残雪の作品にみる人間の成熟

太田睦2006年度)

序論

 私たち人間が成長していく過程で、世間、社会等の自分を取り囲む世界にふれる機会では、しばし驚きや、恐れがあるものだ。そして、その多くは穏やかであり、それを経験することにより、社会や世界を自分の都合のいいように解釈したり、手ひどい反撃を受けたり、うまく馴染んでいったりして成熟していくものである。

 しかし、この稿で取り上げる残雪のその経験は、決して穏やかではなかった。それは、残雪がこの世界に生まれ出て、目を見開いたとき、はじめて発見したのは、全世界が自分に対する敵意に満ちているということだったという。

 自分の周りが敵意に見える、このような経験は大小あれ誰もが経験したことがあるのではないだろうか。例えば昨今、児童のいじめによる自殺が多発し、いじめ問題が大きく取り上げられたが、話しかけても応えてくれないシカトや無視、陰口や後ろ指を指されるなど、誰でもされたこと、もしくは感じたことがあるのではないだろうか?実際に私自身も経験がある。しかし、それが一挙に全世界に及ぶことはない。この残雪の経験こそが、彼女の作品を読むたびに受ける、謎、不可思議、不気味…という印象の源なのだ。

 残雪が4歳のとき、反右派闘争のさなかに、湖南日報社の社長をしていた父親が“極右”のレッテルをはられ、湖南反党集団の頭目扱いをされた。同じ新聞社の人事課長をしていた母親も白眼視され気づけば残雪自身がことごとく世間に敵視されていたのだ。幼くして残雪は世間すべてが自分を認めないと感知したのである。小学校では授業中にさされたとき以外は一言も口をきかなかったという。

 以来、一家そのものが20年にわたる迫害にあう。そこへ文化大革命が始まって、残雪は中学にすら進学できなくなった。文化大革命によく知られる私設監獄に収監された父親に差し入れしながら、階段部屋で暮らしつつ、残雪は製鉄工・組立工・英語代用教員などを転々とする。そして、結婚。両親がやっと名誉回復されるのをまって夫婦で仕立屋を始めた。

 このような人生を辿ってきた残雪の作品には、疎外、孤独、孤立が大きく感じられる。そんな作品のなか、わたしが最も印象に残っている『阿梅、ある太陽の日の愁い』と『天窓』この2つの作品を解読していき、残雪の作品にからみる、人間の孤独と成熟、そして母性の存在について述べていきたいと思う。

本論

第1章 『阿梅、ある太陽の日の愁い』にみる孤独からの成熟 

第1節 母子の依存と自立 

1.阿梅の依存

 阿梅はこの小説の主人公である。しかし、まったくもって生気が感じられない。この小説の語り手として登場しているが、感情なく淡々と自分の周りで起きたことを他人事のように話している。何もかもに関心がなく、まるで、そこに存在していないかのようだ。阿梅には、大狗という子供がいる。しかし、母性というものを微塵も感じられない。それは、阿梅自身が、親離れし自立ができていないからである。

先週の木曜からずっと大雨が降りつづいていた。けさ、雨は突然やんで、太陽がぎらぎら照りはじめ、庭一面のぬかるみからむんむんと臭気がたちのぼった。わたしは午前中いっぱい庭にいて、土の中から這いだしてくるミミズを取りのけている。ミミズは太くて長く、鮮やかな桃色をしており、やたら家の中に入ってくる。隣人はむこうの高塀の下で、あの穴を火かき棒でつついている。夜、風が吹くと、わたしはこわくてたまらない。風があの穴から我が家に吹き込み、塀はギシギシ鳴って、今にもわたしたちの小さな家に倒れかかってきそうなのだ。夜、わたしはいつも、頭からすっぽりふとんを被り、ときには少しでも落ち着いて眠れるよう、その上にさらにトランクをいくつか載せることもある。大狗は庭のあっちのすみで爆竹を鳴らしていた。木のほら穴に爆竹を挿し、でかい尻を突き出して火をつけている。彼は父親と同じで尻がでかい。      「こら!」わたしはいった、「どうして、ものに憑かれたみたいに、爆竹ばっかり鳴らしてるの!」                                  彼は灰色がかった白目をむいてぼんやりわたしを眺め、ちょっと鼻の穴をほじると、するりと庭から逃げていった。やがて裏のどこかでまた爆竹が大きな音で鳴り、心臓が早鐘を打った。わたしは家に入って引き出しの綿を探し、耳にしっかり栓をしてしまった。

ミミズは、男性器の象徴としていささか表現に使われる。この表現まさにそれそのものであり、男性を表している。そして、阿梅が、そのミミズから守ろうとしているものは、家であり、つまりは母親、家庭なのである。阿梅は、自分のテリトリーである家、母親の腕の中から抜け出そうとせず、そこに進入してくる一切のものを取り払おうとしている。自分の息子である大狗が発する爆竹の音や夜風にさえ怯えている始末だ。これはまさに、母性からの自立ができていない、しようとしない証拠である。主人公であるにも関わらず、まったく生気が感じられず、まるでそこに存在していないかのようにみえるのは、阿梅が自立していないからであり、自立を促そうとしている母親の大きな存在があるからである。 

2.母親の母性

 この小説のなかで、1番存在感を出しているのが、阿梅の母親である。残雪自身が、阿梅を主人公といっているわけではなく、タイトルに名前が入っているのと、語り手であることから勝手に私が阿梅を主人公と考えているだけであって、実際はこの母親が主人公なのかもしれない。そのくらいの存在感である。なぜなら、この小説は、自立していない阿梅の話であり、自立していない阿梅は、母親に依存している。ということは、すべては母親の手の内の中なのである。そのいい例が、老李との結婚である。外から進入してくるもの一切を拒絶しているあの阿梅が、老李との結婚までに至ったわけは、母親の阿梅に対するあてつけのようなあの振る舞いである。

