残雪の作品にみる家族の深層

右島真理子(2006年度)

目次

序論
本論
第一章 母親と子供
第1節 物語の中の母たち
第2節 残雪の描く母たち
第3節 阿林の母親
第4節 「叱る」ということ

第二章 父親と子供
第1節  エディプスと阿林
第2節 阿娥の父親の正体

第三章 兄弟・姉妹
第1節  《天空里的藍光》の謎の語り手
第2節  かわいそうな女の子、阿娥
第3節  理想の女性、阿仙
第4節    2人の少女の正体
結論 阿林の心の中、家族たちの位置づけ

参考文献


序論

 人間はこの世に生まれてきてから、事実上1人で生きていかなければならないが、その生きていく上でもっとも「自分」に近い存在が「家族」である。

一言で「家族」といっても、人によって様々なイメージがあると思うが、「家族」の良いイメージは、家族全員で食卓を囲み、にこにこ微笑があふれるようなそんなイメージだろうか。

しかし、中国現代文学における「家族」を考えてみると、なかなか上のようなイメージは思い浮かびにくい。曹雪芹『紅楼夢』の家や魯迅『狂人日記』の家など、微笑ましいあたたかい家族とはちょっと結びつかない。どちらかというと暗いマイナスのイメージの方が強いと言えないだろうか。

 そういったマイナスイメージの「家族」の究極の形が、中国人作家残雪の作品に登場する家族である。彼女の描く家族のなんと不可解で奇妙なことか。『汚水の上の石鹸の泡』では母親が溶けて消えてしまうし、『山の上の小屋』では主人公が家族全員を敵に回しているようである。微笑ましい家族など、影も形も見当たらない。

 なぜだろう。なぜ彼女はこのような奇妙な家族ばかり描くのだろうか。
 また残雪自身も、絵に描いたような家族の中で育ったわけではない。

 残雪(本名鄧小華)は中国湖南省の出身で、厳格な両親に育てられた。どれくらい厳しかったのか。『蒼老たる浮雲』の訳者あとがきには、

  両親はいずれも気性の激しい「恐ろしく強い」人間で、子供たちを「徹底的に抑えつけていた」という。(1)

 と記されている。「徹底的に抑えつける」という表現から推測すると、両親の言うことは絶対だったと考えられる。両親に逆らうことなど、不可能に近かったのではないだろうか。

両親はそれぞれ湖南日報社の社長と人事課長であったが、1957年の「反右派闘争」にて父親が「極右」とされ、それまでの生活が一変する。母親は労働改造にやられ、父親は心臓が悪くそれを免れたものの、8人の家族は貧しい生活を余儀なくされる。この時彼女はたった4歳であった。小学校に進学した後も、右派分子の娘として周囲の人々から白い目で見られたという。

さらに1966年に文化大革命が始まると、両親はまたもや捕らえられ、兄弟たちは農村にやられて、彼女はたった1人で生活しなければならなくなる。

当時の残雪の生活がどんなものであったのか、そういった毎日の中で彼女が何を思ったのか、私には想像もつかない。しかし彼女のこの体験は、作品にも何らかの形で現れているはずである。作品中の家族たちの中に、私なりの何かが見つけられればと思う。

 本稿では、残雪の作品に登場する奇妙な家族たちの中で、2作品《天空里的藍光》、《阿娥》に焦点を当て、《阿娥》の主人公「阿林」を中心とした家族の謎を、ユングの精神分析学をヒントにしながら分析していく。

第1章     母親と子供

第1節      物語の中の母たち

 地球上にはありとあらゆる国があり、それぞれの国の中にも地域によって様々な文化の違いがある。そしてそこに伝わる昔話も千差万別である。

 しかし、母(あるいは母性を表す何か)の出てくる話がひとつもない地域がはたしてあるだろうか。おそらくないであろう。

 そして、物語の中のたいていの母親像は2つの顔を持つ存在である。ひとつは、育て、癒し、助ける母。グリム童話では、「おいしいおかゆ」で主人公に知恵を与える老婆や、「いばら姫」の美しい妖精などがそれである。もうひとつは、「白雪姫」の意地悪な継母や「ヘンゼルとグレーテル」の醜い魔女となって現れる、傷つけ、殺し、呑み込む母だ。ここではそれぞれを、「善母」、「悪母」と呼ぶことにしよう。

 善母も悪母も、若者の心の成長に大きく関わってくるものである。前者は導き手となり、後者は乗り越えねばならない障害となるのだ。そして、これら一見まったく別の存在のように思える母親像は、もともと同じ「人間の無意識」の中に存在するものなのである。

 分析研究者のS・ビルクホイザオエリは、著書『おとぎ話における母』の中でこう述べている。

 「母性的な原型の現れ方は、その人の意識的態度と無関係ではない。だからおとぎ話の母親像を見る場合も、主人公の振る舞いと母親像を関連付けていくことになる。」(2)

  意識的態度とは、どのようなものか。自ら決定し、行動することだろうか。では、自分自身に決定させるのは何なのか。それこそが無意識なのだ。

 オエリはこうも述べている。

 「仲間の人間に対するのと同じく、自分自身の道徳的な弱点に対してどのような態度をとっているかが問題なのである。そして、人間に生まれつきの意識化への衝動が、そこで再三再四、内なる自然の諸側面に逆らうことを余儀なくさせる。そのためには、善と悪を評価し弁別できなければならない。意識化のこのプロセスを、ユングは個性化(インディヴィドウアチオーン)と呼んだ。それは無意識、つまり我々の自然によって、あらかじめ描かれた自然な心的発展の道である。(中略)善悪の相対性を洞察することは、それに耐えられる人にとってのみ治療的で、全体性の形成に役立つ。だから自然母は、ある人には破壊的な力、他の人には自愛に満ちた甦らせる力として経験され、それに応じて実に様々な役割を演ずるのである。」()

  善悪の例として、ライマン・フランク・バウムの童話、「オズの魔法使い」を挙げてみよう。竜巻に飛ばされてオズの国に迷い込んでしまった主人公ドロシーがまず出会うのは、北の魔女。彼女はドロシーにこう語る。

 「このオズの国には、4人の魔女がおります。北と南の魔女は、良い魔女ですが、東と西の魔女は、悪い魔女です。」()

