天空の青い光

 

                             近藤直子監訳
日大文理学部中国語中国文化学科
2006年度研究ゼミ
市川陽二郎、宇田川竜馬、内海祐輔、北山渓
小林俊介、田沢直人、中村裕仁、吉見雄大

 

阿娥(アーウー)は中庭で強盗ごっこをしていたとき、とがったガラスのかけらで足の裏を切った。血が涌いてきて彼女はたちまち泣きだし、びっこをひきながら家にむかった。後ろでは、子どもたちが今までどおり駆けまわっていて、彼女が去ったのにだれも気づいていない。
 阿娥は家に入るやいなや泣きやみ、箪笥の戸をあけて下の引き出しからぼろきれを探し、足に巻きつけた。血がたえまなく滲みてくるので、もう一枚布を足した。彼女はそうしながらずっとびくびくして耳をそばだて、裏庭で桶の修理をしている父親が入ってきてみつかるのではないかと心配していた。血はまもなく止まったので、阿娥はその血のついた布をほどいてきれいな布を足に巻きなおし、それから立ちあがってその二枚の汚れ布を屑入れに捨てにいこうとした。立ったとたんにドアが開いた。だが入ってきたのは父親ではなく、姉の阿仙(アーシェン)だった。
「それはなに?」姉は居丈高に、いくぶん得意そうに阿娥の足を指差した。
「父さんにはいわないで」阿娥は哀願した。
「こんなに血が出てる! あなたの足! たいへんだ!」阿仙はわざと声をはりあげた。
 一瞬、阿娥は天が崩れるような気がした。あわててその二枚のぼろきれを戸の陰のわら袋につっこむと、ネズミが一匹、中から飛びだしてきて、死に物狂いで逃げていった。何度も力を入れて動かしたせいで、足の裏からまた血がにじみはじめた。阿仙はじっくりと妹を観察すると、身をひるがえして裏庭にむかっていった。父親に告げ口にいったのはわかっていたので、阿娥はびくびくしながら竹の椅子に坐って待った。大嵐が来るにちがいないと思った。ところが待っても待っても父親のほうの動きはない。彼女は思った。父さんは忙しすぎて(朝、桶の修理を頼みに三人も来たのを見ている)、彼女を懲らしめにくる暇がないのではないか。そう思うと少しほっとした。彼女は焚き木小屋に行ってその一日を過ごすことにした。そして行きがけに例の二枚の汚れ布を戸の裏のわら袋から取り出し、びっこをひきながら石段を下りてすぐさまごみ桶に投げ捨て、枯葉を二枚ひろって上にかぶせた。
 焚き木小屋は家から十メートルほどのところにあり、中には阿娥が以前から馴染みの灰色ネズミが住んでいる。小屋のすみのわら屑とぼろ屑でできたその巣を見ると、阿娥の心に暖かいものがこみあげてきた。中に何匹か子ネズミがいるのはわかっている。何日か前に生まれてまだ目も開いていない。きのうは灰色ネズミがえさを探しにいったすきに、あのほとんど透明のちびすけをこっそり見たのだった。阿娥は巣から離れたところに腰をおろした。小屋にいても阿仙の声がきこえる。父さんといったい何を話しているのだろう。自分を懲らしめる相談をしているのかもしれない。目の前の中庭では、強盗ごっこの子どもたちがわいわい騒いでいる。
昼すぎになると、お腹がぐうぐう鳴り出してとうとう我慢できなくなり、阿娥はこっそり家に忍びこんでご飯を食べようと思った。台所に入ると阿仙が茶碗を洗っていた。阿仙はさも疑わしげに彼女をにらんだ。
 「ご飯もおかずも戸棚にとってあるわ。父さんがずっと心配してたわよ。わたしたち、あなたになにかあったのかと思っていた!」
 阿仙はやけにやさしい声になり、まるで機嫌をとろうとでもしているようだ。阿娥はすっかりうれしくなった。阿仙が手早くおかずを食卓に並べてくれたので、そこに腰をおろし、夢でも見ているような気持ちでがつがつと食べながら、姉がそばで話すのを聞いた。