結婚前の5カ月、彼はしょっちゅう家にやってきた。来るや早いか台所に飛びこみ、母とこそこそ何かの相談をしているのだった。2人で中でしゃべったり、げらげら笑ったりしているうちに、食事の支度まで忘れることもしばしばだった。あのころの母は年じゅう例の真っ黒な前掛けをしめ、ときには朝起きても顔も洗わず、ニンニクみたいにむくんだ眼をしていた。だが彼がくるやいなや、母の眼はたちまち嬉しげにぎらぎら光り、むっちりした両手は真っ黒な前掛けをごしごしこすりはじめるのだった。老李は、ちびで、顔中に紫のにきびができていたが、顔立ちはまあ整っていた。ある日わたしが台所にものをとりにいくと、彼と母は寄り添って喜色満面でニンニクの皮をむいていた。[]

 この光景、一般的に見れば、実の娘をほったらかしにして若い男をたぶらかしているいやらしい母親であるが、そうではない。母親は、老李が安心して身を任せられる男であるということ、また、外部の人間とのコミュニケーションのとりかたを、身をもって教えているのである。これも一種の母性である。子供に母乳をあげ、危険にさらされぬよう常に見守り育てるだけが母性ではない。時には、突き放し、子供の自立を促すのも母性である。阿梅と老李の結婚式では、

「あの娘なんて、あの人にはまるで釣り合わないよ。それを見初められるなんて、本当に運がいいこと。嫁になぞいけるはずがないと思ってたのに。でもわたしゃ、知ってるよ。あの人は決してあの娘が気にいったんじゃない。わたしらの、この家庭が気にいったのさ」[]

これも、よくある、娘を嫁にやる頑固親父の強がりのようなものであり、本当は娘の自立成功と夫婦円満を願っているのである。その証拠に、結婚してからの当分は、沈黙を守っている。 

第2節 娘から女性へ 

1.老李の愛情

この小説から、愛だの恋だのとい言葉はまったく現れない。しかし、阿梅と老李の間には、大狗という子供がちゃっかり生まれている。阿梅には、あったかどうか怪しいが、老李には、阿梅に対する愛情があったに違いない。

その七月、やはりこんな猛暑で、部屋中を小虫が這いまわっていたある日、彼はわたしに結婚を申しこんだ。あの日台所に水をくみにいくと、急に彼が入ってきて、こっそり出ていこうとするわたしに、なんと声をかけてきたのだ。            
「おい、あんた、おれに何か文句あるかい?」                   
「………」                                  それから彼は、自分とすぐに結婚する気はないかと聞いた。顔は血の気が失せ、全身が苦しげに痙攣している。やがて彼は低い腰掛けを見つけてその上にすわった。腰掛けは黒ずんでべとつき、一本の脚のホゾがゆるんでいたためぐらぐらしていた。彼はあれこれ理由を並べたてたが、要は、母が1軒の家を持っているということで、もしわたしと結婚すればここに住めるから、ほかに家を探さずにすむというのだ。わたしがぷっと吹き出すと、彼はたちまち真っ赤になった。           「なにがおかしいんだ?」彼は怒ったようにいうと、いかめしく顔をしかめた。    
「だって、これから手紙を書きにいこうと思っていたのに、こんなところであなたの長ばなしを聞くはめになったんだもの」                      
「なんだ、そんなことか」彼はほっとため息をついた。[]

 老李が阿梅にプロポーズした直後のことである。老李の結婚したい理由は、阿梅を好きだからである。しかし、プロポーズの開口1番が「おい、あんた、おれに何か文句あるかい?」などと喧嘩ごしな言い方をしてしまうくらい、不器用な男なのである。だから、あえて、家を探さずにすむなどという強がりな理由を並べ立てたのである。その証拠に、阿梅が笑った理由を聞いたあと、「なんだ、そんなことか」と胸をなでおろしている。これは強がりを言ったことに対して笑われたのかと思っていたからだろう。 

2.似たもの夫婦

結婚した翌日、老李は部屋の片すみで金槌を手にトンカチをやりはじめた。木材をどっさり運びこんだため、部屋は足の踏み場もないほどごたごたしている。      
「なに作ってるの?」                             
わたしは、公園にいって手紙を書こうと思いながらたずねた(当時わたしは手紙を書く趣味があった)。                               
「中二階を作るのさ」彼はにこにこしていった。                  
その晩帰ってくると、家の一角にはもう中二階の部屋ができており、うすぎたない蚊帳まで吊ってあった。                              
「これからは、ここで寝るよ」彼は蚊帳の中からぼそぼそといった、「おれはひとり寝に慣れてるもんで、あんたといっしょだとどうも怖くて眠れないんだ。ここなら、いくらか落ち着いて眠れると思うよ。何か文句あるかい?」                
わたしはもぞもぞと二言三言つぶやいて、返事をしたことにした。          
彼はその中二階に三月ほど暮らしたあと、突然実家に引っ越していった。[]

 私は、最初この中二階の存在を老李の思いやりであり、外部からのものに怯える阿梅を思ってあえて寝室を別にしたのかと考えた。しかし、その後老李が実家に帰ってしまうことを考えると、思いやりは勘違いで、老李は本当にひとり寝に慣れてしまっていたのだろう。コミュニケーションが不器用なところなど、少なからず阿梅と老李、2人の夫婦は似たものどうしなのである。だからこそ、この2人の結婚はなりたったのである。

