「戦術の世界史」もっと詳しく18〜19世紀
アメリカ開拓者の中でイギリスからの独立戦争を積極的に戦ったのは、
多分3分の1程度でした。他の3分の1は中立的な態度で、
残りの3分の1がイギリス本国に忠誠を誓っていたと思われます。
独立革命派が集めた軍は弱く、装備も貧相なものでした。もともとはアメリカ原住民の襲撃や
カナダにいたフランス人から開拓地を守るために招集された開拓民の市民軍だったのです。
最初のうち、彼等は訓練の行き届いたイギリス正規軍にほとんど押し潰されそうになりましたが、
広大な北米大陸のさまざまな地点でイギリス軍と対決し、
それまでの沿岸部の戦いを遠征軍を派遣することで内陸部にまで拡張して、
イギリス軍を分散させることに成功しました。
チャンスと見ればいつでも敵を攻撃する不動の信念を持った開拓民たちは、
ついには強力な軍隊に成長したのです。
1781年10月、イギリス軍の主力はヨークタウンで彼等に降伏することになります。
アメリカの自然と地域共同体から生まれたアメリカ植民地軍は、
理念として「家庭」と「大儀」を守るために、人民の中から集められて編成された軍隊でなければならず、
自衛のための戦争が終われば軍隊は人民に戻っていくべきで、
軍隊が公共の自由を脅かす存在になってはならないとしていました。
命令があれば数分で武装して駆けつける「ミニットマン」といった愛国派の民兵たちから成るアメリカ民兵軍は、
アメリカ独立戦争の主役となりますが、当時の評判はあまり良いものではありませんでした。
基本的な戦闘訓練を受けていない民兵たちは、厳格な規律を嫌い、
団結心も欠けていたので、どうしても個人行動に走ります。
アメリカ植民地軍の民兵たちの戦闘は、各自勝手に適当な遮蔽物の陰から敵兵を狙撃するというもので、
これは当時のイギリス軍から極めて卑怯なものとして嫌悪されました。
ヨーロッパでの戦闘では、敵の士官は捕虜にして身代金を取るというのが一般的だったのに、
アメリカの民兵たちはイギリス軍の士官もお構い無しに殺しました。
情け容赦なく敵を狙い撃つというアメリカ民兵特有の戦闘方法は、
彼らが日頃、襲撃してくる原住民を虐殺したり、生活のために狩猟を盛んに行っていたことから生まれたものでしょう。
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雷管は、弾丸を発射するための火薬(発射薬)を起爆するための点火薬が入った、
銅製の小さな筒状のもので、弾丸や発射薬と一緒に薬きょうの中に納められています。
引き金を引くと、スプリングの力で撃針が前進して雷管を強く打つと雷管内の点火薬が発火、
これが発射薬を起爆させて弾丸が発射されました。
![]() VERLINDEN PRODUCTIONS社製の模型です。
従来の小銃や拳銃では、銃身の内部(銃腔面)を滑らかにしているため、
弾丸と銃腔との間にはそれなりに隙間があいています。
このような滑腔銃では、発射力は落ちますし、丸い弾丸が制御不能の回転をしながら飛んでいくため、
空気抵抗によって弾道が不安定になり、命中精度がかなり悪くなりました。
新しく開発された施条銃では銃腔面にらせん状の溝を刻み、銃腔面の突出部(条丘)を弾丸にくいこませて
一定方向の回転を与えます。
銃腔にぴったりはまってスピンをかけられた弾丸は、ジャイロ効果によって弾道が安定するため、
命中精度は滑腔銃よりもずっと良くなりました。
弾丸が銃腔を転がるようにして出て行く滑腔銃では、発射体の形は球形でなければなりませんでしたが、
ジャイロ効果で弾道を安定させる施条銃では、円筒状の発射体でも弾頭が先になって飛んで行きますので、
先の尖った長い弾丸でも発射出来るようになったのです。このような、らせん条溝は大砲にも施され、同様に優れた効果を発揮しました。
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