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マムルーク朝のスルタン、ハリール(アル・アシュラフ・サラーフ・ディン)率いるイスラム軍
すでに聖都エルサレムをイスラム軍に奪還されていたヨーロッパ十字軍は、アッコンをエルサレム王国の臨時首都にしていました。マムルーク朝のスルタン、ハリールはアッコンの十字軍に投降を勧める親書を送りましたが、十字軍の答礼使節は投降を拒否する旨を丁重に伝えます。 ハリールはこの答礼使節を斬り殺してアッコンの十字軍に宣戦布告をしたのでした。 ![]() ハリール率いるイスラム軍はエジプト軍とシリア軍から構成されており、輸送に百台もの車が必要な巨大な投石機(カタパルト)「勝利号」が配備されました。 シリア軍は戦列の右翼(陸側)に置かれ、エジプト軍は左翼の海側から攻撃します。 イスラム軍の投石機から発射された巨大な岩の塊は、アッコンの城壁を確実に崩していき、攻城塔は城壁に接近して十字軍守備隊を頭上から弓矢で攻撃しました。普段は対立することの多いテンプル騎士団とホスピタル騎士団ですが、今回の戦闘では手を取り合って奮戦します。 騎士たちは城門から城門、塔から塔へと場所を転々と変えながらも戦い続けますが、敵の矢は途切れることなく降り注ぎ、敵の突撃は押し寄せる波のようでした。イスラム軍の戦闘の太鼓は破れるほどに打ち鳴らされ、トランペットは途切れなく鳴り響きます。 十字軍は苦戦しましたが1か月間はなんとか耐えました。5月4日、キプロス島から海軍が応援に駆けつけますが、強力なイスラム軍に比べるとその戦力はたいしたものでは無く、休戦交渉も成り立ちません。 戦闘は再開され、5月18日まで続きます。最後の日にアッコンは開城させられ、テンプル騎士団は総長のギヨーム・ド・ボージューを戦闘で失い、数十名の騎士も戦死してしまいました。スルタン、ハリールは入城すると虐殺と婦女暴行を命じます。これは市内の各拠点に残留していた騎士たちを憤激させて誘き出す挑発行動でした。 アッコンの南端にある海に突出した城砦に本部を置いていたテンプル騎士団は、イスラム軍との停戦後も市街戦を継続し、手に入る限りの舟を集めて難民の救出に努力します。総長代理となったマレシャルのピエール・ド・セブリーの指揮下で戦い続ける騎士たちは、イスラム軍の殺りくの目標になり、ほとんどが虐殺されてしまいました。エルサレム王国の国王アンリ2世が、わずかな部下を率いてキプロス島に脱出したことで、十字軍はシリアから一掃されてしまいます。第1回目の十字軍遠征から約200年後のことでした。 テンプル騎士団の総長ギヨームが戦死した様子は次のように記録に残っています。 夜中に総長ギヨームが、指令部であるアッコン城内のテンプル修道院から十数名の騎士とともにイスラム軍が突破した聖アントワーヌ門を訪れました。ホスピタル騎士団の総長と数名の同会騎士と出会って聖アントワーヌ門の下に到着した頃、イスラム軍が城壁上に現われ、ギリシャ火を次々と投げつけ始めます。この煙で視界が妨げられたところをイスラム軍の大量の矢が襲いました。 十字軍の被害は甚大でしたが、翌朝の9時ごろまで白兵戦を戦い続けます。この戦闘中、1本の矢が総長ギヨームの胸甲の合わせ目を貫きました。彼は右手には槍を持っていたので、矢を払いのけようとして左手を上げます。負傷しても馬をゆっくり進めようとする彼のまわりには20名ほどの騎士たちが集まり「どうぞ閣下、ここに留まり下さい。まもなく城は陥落するでしょう。」と声をかけました。総長ギヨームは大声で彼等に答えます。「卿らよ、予にはもう戦う力がない。予は今まさに死にかけておるのじゃ。」こう言った総長の右手から槍が落ち、頭をのけぞらした彼は馬から落ちそうになりました。騎士たちは矢のささったままの彼を抱えて馬から降ろし、大きな楯の上に横たえたのでした。 |