私のレビ番組批評
                  
2005年12月13日(火)
人間の素晴らしさ
 かつて番組作りの現役だった頃。先輩や同僚の制作したドキュメンタリーを見て感動し、思わず「自分も同じテレビの仕事に携わっていて本当に良かった。」と嬉しくなったことがある。そういうことは過去何度もあった。
 いい番組は視聴者に感動を与えるが、同じテレビ制作者たちにも大きな励ましと喜びを与えてくれる。テレビの可能性を実感させてくれるそういう素晴らしい番組に励まされながら、テレビ屋は仕事を続けていくといってもいい。

「命の再生」を見つめる
 124日(日)放送のNHKスペシャル「脳梗塞からの“再生”〜免疫学者・多田富雄の闘い」は免疫学者・多田富雄(東大名誉教授)の人間としての素晴らしさをしみじみと感じさせるドキュメンタリーだった。
 彼は4年前に突然脳梗塞で倒れ、話すことも、うまく飲み込むことも、右手を使うことも、歩くことも出来なくなった。一時は安楽死も考えるが懸命なリハビリの中で研究者として自分の「命の再生」を見つめ始める。

 「命の再生」と言っても機能回復とは少し違う。毎日懸命に生きる中で見えてくる精神活動の芽吹きを見つめることである。どん底の苦しさの中で、最早人間としてすべてのものを失ったと思った時に、なお芽吹いてきた精神活動のみずみずしさ。自分の過酷な「運命」に抗しながらも、それは実に静かな、しかし粘り強い努力の中から見えてきたものである。

メインテーマから目をそらさない
 多田富雄は自分の脳内の精神世界を見つめながら、思うに任せぬ体でこの4年間に6冊の本を出版し、若い学者たちを指導し、加えて広島の原爆をテーマにした創作能に挑む。
 番組は、その活動の一つ一つを追いはするが、メインテーマである「命の再生」から目をそらさない。多田富雄が
生命の限界の中で見つけつつあるものが何なのか、そこに迫ろうとする。多田の努力の方向と番組の追求が一致している。被取材者と取材者の息がぴったり合っている。

 しかし、多田がみつけたものが何なのか、はっきりとは分からない。彼の生きる姿から圧倒的な存在感で伝わってくるだけだ。
 パソコンに入力された多田の合成音声がいう。「今は苦しい。しかし、今の方が良く生きている。」 過酷な運命の中で懸命に手繰り寄せた一つの境地とも言えるだろう。

 一人のディレクターがこのような対象者に出会うことは何回もないだろうが、彼女はそのチャンスを確実に生かした。人間の素晴らしさを感じさせるこのドキュメンタリーは、視聴者も励ましただろうが、一方で現役の同業者たちをも励ましたのではないか。
2005年10月3日(月)
関口宏のバランス感覚
様々な週末報道番組の中で
 土日週末に放送される各局の報道番組は、午前の「ウェーク!」「ザ・サンデー」(日テレ)、「サンデープロジェクト」(テレ朝)、「ワッツ!?ニッポン」(フジ)、午後の「真相報道バンキシャ!」(日テレ)、夜の「ブロードキャスター」(TBS)など様々だ。


 特ダネと言って妙に肩に力が入ったり、キャスターが偉そうに意見を押し付けたり、どうでもいい話題を仰々しく膨らませたり、時事問題をエンターテイメント的に扱ったりと、どこかしら欠陥が気になる番組が多い中で、関口宏の「サンデーモーニング」(TBS)は、毎週日曜の朝食事時に見ている好きな番組だ。

 大沢親分と張本のスポーツコーナーも面白いが、ここでは時事(週間の動き、特集)のメインコーナーについて、この番組の優れた点を上げたい。

コメンテーターの人選に見るバランス感覚
 まず、なんと言っても番組のバランス感覚がいい。これは第一にコメンテーターの顔ぶれから来るものだと思う。
 番組には常時5人程度が出演するが、それぞれ政治、経済、国際、朝鮮などの「専門家グループ」、写真家、造園家、作家、ジャーナリスト、評論家などの「視聴者代表的なグループ」、それに情報通の政治記者(岸井)といった取り合わせがいい。

