スルタン・クトゥズ率いるマムルーク朝イスラム軍(10万名以下?) 対 ケドブカ率いるモンゴル軍(1万2千名)
イスラム軍の反撃
1260年2月、モンゴルの宋遠征軍を指揮していたモンケ・ハンが赤痢で亡くなりました。この知らせを聞いたシリア遠征軍の司令官フレグは、モンゴル軍の大半をシリアから撤退させ、ダマスカスに優秀な将軍ケドブカとわずかな兵力だけを残します。マムルーク朝イスラム軍は、モンゴルの侵略軍を押しもどすチャンスとみて、モンゴルの使節を処刑するとその首をカイロの城門でさらしものにしました。さらにマムルーク軍の司令官クトゥズは、宿敵のはずのヨーロッパ十字軍に密使を送って、マムルーク軍がシリア北部へ侵攻することを認めさせます。こうしてマムルーク軍がモンゴル軍との決戦に挑む準備ができました。 戦闘経過
 クトゥズが率いるマムルーク軍はガザに向かって北上し、モンゴルの小部隊と遭遇するとこれを追い払いました。士気を上げたマムルーク軍は、キリスト教徒の領地に入って補給を受け、馬をとりかえます。 ダマスカスから南西へ向かっていたモンゴル軍は、2つの万人隊(トゥメン)で構成されていましたが、そのなかにはシリアで集めた多くの新兵たちがふくまれていました。

 両軍はパレスチナのアイン・ジャールートで遭遇し、モンゴル軍の騎兵隊がマムルーク軍の前衛部隊に突撃していきます。たちまちマムルーク軍は逃走を始め、モンゴル軍がこれを追撃します。しかしこのマムルーク軍の逃走は戦術的な罠でした。敵を追っているつもりのモンゴル軍は、マムルーク軍の主力部隊が展開している広さ約6キロの渓谷に誘い込まれたのです。敵の罠にはまったことに気付いたモンゴル軍では、シリアで集めた新兵たちが慌てて逃げ始めました。

 兵力の減少したモンゴル軍でマムルークの全軍と戦わなければならなくなったケドブカは、各部隊に敵の側面を攻めるよう命じます。このモンゴル軍の側面攻撃は功を奏し、マムルーク軍の一部がモンゴル軍に突破されてしまいました。優位を失ったマムルーク軍は苦戦しはじめ、戦闘は勝敗の行方の見えない混戦状態になってしまいます。自軍が不利な情勢にあると見たマムルーク軍の司令官クトゥズは、かぶっていた兜を投げ捨てて叫びました。「諸君は自らの命を守るために戦っているのではない、イスラムの将来をかけて戦っているのだ!」ほとんど潰走しそうになっていたマムルーク軍は、司令官クトゥズのおかげでなんとか士気を回復し、再びモンゴル軍に襲いかかります。この時の激戦によって、モンゴル軍の司令官ケドブカは戦死してしまい(捕らえられてその場で処刑されたという説もあります)、士気を失ったモンゴル軍の将軍たちは部隊を退却させることにしました。マムルーク軍に追撃されながら12キロ離れたベイサンに逃れたモンゴル軍は、そこでマムルーク騎兵の待ち伏せ攻撃に遭い、遂には壊滅してしまいます。 この戦闘によって、無敵のモンゴル軍というイメージは消え失せ、モンゴルの西方への軍事遠征は終了したのでした。

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