それまで街を歩いている彼をよく見かけたものだが、紫のにきびもどうやら消え、だいぶ風采が上がっていた。以前のあのつんつるてんの服ではなく、ゆったりとしたハーフコートをはおっている。あの浮き浮きした様子はまぎれもなく独り者のものだった。所帯持ちの男はひと目でそれとわかる。背中が丸くしょぼくれていて、スカッとしたところがまるでないのだ。あのときわたしは思った、老李は家を出たとたんに男前になったけれど、もし最初からわたしと結婚しなかったらどうなっていただろう、と。[]

似たもの同士であり、阿梅が反面教師になったのだろう。外の世界が明るく見え、街を出歩き風采を上げていったのだろう。だから、阿梅との結婚なしにして、老李の風采は上がっていなかっただろう。 

第3節 自立、母性への目覚めへ 

1.擬似家庭

大狗が生まれると、彼はまた我が家への訪問を開始し、やって来るやいなや台所にもぐりこんだ。まもなく母があたふたと飛び出してきて、戸のすきまからわたしの部屋をのぞき、わたしが気づかぬふりをしていると、隣の部屋に駆けこんで大狗を抱きあげて、台所に跳びこんでいく。そしてしばらくすると台所から、また以前のようにげらげらと笑う声が聞こえてくるのだった。こうした儀礼的な訪問が何年も続いた。[]

自立しきれていない阿梅は、大狗に対しての母性というものを知らない。ましてや、この話の中に阿梅の父親の姿がまったく現れないのを考えると、母子家庭であることが、推測される。阿梅は、両親のいる暖かい家庭を知らない。そこで、母親は、あたかも自分が大狗の母親のように振る舞い、老李と3人で暖かい家庭を見せつけたのである。秘密めかしくやったのは、阿梅の深層心理にある大狗への母性をくすぐるためだ。自分が腹を痛めて生んだ子供である。無意識に「私の子供」という感覚が芽生えるだろう。現に、「大狗はわたしを「母さん」と呼んだことがない。父親と同じように「おい!」と呼ぶのだ。そうよばれるたびに、わたしはうろたえてしまう。」[]と、老李のことを父親と呼び、自分は、母親なのにという主張をしている。母性の目覚めである。阿梅の母親による擬似家庭は大狗が五歳になるまで続けられる。まさに、世話が焼ける年頃までである。 

2.母親の消滅

大狗が五歳になり、老李がぱたりとこなくなると、母親は物置に住みこむようになる。阿梅は、この行動を、自分を憎み、自分から少しでも離れたくてとった行動だと思っている。しかし、そうではない。母親は自分の最後が迫りきていることを察知したのである。自分がいなくなれば、自分に依存して生活している阿梅は、子供の大狗と共に生きていけなくなる。そうはさせまいと、阿梅の自立を促す最後の手段として、阿梅の前から姿を消し、別々に生活することを選んだのである。

太陽は物置のむこうに今にも沈もうとしている。母がまた中で咳をしはじめた。こんな咳をするようになって、もう二ヶ月余りになる。おそらく彼女も自分が遠からずこの世を去ることを知っているのだろう。だから戸にしっかりとかんぬきを掛け、わたしに邪魔されないようにしているのだ。隣人は、あの塀の穴をまだつついている。もし今晩風が吹けば、あの塀はきっと倒れて、私たちの家を潰すだろう。[]

太陽とは、母性の暖かさの象徴、家とは、母親、家庭の象徴…その2つが今阿梅の母親の死と共に消えようとしている。全てが消え去り、倒れた塀の向こうには、新たな世界が広がっているであろう。阿梅の自立と共に…。 

第2章 『天窓』からみる孤独からの自我の目覚め

第1節 孤独と死

1.火葬場の死体焼き

「わたしの同僚の父親は火葬場の死体焼きだった。一生の大半を死体を焼いて過ごしてきたため、全身からその種のにおいがした。ある日彼の家族は、ひそかにしめしあわせてみんなで彼を置き去りにした。彼はひとり淋しく火葬場の墓地のはずれの小屋に住んでいたが、わたしの知るかぎりでは、もう十年になる。」[]

まさに孤独な人である。「孤独とは、欠如の、喪失の、そして疎外の経験である。同時にそれは社会との交渉の不在、つまり没社会性の経験となる。自分という一個の人間が、この世なかからすっかり消え失せてしまっているかのようだ。不在としての孤独。その孤独の空虚感は、まさしく「社会的消滅」の経験とよぶにふさわしい。−中略−対人関係の消滅と「死」のイメージは、日常的想像力のなかで、こんなふうに大きく重なりあっている。孤独が社会的関係の「不在」を意味するものなら、「死」はそのもっともポピュラーなイメージのひとつとなっているにちがいない。」[10]と社会学者の清水氏が言うように、社会的に消滅してしまった孤独な人間のそばに、生物学的に死を迎えた人間(火葬場で焼かれる人間)を登場させることにより、この同僚の父親の孤独感はいっそう増すのである。そして、この「孤独」と「死」2つのキーワードは自我の目覚めへとつながっていくのである。 

2.孤独(死)への招待

「わたし」宛てに同僚の父親から奇妙な手紙が届く。

けさ突然、わたしは彼からの奇妙な手紙を受け取った。封筒にスタンプはなく、鉛筆で大きな髑髏の絵がかいてあるだけだったが、それでも無事わが家の郵便受けにとどおいていたのだ。手紙の中身も奇妙だが、書き方も変わっていた。

