残雪:魂の謎の偵察ーー余華「河辺の誤り」を読む

                                                                                                     近藤直子訳

  緻密で機敏かつ冷静、内面の階層豊かな刑警隊長馬哲(マーチョー)は、たまたまある奇妙な殺人事件を引き受けたことから、魂の謎を偵察する長い旅路に踏みだすことになった。表面的に見れば、調査したのは外部の殺人事件だが、実はこれは段階を追ってしだいに覚醒していく馬哲自身の魂の調査である。事件の調査につれて、馬哲という孤独な若者は、事件のひとりひとりの人物に従い、しだいにある馴染みのない、完全には理解できないものの、強烈な吸引力をもつ世界へと入りこみ、徐々に成熟していく。当惑から明晰な理解へ、無自覚から自覚へ、ついには垣根を突き破り、自由におのれの行く道を選択するのである。事件の調査の全体は、さながら一篇の情熱あふれる生命の叙情詩である。あの一目見たら生涯忘れられない、生死の交わる場の神秘的な、美しい風景こそ、詩の最高の境地であり、奇妙な呼び声が上方にこだまし、周囲は太古の昔のごとく静まりかえっている。孤独の中で魂の苦しみに迫られた人々は、続々と、ひとりで、われ知らずその禁じられた土地へと進んでいく。そこで彼らは思いがけずも、魂を震撼させる、この上なく恐ろしい真実を目にするのだ。その真実は人には到底耐えがたいものだが、とても美しく人を陶酔させるものでもある。それは巨大な磁石となっており、人はその引力に抗しきれず、生命の危険を冒しつつ、一度また一度と河辺のあの道へと引き返すのである。
  世俗の生活はなんとも重く、暗く、しかも希望がない。人の肢体はすでに恐怖と麻痺で生命を失い、人の精神は凝固した変わらぬ恐怖の中で萎縮している。しかし、それでもあきらめない何人かの者たちは、一度思いきって生きてみたいという願望を心の底ひそかにもちつづけている。幺四(ヤオスー)ばあさん、ヘアピンをなくした女の子、元気な男の子、王宏(ワンホ)、許亮(シュイリャン)、そして新婚まもない三十五歳の労働者。彼らの心がたどる道程は同じではないが、あの神秘の呼び声が彼らを同じところに連れていく。あの美しく静まりかえった河辺、自由と超越の空気がたちこめ、同時に、不吉な死のにおいのするあの場所に。 その後彼らは長いことあこがれながら、一方で予想さえしていなかった真実に出会う。それは彼らを脅えあがらせ、同時に感動もさせる真実である。彼らの中のある者はまっしぐらに真実に歩み入る。たとえば幺四ばあさんや三十五歳の労働者のように。だがある者は河辺への道を何度も行きつ戻りつしてようやく覚悟を決める。たとえば許亮のように。またある者は単純さと幼稚さから、真実に脅えてしまい、決心がつかない。ヘアピンをなくした女の子のように。最後にもうひとり、衝動にまかせてしゃにむに真実の中に落ち込んでいった男の子がいる。こうした人々はみな、馬哲自身の心を映す鏡である。彼らのいずれもが、それぞれに提供する精神生活によって、馬哲に、自らの魂の検閲と探索を成し遂げさせるのである。馬哲の心はひとつの謎だといってもいい。その謎の答えはこれらすべての人が現し示す魂の画像の中にある。これらの互いに違ってはいるが根本では一致した画像の中では、狂人の画像が核心である。彼は押し潰されることも滅びることもない、あのしたたかな生命力である。始めから終わりまで、みな彼が波乱を巻き起こしているのであって、彼のみが不断に死に直面している。彼のおかげで、幺四ばあさんに老いて初めて起死回生の転機が生じ、耐えがたい苦痛に耐えてもう一度生きようと決意する。彼女がほれた狂人がその機会を与えてくれたのだ。またこれも狂人のおかげで、目覚めた馬哲はついに迷妄に打ち勝ち、生きているのか死んでいるのかわからない世俗の生活を放棄する決意を固め、身を挺して、狂人に取って代わり、険しい新生の道に踏みだすのである。われわれはこの悪夢にとりつかれた小さな町に入るやいなや、生と死が息もつかせぬほどしっかりと絡み合っているのを感じる。そこでは同時に美しい叙情の波が悠然と、休みなく盛り上がり、その下に潜む冷厳な推理の流れを休みなく感じさせる。すべての障害を排して人類の真の帰結へと流れゆくあの潜流を。 