 同じ「魔女」であるにもかかわらず、「良い魔女」と「悪い魔女」、つまり「善」と「悪」が存在する。もちろん南北の魔女は「善母」で、東西の魔女は「悪母」である。北の魔女は、「西の魔女と戦え。」とドロシーに直接言いはしないが、オズ大王のいる都への旅のきっかけとなる。結局ドロシーは王に、西の魔女との対決を言い渡されるので、北の魔女が西の魔女との対決へとドロシーを導いたと言ってもよい。都へと続く黄色いレンガの道は、まさにオエリの言う自然な心的発展の道である。
 無意識は「悪」となって現れ、同時に主人公に「戦わなければ」と思わせる導き手となる。主人公がこう思って初めて意識化が起こる。つまり、「悪」も導き手の「善」も、もとはといえば同じものなのである。
 昔話の舞台となる様々な世界(例えば、オズの国)を人間の心に置き換えると、誰の心の中にも、善と悪両方の顔を併せ持つ母親像が存在するということが言える。

 ユングはこのような母親像を「母なるものの原型」あるいは「太母(グレートマザー)」と名づけた。

第2節 残雪の描く母たち

 
 物語の中で母親がどのような形で現れるのかわかったところで、残雪の小説の中の母たちを見てみよう。

 彼女の作品の中にも様々な母親が登場するが、その母たちにはどんな特徴があるだろうか。いくつか思い当たるものを挙げてみると、

醜い
汚い
冷酷で意地が悪い

など、挙げられるのはマイナス面ばかりだ。醜いという点でおとぎ話に登場する魔女に似ており、彼女たちの抱く感情が、憎しみ、怒り、妬みなど負の感情なことがほとんどであることからも、残雪の描く母親像は「悪母」に近いことの方が多いと言えるだろう。そしてまた、主人公が母親を嫌っているというケースが多い。『蒼老たる浮雲』の虚汝華は、「母親を不倶戴天の敵とみなした。」()『天窓』でも主人公は汚らしい母親を良く思っていないし、『山の上の小屋』の主人公も、自分がいつも母親に邪魔をされていると感じている。

 なぜ彼女たちはみな、自分の子供に嫌われてしまうような、言い方を悪くすればひどい母親なのだろうか。たとえ物語の最初では主人公が母親を嫌っていなかったとしても、母たちはその醜い姿を見せ付け、子供が自分を避けるように仕向けるのだ。なぜそうまでして彼女たちは子供を突き放そうとするのか。

 何度も言うように彼女たちは極端に醜く描かれているので、その醜い面ばかり見えてしまいがちであるが、実はこの母たちも、第1節で述べたように、善悪両方の顔を併せ持っているのだ。「悪母」の背後には必ず「善母」が存在する。

 おとぎ話における母原型について、オエリはこう述べている。
 

 「精神的なもののすべて、もっと一般的にいえば意識化すること、の敵としての自然母は、たとえば森に住む恐ろしい魔女の姿でおとぎ話に現れる。彼女はしばしば主人公と戦わされ、その上殺されなければならない。つまりこの否定的な姿ゆえに、克服されなければならないのである。」() 

 「ヘンゼルとグレーテル」ではお菓子の家に住む魔女が2人を食べようと襲い掛かり、最後にはかまどに閉じ込められ殺される。この「魔女を殺す」という行動にグレーテルが出たのは、魔女の「2人を食べようとする」という否定的行動ゆえである。逆に言えば、克服されるべき存在であるからこそ、否定的な姿をしているのである。またここでグレーテルに「魔女(悪母)と戦え」とひそかに命令するのが、見えない「善母」なのである。

 残雪の描く母たちも同じだ。彼女の作品、『阿梅、ある太陽の日の憂い』で阿梅の母親が最後死ぬ時の描写は非常に気味が悪い。そしてなぜか母親は、阿梅を家から閉め出し、入れようとしない。もうおわかりのように、死にそうになっているのは「悪母」であり、阿梅を母親から引き離そうとしているのは「善母」である。

 オエリはこうも述べている。 

 「母固着の人とは、まさに創造性を負わされた人なのである。したがって創造的な行為を通してのみ、しばらくの間母親から解放される。というのは、彼を苦しめているのは、結局のところ現実の母親とのつながりではなく、偉大な、目に見えることのない原型的な母親、つまり無意識とのつながりだからである。彼を魅惑し、絶えず創造的行為に誘おうとするのが、心の中の母性的な基盤であることを知るに至って、はじめて、実際に母親から自由になることが出来る。」()

 母親から本当に解放されるためには「善母」の囁きに耳を傾け、彼女の差し伸べる手を取らなくてはならない。それが出来るかできないかは、その人次第だ。これは大変困難な選択である。

人は1人になることを恐れる。会議の場などで、「反対意見のある者はいるか。」と聞かれ、自分以外の人が何も言わなければ例え自分が反対意見を持っていたとしてもなかなか口を開けない。他の人と同じでいるほうが安心できるからだ。

この選択において楽な道を選ぶということは、つまり「善母」を無視することだが、そうすれば永遠に母親につながれたままになってしまう。そうさせないためにも、「悪母」は醜く恐ろしい姿で襲い掛かるのである。

第3節 阿林の母親

《阿娥》と《天空里的藍光》の2作品の中で、登場する母親は、

《阿娥》の語り手である主人公、阿林の母親
阿林の友人細の母親
 阿娥の友人阿俊の母親

と何人かいるが、これらの母親もまた2種類に分類することが出来る。しかし、第1節で述べた、「善母」と「悪母」の分類とは異なることに注意したい。

 まず、細や阿俊の母のように、怒りの感情をむき出しにしてよその子供にも罵声を浴びせる「怒りの母」、もうひとつは阿林の母のように、感情の起伏がほとんどない「無感動の母」である。前者は残雪のほかの作品の母たちと似ているが、阿林の母親は違う。

 さて、阿林の母親とはどのような人物か。他の母たちのように、極端に醜く描かれてはおらず、物静かな母親である。

彼女の感情の中心は「悲しみ」である。いつもため息ばかりで、常に悲しそうにしている。息子に怪我をさせた阿娥の父親に対して復讐してやると言いつつも、言うだけで何もしない。

阿林はこの母親のことをどう思っているのだろうか。

《阿娥》の物語の中で初めてこの母親が登場するのは、阿林がを泣かせて彼女の母親に怒鳴りつけられた直後である。
 

妈妈见我躲在们背后倾所,就走过来将我揽在她怀里,她的粗糙的,被劳作弄得变了形的大手抚着我的背, 一声接一声地叹气,就像我闯了大祸,不可挽回了似的。

什么事也没有,妈妈。我不服气地说。

当然,当然,能有什么事呢?好孩子。

她的惶惑不安的目光对着面前的那堵墙,那样子分明是告诉我大难临头了。我突然很恨她,这种感觉是常有 的,但这一次,我觉得他和外面的人们是一伙的。()
 

