モンゴル軍の主力は、革鎧をつけ、弓、槍、剣で戦う装甲騎兵でした。 戦闘隊形は横隊を前後に五つ重ねたもので、前の二隊は特に堅固な革鎧をつけて馬も装甲した突撃騎兵であり、 後ろの三隊は軽装で、投げ槍と弓を持つ軽騎兵でした。敵に接近すると、後ろの軽騎兵三隊がつぎつぎと前に出て、投げ槍や弓矢で 攻撃し、敵が弱ったところで前の二隊が突撃して決定的打撃を与えました。騎馬投てき部隊も随行しており、 投石機やいしゆみなどを装備していました。このような敵に対抗するため、ヨーロッパの重装騎兵の装甲はさらに強化され、 鎖かたびらは鉄の胴甲になり、は30キロを超えました。 騎士は単独で乗下馬出来ず、馬も鎧で装甲するためその重さで駆け足は出来ず、速足で走るのがせいぜいでした。 1232年 モンゴル軍が金の首都ベンキョウを攻囲した際、金軍は鉄弾に火薬を入れて投てきしたり、 筒に火薬を入れて点火し、その火炎をモンゴル軍にむけて放射しました。
1241年 西征したモンゴル軍は、リーグニッツでゲルマン諸国軍と、 グランでハンガリー軍と戦って勝利しました。モンゴル軍は騎士の突撃を無理にささえようとはせず、周囲から射撃を繰り返して敵の消耗を待ちました。無敵のモンゴル軍の進撃を止めることが出来たのは、騎馬戦には不向きなヨーロッパの森林でした。
1272年 モンゴル軍は南宋との戦い(ジョウヨウ城攻撃)で、アラビア人技術者の手によるオナゲル式の巨大投石機を使用しました。
■見事なモンゴル軍の戦術
モンゴル軍部隊は黒と白の信号旗を使って隊形の変更を行っていました。隊形変更の際のスピードと静粛さと機械的な美しさは他に類を見ないものでした。 中世ヨーロッパ諸国の軍隊は常に突撃戦術に頼っていましたが、モンゴル軍は弓矢の射撃で敵の人馬に出来るだけ損害を与えてから白兵戦に入りました。また、モンゴル軍は征服した多くの国々から優れた装備を取り入れ、征服した国の軍隊も自軍に加えました。 イスラム諸国からは投石機、金や宋からは当時の新兵器である火器を武器として採用します。 これらの兵器はもっぱら攻城戦に使用されました。 1241年 モヒの戦い
1260年 アイン・ジャールートの戦い
1291年 アッコン攻防戦
ホームページへ戻る年表