人物分析――魂のレベル

 男の子: 男の子は生命力に溢れ、さまざまな可能性に満ちている。死人ばかりはびこる環境にあって、彼は自発的に生きようとする。またその生きる欲望ゆえに、わけもわからぬままに河辺に飛びこんでいく。彼は幼く、まだ死への恐れを知らない。河辺の風景は彼にきわめて深い印象を与え、彼はそれを他人に伝えたいと思う。彼はまるでわかっていないのだ。こういうことは人に話してはならないということを。なぜならそれはすべての人の悩みの種だからだ。彼と同年齢の者、まだ好奇心滅びぬ子どもたちの中にだけは、試そうとする意欲が残っていた。「生まれたての子牛は虎を恐れない」というとおりだ。
 完全に自発的な衝動に駆られ、子どもはその遊戯にのめりこんでいく。なにもかもが目新しく、誘惑的で、強烈で、その子はものに取りつかれたように、一度、また一度と同年齢の仲間を引き連れて河辺のあの小道を往復する。それは彼の生活の中心となり、すべてのひそかな楽しみの源泉となって、幼い心に大きな満足を与える。
 その幼い子は、盲目的な衝動にかられて真実に飛びこんだ。もちろん真実がはらむあの殺意など、わかるはずがない。彼はただ美しく、面白いと思い、ぐいぐいと引きつけられた。その遊びはやめようにもやめられなかった。そして彼がわけのわからぬまま、悩みも心配もなく遊んでいたそのとき、あの黒い陰が頭上に差し、いつかは起きることがついに起きて、子どもは死んでしまう。その短い一生は充分幸せだった。彼は他人が試したことのない生き方を試した。たとえ彼が自分の生き方に無自覚だったとしても、その体験はまわりのすべての大人を合わせたより価値があった。 女の子: 女の子もまた運命によって、河辺のあのガチョウの群れの中へと連れていかれる。それは彼女がとうの昔からよく知っていたガチョウ、繰り返し深く陶酔してきたガチョウだった。しかし、幾度も内面の嵐を静めてくれた河辺に今日不吉な兆しが現れ、美しいガチョウが突然狂暴な正体をむきだしにする。人生経験にとぼしい女の子は恐れ慌てて逃げようとする。そしてくるりと向きを変えたそのとき、突然真実を目にする。真実は迫ってくる。女の子は恐怖に駆られて真実から逃げだす。これは初めての試みで、彼女はふるえあがってしまった。しかし、彼女の今後の日々に、ここから一本の通路が現れて、生命の地平の果てへ向かっていくであろうことは確かだ。そこにはかつて彼女をふるえあがらせた、だが驚くほど美しい景色がある。彼女はもしかしたら長いこと躊躇しつづけるかもしれない。 もしかしたら再び禁じられた土地へ戻ろうとするかもしれない。 もしかしたら以後この秘密を心の底に埋めてしまい、勇気の欠如から生きる意思を滅ぼしてしまうかもしれない。 彼女はなぜ泣くのだろう? 運命で定められた災難を逃れられないからか、躊躇して心決まらぬからか、それとも今さら悔やんでも遅いからか? 彼女は綱引きの綱の真中におり、両側の力は拮抗している。万感胸に迫り、内面の衝突のせいでどうしたらいいかわからない。わらにもすがりたいし、今まで慣れ親しんだ屍のような生活にももどりたいが、ときすでにおそしだ。彼女は困難な選択に直面して選択できない。唯一なしえたのは泣くことだったのだ。
 生きるとは何か? 生きるとはとてつもない大罪、生きるとは死の誘惑のふところに飛びこむこと。初めて腕だめしをした女の子は、やにわに出現した真相に脅えて後ずさりし、その後長いことそういう気分からぬけだすことができず、自分が初め盲目的な衝動の中でしでかした取り返しのつかないことを、どう考えたらいいかわからない。死の視線は彼女の背を見据えている。しかしなんといおうと、彼女は河辺にいったのである。この魂の洗礼を受けた者が、そうたやすく生きる欲望を打ち消すはずはあるまい。 今後、河辺の景色は夜な夜な彼女の夢にまとわりつき、河辺の呼び声は彼女の寝室の外でひと晩中吹き止まぬ風になることだろう。このような女の子の前途は測り知れない。ひょっとしたら洋々たるものといえるかもしれない。 
 その第一回めのとき、彼女は偶然河辺の誘惑に気づき、思わずその誘惑に負けてしまったにちがいない。生とはこうした無数の小さな偶然の寄せ集めであり、後戻りのきかない必然の通路である。女の子はその通路を先へ進むべきかどうか、心を決めかねており、馬哲は彼女のためらいを充分に理解していたーー彼女は若すぎた。