ここは良いところです。空はさわやかに澄み、ナギナタコウジュの香りがたちこめています。葡萄の大きな房がひとつ、またひとつ霧の中に浮かんでいます。毎晩一種の舞踊があります。                          同僚Aの父[11]

 まさに、死への招待状である。以後、この小説にたびたびあらわれる「ナギナタコウジュ」であるが調べてみるとこのような文献がみつかった。「ナギナタコウジュ(薙刀香需)は、シソとハッカを合わせたような香気が中国の香需に似て、しかも花穂が片側につくのを薙刀に見たてて名付けた。別名ネズミグサともいう。花穂がネズミのしっぽのように見えるため。」[12]中国で、別名「ネズミグサ」と呼ばれているかは、不明だが、視覚的に「ネズミのしっぽ」に見えることは確かである。ネズミといえば、残雪の作品には欠かせない動物となっている。ねずみは、「一般に数匹〜10数匹が群れとなり巣を中心として餌確保のためのなわばりを作り、他のネズミの侵入を排除する。昼間は停止しており、ほとんど夜間に活動する。最も活動の盛んな時間は日没後数時間と夜明け前である。ねずみは壁際や物陰を通路として行動し、めったに広い空間を横切ることはない。」[13]とねずみの習性からして人に嫌われ白眼視されている暗いイメージはぬぐいきれない。また、「ねずみは自己の内部で無意識に進行していることの象徴である。」[14]とされ、ここでの「ナギナタコウジュ」は、ねずみの、「孤独」と「自己の内部の進行」つまり「成長」の両方の意味を提示していると考えられる。そして、葡萄は、「新しい門出、子宝などを象徴しています。ブドウを収穫する夢は、女性が見たなら、妊娠を暗示している。」[15]と考えられている。したがって、母体への回帰ともよみとれる。孤独(死)を乗り越えた先には、自我の目覚め、新たな世界が待っているという暗示である。 

第2節 自我の目覚めへの旅立ち 

1.家族

「わたし」が同僚の父親からの手紙を読みおえると、

窓をあけると、瓦礫の山の間に母がどっかりしゃがみこんでいるのが見えた。彼女は苦しげに喘ぎながら、大便をしているところだった。瓦礫の上にはあちこちに河原人参が群がり茂っており、母は痛みで狂ったように、さかんにそれを引っこぬいては放り投げていた。[16]

 なんとも滑稽な描写である。しかし、ここにも「わたし」が自我の目覚めへと向かう予兆が表されている。「【人参】は、「魅力」・「魅惑」・「男性性」・「(男性にとっての)性欲」・「(女性にとっての)男性とのセックスの印象」等を象徴」[17]したがってこの描写では、男女のセックスを表した後に、母親が苦しげに喘ぎながら大便をしているさまを妊婦の分娩と見たてているのである。そのにんじんを父親は男として誇りに思い、まだ自我の目覚めに達していない弟は親に依存し、それをはやしたてる。「わたし」の言いぐさからして、どうやら父親には依存していないようだ。「わたし」の依存の対象は、母親だけのようだ。やはり、人間、母親のお腹のなかで育ち、おなかの中から生まれでてくる以上、母性への執着は大きいのである。 

2.自我の目覚めへの案内人

夜中の十二時、大だんすの鏡の中に、死体焼きの老人が現れた。なんだかもやもやした気体のようだった。老人は鏡の中からいに向かって手を差しのべてきたが、その手全体から、焦げた肉の油煙のにおいがした。                    「待っていたんだな?」                            老人はわたしにいった。その声も不明瞭で、壊れたトランジスタ・ラジオのようだった。「さあ行こう」わたしはふと、彼と何かの約束をしていたことを思いだした。[18]

「わたし」のまえにあらわれ異世界へといざなう。死体焼きという死に1番ちかい存在の人物が、孤独の世界へ自我の目覚めのために案内するのである。「わたし」は何もいわずにその老人についていく。そう、同僚の父親からの手紙をよみ、「彼のほのめかしていることがのみこめた。」[19]と言っているように、「わたし」自身も自分の自我の目覚めがちかいことを察知していたのである。だから、老人がいうとおり老人のことを「待っていた」のである。ところで、この「死体焼きの老人」だが、最初に「わたし」に手紙を出した「同僚の父親」なのだろうか?だとしたらなぜ途中から「老人」になったのだろうか?それは、「同僚の父親」というのがいちいち面倒だったからではない、「同僚の父親」より「死体焼きの老人」の方がいっそう孤独感をますことができるからである。「家族からすてられた父親」より「家族からすてられた老人」の方がいっそう悲壮感があるということを納得していただけるであろう。 

第3節 孤独の世界 

1.新たなる世界へ

外は五本の指も見えないほど真っ暗闇だった。老人は五、六歩先を足早に歩いていたが、ぼうっとまだらに光るゴリラのように見えた。彼は十歩行くごとにわたしの注意を促した。「足もとは浮き橋だよ」いわれてみれば、たしかに足元の地面が浮いているような気がする。それにさらさらと水の流れる音もかすかに聞こえる。          
「漁師が十二時前に洞穴に落ちたよ」                      
彼がまた妙なことをいった。                          
わたしはつるりと滑った。明らかに二列の歯と思われるものが足の指にかみついてきて、すぐまた離れた。下の方からふっふっふという不気味な笑い声と憎々しげ罵る声、ヒステリックな声が聞こえてきた。そしてその喧騒のただなかに、目覚まし時計がひとつ、終始鳴りつづけていた。
[20]
「【橋】は「目前の重要な関門」・「人生の転換期」・「かつてない成長への好機」・「新しい人生方向への出発」・「生死の境界」【不安定な橋を渡って行く】のは、行く末困難・危険な性的好奇心を持っている要注意」[21]自我の目覚めへの道が困難であることの証だろう。さらさらと水の流れる音は、血流の音を表しここでも母体への回帰をしめしている。「わたし」が、足元を滑らせると、二列の歯のようなものが足の指に噛みついてくる、周りは敵だらけの孤独な世界がはじまる。そんななか、目覚まし時計が1つなり続ける、これも新たな世界への象徴である。まさに自我への目覚まし時計である。 

