「戦術の世界史」もっと詳しく紀元前3〜紀元4世紀
いつの時代においてもローマ軍の騎兵隊は貧弱でした。
カンネーでハンニバルと戦った際には戦場の外へ誘き出されて、自軍の大敗北を招きましたし、
「ピュドナの戦い」ではわずか600名の騎兵しか準備できませんでした。
それから25年ほど経つと、ローマ軍にはローマ市民による騎兵隊が無くなってしまい、
必要な騎兵は現地(ガリア、ゲルマニア)で徴集して協力的な地元の指揮官に指揮を任せるようになりました。カエサルはローマ帝国の内戦においても、ガリア人やゲルマニア人の騎兵隊を使います。
ゲルマニアの騎兵たちは、激しい戦闘で馬がおじけづかないようにしっかりとたてがみを掴み、
周りの歩兵たちに混じって戦いました。このような軽装歩兵と騎兵との混合部隊は、
後に「騎兵大隊」として正式な戦闘部隊となります。これは500名か1000名の兵士からなる大隊で、4分の3が歩兵、4分の1が騎兵で構成されていました。
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ケルト人のうち、現在のフランス、ベルギー、北イタリア、
ドイツ西部の一部などに住んでいた幾つかの部族がガリア人と呼ばれます。
彼らの主な武器は鉄剣で、鉄のかたまりをゆっくりと時間をかけて
長くのばした刀身の両側に軟鉄を溶接して、鋭利な刃をつくりあげました。
剣の鞘も鉄製で、すかし彫りの入った青銅の薄い板を鋲で張り付けてあります。
兜は角やラッパのような奇妙な飾りを付けたものが主流でした。
部族の象徴である旗印には野生の動物を模したものが多く使われ、
ガリアの国民的象徴であるイノシシが特に好まれたようです。
2世紀ごろにウラル地方の草原地帯に現われたフン族は、
トルコ系かモンゴル系の遊牧・騎馬民族と考えられています。
370年頃に東ゴート族の領土に侵入し、ゲルマン民族の大移動を引き起こしました。
5世紀のはじめ、ルス王の時代にはハンガリーを中心に
北はドイツ、ポーランドから南はカフカースまでをフン族の領土とします。
次のアッティラ大王の時代にはライン川を越えてガリア地方に侵攻、イタリアにまで侵入しますが、
ローマを目の前にして撤退しました。これはアッティラがローマ教皇レオ1世の和平提案を莫大な貢納金と共に受け入れたためです。またこの時はアッチラにもそれなりの事情がありました。
イタリアでの慣れない暑さと疫病の流行がアッティラの軍隊を苦しめていたのです。
4世紀末のローマの歴史家アンミアヌスは、フン族の戦闘方法を次のように記述しています。
「戦闘においては、彼等は恐ろしい叫び声をあげて敵に襲いかかる。抵抗があるとみるや、彼等は四散するが、ふたたび同じ速力をもって舞い戻り、途中で出会うすべてのものを破壊し打ち倒す。ただし、彼等は要塞に梯子をかけて攻略するすべを知らず、塹壕をめぐらした野営陣地を襲うこともできない。しかし、彼等が矢を投げかけるたくみさは、比べるものがないほどである。その矢にはとがった骨がつけてあり、その硬くて危険なことは鉄でできているのと同じである。彼等は、その矢をおどろくほどの遠距離から射かけてくる。」
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フランク族は、1世紀頃にヴェーゼル川とライン川の間で幾つかのゲルマン人小部族が
混合してできた集合部族でした。3世紀にラインのローマ国境を越えてガリア地方に侵入、
ネーデルラント、ライン川下流域一帯に進出します。
5世紀にはヒルデリヒ王がローマの将軍アエギディウスと組んで、西ゴート族、アラン族、
サクソン族らと戦い、その子のクローヴィスによってフランク王国が建設されました。
600年頃までのフランク族は、斧を武器として特に愛用します。
フランシスクと呼ばれる投斧は使うのが極めて難しい武器で、
回転して飛んでいく斧を目標に命中させるにはかなりの熟練が必要でした。
他にはローマ軍のような投げ槍も使用され、
ダマスカス鋼で作られた両刃の剣(スパタ)が歩兵と騎兵の両方に使われました。
青銅製の飾りの付いた鉄兜や小さな鉄片をウロコのように張った鎧などは専ら指揮官だけに用いられ、
ほとんどの兵士たちは無装甲で戦います。6世紀までの戦闘方法は単純な白兵戦だけでしたが、
後には戦闘隊形を整えて戦うようになり、武装も統一されてきました。
フランク族は多くの騎兵を持ちませんでしたが、
ゴート族、ランゴバルド族、アラン族、ヴァンダル族には軽騎兵隊がありました。
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