許亮(シュイリャン): 許亮はもうそう若くはなく、三十いくつになっていた。彼もまちがいなく河辺のj常連のひとりだ。その青白い憂鬱な顔から、彼の墓穴のような私生活がうかがわれ、彼がずっと決心のつかぬまま彷徨してきたのがうかがわれる。彼はそういう彷徨のうちに居ても立ってもいられない憂慮の三十五年を過ごし、ついに長らく待ちわびた転機をつかむ。彼が河辺に行ったのは深思熟慮の末である。彼はとうにこの虚偽の「人生」に興味を失い、心の内は真っ暗闇だった。ずいぶん前から彼は生命を終わらせるべきか否かという矛盾に苦しめられており、河辺の風景だけが、その心をしばし静めてくれるのだった。そしてある日、彼は狂人が彼に示す真実に出会い、前途に初めて光が射す。その瞬間、彼は悟ったにちがいない。狂人のように壮絶に生きるのは彼には無理だ。彼に唯一可能な選択は黙って死んでいくことだ。彼は弱者である、と。重要なのは、彼が狂人に殺されるその一瞬に生じる肉体の痛みを恐れていたことだ。だからそれからは彼の魂だけが河辺に行ってふらふらするようになったのである。
 狂人の奇跡は、結局は、彼には予想がつかなかったため(潜在意識の中で待ちわびてはいたが)、彼は一時あわててへまをしでかし、そのせいで内面の矛盾はさらに激化した。馬哲が訪ねていったとき、彼はその激烈な内面の衝突の中にいた。一面では、彼は自分の一生の大局はすでに定まり、自分の選択を他人に解釈してもらうにはおよばず、すべては天意で、できればひっそりと一生を完成させたかった。他面では、彼はまだ死を恐れており、どんな形式でおのれの生命を終わらせるかを決めかねていた。彼がそれ以上に恐れたのは、他人の干渉でいまわの際に思いがけない精神的、肉体的苦痛がもたらされることだった。 だから小李が自首せよといったとき、「そんな必要があるのか?」と聞き返したのである。その後彼はまただれかに偽証を頼んで、うるさい警察から逃れようとした。これは彼が自分が無罪だと思っていたからではなく、むしろ深く「罪を知って」いたのだが、ただひたすら静けさを求めたのだ。他人とのつきあいは彼にはたまらなく苦痛だった。しかしその彼の死も、すっきりしてはいない。二度めに自殺をはかってようやく成功するのだが、その間、引き延ばしがもたらした悪夢のような恐怖が充満し、精神を錯乱させるほどになっている、そのすべてが、彼の「死んだほうがまし」という深刻な考えをさらに強めたのである。
 許亮の釣り仲間と二十三歳の王宏(ワンホン)のふたりは許亮の脇役である。どちらも許亮のことをわかっており、彼と同じ矛盾を抱えているが、まだ最後の突破の段階には到っていない。とりわけ釣り仲間は、許亮(彼自身でもある)の内面をあざやかに描写してみせる。すなわち人は罪を逃れることはできず、その罪に調べがつくような原因はない。人はそれにも増して死を逃れることはできず、彼にとって生が不可能になった以上、こっそりと死んでいくしかないのだ、と。彼は許亮が死なずにいられなかった謎の答えを馬哲に明かしてみせる。馬哲はすべてを理解し、病院に行っても二度と許亮に尋ねようとせず、ただ見舞いに来たのだという。「何かいいたいことがあるなら言いなさい」と。すると許亮は死の間際に生じるかもしれない痛みへの恐怖を馬哲に訴える。その自嘲的なことばの裏は魂の慟哭である。
  三十五歳の労働者:この労働者は許亮より激しく、思いきりがよく、死に方はより大胆で潔い。妻のうわごとのような叙述から、われわれは許亮とは異なる男の人生のイメージが得られる。男はどうやら許亮より積極的で、負けず嫌いで、一度でも生きたいともがき、自分が生きた痕跡を残そうとしたようだ。彼の家に並んだ家具や、妻が妊娠していたこと(三十でやっと結婚)から、彼が絶望の中に漠然とした希望を抱いていたことが見て取れる。彼はたゆみなく努力したが、まるで進展はなかった。その負けず嫌いが彼を河辺に連れていった。あの不思議な風景の中で、彼はそれまでの屍のような生活にいよいよ耐えきれず、もうそれ以上続けられないと思う。そして馴染みのない雰囲気の誘惑のもと、死に思い到る。彼は長いことそこにとどまっていたにちがいない。だが決心はついており、変えたいと思わなかった。そこで屠殺刀が振り下ろされたのだ。それは彼のただ一度の生だった。彼は生きつづけることはできなかったが、三十五年にわたる死を終わらせたのだ。

