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第7代スルタン、メフメット2世率いるオスマントルコ軍(約12万名) オスマントルコ軍は、スルタン直属の常備軍であるイエニチェリ軍団(歩兵隊)が中心でしたが、騎兵隊はバルカンの騎兵軍とアナトリアの騎兵軍などで構成されていました。 コンスタンチノープルの攻撃に備えて、オスマントルコ軍は3つに分かれて布陣します。総司令官のメフメット2世が率いる中央軍(イエニチェリ軍団)はカリシウス門と聖ロマノス門との間の城壁に面して配置され、それより北にはバルカンの軍管区長官カラジャ・パシャ率いるバルカン騎兵軍が左翼軍として置かれました。また、中央軍の南側にはアナトリアの軍管区長官イスハク・パシャ率いるアナトリア騎兵軍が右翼軍を構成していました。これら主力軍の後方に不正規軍が置かれており、ザガノス・パシャ率いる1隊がコンスタンチノープルと金角湾を隔てたガラタ地区の背後に布陣していました。メフメット2世は大砲の多くを中央軍に面した城壁に向け、聖ロマノス門付近にはハンガリー人の技術者ウルバンに特別に造らせた巨砲をすえつけました。 ![]() 1. 4月6日、戦闘は城壁に対するオスマントルコ軍の砲撃で開始されますが、イエニチェリ軍団の歩兵たちが突入できる開口部を城壁に開けることは出来ず、破損箇所はビザンチン軍によってすぐに修理されてしまいます。12日からはウルバンに造らせた巨砲による本格的な砲撃が始まり、18日には城壁に突入口を開けることに成功して、第1回目の突撃が行われたのですが、これは完全な失敗に終わってしまいました。20日にはローマ教皇の援軍を乗せたジェノア船が金角湾に逃げ込むことを許してしまい、オスマントルコ軍には全くの戦況不振でした。 ![]() 2. 4月21日の夜、入口に鉄鎖を張って封鎖してある金角湾側からも攻撃するため、メフメット2世は オスマントルコ海軍の艦船をボスポラス海峡から一旦陸上に運びあげて移動させ、再び金角湾内に降ろすということに成功します。翌22日の夜間にはビザンチン軍が反撃にでて、オスマントルコ艦隊を焼き打ちにしようとしましたが失敗に終わりました。これによってオスマントルコ艦隊は、比較的貧弱な金角湾側の城壁を攻撃することが出来るようになり、金角湾に浮橋を仮設して、橋上から城壁に砲撃を加えることも行われました。 ![]() 3. 5月6日、聖ロマノス門近くの城壁にオスマントルコ軍の総攻撃がかけられますが、またも失敗してしまいます。5月12日、今度はカリシウス門北側の城壁に総攻撃が試みられますが、ビザンチン軍の守りは固く、これも失敗してしまいました。また市内に突入するために地下道を掘るということも行われましたが、やはり成功しませんでした。 5月29日の早朝、オスマントルコ軍最後の総攻撃が始まります。第1次攻撃が2時間、続いて第2次攻撃が1時間半行われますが、ビザンチン軍はよく持ちこたえました。第3次攻撃は、メフメット2世の本営のある聖ロマノス門方面で開始され、イエニチェリ軍団が総攻撃にかかります。対するビザンチン側も皇帝コンスタンチヌス11世自身が指揮をとって防戦にあたりました。イエニチェリ軍団の精鋭達は激しい攻撃を繰り返して、やっと城壁の崩れ目から城内に突入することに成功します。防衛線は崩れ、城内は混乱の極みに達しました。イエニチェリ兵たちは城壁上のビザンチン軍守備兵に襲いかかり、これを倒します。メフメット2世は手に持った鉄の鎚矛を振りかざして馬上から督戦し、コンスタンチヌス11世は街頭で味方を呼び集めて、殺到する敵を食い止めようと必死でした。しかし、激しい混戦のなかでビザンチン帝国最後の皇帝は遂に戦死してしまいます。倒れているコンスタンチヌス11世に気づきもしないイエニチェリ兵達は、ビザンチン皇帝の死体を踏み越えて進んで行きました。 ![]() 4. 聖ロマノス門付近の激戦が終わると、オスマントルコ軍の兵たちは、たちまち全市街を駆け巡ります。はじめのうちは出会う者たちすべてを狂ったように斬殺しましたが、敵の抵抗がないことに気づくと、今度は手あたりしだいに捕えて数珠つなぎに縛りあげました。 メフメット2世は聖ソフィア寺院の大会堂に入ると、部下たちに虐殺や破壊を止めるよう命じ、1人のイスラム学者を呼んで壇上でコーランを読唱させます。スルタン自らも祭壇にあがってアッラーへ祈りを捧げると、聖ソフィア寺院はイスラムの礼拝堂に変わり、コンスタンチノープルはオスマントルコ帝国の都となったのでした。 |