 「阿娥、父さんはあなたが破傷風で死ぬというの。どう思う? 母さんは破傷風で死んだのだものね。わたしはずっと、あんな野育ちのこどもたちと遊んではだめといっていたのに、どうしていうことを聞かなかったの? 実はわたしは、垣根のところにガラスのかけらがたくさんあるのはとうに知っていたの。だってわたしが去年、あそこで酒瓶を割ったんだもの。ただ、こんなに早くあなたがけがをするとは思いもしなかった。でもね、話をもどすと、あなたが今度けがをしたのが、わたしは死ぬほどうらやましいの。昼前、あなたの足があんなに腫れているのを見て、わたしは父さんのところに飛んでいったわ。父さんはちょうど桶に箍(たが)をはめていて、顔もあげずに、割れた酒瓶で切ったのじゃないかというの。おまけに、あの酒瓶には毒酒が入っていたから、これであなたは死から逃がれられないというの。その話にすっかり動転してまったけれど、ちょっと落ち着いたら、あなたが花を描くのに使っているあの型板を思いだしたの。ねえ、いっそあれをわたしにあずけなさいよ。どうせ使えなくなるんだし。あなたが小梅(シャオメイ)と仲良しで、彼女から型板をもらったのは知ってるけど、もしあなたが欲しがらなければ、わたしにくれたにきまっているわ、そうでしょう? あなた、今ごろあんなものをもっていてどうするの?
 阿仙はそういって眉をひそめ、なにやら合点がいかない風でもあり、なにやら企んでいるようでもあった。阿娥が茶碗を洗って部屋に帰ろうとしたとき、阿仙はまだかまどのそばばか笑いしていた。阿娥は知らん顔でひとりで先に寝室にもどった。そこは彼女と阿仙ふたりの寝室で、ふたつのベッドが向きあって置いてあり、間に衣装箪笥がある。昼前、阿娥はその箪笥の下の引き出しから布切れを探して包帯にしたのだった。彼女はまたその戸を開け、鍵を出して端の鍵のかかった引き出しを開け、あの型板を取りだした。型板は桃の木でできた、すべすべして赤みがかった四枚組で、四種類の花を描くことができる。どれも枕カバーの刺繍に使うものだが、小梅がいうには母親から盗んだもので、二三日前は母親があちこち探し回っていたという。阿娥はまだ刺繍はできなかったが不思議な型板にうっとりし、暇さえあれば鉛筆で古新聞に花を描いていた。一枚一枚できていくその感じはなんともいえずすばらしいものだった。彼女はその型板をしばらくいじってから、注意深くクラフト紙の袋にしまい、それから鍵をかけた。傷口がかすかにうずくが、もう出血はない。
 阿娥は阿仙がいったことを思い返してふとぎょっとした。まさか、わたしが本当に死ぬのだろうか? さっきは阿仙が大げさにいっているとばかり思っていたけれど(阿仙は決して嘘はつかない)。父さんもだ。いつも彼女と阿仙が悪いことをするたびに平手打ちをくらわせるのに、今回は本当に例外だった。父さんが自分を大目に見てくれたから、阿仙は「死ぬほどうらやましい」といったのだろうか? それに父さんはまたどうして毒酒の瓶を家の周りに投げておいたりしたのだろう? 阿我にはどうも合点がいかなかったが、考えるのが面倒だった。彼女の一貫した方法は時間をやり過ごすことだった。「ここしばらくをやりすごせば、なんでもなくなる」彼女はいつも自分にこういい聞かせた。ときにまずいことが起きると、彼女はすぐさま焚き木小屋に行って隠れてそのうちに眠ってしまい、目が覚めるともうそのことはすっかりぼやけているのだった。
 今日阿仙が話したことは、ひょっとしたらただごとでないのかもしれない。阿娥はあのときはなぜかべつにあわてなかったが、今部屋にもどってまた思い返してみて、ようやくひそかに少し心配になった。また自分が心配していることを、阿仙に気付かれるのも心配だった。彼女はベッドの上に坐り、足の包帯をほどいてよく見てみたが、傷口に何か異常があるようにはみえなかった。彼女は思った。もしかするとあのガラスはもともと毒の酒瓶のものでなどなかったかもしれない。それを親父さんと姉さんはそうだと決めつけた、まったく不思議な決めつけだ。阿娥は村の入り口まで歩いていこうと決意した。村の入り口までたどり着けさえすれば、まったく問題はないといえる。もうすぐ死ぬ人間が、どうして村の入り口にたどり着けよう?