2.四面楚歌

 どんどん老人のあとについていくにつれ、そこは、地獄のような様子に変わっていく…

ガチッ、ガチッ、ガチッ……                          
 ガチッ、ガチッ、ガチッ、ガチッ、                         
 ガチッ、ガチッ、ガチッ、ガチッ、                         
 歯の噛み合う音が四方八方から聞こえてくる。                  
 目が暗闇に慣れると、屋根の上にちらほらと光がいくつか揺れているのが見えた。そのかすかな光で、ここが十平方メートルほどのかやぶき小屋だとわかった。壁一面に、歯をむき出した髑髏が掛かっている。                       
「あの動く光、あれは時間が慌ただしくすぎていくのさ」              
老人が歯をきしらせ、聞きづらい声でいった。                  
「ここは骨身にしみる寂しさだ。部屋のすみに蜘蛛の巣がひとつあるが、もう十二年もたっている。十二年前、末娘が戸口に立って『ふん』といった。あの子の胸の中にできた大きな腫瘍が、小さな心臓をぎゅうぎゅう押し潰しているのが見えたよ。」     
 ガチッ、ガチッ、ガチッ……                           
 緑の光がまた現れた。はじめはふたつの点だったが、しだいに大きくなり、さっきよりいっそうまぶしく、いっそう激しく揺れ動いた。                 
「おい、ほら、どいて!」                            
 光の暈がまたふたつの点に収斂し、黒い影がさっとそばをかすめた。なんと一羽のずんぐりした夜鳥だった。その夜鳥は妙な憤怒の叫びをあげると天窓に飛びかかり、大きな翼で激しく屋根を打って雷鳴のような音を轟かせた。               
「人肉を食う鳥だ」                               
老人がいった。彼が微笑んでいるのが、わたしにはわかった。[22]

 12年前老人はここから末娘の自我の目覚めを見届けた。末娘の小さな心臓をギュウギュウ押し潰していたのは、後に出てくる「たけのこ」だったのかもしれない。老人はまさにここで孤独となり社会的死を経験していたのだ。そんな陰湿な様子のなか、希望をあらわすような言葉があらわれている。それは、「緑の光」である。老人は移動する「光」のことを「すぎていく時間」と言っていた。この「緑の光」も同じ「時間」なのだろうか。いや、そうではなさそうである。「緑の光」は、2つの点からだんだん大きくなり、まばゆさを増して激しく揺れ動いた。しかし、その力が衰えた瞬間に、人食い鳥が現れる。これは時間を表してなどいない。この「緑の光」は、「私」の孤独とたたかい自我に目覚めようとしている心をあらわしている。実際に、緑色は成長をあらわす色とされている。光はもちろん希望や力の象徴である。「緑の光」は孤独に打ち勝とうとするほど光を放ち、孤独に負けそうになるとその光を弱めるまさに、「わたし」の心のあらわれである。「緑の光」同様、色を使う表現として気になったものがあった。

青く輝く空には、毛むくじゃらの怪獣のような巨大な赤い月が出ていた。荒れ山の坂の上ではおびただしい猿どもが空の怪獣に向かって嘯き、不思議な香りが空中にたちこめた。[23]

「赤い月」である。「大きな」と書かれていることから満月であることが読み取れる。月は女性と深く関わりのあるものである。ここでも、母性愛を示している。しかし、赤い満月とは、不吉さを大きく漂わせている。そもそも、「赤い月を見ると、不吉なことが起こる予兆である。」といわれているが、ここでは、月がまるで、毛むくじゃらの怪獣のようだと表現されていて、それこそ不吉そのものである。「わたし」は、母性を表し、安らぎをもとめる月でさえも敵にみえたのである。それほどの孤独に苛まれていたのである。 

第4節 孤独という誤解 

1.父親への嫌悪と母親への依存

わたしたちは杉皮ぶきの屋根に身を乗りだした。彼はわたしをひょいっとつつき、霧のたちこめた空中をあちこち指さしてみせた。                  
「わしの宝物を見ておくれ。見えるかい?左手一面にきらきら光っている真珠が……。右手にあるのはみんな種無しの緑葡萄だ」                    
 葡萄などあるものか!わたしは、何も見えないといった。霧の他には……。だが彼はとりあわなかった。[24]

 老人の宝物である真珠と種無しの緑葡萄であるが、「わたし」には、実際見えていない。真珠はともかく、種無しの緑葡萄がなぜ宝物なのか?そしてなぜ「わたし」にはそれが見えなかったのか?緑色と葡萄については前にものべたとおり、「成長」と「子孫」を象徴する言葉である。そこで、種無しとは、その果実は、子孫を残さない=母子の決裂のあらわれであることがわかる。自我に目覚めておらず、孤独を恐れ、まだ少なからず母性に依存している「わたし」には、その存在を見ることができない、というよりはその存在を認める事ができないのである。