 また、(一定の許容範囲で)右から左まで多様な論客を常時10人以上プールし、毎週顔ぶれを変えている。中道的な常連がいる一方で、右も左もかなり過激なことを言うコメンテーターもいる。
 こうした多様なコメンテーターを揃えているのは、制作陣(関口宏)の、番組に幅を持たせると言う明確な意志とバランス感覚だと思う。


コメンテーターのコメント
 事前にテーマを知らされているのだと思うが、コメンテーターたちは他の番組のように出たとこ勝負でなく、言うべきポイントを練ってきている感じがする。(全部が全部ではないが)短いコメントに勝負をかけている感じがいい。

 今回の選挙に関して言えば、他の報道番組が連日大騒ぎした出来事(刺客や注目選挙区騒動)に距離を置いて報道していたのにも感心した。週一という優位性もあったが、特に田中秀征氏のコメントが光っていたし、現場に詳しい岸井記者のフォローも効いていた。
 
 郵政一本の選挙に疑問を呈し、早く政策論議に移るべきだといい、返す刀で民主党に苦言を呈し、注目選挙区は全体の一割に過ぎないのだから全体を見るべきだ、などなどそのコメントはなかなか聞き応えがあった。


関口宏の自然体、普通人のバランス感覚
 この番組は普段から「視聴者と一緒に考えるべき大事なテーマを取り上げる」と言う精神に徹しているのがいい。視聴率の取れそうな話題だからといって無理にとりあげたりしない。
 スタート直後こそ派手さが無く視聴率的にも苦労したようだが、今では(スポーツコーナーの人気もあるだろうが)同時間帯でトップになった。制作陣の強いこだわり、あるいは我慢強さがなければ、こういう展開は難しかったと思う。

 関口宏の自然体と普通人のバランス感覚がいい。
 視聴者と殆ど同じ(あるいは先を行っても半歩以下)場所からものをいう庶民感覚、素朴な疑問も素通りしないで確かめたがること、一家言あるコメンテーターの意見のぶつかり合いを面白がる懐の深さ、肩の力が抜けた自然体がいい。

 これらは長年キャスターを続けて大物意識を持ったとたんに難しくなることばかりだ。テレビ界の大物がごく普通の人間であり続けることは、常日頃の自覚がなければ難しいことなのだ。


 と、書いている最中に関口宏の報道新番組「ザ・真相5」(テレビ東京)が始まったらしい。関口宏をほめ過ぎたのかどうか、楽しみにしよう。
2005年9月25日(日)
NHKスペシャル「ひとり団地の一室で」

 10月の番組改定期を前にして民放各局は、連夜長時間のスペシャル番組を編成。
 視聴率だけをねらった低俗なバラエティー番組が並ぶ中で、24()で言えば、「世界一受けたい授業・秋の特別講習」(日テレ)と倉本聰ドラマスペシャル「祇園囃子」が実力を発揮していた。

 その同じ時間帯で私はNHKスペシャルのドキュメンタリー「ひとり団地の一室で」を身につまされながら見た。地味ながら重い衝撃を持つ番組だった。

孤独死予備軍
 高度成長期に憧れの団地としてもてはやされた千葉県松戸市の大団地。今や建物も老朽化し、住人も高齢化している。この団地には今、月3万と言う安い家賃に引かれて、リストラ、失業、離婚、体の障害などで一人暮らしを余儀なくされた男性たちが吹き寄せられるように移り住んできている。

 近所との付き合いも無く、収入も無く僅かな貯金を取り崩しながら、生きる張り合いもなくして、ひっそりと暮らす男性たち。そしてまだ
40代、50代、60代の若さで団地の一室で誰にも看取られること無く死んでいく。この3年間に21人もの男性が孤独死した。
 
