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6世紀から12世紀の戦い 東ローマ帝国のナルセス将軍率いる東ローマ帝国軍 対 フランク軍(8万名) フランク軍は徒歩部隊で、突撃力の強い縦深のある一縦隊になって攻撃しました。使用する武器は近接戦闘用の槍、投斧、剣などでした。 ナルセス率いる東ローマ軍は中央部に徒歩の槍兵と弓兵を配置して戦いに臨みましたが、フランク軍の突撃を支えることが出来ず、徐々に押し返されてしまいます。そこでナルセスは騎兵隊を出撃させ、フランク軍の左右両側面に大きく回り込ませました。これによってフランク軍の前進は止まり、左右に向きを変えて東ローマ軍の騎兵突撃に対抗する構えをとります。ナルセスはフランク軍の隊形が堅固で騎兵は突破できないであろうと考えていたので、騎兵隊には前もってある程度の距離以上、敵に近づかないよう命じていました。 次にナルセスは騎兵隊をフランク軍の投斧の射程ぎりぎりのところまで前進させ、弓矢で攻撃するように命じます。大量の矢がフランク軍の縦隊に降り注ぎ、密集隊形を保てなくなったフランク軍は後方に撤退を始めました。ナルセスはこの機を逃さず、敵軍の中央に向かって騎兵を突撃させます。この絶妙なタイミングの攻撃はフランク軍を完全に粉砕し、ほとんど一人の敵も逃しませんでした。 / 4世紀へ /ホームページへ エゼルレッド率いるサクソン軍 対 デーン人(バイキング) デーン人の軍勢は二手に別れており、左翼はヘアルフデネとバグセッジの二人の王が率いる部隊で構成され、 右翼はハロルドやシドロックなどの族長や首長が率いる部隊で構成されていました。 サクソン軍より高地の、丘陵地斜面の下ばえが短く密集した有利な位置を占めたデーン人たちは、夜明けとともに整然とした隊形を組んで斜面を下り始めました。デーン人たちが戦闘態勢に入ってもサクソン軍の司令官であるエゼルレッドはテントの中でミサを聞いており戦闘の指揮を取ろうとはしませんでした。優勢なデーン人たちがサクソン軍を押し返し始めたのを見て、指揮官エゼルレッドの弟アルフレッドは兄の命令を待たず、サクソン全軍に攻撃の合図を出しました。アルフレッドは自ら先頭に立って斜面上方のデーン人たち目がけて突進します。デーン人たちは弓矢で応戦しましたが、サクソン軍はひるむことなく激しい白兵戦に突入しました。このころやっとミサの終わった指揮官エゼルレッドも戦場に到着して戦闘に加わります。 タイミングの良いエゼルレッドの参戦が形勢を逆転させたらしく、デーン人たちは戦線を離脱し始め、ついには敗走してしまいます。 彼等が去った後、広大な戦場には何千という死体が横たわっていました。デーン人の王バグセッジ、族長のハロルドやシドロックも戦死し、逃亡をはかった敗残兵は全て追跡されて斬り殺されました。 ユースフ・イブン・ターシュフィーン率いるムラービト朝イスラム教徒軍 対 レオン王アルフォンソ6世率いるキリスト教徒連合軍 ゲレーロ川の両岸にそれぞれ陣をしいた両軍は、3日後にイスラム教徒軍がキリスト教徒軍の前衛であるアンダルシア軍を攻撃して戦闘を開始しました。まもなくアンダルシア軍は潰走を始めますが、ユースフは「彼等は全て我々の敵である」と言って逃走する兵士を全て虐殺させます。そうしてる間にアルフォンソ率いるキリスト教徒軍主力部隊が突撃を開始、イスラム教徒軍の最前線に襲いかかりました。ユースフは最前線を支えるためにモロッコ軍を派遣すると、自らはサハラ軍を連れて戦場を大きく迂回し、キリスト教徒軍を背後から攻撃することにします。前後からの攻撃にもかかわらずキリスト教徒軍はよく戦い、さらに蹴散らしたはずのアンダルシア軍の多くが再び戦場に戻ってきたので、ユースフは最後の切り札である自分の護衛部隊を戦闘に投入しました。巨大なインド刀を持ち、カバの皮を張った盾で武装した黒人4千名の精鋭部隊は、群がる敵兵士をなぎ倒しながらキリスト教徒軍の司令官アルフォンソを目指して進んでいきます。 激戦の末、アルフォンソは脚を負傷し、大量の出血のために気絶しましたが、部下の兵士たちによって戦場から脱出できたので命は助かりました。 キリスト教徒軍兵士の首が山のように積み上げられた戦場では、勝利者であるイスラム教徒軍兵士が礼拝をとりおこない、キリスト教徒軍は恐れるに足りないことを示すために、大量の首がスペインやマグリブの主要な都市に送られます。この勝利に対して敬虔なイスラム教徒は、神への感謝のしるしに喜捨を与え、奴隷を解放したのでした。 エジプトのスルタン、サラディン率いるイスラム教徒軍(約2万5千名) 対 エルサレム王ギー率いる十字軍(約2万3千名) 7月2日、サラディン率いるイスラム教徒軍が、湖に面したティベリアスの町を攻撃します。この知らせを聞いたエルサレム王ギーと十字軍指揮官たちは、炎天下の荒地を水の補給も無いまま行軍して町に向かうことにしました。3日、先頭にホスピタル騎士団が進み、最後尾をテンプル騎士団が守る十字軍の行軍が開始されます。異常なほどの酷暑の中、15キロの距離を進んだ十字軍兵士たちは、予想通りの熱気と渇きに苦しんでいました。道の途中にあるハッティーンの丘の麓にあるはずの井戸は、強烈な暑さのために涸れてしまい、1滴の水も残っていませんでした。ハッティーンの丘の上で夜営することになった十字軍兵士たちは、 乾いてひりひりと痛む口の中に無理やり食料をねじ込み、渇きのため眠れない夜をすごします。このような十字軍の様子は、イスラム軍の偵察隊によってずっと監視されていたのでした。 翌朝、再び行軍を始めた十字軍の長い1列縦隊が、ハッティーンの丘を東に抜けると、後衛のテンプル騎士団めがけて無数の矢が襲いかかります。風上に潜んでいたイスラム兵が乾いた草に火をつけると、煙と炎が十字軍の隊列に向かって迫っていき、イスラムの軽装騎兵隊7千名が次々と姿を現わしました。今や完全に包囲されてしまった十字軍の隊列は至る所で寸断され、勇敢なテンプル騎士団も反撃することができません。 この戦闘で十字軍兵士の約半数が戦死し、エルサレム王、トランス・ヨルダンの領主、騎士団の総長などを含む多数が捕虜となりました。悪名高いトランス・ヨルダン領主ルノー・ド・シャティヨンは、サラディン自らの刀で首を落とされ、テンプル騎士団とホスピタル騎士団の百名の騎士たちもイスラム軍兵士によって処刑されます。恐れおののくエルサレム王ギーには、クッションがすすめられ、ヘルモン山の雪で冷やしたバラの香水入りシャーベットが与えられます。サラディンは彼に言いました「王は王を殺しはしません」。 |