 父親が追いかけてきたときには、阿娥はすでに焚き木小屋を通り過ぎ、もうじき小梅の家の戸口に着くところだった。
「お前、死にたいのか、早く帰って寝ていろ!」父親は荒々しくどなった。
「わたし、ぴんぴんしてるのに……」阿娥は小声で弁解した。
「ぴんぴんしてるだと! これからが見ものだな!」
父親はけわしい顔をくずさず、阿娥はそれを観察する度胸もないまま、鼠のように道の隅っこを逃げていった。「どこへ行く、どこへ行く! 生きるのが嫌になったか!さっさと寝床へ死にに行け!外で死んでも誰も死体を片付けてはくれんぞ!」
 父親に追われ罵られているうちに、阿娥はもうびっこを引かなくなり、急いで家に帰った。戸を開けると、阿仙が型板を入れた引き出しの鍵穴をいじっているところだった。一本の針金を鍵穴にひっかけていたが、戸が開く音を聞くとすぐに針金を投げ捨て、顔を赤らめた。
「そんなに待ちきれないの? どうせわたしはすぐ死ぬんでしょうが」
 阿仙はバンと音を立てて箪笥の戸を閉め、怒って出ていった。どうせまた父さんを探しに行ったのだ。不思議なことに、父さんは決して阿仙が好きではなく、二人の姉妹を比べればむしろ阿娥の方を気に入っている。ところが阿仙ときたら、小さいときからずっとたゆみなく父さんに取り入ろうとしてきており、どなられても怒られてもめげなかった。
 阿娥は自分のベッドに横になると目を閉じて無理矢理眠ろうとし、早く寝つこうとした。しばらくしてまどろんできた。彼女は夢の中である森に迷い込み、出られなくなった。森の中はとても寒く、まわりには蒼天の大木が生い茂っている。彼女はたて続けに何回もくしゃみをした。ふと下を見ると足に竹の棒が突き刺さっている。自力ではその場を動けず、しばらく何とも形容しがたい刺すような痛みがして、彼女は甲高い叫びをあげ、そこで目が覚めた。 髪の毛は汗びっしょりだが、足の傷は痛くはない。どういうことなのだろう? 夢の中でだれか別な者がとがった竹を踏んで、そのだれかが死のうとしているのだろうか? 足は痛くないが、夢の中の痛みは深く記憶に残っている。窓の外の箱柳の木が風に吹かれてサワサワと鳴っている。阿娥はまたあの夢にもどるのがこわかったけれど、なぜか、またもどっていくつかのことをはっきりさせたいとも思った。こうしてどっちつかずでうとうとしていたが、彼女はとうとう目を醒ました。阿仙が台所で茶碗をこわし、大きな音をたてたからだ。
 阿娥は台所に阿仙の手伝いに行き、米を研ごうとした。ところが阿仙はにわかに気遣いを見せ、彼女の手から鍋をひったくって「休んでて、休んでて」という。阿娥の胸は疑いでいっぱいになった。阿仙は休みなく手を動かしている。阿娥は傍で見ていてその熟練した仕事ぶりをうらやましく思った。自分にはとても見習えない。今、阿仙はわきめもふらずにこねた石炭粉を火挟みで転がして小さな団子にし、かまどの胴のまわりにひとつずつ積み上げている。その器用な右手はまるで火挟みとつながっているかのようで、阿仙は少し得意げな様子だった。
「阿仙、わたし、不思議な夢を見たの。自分が死ぬ夢を見たの。」阿娥は堪えきれずにいった。
「しーっ!父さんに聞かせないで」
「それはただの夢よ。」 阿仙はまたつけ加えた。「そうは思えないでしょう?」彼女は探るように阿娥を見ると、また顔を伏せて仕事をした。
 晩御飯のとき、父親はひとことも口をきかず、皆が食べ終わり、阿仙が立ち上がって食器を片付けけはじめたとき、ようやく口を開いた。
「阿娥はもう外に出るな」
「わたしはぴんぴんしてるよ。どこも悪くない!」
 阿娥は顔を真っ赤にしていい返した。父は相手にせず、手をひとふりして行ってしまった。