「怒りの母」である細の母親の登場の直後に現れることから、対照的な2人の母親は、読み手に強い印象を残す。早速ため息をつくこの母親は、一見阿林のことを慰めているように思えるが、阿林は彼女のことを突然憎らしく思う。母親を憎らしく思うのはいつものことらしいが、この時は、自分を悪く言うよその連中と母親がぐるだとまで思ってしまう。

だとすれば、阿林も残雪のほかの作品の主人公たちと同じように、母親を嫌っているのだろうか。物語を読み進むと、徐々に彼の本心がわかってくる。

上記の事件の後、少年阿林は少女阿娥を連れて家出をする。なぜ急に家出などしたのだろう。阿娥は生まれつき奇妙な病に取り付かれており、日に当たることも出来ず、家にいるときはガラスの戸棚の中で寝ている。このガラスの戸棚がまた興味深い。象徴事典を引くと、箱は母体と保護の象徴だと書かれている。阿娥には母親がいない。ガラスの戸棚はそんな彼女にとって、世間の風から守ってくれる母性そのものなのかもしれない。また彼女が戸棚の中を心地よいと感じていることから、戸棚(母)に守ってもらうことに対して居心地のよさを覚えていることも言える。

ガラスの戸棚に横たわる少女、誰かに似ていないだろうか。そう、グリム童話の「白雪姫」である。『おとぎ話における母』にはこう書いてある。

「小人たちが死んだ姫を横たわらせたガラスの柩は、彼女を取り囲んで、生き生きと生活に関わるのを妨げる何か目に見えぬ冷たい覆いを思わせる。(中略)白雪姫は死んだも同然の状態で、確かに見ることはできるが触れることはできない。それは孤立の状態であり、したがって感情的な断絶が考えられる。彼女が具現化している心の部分は、もはや生活に関わることができない。こういう場合、人間はその半分しか生きていない。ついでながら柩自体も死の母、死をもたらす母性原理の象徴である。」() 

真空状態になる戸棚の中に横たわることは、死そのものであるとも言える。戸棚の中にいることは心地よいのかもしれないが、それは死んでいるのと変わりない。戸棚は阿娥の病気を治しはしないようである。 

真可惜,真可惜,长年多在那种柜子里,多么可怕!(10) 

阿林はこんな風に、ガラスの戸棚を批判し、そして阿娥を山へ連れ出そうとする。また、彼は阿娥の家の近くで「城攻め遊び」をする。象徴事典を引くと、「城」は「保護」と「孤立」の象徴だと書かれている。砂の城を崩すことは、阿娥を孤立した状態(ガラスの戸棚)から解き放つことと考えられないだろうか。

これだけなら、彼は母親のことを良く思っていなくて離脱したいと思っているから家出をしたのであり、阿娥に「母性の象徴であるガラスの戸棚に依存するのはよくない」と言っているように思える。

ところが、伯父伯母の家に転がり込んだ後、事態は一変する。阿林の母親は息子を追いかけてくるどころか(伯父の家に来たことは来たのだが)、「もう息子はいらなくなった。」と言ったのだ。

妈妈自己也常常和我开玩笑,说要把我送到舅舅家去住。(11) 

と、冗談だと思っていたことが本当になってしまった。さあこれを聞いた阿林はひどく困惑し、自分の本心を表し始める。

彼は最初から、母親と離れたいなどとは思っていなかったのだ。いつも悲しい顔で見つめてくる母親が、本当に自分のことを愛しているのか確かめるために試したのだろう。もし本当に愛されているのなら、母親は必ず連れ戻しに来るに違いないと。それなのに母親は彼が予想もしなかった行動に出た。母親が自分を必要としていない、この事実は彼にとってかなりの打撃となった。

そのうち伯父伯母ともうまくいかなくなる。そのとき彼の脳裏に浮かんだのも母親であった。彼は約2ページに渡り、自分に問いかけ、葛藤する。 

是不是她本来就想摆脱我,现在正好有了借口呢?(12) 

 自分の家出がいい口実になったのかと母を疑ったり、 

这样一个日夜为我担忧的母亲,她的举动肯定有另外的理由,不会舅舅的那么冷酷。(13)

母親のしたことには何か別の理由があるのだと彼女を肯定したり。

  そして、阿林は自分が母親にどうしてほしかったのかも明らかにする。

第4節 「叱る」ということ

 阿林はこんなことを言っている。

 我以为母亲会追到舅舅家来指责我一通,或者是不许我同阿娥来往。(14)

 母親が自分を責めたてるか、阿娥と会うのを禁ずると思っていた。ということは、阿林は母親に「叱る」という形で自分への愛を表現して欲しかったのだ。

 「叱る」時の母親は、子供たちにはどう見えるだろうか。怒っている母親は怖い顔になるし、大きな声で怒鳴る。この怖いお母さんは、童話に登場する魔女に似ている。しかし母親は、決して子供が憎くて怒っているわけではない。「叱る」ことによって、子供に良いことと悪いことの区別を教え、正しい道へと導くのである。母親に限らず、親の愛情は子供の前に「悪」の顔をして現れ、同時に導き手である「善」となり子供を育てるのである。

ところが阿林の母親はどうだ。何度も述べたように、彼女は常に「悲しみ」を抱えている。別に誰かがそう望んだわけでもないのに。阿林が、自分は母親の悲しみの中で成長したと言っているところから考えて、この母親は彼を産んでから1度も「叱る」という行為をしたことがないのだろう。

しかも、細の母親にやぶから棒に怒鳴りつけられた直後に、自分の母親にため息をつかれ、叱らない自分の母親が余計に目立つ形になってしまったのだ。彼が急に母親を憎いと思ったのは、きっとこのことなのだろう。

悲しんでばかりの彼女は、阿林にとっての導き手にはならない。それで阿林は彼女に愛されているのか不安になってしまうのだ。

彼は母親に叱ってもらいたくて、ありとあらゆる悪戯をする。泥沼に飛び込んだり、死体の真似をして人を驚かしたり。それでも彼女は叱らずに悲しんだので、阿林が次にしたことが、阿娥を連れての家出であった。

黙って家を出ただけでなくよその子まで連れて行ったのだから、今度こそ叱られると思ったのに、結果は阿林にとって最悪のものであった。

それから彼がどうしたかというと、結局家に帰ったのだ。(帰る前に、彼の出生の秘密が明らかになるのだが、それについては次の章で述べることにする。)

虽然母亲也好像同他们是一气的,我却还是认为是多年里头她对我的牵挂不会是出于假心假意(15) 