 妻はその労働者の影であり証人である。彼女は馬哲にむかってくどくどと、かつて夫が「生きて」いた痕跡を指摘してみせる。その叙述は夫のあの暗い、屈辱的な、希望のない過去を再現する。女の証明は徒労でしかない。彼女が指摘したどんなことからも、馬哲は男が「生きて」いた痕跡を見出すことができない。「痛み」さえない日々を、どうして生きていたなどといえよう? それは一場の夢でしかない。だから夫が死んだ後、妻は夢に浸ったまま出てこようとせず、回想の中でその夢を引き延ばそうとしている。敏感な馬哲は女との対話の中で、たちまちその努力を悟り、深い同情をもってその情緒を守ってやろうとする。
 幺四(ヤオスー)ばあさん: 幺四ばあさんは真の孤独者である。ひとり暮らしをしてさえ他人への嫌悪を隠しきれず、内面の秘密を固く守っている。ちょうどその秘密を象徴するガチョウの群れを守っているように。久しく世の転変を見てきたこの老婆は、とうに人生を見ぬいていたが、ただちに人生を放棄するような人間ではなかった。内面の欲望はかくも不可思議に頑強であって、想像ばかりでなく行動もある。明らかに、彼女は人類の中の強者である。世俗的な「生」はとうに捨て去り、人々から隔たって、彼女はずっと待ちつづけた。そして希望なき待機の中で意外にも狂人に出会い、六十数歳になって「枯れ木に花が咲いた」のである。さあ、どう生きるか?どういう生き方が真に生きるということなのか? そこでわれわれが見るのは身の毛がよだつような場面である。作者の描写には少しの誇張もない。これこそ生きるということの真相であり、幺四ばあさんが長らくあこがれていたことなのだ。実際、狂人と幺四ばあさんは、同一人物またはその内面の矛盾の双方であって、彼女と狂人の関係は、人間とその体内の原始の衝動との関係と同様である。その関係は魯迅が「墓碑銘」で述べたことを思い出させる。「……一遊魂あり、化して長蛇となり、口に毒牙あり。人を噛まずして、自らその身を噛み……」狂人はこうして幺四ばあさんの屍のような生活に活力を注ぎ込み、彼女はさらに勇気を得て、ときにはなんと他人と話さえできるようになる。もちろん彼女のいうことはだれにもわからないのだが。狂人が与える苦痛がどれほど耐えがたくとも、彼女は幸福だった。これが唯一の生きる方式であり、彼女はその方式を他人に邪魔されずに続けようとしていた。
 幺四ばあさんの精神の歴程は芸術家のそれに似ている。狂人に体内の衝動を呼び起こされ、一度生きてやろうと決心したとき、彼女の挙動行為はいかにもいかがわしく見え、分類しようがない。彼女はたちまちのうちに自己にとっての敵対者となった。生きるのはかくも困難であったが、後悔は微塵もなかった。自虐的な苦痛と快楽が彼女の精神のバランスを維持させた。年老いてからのこの束の間の、普通の者には身の毛がよだつような生は、どれほど彼女を満足させたことだろう! この理想の方式が馬哲に充分なヒントを与えた。だからこそ、彼女と狂人の道をたどり終わったとき、馬哲の決意も固まったのである。
 幺四ばあさんの奇妙な縄編みの行動も芸術家を思わせる。彼女は生と死の秘密を縄に編み込んだ。人々には外をあちこち探したが、謎の核心には近づくことができなかった。この編み縄は彼女の天才的独創であり、強い本能が手の動きにまかせて作りだしたものでもある。編んでいるとき、彼女は限りない喜びを感じていたにちがいない。
 この事件の中で、馬哲は最初に幺四ばあさんの生活の謎に触れた。だがずっと最後になって、狂人が再び現れたとき、ようやく、この謎は我が身をもって解かねばならないことに気づく。それゆえ馬哲は死なず、幺四ばあさんと狂人の生き方を継承し、おのれ自身の人生を創造しようとするのだ。はじめ幺四ばあさんが飼っていたあの美しい、不吉な兆しに満ちた白いガチョウは、その日が来れば、再び河辺に現れ、人類の永遠の呼び声に無言で答えることだろう。
 医師:多くの魂の謎を解いたあと、馬哲は重大な転換点にやってくる。彼の運命を代表する医師がついに降臨する。彼は世界の果てのあの通りぬけられない壁であって、有無をいわせず馬哲に「生きるか、それとも生きないか」の問題をつきつけ、その問いで彼を苦しめると同時に誘導する。この自分の本質を再現した者を前にして、馬哲のそれまでのすべての迷いは消え、外部の干渉はもはや彼に影響を及ぼさなくなり、唯一の人生への通路がはっきりと眼前に開ける。
 狂人: この死んだように寂しい町では、狂人ただひとりが生きていた。その唯一の生者は人を殺す。彼は素っ裸で、なんの心配の種もなくこの世にやってきた。どこへいくのもそこを汚すためである。人々ははじめは彼を知らなかったが、彼が悪い結果をもたらすにおよび、だれもが彼をひどく恐れるようになる。彼の存在は町の人々にとって最大の威嚇であったが、人々は彼をどうしようもなかった。 
  馬哲は彼に取って代わってすぐ、自分の体内の殺意が外に向かって噴出するのを感じた。そこで法律を眼中に置かなくなり、局長に向っていう。「あなたのやりかたは冒険的すぎますよ」
  狂人の度胸を備えていなければ、どうして世俗の中で生きていけよう?