「本当に馬鹿ね!」阿仙はそういって阿娥の手から茶碗をひったくった。「行って休みなさい!」
 小梅の家には明かりがついていて、家族ががつがつとご飯を食べているところだった。阿娥が入っていくと小梅はそっけなくうなずいて待っているようにと合図したきり、もうこっちを見ようともしない。食べているのはカボチャ粥とお焼きで、みな顔じゅうに汗をかき、小梅の二人の弟はどんぶりに顔をうずめている。父親と母親も阿娥には目もくれず、どちらも少し怒ったような顔をしている。阿娥は壁にもたれて長いこと立っていた。家族は食べ終わるとみな部屋にひっこみ、小梅だけが残って食卓の後片付けをしている。阿娥は思った。小梅はちょっとおかしい、父親も母親もいなくなったというのに、どうしてわたしのほうを見ないのだろう、と。小梅は茶碗を重ねて両手で持ち、台所に運んでいく。阿娥も後について行くと、思いもよらないことに、小梅は台所で台拭きをとるなりまた回れ右して引き返してきて、そこで阿娥とぶつかった。
「早く行きなさいよ、さっさと行って! 後でわたしがあなたのところへ行くから」彼女は急いでそういうと、力づくで阿娥を扉の外へ押しやった。
 阿娥は小梅の家の石段の上で転んでしまった。身を起こしてすぐに足を調べてみたら、幸い傷はなんともない。顔を上げると小梅がいらいらして手で合図しており、小声で叫んだ。「早く行って、早く行ってよ!」そして中にひっこんだきり、二度と出てこなかった。
 阿娥は今や、本当に少し危険を感じ、父のいいつけとそのときの態度を思い出して、思わず身震いした。あたりは夜の帳に包まれ、真っ暗ななかを、ふたりの人がカンテラを持ってそそくさと歩いている。ふたりはすぐに阿娥のそばを通り過ぎ、ひとりがこういうのが聞えた。「急げばなんとか間に合うものだ。昔、おれの実家の者が……」
 阿娥が立ち上がって家に戻ろうとしたとき、阿仙が駆けつけてきた。彼女は息を切らせながら阿娥に顔を寄せていった。
「わたし、ひとりで家にいられないの」
「父さんがぶつの?」
 阿仙は力いっぱい首を横にふった。
「どうしたのよ?」
「家であなたのこと考えていたら、だんだん怖くなったの。あなたはどうしていつも外をうろうろしているのよ? だけど外はいいわね、こんなに暗いけど、もうこわがらなくてもよくなったみたい」
 彼女はいたわるように阿娥の手を取って、いっしょにゆっくりと道を歩いてくれ、阿娥はすっかり感激した。以前からずっと阿仙はでたらめをいっており、父親が自分に反対するようにけしかけているとばかり思っていたが、今この一刻に戸惑いを覚えた。もしかしたら阿仙は本当に自分よりも物事がわかっていて、自分がまるで知らないことを知っているのではないだろうか? どうして自分がやるべき家事を全部取り上げて代わりにやってくれたのだろう? 阿仙は幼い頃から頭脳明晰ではかりごとに長けていて、そのことはもう何度も思い知らされている。そう思うと、なんだか阿仙にすがりたいような気がしてきた。阿娥は彼女の手をぎゅっと握りしめ、心の中でつぶやいた。 
「万一なにかあっても、阿仙が立ち向かってくれるのではないか?彼女はあんなに優しいし、なんでも自分のためにうまく取り計らってくれる。やはり彼女に頼るべきだろう」
 考えているうちに、阿娥はふと気づいた。自分はずっと阿仙の後について歩いていたが、べつに遠くには来ておらず、小梅の家の周りをぐるぐる回っていただけなのだ。もはや、道には人っ子ひとりおらず、山から吹いてくる風は歌をうたってっいるようだった。阿仙はずっと黙っている。一体なにを考えているのだろう?それともなにも考えていないのか?