自分の母親が、阿娥や彼女の父親(阿林は彼を嫌っている)とぐるだと思いつつも、自分のことは愛してくれているという望みにすがりながら彼は帰る。そこにいた母親は、これまでの彼女とは別人のように生き生きとしていた。阿林の中に一瞬光がともる。

她还没有抛弃我。(16))

自分はまだ捨てられたわけではない、しかも母親の顔から「悲しみ」が消えたのだから、今度はきっと自分を叱ってくれるに違いない、こんな風に考えたのではないだろうか。

ところが、彼の期待はまたしても裏切られる。

母親はこう語る。

比如说你爸,你是我的儿子,因为你天天在我面前生活。要是你出走的时间长一点,我很快就会把你忘记,就想我不曾有过儿子一样。过了三五年,人家问起我,我会一点都记不起我有个儿子的事了。我没有夸张,实际情形就是这样。所以你跑到你舅舅家里去两天,在我的感觉里你就不存在了,我还有点高兴呢。后来你舅舅有提起你,我就觉得你应该在他们家生活,舅舅是个博学的人,会得你好影响。(17)

彼女は、息子など一緒に暮らしていなければ忘れてしまうという。心配などするわけがなかったし、ましてや寂しいなどとは全く思わなかったようである。

これを聞いた阿林は、また家出をする。今度は母親の前で宣言してから出て行く。

第三天一清早我就出发了。我的目标是东边的一个大城市,听说城里的人比马蜂窝里的蜂还有多,那种地方不会有人注意到我。(18)

このように物語は終わっている。今度はもう誰にも追いかけてきてほしくないのだろうか。いや、きっとそうではなく、今度こそ母親に心配させたいのだ。「伯父の家でだめだったのは、あまりにも近すぎてすぐ母親に自分の居場所がわかってしまったからだ。遠くの街へ行けば誰も母親に知らせる者はいないから、きっと心配してくれるはずだ。そして自分を連れ戻し叱ってくれるはずだ。」こんな風な望みを阿林は捨てられないのだ。母親にべったりと依存することの心地よさから離れることが出来ないから。

第2章     父親と子供

第1節      エディプスと阿林

父親と子供の関係を分析するにあたり、避けて通れないのが「エディプス・コンプレックス」の概念である。

 精神分析事典を引くと、こう書いてある。

 「フロイト Freud,S.がギリシャ神話のエディプス王の物語に基づいて命名した精神分析の最も基本的な理論概念のひとつで、同性の親に取って代わり、亡き者にしたいという願望と、異性の親と結合したいという願望、これらの願望をめぐる同性の親からの処罰に対する恐怖ないしは罪悪感を3つの構成要素とする心的な布置を陽性のエディプス・コンプレックス、その逆の、同性の親に愛情を向け異性の親を憎む心的布置を陰性のエディプス・コンプレックスと呼び、この両者は共存し葛藤しあうという。」(19)

 加えて、ソフォクレス作のギリシャ悲劇、『エディプス王』がどのような物語であるのかも紹介しておく。

 「テーバイの王ライウスは、生まれてくる息子はおまえを殺すという信託を受け、妻のイヨカスタが男子を産んだとき、王は乳児を山麓に捨てて死ぬにまかせるように命じたが、羊飼いが乳児を発見してポリパス王のところに連れて行き、王はその子供を養子にした。青年に達したエディプスは、コリントを後にし、たまたま十字路でライウスと出会った。道の譲り合いから喧嘩になり、エディプスは父であるライウスを父と知らずに殺害した。

エディプスは、次にテーバイへの道を塞いで、旅人に謎をとかせ、解けないと殺していたスフィンクスと出会い、エディプスがその謎を解いたところ、スフィンクスは屈辱から自殺した。テーバイの人々は感謝して、エディプスを王とし、彼をイヨカスタと結婚させたが、テーバイに悪疫が流行し、信託によれば、ライウス殺しが悪疫の原因であるという。エディプスは犯罪者を明らかにして町を救おうと誓ったのだが、その結果、彼自身が父の殺人者であり、母親と近親姦の罪を犯していたことを知る。母親にしてその妻イヨカスタは首をつって死に、エディプスは、彼女が着物を止めるのに使っていたブローチで自らの目をえぐって盲目になる。」(20)

エディプスにとっての同性の親はもちろんライウス王であり、異性の親はイヨカスタである。そして、同性の親からの処罰は、目をえぐり盲目になることである。

さて、《阿娥》の主人公、阿林に話を戻そう。彼の場合とエディプスの場合を比べてみると、いくつか似ている点が見つかる。

 まず、自分の父親を父と知らず憎んでいるという点である。阿林は母親と2人暮らしで父親の顔を知らない。そして、友人である阿娥の父親を、なんとなく胡散臭いと思っている。

 この父親はどのような人物か。腰の曲がった老人で、顔はアヒルに似ている。あまり口を利かず、暗く恐ろしい感じで、そして乱暴である。ここで、この父親が残雪のほかの作品における母親と似たような位置づけをされていることに注目したい。ただ、彼女たちほど極端に汚く醜く描かれているわけではないことにも注意しておきたい。

 さて、阿林はある日、阿娥の家に入ったところをこの父親に捕まり、地面に叩きつけられて額を怪我してしまう。このことがきっかけとなり、阿林は彼を憎むようになる。

 我当然不再怕他了,我心里还很高兴呢,这下可好了,他再也管不住啊娥了,我和啊娥彻底解放了!(21)

 伯父の家に転がり込んだ後、阿林は思いがけず死にかけた彼と対面させられるが、その時阿林は彼から解放されたと喜んだ。

 ところが、その後で阿林はとんでもない事実を知らされる。阿娥と阿林は姉弟で、憎んでいたあの父親は阿林の父親でもあるというのだ。この事実は父親の死の知らせと同時に阿林の元に届く。エディプスのように直接父親を殺しはしないが、実の父と知らずに憎み、死を願うところはエディプスと似ている。

 また、額に傷を負うという点も、エディプスが目をえぐるのと似ている。第1章で述べた、母性(阿林にとっては異性の親)の象徴であるガラスの戸棚に近づいた時に、父親によって受けた傷であることから、まさに同性の親からの処罰であるといえよう。それがきっかけで父親を恐れるようになったという点も、エディプス・コンプレックスに当てはめることができる。

 しかし阿林は事実を受け入れようとはしない。

就算那个人真是我父亲,我也决不把他看作父亲,他一直想要我的命,(22)

 彼を自分の実の父親と認めたくないのは、処罰を恐れるがゆえに自分の感情(父親を憎むこと)を正当化しようとしているからであろう。彼は他人だと思えば憎みやすいからだ。

このように考えると、阿林はエディプス・コンプレックスの中で溺れており、父親は憎むべき、そして恐るべき同性の親ということになるが、それだけで片付けてしまっていいのだろうか。