 小結: 馬哲の魂が一層また一層と示されていった後、朦朧としていた主人公の姿は明るく立体感を帯びてくる。人生は謎解きである。作者はわれわれを連れて魂の永遠の謎に飛び込み、ひとつまたひとつと謎を解いていく。だが前方にはさらに大きなさらに複雑な謎のかたまりが待ち構えており、われわれは永遠にあの最後の謎を解き明かすことなく、永遠に「謎解き」の過程の中にいる。事件の謎を解く唯一の鍵は、あのすべてを眼中ない置かない狂人であるが、その王者の風格をもつ狂人は、同時に謎の製造者でもある。彼はわれわれの死んだような日々に変化をもたらし、活力をもたらす。彼は休むことなく事を始め、われわれの硬直した体を駆動させ、われわれを奮い立たせ、緊張させ、包囲突破に立ち向かわせる。

   結び

  本編を読んで痛感した。こういう小説は決してありきたりの探偵小説ではない。これはある謎を解き明かそうとするのではなく、その謎解きの過程をわれわれの前に示し、われわれの視線をあの解けることのない、また永遠に解かれつづける究極の謎へと引き寄せる。作者はその深奥の秘密に深く通じているからこそ、これほど冷静で謹厳な描写と、冷酷なまでに冷ややかな叙情、そしてあの純粋に美しい詩の境地を生み出し得たのだろう。  

原題:霊魂疑案偵察ーー読余華<河辺的錯誤>   (《書屋》1999年 2 期

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