Yamagata
山形県/“長谷堂城”の戦い


長谷堂城の戦い 戦場全景(山形城方面より)


長谷堂城の戦い 戦場全景(戦場中間地点辺り

“長谷堂城”の戦い
“長谷堂城の戦い”は、慶長5年“関ヶ原の戦い”の余波で全国各地に起こった合戦の一つです。
また、一連の出羽国内で起こった合戦を総称して、“出羽の関ヶ原”あるいは“慶長出羽合戦”と、呼ばれる事もあります。
“長谷堂城の戦い”はその中で、最も激しい合戦が行われた場所でした。

上洛の命に従わない上杉景勝を討伐するため軍を起こした徳川家康でしたが、
石田三成の挙兵により、上杉領へ向かう道すがら、下野・小山から引き返してしまいました。
そのため上杉領侵攻の米沢口を任されていた最上義光は、孤立無援の状態に陥ります。

これを機に9月8日、直江兼続を総大将とする2万数千の上杉軍が、六方向から最上領へ侵入してきました。
特に直江兼続率いる本隊1万8千は、9月13日に城将江口光清以下500が守備する畑谷城を陥落させ、14日には、最上義光の居城・山形城から8キロほど離れた菅沢山に陣を張り、沢泉寺に本陣を敷きました。
また、出羽荘内からは六十里越えから侵攻した、志駄義秀(東膳寺城城代)、下吉忠(大浦城城代)らが、谷地城、白岩楯、寒河江城などを攻略。栃窪口及び大瀬口から侵攻した中条三盛(鮎貝城城代)、吉岡家能、土橋惟貞らは、鳥屋ヶ森城、左沢城、山野辺城、八ッ沼城を攻略します。
ただしこれらの城の殆どは、最上方が交戦せずに撤退しており、唯一、八ッ沼城で、山形城に入っていた城主・和田正盛の代わりにの守備を任されていた望月隼人が、少数の兵と共に立て籠もりますが、衆寡敵せず自刃して果てました。
同日、危機感を募らせた義光は、甥の伊達政宗に救援を要請しています。

菅沢山の上杉軍本陣の先には、最上川の支流・須川が山形城への進路を寸断するように流れており、対岸には山形城から出陣した最上軍本隊が構えていました。
また、菅沢山の南東1キロには、守将・志村高治と守備兵1000の詰める長谷堂城がありました。
上杉軍が渡河を試みようとすれば、挟撃させる恐れがあり、そのため兼続としては、長谷堂城を抜き、山形城に迫る必要があったのです。

また、最上軍にしても長谷堂城は、山形城を防衛するための最重要拠点でした。
山形城周辺で上杉領方面の支城は若木城(新関久正)、成沢城(坂光秀)、谷柏楯(谷柏直家)、飯田楯(飯田播磨守)、八ッ沼城(和田正盛)、白岩楯(白岩光広)、寒河江城(中山朝正)、谷地城(斉藤光則)、杉山楯(多田勝家)、鳥屋ヶ森城(小栗正吉)、などありましたが、義光はこれらを明け逃げ、あるいは少数の守備のみ残し、山形城と長谷堂城に兵力を集中する事で上杉軍に対峙する方策を取っていたのです。
そして坂光秀をはじめ、、氏家光氏(天童城城主)、小国大膳(小国城城主小国光基・子息)などが、山形城からの援軍として長谷堂城へ入りました。
先の畑谷城の江口光清も、義光から山形城に撤退するように命じられていましたが、「我数年義光の恩を荷ひ此城に籠りし事、かかる時のためぞかし(奥羽永慶軍記)」と篭城を選び玉砕したのです。

そして15日、火蓋が切られました。この日は、くしくも“関ヶ原の戦い”本戦と同日にあたります。
緒戦は山形城から出陣した楯岡光直(義光弟)と清水義親(清水城城主・義光三男)が、
夜陰に乗じて須川を渡河して奇襲をかけようとしましたが、
予期していた水原親憲(猪苗代城主)指揮下の仙道衆に打ち破られました。

16日には直江兼続らが朝霧の晴れないうちに長谷堂城へ押し寄せましたが、一陣、二陣と打ち破られ、城に取り付けないまま撤退しました。
その夜には逆に、長谷堂城から志村高治麾下の大風右兵衛、横尾勘解由らが、上杉方・春日元忠の陣に夜襲を仕掛け、上杉陣営を同士討ちさせるなど戦果を上げました。
また同日、義光の命で、鮭延秀綱(鮭延城城主)が旗本組100騎と足軽200を率い、加勢として長谷堂城に入城しています。

17日。直江兼続が再び鉄砲隊を率い長谷堂城に攻撃を仕掛けますが、平地からの射撃に、山城の長谷堂城への効果はありませんでした。
また同日、上山城戦線。上山城守将・里見民部は兵500と寡兵でしたが、援軍の草刈志摩守と共に、奇襲による挟撃によって、上山方面の上杉軍4,000を壊滅させ、率いていた本村親盛も討ち取りました。
さらに同日、伊達政宗より派遣された留守政景が援軍3,000を率い笹谷峠に布陣。
21日には大条景頼も派遣され増強。23日に山形へ赴き義光と協議の上、24日に沼木まで兵を進めました。