第一阿林の場合は、母親を独占するためだけなら、父親を憎む必要はない。父親は赤の他人として生活しているわけだから、阿林とその母親の間に立ちはだかる障害にはなりえないのである。

 この奇妙な父親については、もっと別の視点でも見てみることにする。
 
第2節      阿娥の父親の正体

 ここで注目したいのが、ユング心理学でいう「影」の存在である。

 「すべてのものには影がある。心だって例外ではない。『私ってこんな人』と思っていても、それは意識上のことである。

 その意識上の『私』のすぐ裏には『影なる私』が密かに棲息している。そして、この陽のあたらない無意識の『影なる私』は他人に乗り移ることで表舞台に登場してくる。これが投影である。

投影は影を投げる、という言葉どおり、自分の内部に潜んでいる認めがたい複雑な感情(影)を、他者に投げかけるという行為である。どんな人でも程度の大小はあっても、人は投影することで身の安全を図ろうとしている。」(23)

他人の嫌な所というものは、良い所よりも目に付いてしまうものだが、それが実は自分自身の嫌な所が他人に乗り移った姿だというのだ。自分の欠点を認めたくないがために、他人の欠点と自ら思い込むのだ。自分が嫌いだと思う人は、自分の影を映す鏡的存在なのである。

おとぎ話にも影は頻繁に登場する。

「影の部分は元来喜んで働いていないのだが、本人は多分それに気づいていない。あるいはおとぎ話には、気立てのよい勤勉な娘に意地の悪いいかがわしい義理の姉妹や継母の出てくることが少なくないが、彼女たちが影を表しているのである。彼らはお話の主人公とは同性で表されている。」(24)
 これらのことから、阿林の父親は阿林自身の影であると考えられる。物語には父親以外に、伯父や少年小正など男性(阿林と同性の人物)が何人か登場するが、最初から最後まで悪者扱いだったのは父親だけである。彼は阿林が認めたくない、阿林自身の一部なのだ。

 こう考えると、阿林が彼を実父と認めたがらなかったことにも説明がつく。おとぎ話でも「義理の」姉妹や「継母」であるように、肉親でない方が投影しやすいからである。肉親であることを認めれば、その「悪者」の血が自分にも流れていることから、どこかで自分自身の嫌な所を認めることになり、鏡に映った自分と対面しなければならないのである。だから影には他人でいて欲しいのだ。

 投影の行き着く先が何であるのか、ユングはこう述べている。

 「投影の結果は、環境に対する実際の関係の代わりに幻想的関係だけが存在することになり、環境に対する主体の孤立が起こる。投影は環境に、主体のものでありながら本人はそうと知らない相貌を与え、ついには自己愛または自閉的状態に至らせる。そこではひとはひとつの世界を夢見るが、それが実現されることは決してない。ここから生じる『空虚感』ともっと悪い不毛の感じがさらに投影によって周囲の人々の悪意と解釈され、この悪循環によって孤立は強まってゆく。」(25)

 物語の中で阿林は周囲の人々から嫌われてしまったと感じる。これは阿林の投影の結果であろう。母親が自分の思い通りにならないので、「自分はなぜ人々に嫌われたのか、それは阿娥に関わったからだ。」とさらに投影を行い、阿林は自分と遊ぶしかなくなってしまったのだ。

 それでいて、おそらく阿林は父親が自分の影であることに気づいている。実際は気づかないようにしているのだが。

《阿娥》の後半には阿林が父親のことを悪く言う箇所が増えてくる。

我把她骗出来了,那个老混蛋不知道要怎样伤心呢。(26)

阿娥根本没有病,是那个老混蛋让她过着非人的生活。(27)

これらを見ると、阿林が父親を悪者だと思い込もうとしているようにも見える。これは彼が影の存在に気づかないふりをしていることの現われではなかろうか。

第1節で述べたように、この父親は残雪のほかの作品における母親と似たポジションにいる。しかし彼女たちとこの父親をもっと詳しく比べてみるとどうだろう。残雪の描くたいていの母親は極端に醜く汚い。髪の毛を洗わず常に悪臭を放ち、ついに垢と一緒に髪の毛がすべて抜け落ちたとか、人前で排泄物を垂れ流すとか、凄まじい描写が目立つ。ところが阿娥の父親は、腰が叩き折られたようにひどく曲がっているという程度で、極端に汚くはない。母たちのように、四六時中人に罵声を浴びせるようなこともない。

これはどういうわけか。男女差別か。

いや、これはきっと、阿林が父親の正体を知っているからであろう。投影の対象として「悪者」の存在を望みながら、自分の分身を極端に醜くすることはできない。阿林の「自分可愛さ」からできずにいるのだろう。自分の投影を見抜く気持ちとそれを認めたくない気持ちがぶつかり合って、この父親を生み出したのである。

影について、ユングはこうも述べている。

 「自分自身のところへ行くものは自分自身に出会うという危険を冒す。鏡はへつらわない、覗き込むものを、すなわちわれわれが世間には決して見せない顔を、忠実に写して見せる。その顔をわれわれはペルソナ(仮面)で隠しているが、鏡はその仮面の裏にあって、真実の顔を見せつける。これが内面への途の最初の勇気の試練であり、ほとんどの人を怖気づかせるにはこれで十分である。自分自身との出会いは、およそ否定的なものを周囲へ投影することが出来る限りで、われわれが避けようとする不愉快事のひとつだからである。自らの影を見てそれと識ることに堪えられるなら、そのとき初めて課題の小さな一部が解決を見たことになる。つまり少なくとも個人無意識を捕らえたのである。」(28)

これは非常に困難な課題だともユングは語る。阿林がこの課題を解決できる日は、はたして来るのだろうか。

 さてこの父親だが、単なる悪者としてだけ存在しているのではない。では彼の役割は何なのか。それは「阿娥」の役割と関係している。彼女については次の章で述べることにする。

第3章     兄弟・姉妹

第1節      天空里的藍光》の謎の語り手

 《阿娥》と《天空里的藍光》は、共通する登場人物もいてシリーズ作品になっているとも言える。しかしこの2作品には大きな異なる点がある。それは「語り手」である。

 《阿娥》が主人公阿林の一人称で語られているのに対し、《天空里的藍光》は三人称で語られている。しかもこの三人称は、伝統的な「全知全能型」のスタイルではなく、魯迅以降の中国現代文学において多く見られるようになった、制限のある三人称である。