「この墓地には年中孤独の風が吹いている。ときには黄砂をまじえ、豪雨のように屋根を打つ。古い柏の木の下で聞けば、風の音は一段と大きく、まるで威嚇しようとしているようだ。わしはもう、風の中に独り立つことに慣れてしまった。そんなとき、この世界はがらんとしている。ときたまカラスが一羽、目の前を斜めにかすめていくだけだ。さっき、あんたが寝ているときにもう、樟の木の枝にとまったあの最後の蝉の絶唱が聞こえた。めったにないことだった。そいつは歌い終わると、たちまち透明なむくろになった。さいごのひとつの音節のときだ。さてさて、あんたも何か言いなさいよ」[25]

 老人が聞いた、最後の蝉の絶唱も、同じようなことをあらわしている。蝉とは、「数週間の成虫期間に太陽の下で精一杯生き、子孫を残し死んでいく姿は古来より感動と無常観を感じさせてやまない昆虫である。しかし幼虫として地下で生活する期間を含めると一生は3-17年(アブラゼミ4-5年)ほどと長く、短命どころか全体の寿命は昆虫類中上位である。」[26]というように、3-17年土の中で孤独に成長し、地上に出てから自由に精一杯生き、子孫を残し親は消滅する。自我の目覚めの過程が描かれている。そこで、「わたし」のいままでの成長体験がかたられる。 

2.ホームシック

「わたし?わたしは生まれるとすぐ、小便桶に投げ込まれたわ。小便に漬かったものだから、大きくなっても目玉はいつとびだしているし、首はぐにゃぐにゃ、頭はボールみたいに腫れあがっている。半生の間、有毒な空気を吸ってきたから、肋骨は結核杆菌にむしばまれてもうがらん洞なの。父は倍梅毒患者で、鼻は潰れてぞっとするような二つの小さな穴になっている。それに母…−以下略−」               
 「わたしはあの雨降りの、ぬかるみの朝を覚えているわ。父はオーバーシューズのままでどかどか入ってきて、部屋中をびしょ濡れにした。それから近寄ってきて、もってまわった言い方でいったの。検査の結果、わたしの肺に三匹の蛭が育っていることがわかったって。父は笑いをこらえたせいで、体中が痙攣してたわ。ついに大変な使命を果たしたと思ったのよ。―以下略―」
[27]
 と続くのであるが、「わたし」は、生まれたときからこんな扱いをされてきた。というような語りであるが、その標的は父親だけに向けられていて、母親については一切語られていない。これも一種の依存のあらわれである。「あの雨降りのぬかるみの朝」の話でもそうだが、「わたし」は、父親から見放され、孤独に生きてきたといわんばかりである。しかし、それはたんなる思い込みであり「わたし」はそれまで依存して生きてきているのである。

彼らはみな、うつろな白っぽい目で燃えるような空をみながら、ぎこちなく、何かを待ち望むような手振りをした。わたしがちょっと口を動かし、何かを叫ぼうとすると、目の前はたちまちぼやけてしまった。                     
「『ママ』、あんたは、『マーマ』といいたいんだな」                 
 老人は一字一字区切りながらうんざりしたようにいった。
[28]

 家族のいる廃墟に向かって「わたし」は、「ママ」と叫ぼうとしたのである。しかも無意識のうちに…しかし、今は自我に目覚めるため孤独の世界に身をおいている「わたし」は、母親に依存することは許されない。目の前がぼやけ母親への依存をかき消したのである。そして、自我への目覚めへの案内人である老人はその、依存しようとしている「わたし」にたいしてうんざりするのである。そんな老人は「わたし」にこう問う。

「−前略−あんたはあの冬の夜長を耐え忍んできたんだろう?」「わたしは凍傷の足の指をたえまなくこすっていたわ。さもないと人はすぐに氷の柱になってしまうから」老人は、孤独を冬の夜長とあらわしたにも関わらず、「わたし」は、寒い冬のことだと誤解し凍傷の足の話をしてしまう。まだ本当の孤独の誤解である。 

第5節 自我の目覚め 

1.母性の消滅

戸がまた開き、浴槽に入れられた母が押し出されてきた。顔中血だらけで、高々と上げた片手に白髪の束を握っている。白髪には頭皮が点々とこびりついている。母は叫ぶことができない。声は喉の骨にふさがれている。浴槽は深く、母は一度また一度と這いだそうとするたびに失敗する。[29]

 自我の目覚めの予兆である。母親の消滅ちかいことのあらわれである。人は、孤独を経験し、母親への依存を断ち、自分の中から母親の存在を消すことによって自我の目覚めが訪れる。老人も後にこう語っている。

「あれがわしのおふくろさ。寂しがり屋だから、夜な夜なその下から這いだしてきて狩をするんだ。脳味噌はもう、蟻に食われてがらんどうさ。ほら、ポンポンポンポンポン、ポンポンポンポンポン!あんな風に夜どおし踊るんだ。まったく驚くべき情欲だよ。ちょっと荒っぽいだろう?おふくろは昔からそうだった。わしはずっとおふくろを恐れていた、もう大丈夫だけどね。優柔不断なたちで人に嫌われていたから、いつもおふくろを見習おうと思っていたんだ。一生無駄な努力をしてしまったよ」[30]

 老人も母親に依存していた。しかし、自我に目覚めたあとの今では、それが無意味であることを悟っている。人間は常に一人だということを…。

2.葡萄

 作品の中にたびたび現れる葡萄。終盤に入り具体的に表現されている。

老人はしゃがみ、嬉しげな口音をたてながら、わたしの手をつかんで暗がりに伸ばした。手はやわらかな、ぬれたものの山に触れた。なんだか動物の内臓のようで、ぷうんと生臭いにおいさえする。わたしは跳びあがって悲鳴をあげた。          
「はじめのうち」老人の手は暗闇の中で、彼が「葡萄」と称する例のものをいじりながら、ひっきりなしに口に放りこんで噛んでいた。「それはゆっくり動いていたが、やがて速くなった。そしてある冬の夜、その影が屋根に止まったのが見えた。その瞬間、わしははじめて虹を見たんだ、ねぼけまなこでな。あまり唐突だったので、それと悟りさえしなかった。その後も何度も同じことがあったから、もう慣れてしまったよ。わしの穴はこのすぐ下にあるんだ。足でさわれるよ」
[31]