18日。16日の復讐戦に春日元忠が先手として、長谷堂城の外堀まで攻め寄せますが、櫓より鉄砲を撃ち掛けられ、抜くことは出来ませんでした。

19日には、一気に長谷堂城を落とすことは難しいと考えた兼続が、軍の一部で長谷堂城を包囲しつつ、水原親憲の軍を山形城へ進軍。
須川河岸に陣を敷き、山形城及び長谷堂城から敵を誘い出して、野戦に持ち込もうと画策します。
しかし、兼続の意図を見抜いている義光は、容易に兵を動かしませんでした。

兼続は敵兵を誘い出すために苦心し、ある時などは、長谷堂城と菅沢山の間に広がる水田の稲穂を刈り取る「刈田誘き」の戦法を使いました。
篭城戦に徹する覚悟の志村高治は「柵・鹿垣の外へは一人も出づべからず」と厳命していましたが、これには流石に若い将兵らも憤怒し、無断で出る構えを見せました。
それを抑えるため鮭延秀綱は、旗本組100騎を率い討って出ます。
秀綱は、刈田を行っている足軽らをなぎ払い、8,000の敵陣を切り崩し散々暴れまわると、味方が余勢をかって深入りするのを抑えながら、時を見計らって撤退します。
上杉軍はそれに乗じて追撃に転じ、城に取り付こうとしますが、すでに志村高治がこれに備え鉄砲足軽300を配置し、付け入る隙を与えなかったため、やむなく撤退しました。
その勇戦を見た兼続も「さても今日鮭延が武勇、信玄・謙信の家にも覚えなし」と、秀綱に後日褒美を贈ったと言われています。

23日。上杉軍は伊達軍の動きを警戒し、一旦、須川から後退の動きを示し、戦線を整理し集結させます。

こうして24日に、伊達軍も山形城城下・沼木まで兵を進め須川河岸に布陣。
(ただし、偵察などの任務は行いましたが、政宗からの命は、あまり前線に出て、若い兵士らを苦しめないよう兵力を温存するようにとの事でした。)

25日。義光もついに稲荷塚まで出陣し、各陣営が出揃いました。
そして、長谷堂城戦線は、膠着します。

29日。上杉軍は再び長谷堂城に猛攻をかけ、最上軍と激突します。
しかし、時間経過と共に最上軍の方が攻勢に転じたようで、長谷堂城と菅沢山上杉軍陣営ののちょうど中間辺り、“朴の木屋敷跡”といわれる辺りで、兼続本隊の中核であった上泉主水泰綱が討死してしまいます。
その時、泰綱の周りには味方が居ず、敵兵ばかりであったと云われています。
兼続は幕下の部将らと協議し、「一城下に屯するのは良策に非ず」と長谷堂城攻略を断念し、明日には付近の村々を焼き討ちし、陣変えを行い、決戦場を北方へ移そうと協議しました。
しかし、それからまもなくして、会津の上杉景勝より、“関ヶ原の戦い”にて西軍石田三成方敗北の報が入り、急ぎ撤退し、国境を固めるよう命令が下ります。

他方30日。最上義光にも、東軍徳川家康が、“関ヶ原の戦い”にて勝利との報を聞きます。
両軍とも、9月15日に決着のついた“関ヶ原の戦い”の結果を2週間も経って、知る事になったのです。

そして10月1日。菅沢山本陣を杉原常陸介に預け、富神山に布陣。兼続自ら殿となって、撤退を開始しました。
それを知った義光は、最上、伊達連合軍を率いて追撃戦を展開。
しかし菅沢山に潜んでいた杉原常陸介率いる鉄砲隊が、追撃軍を引き付けて狙撃し、連合軍を混乱に陥らせ打撃を与えました。これにより、筑紫喜吽など義光の重臣らも討死してしまいます。
義光も追撃戦において前線で突出していたため、自身も兜に銃弾を浴びる事になります。その際に使用した弾痕の残る兜は、現在、最上義光歴史館で見る事が出来ます。
その後兼続は、2日に畑谷城へ入り残兵をまとめ、3日には荒砥まで退き、4日には大軍の殆どを自領米沢に帰陣させる事ができました。
この様子を、義光は「直江は古今無双の兵なり(奥羽永慶軍記)」「誠に景虎武勇のつよみ、尓残りたり(最上記)」と感じ入ったと云います。

ただし兼続は、出羽荘内から進軍していた上杉勢への連絡を絶たれた為、この方面では撤退が遅れ、甚大な被害を出しました。
それでも10月1日に連絡を受けた志駄義秀らは被害を出しながらも荘内への撤退に成功しましたが、土橋惟貞らは白岩楯で壊滅。谷地城を包囲された下吉忠らは、10日過ぎまで抵抗を続けましたが、降服を余儀なくされ、志村高治の案内役として最上軍の荘内侵攻に協力する事になりました。

この後、最上義光は荘内、及び西軍に加担した小野寺氏へ進軍。翌慶長6年には、目的を達成する事になります。(了)