 番組は団地での孤独死を防ぐために活動を始めたボランティア組織「まつど孤独死防止センター」の老人ボランティアたちと独居男性たちとの交流を追っている。ボランティアたちは、当初からの住人が多く今や70歳代。その老人たちが自分たちより20歳も若い、孤独死予備軍の男性たちの相談に乗っている。
 センターの呼びかけに応じた男性の一人は「もう4ヶ月も人と口をきいていない」という。

テレビの目線
 テレビは華やかな成功者や恵まれた人々か、さもなければ事件を起こした犯罪者だけを取り上げるのではない。そのハザマで様々な悩みを抱えながら生きている弱い人々にも目を向けるべきだし、ドキュメンタリーの使命の一つはそこにある。


 ただ問題は、普段は浮き足立った現実離れの世界ばかりを追っているテレビ界(特に民放)が、たまに弱者を取り上げたときに、違和感無く弱者と同じ立場に立てるかどうか、行政や社会的強者の目になっていないか、だ。
 これは単にディレクターの問題ではなく、テレビ局の普段からの姿勢にも関係してくる。

 NHKの番組はこの点でしっかりしていたし、これをNHKスペシャルにもってきたテレビ局の姿勢も評価したい。

社会問題の象徴としての現場に目をつける
 団地で一人暮らしをする彼らの前身は会社の経営者だったり、サラリーマンだったり、運転手や技術者だったりと、ごく普通の人々だ。我々だっていつそうなるか分からない紙一重の所に生きている。
 この番組を見ると日本社会の安全ネットは、いろんな点でまだ極めて不十分だという事がわかる。問題がこの団地の現場に象徴されているのだ。

 この番組は弱者と同じ目線を持てたことと同時に、今の日本の社会問題が集約された現場としてあの団地を見つけてきた「目の付け所」も評価したい。

 このテーマは持続的に深めていけば、さらなる広がりが見えてくるテーマだと思う。

2005年7月13日(水)
再び ザ・ノンフィクション 長期取材がものを言う
二回にわたってザ・ノンフィクションを取り上げる。(ちょっと偏っているか?)
7月10日放送のザ・ノンフィクションは「12歳 花の応援団」物語。
中学に入ったばかりの12歳の少年二人が伝統(明治)の応援団に入団して
地獄の特訓を受けながら劇的に変わっていくドキュメント。

何より素材がいい。今時はやらない応援団に入団した2人は、小柄で、ひ弱で、気の弱そうな秀才タイプとボーっと大きくなったドカベンタイプ。この2人の凸凹コンビが先輩たちの伝統の(時代錯誤的な)しごきに耐えて応援団員として一人前になっていく。

このしごき(特訓)が並大抵のものではない。2人の少年がいつ音を上げるのか。親の方のはらはらぶりも同時に取材してバランスよく入れている。
途中、2人して退団を決意するも何とか乗り越えて一年。この間、少年たちがどんどん変わっていくのが分かる。
年が明けて4月、先輩として新入生を迎える頃になると、2人の顔つきが見違えるようにきりっとしてくる。限界に耐えることによって12歳の少年はこうも変わるものかという新鮮な驚きが、一番の「おみやげ」である。
12歳に眼を付けた所が成功の要因でもある。まだ、あどけない少年から「何者か」(それを言葉ではとても表現できない)へ、その変化を映像として記録しただけで価値あるドキュメントなのだ。

このドキュメントを見て私は、だから、甘やかされて放任されている今の若者も厳しくしつけるのがいい、などと言うつもりはない。韓国のように徴兵制あれば日本の若者も少しはきりっとする、とも言うつもりもない。(本当は言いたいけど)

言いたいのは、長期取材の重要性である。番組は1年以上にわたって、応援団の少年たちを追った。あの劇的変化は長期取材のたまものである。制作の過程では多分いろいろな困難があったろうと思うが、長期取材の成果を示した番組である。