 ぬれていて、人間の内臓のような生臭い葡萄…これは何を示すのか?決して葡萄などではない。これは、人間の胎児である。母親のおなかの中で1年もの間守られている胎児である。母親への依存そのものである。その葡萄を噛み潰すことにより、母親への依存はなくなる。そして自立するのである。虹の出現は自立、新しい世界への架け橋をあらわしている。冒頭にでてきた「浮き橋」の不安定な橋ではない。自我の目覚めの案内人である老人は何度もその虹を見ている。何人ものひとの自我の目覚めを見届けてきたのだろう。自我の目覚めが近い「わたし」は、胸の中になにかが生えて咳ができなくなる。それをたけのこだと言う。たけのこは世の中に出るチャンスを与えられる吉兆であり、自我の目覚めが近いことが分かる。 

3.目覚め

男は少し這うたびに、ひょろ長いぐにゃぐにゃした腕を青空に高々とさしあげ、何かはっきりしない文句を叫んでいる。それはわたしの末の弟で、一夜にしてもぐらの尻尾と毛が生えていた。[32]

母親が消滅に向かう一方、まだ自立のできていない弟はその現実から目をそむける。もぐらは真っ暗闇の地中で生活するためあまり視力がない。地下から這い出てきた本当の意味での乳離れができていない弟にうってつけの表現である。そして「わたし」は、目覚めへと向かう…

「おい、変装しようというのか?」                      
 灰色の服の人物が、林のはずれでわたしを遮った。その人物には頭が無く、声は胸の中でウォンウォンと響いていた。                         
 背後にチャリンチャリンという音がした。あの世界が今、砕けているのだ。      
「いいえ、ちがうわ。わたしはただ、下着をひとそろい取替え、靴をはき替え、それから髪の毛をきちんとしたいだけ。簡単なことよ。―以下略―」[33]

 あの世界とは孤独の世界だろう。世界を突き抜けたとき、自我の目覚めが訪れる。新しい世界が目の前に広がっているのだ。孤独に苦悩することは簡単なことであろう。しかし、わたしたち人間は、孤独を理解せずただ孤独を恐れ、孤独になることを拒否している。孤独という経験が浅いのである。自我の目覚めはまだまだ先やも知れない…。 

第3章 残雪の作品においての母性と父性 

1.母性

 残雪の作品には、親子の関係が書かれているものが多々見受けられる。しかし、それら全ての親子関係に暖かさを感じたことは一度もない。むしろ、憎悪を感じてしまうくらいである。しかし、今回、『阿梅、ある太陽の日の愁い』と『天窓』を読解していく中で、自我の目覚め=母親殺しのイメージが顕著に現れている作品であることがわかった。『阿梅、ある太陽の日の愁い』は、母子の自立の話であることが明確であったが、『天窓』については、表現があまりにも邪悪すぎて、最初は母子の自立の話であることに気づかなかった。残雪のこうした作品を読み解いてみると、実に多くの母性を象徴するものが登場している。それは、ユングの『元型論』のなかの「母元型」に関する論文をみると明らかである。

「自分の母と祖母、継母と姑、関わりのあるどこかの女性、乳母または保母、女祖先と雪女、高次の比喩的な意味において――女神、とくに神の母、処女(永遠に若い母、たとえばデメテルとレコー)、ソフィア。救済憧憬の目標(パラダイス、神の国、天のエルサレム)。いっそう広い意味では――教会、大学、田舎、天国、大地、森、海、止まっている水。物質、冥府、月、狭い意味では――誕生や生殖の場所として、耕地、庭、岸壁、洞窟、水、泉、深い井戸、洗礼盤、容器としての花(バラと水蓮)。魔法の輪としての花(パドマとしてのマンダラ)、あるいはコルヌコピア型としての花。もっと狭い意味では、子宮、すべての穴の形(たとえば雌螺旋)。女陰。パン焼きがま、深鍋。動物では牝牛、兎、および助けてくれる動物一般」                     「これらすべてのシンボルは肯定的、好意的な意味か、それとも否定的で邪悪な意味を持っている。両面的な顔を持つのは運命の女神(パルカたち、グライアイ、ノルンたち)、邪悪なのは魔女、竜(すべての呑みこみ巻きつく動物、たとえば大魚と蛇)、墓、柩、深淵、死、夢魔、お化け(エンプーサ、リリトなどの型)」[34]

 見ての通り残雪の作品の中に登場するものがいくつかあげられている。そして、また残雪の作品の中には、母親の消滅を主張した作品が多くみうけられる。これも、ユングの元型的イメージとして、世界文化に記録されている母親殺しというイメージからきているのだろう。

世界中の神話のなかに、一方では少年神を可愛がりすぎて殺してしまう女神の話があるかと思うと、―中略―他方で、そうした母親の支配に反抗する息子の話もまた無数に存在している。すなわち息子神が怪物を退治して英雄になるという話である。この怪物はじつは母親を表しているのだが、母神を殺すという露骨な話はしにくいので、英雄が怪物を殺すという話になっている。すなわち母神の支配が強い場合には、息子は母を殺さないと自立できないという悲劇が描かれているのである。[35]

