、行方不明者の合計は約2万3千名、南軍は約2万7千名になります。

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