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弟 2004.10.18 |
私たち4人きょうだいの一番下、たった一人の弟が10月6日、私たちを飛び越して逝ってしまいました。
書き留めておくことがいろいろあるはずなのですが、何を書けば良いのか迷ってしまいなかなかページに出来ません。
短くても数ヶ月間は弟の死を悲しみ嘆く自分の姿を想像していました。でも正直な所、今の心境は、弟にあまりにも見事な一生を見せ付けられたようで、むしろ祝杯をあげたい気分です。3年半の間、心配のし通しでした。肩の荷が下りた安堵感もあり、今は不思議と爽やかな気分です。私って、スゴイ薄情な人間なのかと怖くなり、姉に話したところ、姉も同じ気分だそうで、笑ってしまいました。
これまで殆んど口にしなかった弟の病気を、10月初め、事情があって知人の一人にメールで知らせました。
そのメールの一部と、父が濃い親戚に宛て、弟の葬儀後に送った手紙の文面をご覧頂くことにします。
父も、短いけれど、一生懸命まじめに生きてきた弟の人生に納得できたようで、時に大きなため息を漏らしたりはしていますが、心配するほどのことはなく、普段の生活に戻ることが出来たようです。
知人へのメール (10月5日)
〜〜〜途中から〜〜〜
3年半前、千葉県在住の弟(S.28年生まれ)が腹部の異常を訴え受診したところ大腸癌でした。
開腹手術の結果は手遅れ状態で、肝臓にまで転移していて、大腸癌、肝癌は取り除けたものの5年生存率10〜15%と言うことでした。
弟は父や私達に心配をかけたくないと義妹(弟嫁)に「絶対に岸和田には言わないように。」と口止めしたそうです。
でも、義妹が最悪の状態を考え、弟から口止めされているけれど・・・・と電話で事実を教えてくれました。
姉妹で相談しましたが、高齢の父には何も話せませんでした。
途中、開腹・腹腔手術、ラジオ波照射などを積極的に受け、今年の8月末まで仕事も続けていました。
悔しいけれど、その努力にも限界が来たようで、9月8日、千葉市にある病院の緩和ケア病棟(ホスピス)に入院し、10日に本人から電話で、姉の所にこれまでの経過を知らせて来ました。
本当に限界まで仕事を続けたようで、ホスピス入院時の検査で「9月一杯は保証しますが・・・・」と家族には告げられたそうです。
9月、ホスピスに3度見舞いました。思ったより元気で、(悲しいけれど)楽しく談笑することができました。
そして10月になりました。 現実は無情ですね。
先週末から、多分モルヒネの効き過ぎだと思うのですが、朦朧とした時間が増えてきたそうです。
残念ですが命の灯が消えかけているのでしょう。
覚悟は出来ているものの、ふと気が付くとやっぱり弟のことや、弟が居なくなった時の父の気持ちを考えている私です。
〜〜〜あと、省略〜〜〜
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父の手紙
秋冷の候、皆様にはお変わりなくお過ごしのことと存じます。
さて突然ではございますが、長男、□□
剛、去る十月六日夜、自宅のある千葉県にて五十一歳の生涯を閉じました。
八日が友引の為、九日通夜、十日告別式で松戸市の自宅近くの式場にて執り行うことになりました。
ところが九日夕は大型台風二十二号が五十年ぶりに首都圏を通過し、テレビからは各地の交通機関の不通が伝えられ大変心配しておりました。
横殴りの雨風の中、なんと百名を超える方々が通夜に駆け付けて下さり、剛がこんなにも皆様に愛されていたのかと知り、親として非常に嬉しく思いました。
弔辞や多くの方の挨拶で、十九年前独立、会社設立以来、東京三菱銀行で情報システム開発の要として次々と重要な仕事をこなし、活躍していたとのことです。
生来の責任感の強さから自分の健康も省みず頑張っていたのでしょう。
九月八日、千葉市にある病院の緩和病棟(ホスピス)に、肝癌のため入院したと私が知ったのは十三日のこと。早速三人の娘たちと十六日に上京し見舞いました。
まるでホテルのようにきれいな病室では、少し痩せたようですが本人が元気に笑顔で迎えてくれました。
二時間近く、剛の家族を交え楽しく談笑し、末期癌と聞いていたもののまだまだ大丈夫と安心して岸和田に戻りました。
十月に入ってからは、見舞い客も一段落したからと毎晩八時過ぎ、「お父ちゃん、変わりないか?