全知全能型の場合、「阿娥が○○している頃、別の場所で阿娥の父親は○○していた。」のように語ることが可能であるが、この作品では阿娥のいない場所での出来事は全く語られていないのだ。
阿娥の後を常について回り、阿娥の気持ちだけはわかる謎の語り手。見方を変えると阿娥はこの語り手に操られているようにも見える。語り手は彼女の夢の中の様子まで詳しく語ることができる。つまり彼女の夢を作っているのはこの語り手だと言えないだろうか。

この語り手とは一体何者なのか。私は、この語り手の進化した形が《阿娥》の「阿林」になるのではないかと思った。ではなぜ阿林は、この物語においては登場人物とはならずに一歩引いたところにいるのだろうか。また阿娥と、この物語に登場する姉の阿仙(阿娥が阿林の姉なのだから、阿林にとっては彼女もまた姉である。)は、阿林にとってどのような存在なのだろうか。
 
第2節      かわいそうな女の子、阿娥

 你不会笑,可怜的孩子。(29)

 これは《天空里的藍光》の中で、阿娥が友人阿俊の母親に言われた言葉だが、この言葉を彼女に言わせたのは語り手、つまり阿林である。阿林は阿娥を「かわいそうな女の子」だと思っている。というより、「かわいそうな女の子」に「しておきたい」と思っている。《阿娥》の冒頭で阿林はまさに、
阿娥真可怜(30)

と彼女のことを述べている。

おとぎ話に登場する「かわいそうな女の子」といえば、「シンデレラ」などがそうだが、彼女たちのほとんどには母親がいない。

このような物語の特徴を、オエリはこう述べている。

「主人公に対応する女性は、さし当たって純粋に衝動的本能的な生命可能性をあまり持っていない。(中略)彼女にはよき母親がいない。だから、無意識の本能的生命の中に幸福を見出すことが出来ない。無意識のうちになんとなく過ごすことはすべて嫌いである。他人にはさっさとうまくいくことが、彼女には否定的に働く。」(31)

阿娥は《天空里的藍光》では割れガラス(もともと毒入りの瓶だったらしい)で足を怪我し、死ぬことに絶えずおびえていた。《阿娥》ではおかしな病気にかかっていて、ろくに外に出ることも出来ない。彼女はこの記述に当てはまらないだろうか。

阿林はなぜ阿娥を「かわいそうな女の子」にしたいのか。

 これも投影である。しかし父親の場合とは少し異なり、阿娥に投影されているのは「母性に依存している自分の姿」である。

阿娥の母親はこの物語の中では破傷風で死んだことになっている。阿娥が母性に依存している阿林の姿なら、彼女に母親がいないのは矛盾しているようにも思えるが、彼女を「かわいそうな女の子」にしたい阿林にとって、両親が揃っていては不十分である。自分が必要なものを持っていない人というのは、なんとなくかわいそうに思えるものだ。阿林は無意識のうちに、自分にとって最も離れることの出来ない存在を阿娥から取り上げることで、彼女を(阿林にとっての)「かわいそうな女の子」にしている。

では、阿娥に阿林が母の代わりに与えたのは誰か。一見父親とも思えるが、父親は「悪者」にしておきたいから「阿娥の依存の対象」にはしたくない。では誰か。それは、姉の阿仙である。

 《天空里的藍光》の中に、このように書かれた部分がある。

「阿仙手脚不停的忙着,阿娥在边上着,她很羡慕阿仙干活的那种熟练派头,她自己怎么也不会。(32)

阿娥は少々気の強い少女だが、姉の阿仙には何をしてもかなわない。母親のいない阿娥にとって、彼女は母親代わりなのである。

 阿娥は阿仙に対し反発する気持ちも抱くが、結局頼ってしまう。

阿仙很体贴的拉起阿娥的手,同她一道慢慢地在小路上踱步,使阿娥一下子大为感动。(中略)这样一想,阿娥就对阿先生一赖的感觉,她把她的手握得紧的些,在心理嘀咕:万一有什么事发生,不是还有阿仙顶着吗?她那么贤淑,什么事都帮她安排得好好的,自己正应该以来她嘛。(33)

阿娥が友人の小梅の家に行った時、心配で追いかけてきた阿仙に彼女はすがるような気持ちになる。結局は姉におんぶに抱っこするのがいいと思ってしまう。これは母親におんぶに抱っこするのがいいと思う阿林そのものである。

この、阿娥が小梅の家に行くという場面を見て、何かを思い出さないだろうか。そう、阿林が伯父の家に転がり込む場面である。

阿娥はこれだけではなく何回か家を抜け出す。自分がもうすぐ死ぬ身体ではないことを証明するためと書かれているが、阿娥もやはり阿仙に心配して欲しいという気持ちから行動に出たのであろう。しかし阿林の場合とは決定的な違いがある。それは父親や阿仙が、必ず彼女を追いかけてくるということである。阿林は阿娥に自分の姿を投影しながら、自分の望みまで投影してしまっているのだ。

さて阿林は、《天空里的藍光》全体で阿娥を「自分の足で立てない子」だと述べている。そのため、彼女1人に注目する必要があり、この物語は彼女の後を語り手がついて回る三人称の形で書かれているのだ。阿林は《阿娥》でもそれと同じ目で彼女を見ている。彼女が心配だ、かわいそうだと盛んに述べるのはそのせいであろう。そして、自分の行動はすべて「阿娥のためにしていること」だと正当化する。

阿林は伯父の家で、こんな空想をする。

我们跑呀跑的,撇开了她父亲,扔下了我母亲,连舅舅舅妈都不要了,后来阿娥跑不动了,我就背起她跑,我成了大力士,跑过一座山头又跑过一座山头,要是她抱怨,我就连她也扔下,一个人跑,这一来她就会央求我带上她,・・・或者我们根本不跑,爱住在谁家就住在谁家,她父亲管不了她,我母亲也不敢指桑骂槐。如果阿娥还是想睡在玻璃柜里,那也很好,我要把她的玻璃柜搬到院子里去,让她晒晒太阳。(34)

これを見ると、阿林が1人でヒーローになっていて、阿娥は面倒を見なければならない存在として見下されている。「阿娥のために」と思い込むためだ。

ガラスの戸棚についても、自分はやめたほうがいいと思っているけれども、彼女がどうしてもガラスの戸棚で寝たいと言うならばしょうがない、というように述べているが、「戸棚、つまり母性に依存しているのは阿娥であって自分ではない」と自分を正当化しているのである。

だから、本当に自分の足で立てないのは阿林自身だということに気づいていない。家出も阿林1人だって出来たのに、「母親に追いかけて来て叱って欲しい」という本心を隠すために阿娥を利用する。彼が家出の理由を伯父にどう語ったかというと、