4月22日に放送された「桜の花の咲く頃に」(フジ)もそうだが、ドキュメンタリーの成功の条件の一つが長期取材にあるということを物語る番組が続いていることに、拍手を送りたい。
2005年7月2日(土)
 ザ・ノンフィクション 荒れる学校改革

フジテレビの「ザ・ノンフィクション」はときおり見る好きな番組である。こんな番組が残っている舞台裏事情もほぼ分かった上で見ている。

先日の日曜日に見た「ザ・ノンフィクション 荒れる学校改革」は、東京の私立高校の改革に取り組む経営者のドキュメントである。
私立高校のオーナーはレストランチェーンの渡辺社長。教育改革に熱意を持っている。彼がヘッドハンティングした小林校長の奮戦と教職員の対応を追ったもの。

オーナーと校長が掲げる教育改革が、あと○年で東大合格20人、という目標だったりするのはちょっとずれていると思うが、経営者としてはそれが分かりやすい目標なのだろう。その目標達成に向けて、教えのプロとは何か、規律とは何かを校長が強権的に徹底していく。学校改革を進める上での一つのパターンである。やがて目標達成へのやりかたを巡って、オーナーと校長の考えがぶつかる。

面白かったのは、教育現場という閉ざされた空間での心理劇である。強権校長、教員、オーナーが三者三様に軋轢を深めていく。カメラは密着してそれを追う。いろんなドラマが展開されるが、私はそこに教育現場の特異性を見る。教室も教職員室も閉ざされた空間である。そこでは人間がだんだんその異常さに気づかなくなるのだ。

父兄にも生徒にも近隣にも開かれていない教育現場。番組では生徒たちも声を上げる存在としては、ほとんど登場しない。経営者と校長と教員だけの教育改革だ。
番組は、中途で辞職に追い込まれた校長が、数ヵ月後つきものがおちたような顔で、「あのときは眼がつりあがってちょっとおかしかった」と回顧するシーンがある。

教育番組はだから難しい。教育というものをどう考えるか、そもそもが難しいテーマだからだ。
皆一生懸命だけれど、閉ざされた空間でどこか異常に密度の濃い人間劇になってしまう。ある意味、宗教の教団に似ている。
教育をどんな土俵の上で考えていくべきなのか、番組はそこまでの問題提起は行っていない。しかし、教育問題の難しさを実感させるドキュメントだった。

2005年7月2日(土)
 つるべの家族に乾杯
 この番組はぶっつけ本番で全国の田舎町にやってくる。そこには100歳に近いお年よりが沢山いて、その元気なお年寄りを囲むようにして典型的な日本の庶民がいる。
 番組にでてくるお年寄りの元気の秘訣は何か。多分心優しい家族に囲まれたお陰もあるだろう。元気なお年寄りを支える家族は皆素晴らしい。

私はそこに日本人の底力を見る思いがする。

 あるとき、100歳近いお年寄りが元気に畑仕事をしていた。つるべが「元気ですね」と声をかけたときのおばあさんの返事はちょっと感動ものだった。おばあさんは自分の胸を指しながら。
「胸に心配事が何にもありませんから」。

 今の日本でこれだけはっきりと胸に何一つ心配事や不満や不安が無いと言える人間が果たしてどれだけいるだろうか。
続けて「家族が皆よくしてくれるし」。

 テレビは今競うようにして、「勝ち組」だの「セレブ」だのと、いわゆる庶民の暮らしからは縁遠い、都会のファッション情報、グルメ情報、お宅拝見などと、浮き足立った流行を追う番組が花盛り。
そんな中、この番組を見ると、昔から日本人はこのようにして生きてきたし、まだこのようにして生きているのだということに感動を覚える。

 自然の中で大地に足を下ろし、自足している日本人がそこにいる。田舎に行くからこそ成立している番組である。
 田舎にいくからこそ成立する番組は他にもいろいろある。番組企画の隠れた鉱脈かもしれないとも思っている。「メディア時評、田舎の底力」で考えてみたい。

                                                                            