「父さんのところへ行こう」
 何周もしてから、阿仙はついに提案した。
 ふたりが裏庭に入っていくと、父親は暗闇のなかで薪を割ってリズミカルな音をたてていた。阿娥はひどく驚いた。父親がこんな闇夜にまだものが見えるとは信じられなかった。しかし事実、父親は明らかにきちんと仕事をしている。昼間と同じように。
「父さん、父さん、わたしたち怖い!」阿仙は声を震わせて云った。

「何が怖いんだ?」
 父親は仕事の手を休めてこっちにきて、穏やかに云った。
 阿娥は父親の顔はよく見えなかったが、その声に安心し、もう怒っていないのだと思った。
「阿娥は怖がったりしないだろう? 阿仙は阿娥を見習わないとな。おれはここで薪割りをしながら頭にあるのはおまえたちのことばかりだ。母さんが死んでからというもの、おれはいつも心配でならず、ときには真夜中に起きだしてまきを割る。怖いというなら、おれこそ怖いんだ。おまえたちに何を怖がることがある?」
 彼はそういうとまた腰をまげて仕事にかかった。
 その晩、阿娥は眠りにつくやいなやあの森を見た。しかも自分が森の中にいるのだ。はじめのうちはまだ一匹しかサソリに気づかなかったが、後になると到るところサソリだらけだ。枯葉の下や木の幹の上、葉っぱの裏から頭を出している。彼女は一度また一度と悲鳴をあげて目を覚まし、まったく死ぬよりつらい。目を覚ますとしばしば、阿仙がむかいのベッドの上にぬっと、身動きもせずに立っているのが見えた。どうやら外の夜色をながめているようだ。とうとう阿娥は寝るのがいやになり、灯りをつけて、汗びっしょりのままベッドに坐りこんだ。
「阿娥は本当に勇敢なのね」阿仙の声はなにやらねたましげだった。
 阿仙はベッドから跳びおりて阿娥のそばにくると、汗をふくタオルをくれた。
「父さんが垣根沿いにあの毒酒の瓶のガラスをまいていたとき、わたしはそばにいたの。父さんはわたしには手を出させなかった。いつもそうなの。昼間、酒瓶のかけらをまいたのはわたしだといったけど、あれは見栄を張っただけ」
 阿仙は物思いにふけっていた。阿娥はふと、阿仙の顔が電灯の光の下で影に変ったような気がした。思わず手を伸ばしたところ、その手につかんだものは枯葉が砕けるような音をたてた。阿仙はすぐさま身を動かしてなじった。
「なにをするの、だめじゃない。何度もいったのに、いつも爪を切らないんだから。父さんは今、なにをしてると思う? ほら、聞いて!」
 阿娥にはなにも聞こえなかった。しかし阿仙はひどく緊張した様子で、ぬき足さし足ドアを開けて、そっと外に出ていった。阿娥は出ていくのがおっくうだったので、灯りを消し、ベッドに坐って考えていた。彼女は一度ならずこう思った。ぐっすりと眠って目を覚ませば、すべてが変っているにちがいない。けれどもまた眠ってサソリを見るのも怖く、気持ちは矛盾していた。とはいえ、ぼうっとしているうちに、ついに眠気に勝てなくなり、またあの林に入りこんでしまった。今回は目をしっかりつぶって何も見ないようにし、目が覚めたときには夜はすっかり明けていた。

 一日しかたっていないのに、彼女は足の傷口がもうふさがっていることに気づいた。となれば父親と阿仙が針小棒大に騒ぎたてたのは明らかだ。そう思っても心は軽くならず、夜のあの竹とサソリの夢はずっと忘れられない。あの夢もまた傷とつながっていて、いつも咬まれ、刺し抜かれるのは傷ついたほうの足で、その場所もちょうど傷のあるところだ。本当に妙な話だ。それでは外に行って、小梅や他の人を訪ねてみよう。もしかしたら小梅は豚草を刈っているかも知れないが、それなら自分もいっしょに豚草を刈って、彼女の態度に何か変化があるかどうかを見てみよう。
「小梅!小梅!」阿娥は首を伸ばして叫んだ。