 残雪の作品にみられる母親像は、汚らわしく、憎憎しい描写が多い。まさに怪物である。母親そのものだけではない、『天窓』では、母性の象徴である「月」を「毛の生えた怪物」と表している。世界の神話では、露骨な表現を避けているのに対し、残雪の場合は、母親そのもので表現されている。だから残雪の作品からは、疎外や孤独という生々しい印象が簡単に読み取れるのである。神話では伝わりにくいものを残雪は伝えているのだ。母性を実際の母親を登場させて表現するのに対し、父性の表現方法は異なる。まず、残雪の親子が登場する作品のたいていが母子の存在で構成されていて父親という存在は薄い。しかし、父性を象徴する人物は必ず登場している。 

2.父性

ノイマンによれば、出来上がりつつある自我は絶えず母なるウロボロスの中に引き戻され、呑み込まれ、溶解してしまう危険にさらされている。この危険対抗して、自我・意識の発達を促し守るのが男性性と父性である。ヨーロッパでは母からの自立は「英雄の母殺し」(竜との戦い)としてイメージ化されることが多いが、その母殺しのイメージの中で、父なる存在が英雄を助ける場合が多く見られる。たとえばノイマンが最も典型的な英雄神話と呼んだペルセウスのメドゥーサ退治の図には、つねにヘルメスが「援助する男性」として共に描きこまれている。[36]

 この「援助する男性」の存在であるが、『阿梅、ある太陽の日の愁い』でいうのならばもちろん「老李」である。母親との母子共生の中にいた阿梅にとって、最初の対象となったのが「老李」なのである。「老李」がいてこそ、阿梅は母親から分離し、自立へと成長していったのである。母親の子を突き放す態度だけでは、子供の自我は成り立たず、」子供の自我には父性「援助する男性」の存在が不可欠であることが示されている。また、『天窓』では、孤独の世界の案内人的存在であった「死体焼きの老人」がそのポジションである。

オスとメスのペアが家族の中心になるゴリラの場合には、オスは新生児の世話をまったくしない。すなわち出産したメスはメス同士で暮らさないで、ボスになって背中が白くなった、いわゆるシルバーバックと近接して暮らすようになるしかし初めのうち彼は新生児にはまったく関心を示さない。―中略―ゴリラの父親は新生児の世話を母親に完全に任せて手だしはしないが、その間母子を保護する役割を果たしており、さらに子どもが一人歩きできるようになると、遊び相手をしたり、子どもが真似をするのに対して採食行動などの模範を示したり、また子どもが母親から離れるきっかけを与えている点である。これらは人間の父性行動にとっても重要な特徴である[37]

『天窓』の冒頭、阿梅が老人についていく場面で、阿梅は老人のことを「ゴリラのよう」と表している。これは、「老人」が父性を表す「援助する男性」であることを示している。現に、老人は阿梅を孤独の世界へいざない、新たな世界、自我の目覚めへと案内した。阿梅の父親は実際に登場しているが存在が薄く、残雪は老人に全ての父性をおいている。 

3.結論

 残雪によって描かれる異様な世界は、精神世界のシンボルをそのまま登場させ、無駄な言い回しをさけ、露骨な表現を使うことにより生まれる世界である。よって一見難解な作品にみえるが、神話よりも何よりも人間の現実が正確に示されているのである。人間にとって、孤独とはなくてはならないものであり、その経験なくして自我は生まれない。自我には、両親の存在が不可欠であり、母親は、先天的つながりであり存在は絶対なのである。一方父親は後天的存在であり血のつながりがなくともその存在は果たせるのである。そして、自我とは母親の消滅をもって達成されるのである。

 

引用文献



[] 残雪『カッコウが鳴くあの一瞬』近藤直子訳(河出書房新社、1991年)7-8

[]同上8-9

[]同上11

[] 同上9-10

[] 同上12

[] 同上13

[] 同上13-14

[] 同上15

[] 同上16

[10]残雪『青老たる浮雲』近藤直子訳(河出書房新社、1989年)、153

[11] 清水学『思想としての孤独』(講談社、1999年)14-15

[12] 残雪、前掲書、153

[13] むきばんだの花・木 解説(未完成)

http://www.lares.dti.ne.jp/~sako/hanacoment.htm>(200712日)

[14] 「ねずみの駆除」『大阪府ホームページ』

  <http://www.pref.osaka.jp/kankyoeisei/sumai/1mushi/nezumi.html

200712日)

[15]「ねずみ」『未弐の夢事典』未弐

http://members.aol.com/lilylove28345/dream4-4.htm#ne>(200712日)

[16] 「ぶどう」『Zowie’s Room

http://zow.web.infoseek.co.jp/yume.html>(200712日)

[17] 残雪、前掲書、153-154

[18] 「にんじん」『未弐の夢事典』未弐

http://members.aol.com/lilylove28345/dream5-4.htm#ni>(200712日)

[19] 残雪、前掲書、154-155

[20] 同上、153

[21] 同上155

[22] 「橋」『未弐の夢事典』未弐<http://members.aol.com/lilylove28345/dre-ha.htm

200712日)

[23] 残雪、前掲書、156-157

[24] 同上、157-158

[25] 同上、158

[26] 同上、158-159

[27] 「せみ」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(2006326日)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9B%E3%81%BF>(200718日)

[28] 残雪、前掲書、159-160

[29] 同上、160-161

[30] 同上、162

[31] 同上、165

[32] 同上、163-164

[33] 同上、170

[34] 同上、172

[35] ユング『元型論』林道義訳(紀伊国屋書店、1999年)106

[36] 林道義『母性の復権』(中公新書、1999年)117-118

[37] 林道義『父性の復権』(中公新書、1999年)37-38

[38] 同上、15-16