   
テレビ番組批評

            私のレビ番組批評
                  
2005年12月13日(火)
人間の素晴らしさ
 かつて番組作りの現役だった頃。先輩や同僚の制作したドキュメンタリーを見て感動し、思わず「自分も同じテレビの仕事に携わっていて本当に良かった。」と嬉しくなったことがある。そういうことは過去何度もあった。
 いい番組は視聴者に感動を与えるが、同じテレビ制作者たちにも大きな励ましと喜びを与えてくれる。テレビの可能性を実感させてくれるそういう素晴らしい番組に励まされながら、テレビ屋は仕事を続けていくといってもいい。

「命の再生」を見つめる
 124日(日)放送のNHKスペシャル「脳梗塞からの“再生”〜免疫学者・多田富雄の闘い」は免疫学者・多田富雄(東大名誉教授)の人間としての素晴らしさをしみじみと感じさせるドキュメンタリーだった。
 彼は4年前に突然脳梗塞で倒れ、話すことも、うまく飲み込むことも、右手を使うことも、歩くことも出来なくなった。一時は安楽死も考えるが懸命なリハビリの中で研究者として自分の「命の再生」を見つめ始める。

 「命の再生」と言っても機能回復とは少し違う。毎日懸命に生きる中で見えてくる精神活動の芽吹きを見つめることである。どん底の苦しさの中で、最早人間としてすべてのものを失ったと思った時に、なお芽吹いてきた精神活動のみずみずしさ。自分の過酷な「運命」に抗しながらも、それは実に静かな、しかし粘り強い努力の中から見えてきたものである。

メインテーマから目をそらさない
 多田富雄は自分の脳内の精神世界を見つめながら、思うに任せぬ体でこの4年間に6冊の本を出版し、若い学者たちを指導し、加えて広島の原爆をテーマにした創作能に挑む。
 番組は、その活動の一つ一つを追いはするが、メインテーマである「命の再生」から目をそらさない。多田富雄が
生命の限界の中で見つけつつあるものが何なのか、そこに迫ろうとする。多田の努力の方向と番組の追求が一致している。被取材者と取材者の息がぴったり合っている。

 しかし、多田がみつけたものが何なのか、はっきりとは分からない。彼の生きる姿から圧倒的な存在感で伝わってくるだけだ。
 パソコンに入力された多田の合成音声がいう。「今は苦しい。しかし、今の方が良く生きている。」 過酷な運命の中で懸命に手繰り寄せた一つの境地とも言えるだろう。

 一人のディレクターがこのような対象者に出会うことは何回もないだろうが、彼女はそのチャンスを確実に生かした。人間の素晴らしさを感じさせるこのドキュメンタリーは、視聴者も励ましただろうが、一方で現役の同業者たちをも励ましたのではないか。
2005年10月3日(月)
関口宏のバランス感覚
様々な週末報道番組の中で
 土日週末に放送される各局の報道番組は、午前の「ウェーク!」「ザ・サンデー」(日テレ)、「サンデープロジェクト」(テレ朝)、「ワッツ!?ニッポン」(フジ)、午後の「真相報道バンキシャ!」(日テレ)、夜の「ブロードキャスター」(TBS)など様々だ。


 特ダネと言って妙に肩に力が入ったり、キャスターが偉そうに意見を押し付けたり、どうでもいい話題を仰々しく膨らませたり、時事問題をエンターテイメント的に扱ったりと、どこかしら欠陥が気になる番組が多い中で、関口宏の「サンデーモーニング」(TBS)は、毎週日曜の朝食事時に見ている好きな番組だ。

 大沢親分と張本のスポーツコーナーも面白いが、ここでは時事(週間の動き、特集)のメインコーナーについて、この番組の優れた点を上げたい。

コメンテーターの人選に見るバランス感覚
 まず、なんと言っても番組のバランス感覚がいい。これは第一にコメンテーターの顔ぶれから来るものだと思う。
 番組には常時5人程度が出演するが、それぞれ政治、経済、国際、朝鮮などの「専門家グループ」、写真家、造園家、作家、ジャーナリスト、評論家などの「視聴者代表的なグループ」、それに情報通の政治記者(岸井)といった取り合わせがいい。