 家の中から返事はなく、しばらくすると小梅の父母がのののしる声がし、阿娥が「疫病神」だというのが聞こえた。阿娥はしかたなく門口から退き、不満いっぱいで小道を歩いていって、やがて阿俊(アージュン)の家に着いた。阿俊はちょうど門前の野菜畑の土を均しているとことだった。阿娥が何度も大声で呼ぶと彼女はやっと頭をあげ、心配そうに左右を見まわし、阿娥に近寄るなと手で合図をする。ところがそこへ阿俊の母親が出てきた。その女はすたすたと阿娥の前までやってくると肩を抱き寄せ、じっくりとと観察しながらいった。
「いい子だ!いい子だ!いい子だ!」
 阿娥はきまりが悪くなり、腕をぬけ出したかったが、女はしっかりつかんだまま、なにがなんでも親しみを示そうとする。
「阿娥、あなたの父さんは腕がいいから、たくさん稼いでいるんでしょう? だけどわたしはね、お金を稼げるからって偉いとは思わないし、自分の子供をそういう人に取り入らせたいとも思わない。わたしはそんな視野の狭い人間ではないわ。いい? お高いところにいて、しかも普通の人が知らないようなことをたくさん知っている人がいたとしたら、それはかえって不運なことなの。実のところ、むしろうちの阿俊のように平々凡々なほうが心配いらずなのよ。俗にいうように、足るを知れば常に楽しいというわけ。 ところであなたの足はどうなったの?」
「足? 足はなんともないわ」 阿娥はびくりとした。
「あはは、ごまかさないで。そのことはもう村じゅうの公然の秘密よ。考えてもみなさい、阿仙のような人が、事を隠しおおせると思うの? どうやら、これはあなたにとって嬉しいことではなかったようだけど、だからいうのよ、やっぱり平平凡凡がいいって。いつも思うんだけど、あなたのあの父さん、腹でどんなそろばんを弾いているのかしらね。こら、阿俊!阿俊! どこまで鋤を入れるつもりなの、正気? はやく豚に餌をやりに行きなさい!」
 彼女は突然阿娥を放し、阿俊にむかった吼えたてた。阿俊はすぐに鋤を放りだし、すたこら家に駆けていった。
 阿娥が行こうとしたら、女は肩をつかんで行かせまいとする。
 「あなたの姉さんの阿仙は、とっても好奇心の強い娘ね、自分をあんなに憔悴させるくらい。わたしはちっとも好きになれないし、うちの阿俊が付き合うのも許さない。あなたについてはまた別よ、わたしはあなたに夢中なの。ちょっと笑ってみせて、さあ笑って!いや、笑えるはずがないわね、かわいそうな子、あいつはあなたにひどく厳しいものね。でもあなたをうちに入れるわけにはいかないわ。阿俊には阿俊の生き方があるんだから。あなたの父さんの企んでいることは、みなが知っているし、彼がどういう結果を出すのか知りたがっている。それを『刮目して待つ』というの、わかる?」
 「わからない、わからないわ!」阿娥は力いっぱいもがいた。
 女はさらに力を入れて彼女の肩をつかみしめ、耳に口を寄せた。
「なんだ、わからないの! じゃあ教えてあげる、いいわね、勝手気ままにむやみに外を歩き回らないこと、家にいるときは寝てばかりいないで、常に耳をそば立てて父さんの動静をうかがうこと。はじめは慣れないだろうけど、時間をかければいい」
 阿娥が首をひねって女の肩越しに見ると、阿俊と小梅が門口で話をしていた。ふたりとも興奮した様子で両手でジェスチャーをしている。阿娥は彼女達といっしょに遊んだ古き良き日々を思いだし、惨めな気持ちになった。
「小梅! 小梅!」 彼女は絶望して叫んだ。
 小梅はぽかんとしたが、また聞こえないふりをして阿俊と談笑を続けた。
「あなたという子は本当に救いようがないね」 阿俊の母親はいまいましげにいった。
 そしていきなり彼女の背中をぐいと指でえぐった。痛みで目の前が真っ暗になり、阿娥は地面にへたりこんだ。
 再び目を開いた時、もう女はおらず、阿俊と小梅もいなくなっていた。まるで最初からいなかったかのようだが、だだ彼女の背中の痛みがさっき起こったことを思いださせた。
