「戦術の世界史」もっと詳しく15世紀
ヨーロッパでは早くから、教会の鐘を造るために、青銅の鋳込み技術に通じた職人が多くいました。
彼等によって15世紀前半、青銅製の鋳造砲が造られます。
青銅は腐食しにくく、鋳造することで砲尾の密閉が完璧な一体型の砲が作れました。
(当時の錬鉄砲は、錬鉄の棒や板を何本も溶接して管の形にし、太い鉄の輪を焼き嵌めて造るので、
砲尾の密閉が難しく、砲身と薬室を別々に造って、砲身に薬室をねじ込むものが多かったのです。)
鉄は青銅に比べると安価ですが、鉄を鋳込むのは非常に難しく、
鍛冶職人が鍛造する錬鉄砲は、青銅砲の鋳造より人件費が高くついたのです。
16世紀になると、比較的信頼できる鉄製の鋳造砲が、イングランドで製造されるようになりますが、
青銅砲に比べるとずっと脆く、砲の内部が錆びてしまうこともありました。
また、鋳鉄砲は青銅砲より破裂することが多かったので、強度を高めるために鉄を分厚くする必要があります。
このため鋳鉄砲は同等の青銅砲より、かなり重くなってしまいました。
このようにデメリットの多い鋳鉄砲ですが、青銅砲の3分の1以下のコストで製造できることから、
イングランドでは有力な輸出品となりました。
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1387年にティムール軍はイスファハーンに侵攻しました。
イスファハーンの市民達はティムール軍を受け入れ、生命の安全を求めます。
しかし、ティムールが市民に馬と武器の引き渡しと身代金の支払いを命じますと
一部の市民が反乱を起こし、ティムール軍の兵士を捕えて殺しました。
怒りに燃えたティムールは、兵士たちに強烈な報復を命じます。
彼は部隊ごとに獲得すべき市民の首の数を決めたのでした。
ノルマを達成するためにティムール軍の兵士たちは、
イスファハーン市内で凄まじい殺りくを展開します。
遂には7万個の首が切り取られて市外に集められました。
ティムールは、集めた首を高く積み上げて塔をつくらせます。
数多くの生首の塔が完成して、
冷酷無比のティムール軍というイメージが近隣諸国に広がりました。
ドイツ騎士修道会は、もともと第3回十字軍に参加してアッコンを包囲していた
ドイツ人兵士たちのために設立された病院団体でした。
1198年に教皇の承認を得て、黒い十字の描かれた白いマントを着用します。
皇帝ハインリヒ6世が死去するに伴ってドイツ人騎士たちは帰国することになり、
ドイツ人騎士団は信仰のために戦う戦闘集団としての騎士修道会となりました。
ドイツ騎士修道会は、1230年9月に教皇グレゴリウス9世の教勅を得て
プロイセン地方に進出し、プロイセン人を異教徒として殺害し始めました。
プロイセンにおける征服活動は順調に進み、1283年には征服を完了、
プロイセン人の多くを殺すか奴隷にして、彼等の財産を奪いました。
戦闘で荒れた土地はドイツ人の入植者たちによって新たに耕されます。
ドイツ騎士修道会の攻撃を何とか逃れたプロイセン人たちは、
大量の難民となってリトアニアに流れこみました。
隣接した異教の地リトアニアこそドイツ騎士修道会の次なる征服目標となったのです。
しかしポーランド・リトアニア連合軍に「タンネンベルクの戦い」で敗北してしまった
ドイツ騎士修道会は急速に衰え始め、1525年に騎士団は事実上消滅、領地は公国となりました。
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3隻のジェノアの大型戦艦が、兵士と弾薬を満載してコンスタンチノープルへ向かったとの
報告を聞いたメフメット2世は、オスマン・トルコ艦隊に出撃を命じ、
自らもボスポラス海峡へ船出しました。オスマン・トルコ艦隊の指揮官バルドクルは
145隻ものガレー船を敵に向けて一気に突撃させます。
ジェノアの大型戦艦は、迫り来る多勢の敵にひるむこと無くそのまま前進していきました。
2時間の戦闘の後、ジェノアの大型戦艦は見事に敵艦隊を突破します。
この海戦の結果に怒り狂ったメフメット2世は、
手に持ったステッキで艦隊指揮官のバルドクルをメッタ打ちにしたということです。
鎖で封鎖された金角湾をなんとしても占領したいメフメット2世は、
ボスポラス海峡の沿岸から陸上を経由して70隻もの軍艦を移動させることにしました。
数千名の労働者が集められて、ガラタ地区の背後に広がる薮を切り開いて新たに道をつくり、
木の枝を並べると上から油を塗ります。海から引っぱり上げられた70隻の軍艦は、
一晩かかってこの2キロ足らずの道を移動しました。
金角湾を手に入れたオスマン・トルコ軍は、さっそく浮橋と浮砲台を造り始めます。
この思いがけない敵の襲撃に驚いたコンスタンチノープル守備隊は、
夜間の奇襲攻撃でオスマン・トルコ軍の船を焼こうとしましたが、
あっさりと撃退されてしまいました。
険しい山地で育ったスイス人の男達は、鍛えられた立派な体を持っていましたが、
家畜の放牧を主にしているスイス国内には、狭い耕作地しか無く、彼らに相応しい仕事がありませんでした。
そこで彼らは、ヨーロッパ各地に傭兵として出稼ぎに出ることになります。
スイスの各州を支配していた少数の都市貴族たちが、募集に応じた傭兵たちをひとまとめにして、
屈強な歩兵を欲しがっているヨーロッパ各国の諸勢力と傭兵契約を結びました。
このような出稼ぎ傭兵はスイス最大の産業になり、特に多くのスイス人傭兵がフランスのために戦い、
300年間で50万名以上が戦死したと言われています。
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