長谷堂城城址全景(菅沢山上杉軍陣地より)



長谷堂城八幡崎口




八幡崎口を登りすぐにある八幡神社




中腹より菅沢山上杉軍本陣跡を望む


ご覧のように目前に上杉軍の陣が見えます。
この距離でしたら、当時も最上方からは、上杉方の大軍の様子がはっきり見え、
戦々恐々としていたのではないでしょうか。
実際、菅沢山まで、歩いてみると、舗装された道路ですが15分で着きました。
当時、抜かるんだ田畑が広がっていたとしても、
騎馬なら5分かそこらで敵陣まで駆ける事が出来たと思います。全く、気は抜けなかったでしょう。


中腹の阿弥陀堂へ続く道




山頂へ続く道@





長谷堂観音


最上三十三観音の十二番札所にあたります。山頂より一段下がった場所にあります。


山頂へ続く道A曲輪も、多く見られます




山頂の長谷堂城本陣跡





本陣より、山形市内及び菅沢山上杉軍本陣跡を望みます


山形城下を一望できます。山形城も位置を確認することが出来ます。


富神山

古くから信仰の対象とされ、付近からは古墳や縄文遺跡も見つかっています。
直江兼続が、山頂から山形城を眺めようとしましたが、城一帯に霞がかかっていて見えず、
その後、山形城は霞ヶ城と言われるようになったと伝わっています。


菅沢山上杉軍本陣跡

直江兼続は、菅沢山の沢泉寺を本陣とし、この一帯に陣を敷きました。
長谷堂城との距離は北西に1キロ程度。
舗装された道路と通ってですが、男性の脚で徒歩15分の距離にあります。


現在の沢泉寺




直江兼続の本陣跡

沢泉寺の境内を陣屋にしていたそうですが、
撤退の際、焼き討ちにあって、現在は空き地になっています。


上杉軍本陣辺りから、山形城方面を望む

当時はどの程度山林が広がっていたかわかりませんが、平地ですから、
最上・伊達連合軍の行動も把握できていたのではないでしょうか。


本陣跡より、長谷堂城址を望む


左手にはこの合戦の戦死者を供養した主水塚。
長谷堂城の中腹より菅沢山を望んでいる写真と見比べてもらえると、
両軍が互いにどう見ていたのか、想像するのは容易ではないでしょうか。


主水塚

上杉方の武将・上泉主水泰綱が討死と遂げたと伝わる場所に、合戦後、村人たちが、
泰綱をはじめとする両軍の戦死者約200余人を、“主水塚”と名付けて、供養を続けてきた場所です。
泰綱は剣豪上泉信綱の嫡孫と云われ、北条氏に仕えていましたが小田原の役で主家が滅亡すると浪人になり、
慶長2年に千五百石で上杉氏の家臣となりました。前田慶次、車丹波ら組外衆とは一線を画します。
直江兼続幕下では、前田慶次がつとに有名ですが、
正直な所、最上方の資料や「奥羽永慶軍記」では、前田の“ま”の字も出ていません。
それに比べると、泰綱の方が断然その活躍を記されています。


主水塚ごしの長谷堂城



主水塚ごしの菅沢山上杉軍陣地

ご覧の様に、この場所は上杉軍陣地と非常に近いです。
この場所で、上泉泰綱が周囲には味方がいなくなり、敵の最上方に囲まれた状態で、討死したというのは、
攻め手の上杉軍にしては、あまりにも消極的な兵の動かし方の様な気がします。
どちらかといえば、最上方が突出し過ぎていて、
大軍を擁する上杉方にとっては、最上軍を崩す絶好の機会だったと思うのですが。


加藤掃部左エ門の碑

伊達政宗の生母・義姫(保春院)の警護を勤め、
昵懇の仲であった江口光清が畑谷城で壮絶な討死を遂げた事に憤激し、合戦に参加。
この近辺で討死を遂げたと伝わっています。
主水塚よりも山形寄りの位置にあります。


加藤掃部左エ門の碑辺りから、長谷堂城を望む

主水塚ごしの長谷堂城の写真と、城址の大きさを比べてもらえれば、何となく距離が伝わると思います。


須川

上杉軍の行く手を阻んだ須川。最上川の支流でもあります。
現在はそれほど水量も無く川幅も狭いですが、
最上川の支流の中では、最大の流域面積を持っています。

参考文献
「奥羽永慶軍記 (上) (下) 第二期戦国史叢書」校注今村義孝 人物往来社
「最上義光物語」中村晃訳 教育社
「最上記」片桐繁雄訳編 最上義光歴史館発行
「日本の武将60 奥羽の驍将 最上義光」誉田慶恩著 人物往来社
「別冊歴史読本 直江兼続の生涯 義に生きた天下の知将」新人物往来社
「新・歴史群像シリーズP 直江兼続 天下に挑み続けた名参謀」学研
「歴史群像シリーズ 前田慶次 天下御免の戦国傾奇者」学研
「最上義光合戦記 再編復刻版」片桐繁雄ほか著 株式会社ヨークベニマル
「山形合戦」鈴木和吉著 



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