 阿娥は女が言っていた父親についての話を思いだした、よくはわからなかったが、けっして良い話でないことはわかっていた。さっきの一幕をへて、彼女はもう仲間を探そうという気をなくしてしまった。全身力が入らず、長いこと頑張ってようやくふらふらと立ち上がった。さっきあの女は彼女の背中を傷つけたにちがいない。本当にあくどい。阿娥は涙を流しながら村の入り口に向った。なぜか、胸にあの意固地な望みを抱きつづけており、どうしても村の入り口まで歩き通したかったのだ。まるで父親と阿仙と張り合ってでもいるように。
 阿娥は少し歩いては休んだ。道には人っ子ひとり見あたらず、どの家の前もひっそりと静まり返っている。もし、馴染みの村を歩いているのでなかったら、まるきり他所の土地へ来てしまったのかと疑うところだ。いつもは牛が草を食んでいるあの坂でさえ、今は一頭の影も見あたらない。阿娥はついに村の入り口の楠の木にたどりつき、寄りかかって一休みしようとした。しかし、周囲のあの死んだような静けさがしだいに怖くなってきた。 木の上に一匹、茶褐色の長い蛇がいて、ゆらゆら揺れながら彼女に向かって舌を出し、夢のなかの恐ろしい情景が突然そっくり再現された。彼女は頭を抱えてもと来た道を狂ったように駆けていき、ずいぶん遠くまで来てやっと停まった。地べたに坐って靴を脱いでみると、いまいましい傷口がまた開いており、少し赤く腫れていた。
「阿娥!早く家に帰れ!もう時間がないぞ!」
 顔を上げると、父親が頭上にいた。まったく不思議なことだ。後をつけていたのだろうか。
「わたし、動けないの」 阿娥はおずおずとこぼした。
「来い!おぶってやる!」 父親はそういってしゃがんだ。
 阿娥は父親の汗ばんだ広い背中にもたれて、複雑な気持ちだった。小さな薄い耳を父親の身体にくっつけると、男のすすり泣く声がはっきりと聞こえた。しかし父親は決して泣いてはいない。ならばその声はどこから聞こえてくるのだろう? 父親は今阿娥の落ち度を並べ立てており、また毒酒入りの瓶のことを話しはじめていた。だが阿娥は一心にその泣き声を捉えようとしていて、父親がなにをいっているかはまったく気にしなかった。
 父親は阿娥をおぶってどんどん歩いていった。阿娥は自分たちが家に向かってはおらず、別れ道を河辺に向むかって歩いているのに気づいた。阿娥は始めは少し怖かったが、父親の背中が発する泣き声に磁石のように注意を引き付けられていた。彼女は危険を忘れ、家人への怨みも忘れ、一切合切が彼女から遠ざかっていた。彼女は父親の首に口を寄せて言った。
「脚はもう痛くなくなった」
 父は笑い出した。そのとき、ふたりはすでに河の中に着いており、河水は父親の首まで達していた。阿娥は父親の肩にしがみついて顔を水面に出していたが、父親の大きな手がそうっと彼女を水の中に引き込んでいく。彼女は河風が運んでくる阿仙の哀しく怨めしそうな泣き叫を聞いて、心の中で思った。もしかしたら阿仙は自分に嫉妬していたのだろうか? 彼女は目を閉じ、夢の中でたくさんの河水を飲んだ。不思議なことに目を使わなくても天空の青い光が見えた。
 阿娥が翌日目覚めたのは遅く、太陽がもう蚊帳の上を照らしていた。阿仙が身じろぎもせずにベッドの前に立って彼女を見ており、その顔は朝方開いたカボチャの花の様に新鮮だった。
「阿娥、もうすっかりよくなったわね。すぐ起きて豚草を刻んでちょうだい。この二日でわたしはもうへとへとだから休まなくては。あの花の型板は、小梅がきのうあなたに返してくれといいに来たわ。あなたは寝ていたから、ポケットから鍵を探して引き出しをあけ、彼女に返してあげたの。ところが思いがけないことに、小梅はちょっと考えてからまた型板ををわたしにくれたのよ。何を考えているのかしら。だけど実をいえば、あなたがもらっても用はないわね。 刺繍もできないんだし」
「そう、用はないわ」 阿娥の声は軽やかだった。

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