 また、(一定の許容範囲で)右から左まで多様な論客を常時10人以上プールし、毎週顔ぶれを変えている。中道的な常連がいる一方で、右も左もかなり過激なことを言うコメンテーターもいる。
 こうした多様なコメンテーターを揃えているのは、制作陣(関口宏)の、番組に幅を持たせると言う明確な意志とバランス感覚だと思う。


コメンテーターのコメント
 事前にテーマを知らされているのだと思うが、コメンテーターたちは他の番組のように出たとこ勝負でなく、言うべきポイントを練ってきている感じがする。(全部が全部ではないが)短いコメントに勝負をかけている感じがいい。

 今回の選挙に関して言えば、他の報道番組が連日大騒ぎした出来事(刺客や注目選挙区騒動)に距離を置いて報道していたのにも感心した。週一という優位性もあったが、特に田中秀征氏のコメントが光っていたし、現場に詳しい岸井記者のフォローも効いていた。
 
 郵政一本の選挙に疑問を呈し、早く政策論議に移るべきだといい、返す刀で民主党に苦言を呈し、注目選挙区は全体の一割に過ぎないのだから全体を見るべきだ、などなどそのコメントはなかなか聞き応えがあった。


関口宏の自然体、普通人のバランス感覚
 この番組は普段から「視聴者と一緒に考えるべき大事なテーマを取り上げる」と言う精神に徹しているのがいい。視聴率の取れそうな話題だからといって無理にとりあげたりしない。
 スタート直後こそ派手さが無く視聴率的にも苦労したようだが、今では(スポーツコーナーの人気もあるだろうが)同時間帯でトップになった。制作陣の強いこだわり、あるいは我慢強さがなければ、こういう展開は難しかったと思う。

 関口宏の自然体と普通人のバランス感覚がいい。
 視聴者と殆ど同じ(あるいは先を行っても半歩以下)場所からものをいう庶民感覚、素朴な疑問も素通りしないで確かめたがること、一家言あるコメンテーターの意見のぶつかり合いを面白がる懐の深さ、肩の力が抜けた自然体がいい。

 これらは長年キャスターを続けて大物意識を持ったとたんに難しくなることばかりだ。テレビ界の大物がごく普通の人間であり続けることは、常日頃の自覚がなければ難しいことなのだ。


 と、書いている最中に関口宏の報道新番組「ザ・真相5」(テレビ東京)が始まったらしい。関口宏をほめ過ぎたのかどうか、楽しみにしよう。
2005年9月25日(日)
NHKスペシャル「ひとり団地の一室で」

 10月の番組改定期を前にして民放各局は、連夜長時間のスペシャル番組を編成。
 視聴率だけをねらった低俗なバラエティー番組が並ぶ中で、24()で言えば、「世界一受けたい授業・秋の特別講習」(日テレ)と倉本聰ドラマスペシャル「祇園囃子」が実力を発揮していた。

 その同じ時間帯で私はNHKスペシャルのドキュメンタリー「ひとり団地の一室で」を身につまされながら見た。地味ながら重い衝撃を持つ番組だった。

孤独死予備軍
 高度成長期に憧れの団地としてもてはやされた千葉県松戸市の大団地。今や建物も老朽化し、住人も高齢化している。この団地には今、月3万と言う安い家賃に引かれて、リストラ、失業、離婚、体の障害などで一人暮らしを余儀なくされた男性たちが吹き寄せられるように移り住んできている。

 近所との付き合いも無く、収入も無く僅かな貯金を取り崩しながら、生きる張り合いもなくして、ひっそりと暮らす男性たち。そしてまだ
40代、50代、60代の若さで団地の一室で誰にも看取られること無く死んでいく。この3年間に21人もの男性が孤独死した。
 