我们要在他家里长住了,因为阿娥再也不能忍受她原先的生活。(35)

と、阿娥のためなのだとここでも主張し、自分は彼女を救い出したヒーロー気取りである。しかし1人では何も出来ないのは阿林の方だ。伯父の家が嫌になって出て行こうとした時も、「阿娥と一緒に帰る」と言った。自分にとって嫌な場所に彼女を置いておくのはかわいそうだ、とでも言いたいのだろうか。本当は1人で帰れないだけなのだ。1人になれば自分の行動を「阿娥のためだから」と考えることが出来ず、本心と向き合わなくてはならなくなるからである。

このように、自分の行動を正当化するため、阿林にとって阿娥は「かわいそうな女の子」でなければならなかったのである。
  
第3節      理想の女性、阿仙

阿娥の姉阿仙は、《天空里的藍光》にのみ登場するキャラクターであり、第2節で述べたように阿娥の依存の対象として描かれている。さらに、阿林の依存の対象である母親とは対照的であるということもすでに述べた。

この、阿林の母と阿仙の比較という点に注目して話を進めていきたい。

阿仙はどのような人物か。家事をこなし(おそらく刺繍も出来る)、阿娥同様少々気が強いが、妹とは違って父親には決して反発しない。あの乱暴な父親に殴られても、絶えず父親のご機嫌を取る努力をしている。そして阿娥の母親代わりとして面倒も見る。

ここに阿林の願望が現れている。まず阿仙の性格である。笑ったり、怒ったり、おびえたり、物語の中で彼女は様々な感情を見せる。妹が家を抜け出した時には心配して追いかけて来て、なぜいつも1人で出歩くのかと彼女を叱った。そして叱った後には優しく妹の手を取り、一緒に家に帰った。

阿林の母親と比べてみるとどうだろう。第1章で述べたように、母親の基本的感情は「悲しみ」であり、いつもため息ばかりついている。そして息子を叱ったことは1度もない。叱った後に優しく手を取るところなどは、阿林の願望そのものだといえないだろうか。母親に、自分を心配して叱ってほしいと思っている阿林にとって、阿仙はまさに理想の存在である。

次に、父親に反発しないという点である。これも阿林の願望であるといえる。この場合は、「母親を自分の思い通りにしたい」という願望だ。乱暴な父親は、母親にかまって欲しくていろいろ悪戯をする阿林自身の投影であり、そんな父親の機嫌を取るためにしょっちゅう傍にいる阿仙は、阿林の母に対する願望の投影である。

つまり、阿林は阿仙に対して、「自分の理想の母親像」を投影しているのである。
 
第4節      2人の少女の正体

 さて、2人の少女阿娥と阿仙は、2人とも阿林の姉である。この姉たちの正体は何なのか。ここで注目したいのは「影」とはまた別の存在である「アニマ」である。

 「アニマ」とは何か。『おとぎ話における母』によると、

「子供時代には、母親像は何よりも現実の母親に投射される。しかし大きくなると、若者は母親像をもう自分自身の母親に投射できなくなる。若者はそれをしばしば愛する女性に投射する。彼女はそこで、伴侶であると同時に若返った母になる。ユングはこの女性をアニマと呼んだ。

 自然母の姿は、男性の場合には、アニマという内的な力を通して影響を与える。アニマは女性的な、男性にはよく知られていない自身の一面を擬人化している。それは肯定的な面も否定的な面も持つことがある。」(36)

 と書かれている。2人の姉たちは阿林にとって恋人ではないので、「愛する女性」とは少し違うが、彼の投影と照らし合わせると、阿仙と阿娥は2人とも阿林の肯定的アニマであると言える。

 阿仙は理想の母親像であるから、肯定的アニマであることは理解しやすいと思うが、「かわいそうな女の子」阿娥はなぜ肯定的アニマと言えるのか。それは、阿娥がおとぎ話で言う、「捕らわれのお姫様」と同じだからである。第2節で述べた阿林の空想からもわかるように、出入り口のない塔やガラスの山などに捕らわれていて、(自分で逃げ出そうなどとは考えずに)ただ若者が助けに来てくれるのを待ち続けるお姫様は、「阿林にとっての」阿娥そのものだ。

 「おとぎ話では、主人公が1人でお姫様を手に入れることもよくある。このお姫様は、大抵の場合、統合されるべき男性の感情面、肯定的アニマを表している。」(37)

 阿林がヒーローであるためには阿娥が必要である。彼女は彼を肯定するために必要な存在であるから、否定的ではなく肯定的な存在であると言えるのだ。

 さて、彼女たちは阿林にとって肯定的な存在であることがわかったが、はたして彼に対してプラスの働きをするのだろうか。アニマは、時には男性を楽な道へと誘惑する危険な存在になる。その危険な状態が、彼にとってはとても魅力的に見えてしまうのだけれども。

確かに彼女たちは、阿林が最も望んでいることに関してはプラスに働くかもしれない。つまり、2人は彼の「母親への依存」の手助けをしてしまっているのである。

オエリはこう語っている。

 「若者は、母性的無意識に対して何度も無慈悲な厳しさを示さねばならない。なぜならこの段階では、無意識が一つの作用を及ぼして、若者を、振り捨てねばならぬ過去に縛りつけようとすることがあるからである。若者は、無意識によって未分化な自身との一体感、見かけの幸せな状態に引き戻されてはならない。そこではまだ子供として、母の懐に抱かれていたのである。そこから解放されねばならない。しかし、母性的無意識が自らの運命に決定的な役割を果たしていることは、ほとんど知られていないが、理屈として知られているだけに過ぎない。若者にその存在を魅力的と感じさせるもの、幻想を生み出す力として、ないしは人生にまやかしのヴェールを織り成すマヤとして、人知れず動くのがそれなのである。」(38)

 阿仙の存在は阿林の母親に対する願望を強くさせるし、阿娥の存在は母親に依存する手段となってそれを許す。この2人の姉たちが阿林にとって本当に必要な存在であるのか、これは少々考え物である。
結論 阿林の心の中、家族たちの位置づけ

 さて、これまで阿林の家族たちを分析してきたが、《天空里的藍光》と《阿娥》の世界は、阿林の世界、つまり彼の心の中の世界であるということはもうおわかりだろう。

阿林の世界の中心に位置するものは、やはり「母親」である。家族たちの存在理由が、すべてこの母親にある。

すべては母親にしがみついていたいがため、阿娥には自分の身代わりとなり、自分の行動を正当化する存在になってもらった。そのためには彼女が「かわいそうな子」でなければならなかった。そのためには彼女をかわいそうな状態にさせる「悪者」が必要であった。だから父親を悪者にした。こうしているうちに母親に対する願望がどんどん膨らみ、阿仙を生み出した。阿林の世界の中で、父親と2人の姉はこのように位置づけられる。