元気か?」と逆に高齢の私を気づかってくれ、その日の様子などを語ってくれました。
四日の夜も同じように元気な声を聞かせてくれたのですが、五日は電話が無く、心配していたところ、六日には亡くなったとの信じられない連絡が入りました。
皆様には早速お知らせするべきところ、遠方でもあり、台風接近の心配もありましたので、甚だ勝手ではございましたが本日お知らせすることになったことを深く深くお詫びいたします。
尚、香典、お供えなどにつきましてはご遠慮したいと本人が希望していましたので、何卒ご了承ください。
生前本人が賜ったご厚誼、ご厚情に対し心からお礼申し上げます。
平成十六年十月十二日
□□
孝一郎
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ホスピスに入院後、弟は何人かの方に電話で、自分の今置かれている状況を話しています。
「電話という便利なものがあるので、死んでから葉書で知らせるより、命のある間に直接話したくて・・・。
電話で充分。
遠いから、病院へは本当に来なくて良いですよ。」みたいな電話を掛けたようです。
これって考えたら、身勝手ですよね。
ホスピスからの電話で、来なくてよいと言われて放って置けますか?
そのせいかどうか、ホスピスに延べ100名を越す方々が見舞ってくれたそうです。
バスも出ているようですが不便な所で、最寄の駅からタクシーで20〜30分掛かります。
タクシーの運転手さんの間で、「この頃、全国から見舞いに来ている。」と評判になっていたと聞きました。
当然、病院の緩和ケア病棟も見舞い客の多さに驚いていたそうです。
銀行では、見舞ってくださった方からでしょう、「心配して駆けつけたら元気だった。」と広まっていたそうです。
小学校の同級生は毎日曜の夜、一人の同級生の家に集まり岸和田から電話をくれたとのこと。
9月26日(日)は3回目の集まりで、10名の同級生と話したと喜び、きりが無いからと最後にしてもらったそうです。
本当はいつまでも電話して欲しかったと思います。
今から思えば、弟は生きている内のお別れを、9月末で最後にしようと線を引いていたようです。
9月末まで見舞い客を笑顔で出迎え、談笑した弟でした。
29日夜、義兄が弟に電話したときはとても元気だったとのこと。
ところが、30日夕、私のところに電話をかけて来たのですが、声に少し元気がなく心配していました。
翌10月1日早朝、ひどい痛みが弟を襲い、痛み止めの注射を打ってもらったそうです。
しばらくすると薬が効き痛みが取れ、「ものスゴイええ気持ちや!」とまるで温泉にでも浸かっているかのように弟嫁に告げたとのこと。
2日以降、段々、ウトウトする時間が増えてきたそうです。
4日夜には、弟嫁がお父さんに電話する時間だと寝ている弟を起こしたと言います。
それが父への最後の電話となり、5日には昏睡に近い状態から完全に昏睡状態になりました。
私たち身内は覚悟が出来ていました。
ただ、苦しまないで逝って欲しい。
それだけを祈っていました。
祈りが届いたのか、ありがたいことに、ほとんど苦しむこともなく、6日夜、眠るように息を引き取りました。
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通夜は台風で暴風雨の中、100名を超える方々が駆け付けて下さいました。
通夜が終わった時刻、式場の外は冠水し、交通機関も殆んど不通のようでした。
皆さん無事家まで帰り着かれたのでしょうか?
翌日の告別式では、火葬場に向かう霊柩車を、参列してくださった本当に沢山の方々全員が見送ってくださいました。
後で式場の方から、「皆さん呆然とされ、いつまで経っても動こうとされなかったんですよ。
仕方なく、終わりましたので、どうぞお引き取りください。と声をかけ帰って頂きました。」と告げられました。
身内よりも参列してくださった方々の方が放心状態で、涙をたくさん流してくださいました。
ついこの前、弟の予想以上に元気な姿を見たり、その様子を聞かされた方ばかりだった筈です。
本当に最後の最後まで、身勝手で人騒がせな弟でした。
でも、同時にあれだけ沢山の方から賛辞を送られ、惜しまれて逝った弟の見事な生き様に拍手を送りたい気分です。
剛(つよし)へ
通夜、葬儀の様子、見えましたか? 嬉しかったでしょう!
いつまでも皆さんに感謝する気持ちを忘れないでね。
伊都子さん、よく頑張ってくれたね。
二人の息子たちも、りっぱでした。
本当に良い青年に育ちましたね。
お父ちゃんのことは私たちに任せてください。
あなたらしく、また新しい自分の夢を求め、天国で楽しく過ごしてくださいね。
どうか天国があなたにとって居心地の良い所でありますように!
さようなら。
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