 番組は団地での孤独死を防ぐために活動を始めたボランティア組織「まつど孤独死防止センター」の老人ボランティアたちと独居男性たちとの交流を追っている。ボランティアたちは、当初からの住人が多く今や70歳代。その老人たちが自分たちより20歳も若い、孤独死予備軍の男性たちの相談に乗っている。
 センターの呼びかけに応じた男性の一人は「もう4ヶ月も人と口をきいていない」という。

テレビの目線
 テレビは華やかな成功者や恵まれた人々か、さもなければ事件を起こした犯罪者だけを取り上げるのではない。そのハザマで様々な悩みを抱えながら生きている弱い人々にも目を向けるべきだし、ドキュメンタリーの使命の一つはそこにある。


 ただ問題は、普段は浮き足立った現実離れの世界ばかりを追っているテレビ界(特に民放)が、たまに弱者を取り上げたときに、違和感無く弱者と同じ立場に立てるかどうか、行政や社会的強者の目になっていないか、だ。
 これは単にディレクターの問題ではなく、テレビ局の普段からの姿勢にも関係してくる。

 NHKの番組はこの点でしっかりしていたし、これをNHKスペシャルにもってきたテレビ局の姿勢も評価したい。

社会問題の象徴としての現場に目をつける
 団地で一人暮らしをする彼らの前身は会社の経営者だったり、サラリーマンだったり、運転手や技術者だったりと、ごく普通の人々だ。我々だっていつそうなるか分からない紙一重の所に生きている。
 この番組を見ると日本社会の安全ネットは、いろんな点でまだ極めて不十分だという事がわかる。問題がこの団地の現場に象徴されているのだ。

 この番組は弱者と同じ目線を持てたことと同時に、今の日本の社会問題が集約された現場としてあの団地を見つけてきた「目の付け所」も評価したい。

 このテーマは持続的に深めていけば、さらなる広がりが見えてくるテーマだと思う。

2005年7月13日(水)
再び ザ・ノンフィクション 長期取材がものを言う
二回にわたってザ・ノンフィクションを取り上げる。(ちょっと偏っているか?)
7月10日放送のザ・ノンフィクションは「12歳 花の応援団」物語。
中学に入ったばかりの12歳の少年二人が伝統(明治)の応援団に入団して
地獄の特訓を受けながら劇的に変わっていくドキュメント。

何より素材がいい。今時はやらない応援団に入団した2人は、小柄で、ひ弱で、気の弱そうな秀才タイプとボーっと大きくなったドカベンタイプ。この2人の凸凹コンビが先輩たちの伝統の(時代錯誤的な)しごきに耐えて応援団員として一人前になっていく。

このしごき(特訓)が並大抵のものではない。2人の少年がいつ音を上げるのか。親の方のはらはらぶりも同時に取材してバランスよく入れている。
途中、2人して退団を決意するも何とか乗り越えて一年。この間、少年たちがどんどん変わっていくのが分かる。
年が明けて4月、先輩として新入生を迎える頃になると、2人の顔つきが見違えるようにきりっとしてくる。限界に耐えることによって12歳の少年はこうも変わるものかという新鮮な驚きが、一番の「おみやげ」である。
12歳に眼を付けた所が成功の要因でもある。まだ、あどけない少年から「何者か」(それを言葉ではとても表現できない)へ、その変化を映像として記録しただけで価値あるドキュメントなのだ。

このドキュメントを見て私は、だから、甘やかされて放任されている今の若者も厳しくしつけるのがいい、などと言うつもりはない。韓国のように徴兵制あれば日本の若者も少しはきりっとする、とも言うつもりもない。(本当は言いたいけど)

言いたいのは、長期取材の重要性である。番組は1年以上にわたって、応援団の少年たちを追った。あの劇的変化は長期取材のたまものである。制作の過程では多分いろいろな困難があったろうと思うが、長期取材の成果を示した番組である。