では、彼の世界の中心となっているこの母親は、一体何なのか。それは、彼を本当の意味で解放するために、乗り越えなくてはならない大きな壁である。彼にとって本当の障害となるのは、父親ではなく母親なのである。

またもちろん母親は障害となるだけではない。第1章で述べたようにこの母親にも2つの顔がある。常に悲しみにくれる「悪母」は阿林の存在を嘆き、最終的には関係を断ち切ろうとする。それと同時に「善母」は、母性にしがみついた阿林を本当の意味で自由にするため手を差し伸べる。

阿林の母親はおとぎ話の魔女や、残雪の描くほかの母たちとは「悪母」の方の顔が異なる。本論で述べたように、彼女たちが極端に醜い姿をしていて冷酷なのも「善母」の役割のため必要なことなのだが、阿林の母親のように傍にいなければ関心がなくなってしまうということもまた冷酷であり、「悪母」として成すことは同じなのである。

しかし彼は「善母」の差し伸べる手を取れずにいる。もしくは「悪母」しか見えておらず、「善母」の存在に気づいていないのかもしれない。

阿林は13歳だ。1315歳という年齢は、子供とも大人ともいえない、微妙な年齢である。母親の乳を飲み、母親にオムツを替えてもらうような年齢ではないが、母親に依存することの心地よさ、孤独になることの恐ろしさを知り始めるのはこのくらいの年齢ではなかろうか。

阿林は「善母」から逃げてしまった。しかしこれでもう何も起きないかというとそうではない。彼は再度「悪母」に襲われるであろう。おそらく彼の母親は彼を忘れてしまうだろう。そうでなくとも、心配して彼を捜しに行くことはなさそうである。それに気づいた時、彼はまた「善母」と向き合わなければならない。

また、これまでずっと阿林について述べてきたが、これは彼だけに言えることではない。我々はどうなのか。阿林とは違うと言えるのか。自分自身の姿を阿林に投影してはいないだろうか。

阿林は、我々人間1人1人の影なのかもしれない。 

注釈 

(1 )残雪『蒼老たる浮雲』近藤直子訳(東京:河出書房新社、1989)191頁。
(2)S・ビルクホイザー-オエリ『おとぎ話における母』氏原寛訳(京都:人文書院、1985)38
()同上、39
()ライマン・フランク・バウム『子供のための世界名作文学⑭、オズの魔法使い』山主敏子訳(東京:集英社、1978)24
()残雪『蒼老たる浮雲』、90
()オエリ、前掲書、23
()同上、24
()残雪『従未描述過的夢境-残雪短篇全集-()(北京:作家出版社、2004)533
()オエリ、前掲書、77
(10)残雪『従未描述過的夢境-残雪短篇全集-()』、534
(11)同上、538
(12)同上、552
(13)同上、552
(14)同上、552
(15)同上、554
(16)同上、555
(17)同上、556
(18)同上、556
(19)小此木啓吾 ほか編『精神分析事典』(東京:岩崎学術出版社、2002)38
(20)同上、38
(21)残雪『従未描述過的夢境-残雪短篇全集-()』、542
(22)同上、553
(23)山根はるみ『やさしくわかるユング心理学』(東京:日本実業出版社、1999)76
(24)オエリ、前掲書、38
(25)C.G.ユング『ユングの人間論』秋山さと子編・解説、野村美紀子訳(東京:思索社、1980)19-20
(26)残雪『従未描述過的夢境-残雪短篇全集-()』、537
(27)同上、538
(28)C.G.ユング『ユングの象徴論』秋山さと子編・解説、野村美紀子訳(東京:思索社、1981)160
(29)残雪『従未描述過的夢境-残雪短篇全集-()』、462
(30)残雪『従未描述過的夢境-残雪短篇全集-()』、531
(31)オエリ、前掲書、58
(32)残雪『従未描述過的夢境-残雪短篇全集-()』、457
(33)同上、459
(34)残雪『従未描述過的夢境-残雪短篇全集-()』、546
(35)同上、538
(36)オエリ、前掲書、41-42
(37)同上、42
(38)同上、41

参考文献

<一次資料>

残雪『従未描述過的夢境-残雪短篇全集-(上下)』(北京:作家出版社、2004)

<二次資料>
C.G.ユング『現代人の魂』高橋義孝、江野專次郎訳(東京:日本教文社、1970)
C.G.ユング『ユングの人間論』秋山さと子編・解説、野村美紀子訳(東京:思索社、1980)
C.G.ユング『ユングの象徴論』秋山さと子編・解説、野村美紀子訳(東京:思索社、1981)
C.G.ユング『自我と無意識の関係』野田倬訳(京都:人文書院、1982)
S・ビルクホイザー-オエリ『おとぎ話における母』氏原寛訳(京都:人文書院、1985)
・ヴェレーナ・カースト『ユング心理学選書⑰、おとぎ話にみる家族の深層』山中康裕  ほか訳(大阪:創元社、1989)
・小此木啓吾『エディプスと阿闍世』(東京:青土社、1991)
・小此木啓吾 ほか編『精神分析事典』(東京:岩崎学術出版社、2002)
・河合隼雄『昔話の深層-ユング心理学とグリム童話-(東京:講談社、1994)
・近藤直子『残雪-夜の語り手』(東京:河出書房新社、1995)
・近藤直子『中国文学を味わう』(東京:国際交流基金アジアセンター、1999)
・近藤直子「解読『阿梅在一個太陽天的愁思』」『現代中国文学小屋』、200410月、<http://www.k2.dion.ne.jp/~kondo-n/eturan2amei.htm>(20061225)
・残雪『蒼老たる浮雲』近藤直子訳(東京:河出書房新社、1989)
・残雪『カッコウが鳴くあの一瞬』近藤直子訳(東京:河出書房新社、1991)
・残雪『廊下に植えた林檎の木』近藤直子訳(東京:河出書房新社、1995)
・残雪『魂の城・カフカ解読』近藤直子訳(東京:平凡社、2005)
・ジャン・シュヴァリエ、アラン・ゲールブラン『世界シンボル大事典』金光仁三郎 ほか訳(東京:大修館書店、1996)
・匠英一『[無意識]の心理学』(東京:雄鶏社、1995 )
・ライマン・フランク・バウム『子供のための世界名作文学⑭、オズの魔法使い』山主敏子訳(東京:集英社、1978)
・山根はるみ『やさしくわかるユング心理学』(東京:日本実業出版社、1999)