4月22日に放送された「桜の花の咲く頃に」(フジ)もそうだが、ドキュメンタリーの成功の条件の一つが長期取材にあるということを物語る番組が続いていることに、拍手を送りたい。
2005年7月2日(土)
 ザ・ノンフィクション 荒れる学校改革

フジテレビの「ザ・ノンフィクション」はときおり見る好きな番組である。こんな番組が残っている舞台裏事情もほぼ分かった上で見ている。

先日の日曜日に見た「ザ・ノンフィクション 荒れる学校改革」は、東京の私立高校の改革に取り組む経営者のドキュメントである。
私立高校のオーナーはレストランチェーンの渡辺社長。教育改革に熱意を持っている。彼がヘッドハンティングした小林校長の奮戦と教職員の対応を追ったもの。

オーナーと校長が掲げる教育改革が、あと○年で東大合格20人、という目標だったりするのはちょっとずれていると思うが、経営者としてはそれが分かりやすい目標なのだろう。その目標達成に向けて、教えのプロとは何か、規律とは何かを校長が強権的に徹底していく。学校改革を進める上での一つのパターンである。やがて目標達成へのやりかたを巡って、オーナーと校長の考えがぶつかる。

面白かったのは、教育現場という閉ざされた空間での心理劇である。強権校長、教員、オーナーが三者三様に軋轢を深めていく。カメラは密着してそれを追う。いろんなドラマが展開されるが、私はそこに教育現場の特異性を見る。教室も教職員室も閉ざされた空間である。そこでは人間がだんだんその異常さに気づかなくなるのだ。

父兄にも生徒にも近隣にも開かれていない教育現場。番組では生徒たちも声を上げる存在としては、ほとんど登場しない。経営者と校長と教員だけの教育改革だ。
番組は、中途で辞職に追い込まれた校長が、数ヵ月後つきものがおちたような顔で、「あのときは眼がつりあがってちょっとおかしかった」と回顧するシーンがある。

教育番組はだから難しい。教育というものをどう考えるか、そもそもが難しいテーマだからだ。
皆一生懸命だけれど、閉ざされた空間でどこか異常に密度の濃い人間劇になってしまう。ある意味、宗教の教団に似ている。
教育をどんな土俵の上で考えていくべきなのか、番組はそこまでの問題提起は行っていない。しかし、教育問題の難しさを実感させるドキュメントだった。

2005年7月2日(土)
 つるべの家族に乾杯
 この番組はぶっつけ本番で全国の田舎町にやってくる。そこには100歳に近いお年よりが沢山いて、その元気なお年寄りを囲むようにして典型的な日本の庶民がいる。
 番組にでてくるお年寄りの元気の秘訣は何か。多分心優しい家族に囲まれたお陰もあるだろう。元気なお年寄りを支える家族は皆素晴らしい。

私はそこに日本人の底力を見る思いがする。

 あるとき、100歳近いお年寄りが元気に畑仕事をしていた。つるべが「元気ですね」と声をかけたときのおばあさんの返事はちょっと感動ものだった。おばあさんは自分の胸を指しながら。
「胸に心配事が何にもありませんから」。

 今の日本でこれだけはっきりと胸に何一つ心配事や不満や不安が無いと言える人間が果たしてどれだけいるだろうか。
続けて「家族が皆よくしてくれるし」。

 テレビは今競うようにして、「勝ち組」だの「セレブ」だのと、いわゆる庶民の暮らしからは縁遠い、都会のファッション情報、グルメ情報、お宅拝見などと、浮き足立った流行を追う番組が花盛り。
そんな中、この番組を見ると、昔から日本人はこのようにして生きてきたし、まだこのようにして生きているのだということに感動を覚える。

 自然の中で大地に足を下ろし、自足している日本人がそこにいる。田舎に行くからこそ成立している番組である。
 田舎にいくからこそ成立する番組は他にもいろいろある。番組企画の隠れた鉱脈かもしれないとも思っている。「メディア時評、田舎の底力」で考えてみたい。