林檎を食べる特権 ――「痕」を読む――

近藤直子

[本編は1995年『東京成徳大学紀要』第2号に発表した
<吃苹果的特権―読残雪的≪痕≫>原文中国語)の全訳である]

 すべての芸術作品がそうてあるように、残雪の小説は問いであって、答えではない。また問い自体が答えであるような反語でもない。彼女の小説はそれぞれの読者との間にそれぞれの距離をもたらし、激しく引き寄せる一方で、激しくはねつける。しかし、もし、問うことのできる問題には答えることができるのだとすれば、残雪の問いにも当然答えられるはずである。他人の書いた文字の列を追うということは、おのれの記憶を追うことにほかならない。だとすれば、その問いの答えはおのれの内部に探すしかない。とはいえ、残雪の問いに答えるためには、おのれの心の果てのさらにむこうの、自分さえその存在を知らなかったような深みまで下りて行かねばならないのかもしれない。なぜなら、残雪の問いは正にそういう深みから発せられているからだ。
 残雪はいう。

  わたしはこの十数年について、それからのことことについて、多少は語ることができると思った。普通の人がかつて意識したこともなく、語っここともないことを、わたしは文学によって、空想の形式によって、語りたいと思った。ある、抽象的で、そして純粋なものが、しだいにわたしの内部に凝集してきた。わたしは書きはじめた。毎日少しずつ、なぜこんな風に、あるいはあんな風に書くのかを完全には知らないまま、ひたすら自分の天国に執着し、繰り返し味わい、ひとり楽しんでいた。(「ある南国の夏の日」)    

 残雪はわたしに幾度もこう語った。

  書きおわったときにも自分が何を書いたのかはわからない。しばらくして、ときには半年も経ってからようやくそれがわかる。

 残雪の小説は彼女自身にとっても問いである。読者を困惑させるあの距離は、始めは彼女自身に対する距離なのである。ひょっとしたら、彼女はその距離を生み出すためにこそ書いているというべきかもしれない。少なくとも、彼女が書こうとしているのはうまい文章でもてなければ、周到に練られ、巧みに構成されたいかにももっともな文章でもなく、美しい文章でさえない。文章を書く者はだれでも知っている。うまい文章とはひとつの罠である。それはしばしば書いた当人を欺き、その書き手に、自分がいかにも理に適い、すっきり割り切れた、明晰で透明な存在であるかのように信じ込ませる。しかし、書き手は自ら喜んでその罠にかかろうとする一方で、ある疚しさをも感じる。自分が嘘をついているような気がし、自分に近づき、自分自身に一致しようとすればするほど、ますます自分を限定し、自分を裏切っていくような気がするのだ。残雪はそういううまい文章を書こうとうするかわりに、むしろ誠実な文章を書こうとする。ペンに対する幻想の支配権を放棄し、ペンを自分より先に行かせてなりゆきにまかせる。そしてそうすることによって、より全面的な、よりつかまえどころのない、より見知らぬ、より遠くの、だからこそより自分自身に近い自分に出会おうとする。では残雪が書いているのは何か? どうやら彼女自身はなんらかの答えを見いだしているらしい。たとえその答えをうまい文章によって書き出すことはできないとしても。
 ならば、われわれ読者にとって残雪の小説とは何なのか? 以下にかかげるのは世界の新聞に載ったその問いへの答え、あるいは答えを探す過程での感想の断片である。

  残雪は確かにめったにいない鬼才だ。その才能が彼女の文学を独特なものにしている。しかし一心に特異性を追求することが一種のパターン化をもたらしはしまいか。……才気ある残雪は確かにだれの反復もしない……彼女自身を除いては。……王蒙(中国『文芸報』1988年7月4日)

  女性作家残雪の作品に現れた世界はさらに混乱し、分裂しており、その被害妄想的な想念、ああいう焦慮、恐れは、ノルウェイの画家ムンクの「叫び」を連想させるとともに、崩壊に瀕した真理状況を思わせる。残雪の小説世界は決して正常な人間の思惟と秩序に属してはいない。……施叔青(台湾『時代』19891024日)

  中国女性が書いた奇妙に人を困惑させるこの小説は、同時代の中国文学の現実主義とは、ほとんど無関係である。実際、それが連想させるのは、エリオットの寓話、カフカの妄想、悪夢のようなマティスの絵画なのだ。……Charlotte Innes(米国『ニューヨーク。タイムズ』1989924日)

   残雪の小説は中国近年来のもっとも革新的なものだ。……彼女の小説はいかなる単一のカテゴリーにも入らない。いうならば、それは比喩表現を中心に、威嚇と恐怖、感傷の不可能性、傷つきやすい気分といったものを創造したものである。……Harriet Evans(英国『タイムズ』1992131日)

  残雪はフランシス・ベーコンの絵のように、中国の悪夢を表現した。……Michel Braudeau(フランス『ル・モンド』1991年6月23日)

  カフカ、ベケット、ピンター、ストッパードといった作家を思い出しながら、あれでもない、これでもないと考えているうちに、軽いめまいに襲われた。(残雪は)どれにも似ているようで、まったく違っている。はっと気づいた。これは強烈なデジャヴュなのだ、と。……水(日本『朝日新聞』1991623日)

  音楽のほうでワールド・ミュージックという新しい動きがある。世界の最新の表現形式を身につけた上で、衰弱しかけた先進諸国の感性よりさらに根源的な世界と人間の力を表現する。残雪の作品はワールド・リテラチャーの力強く新しい先駆的作品ではあるまいか?……日野啓三(日本『読売新聞』1991722日)

 ひとりひとりの答えはみな違っている。連想する小説も、絵も、音楽も風景も、わき出てきたことばも文もみな違っている。なぜなら、みなが近づこうとしたのは作品ではなく、自分自身であるからだ。作品自体に近づくことは不可能である。作品とはもともとそれ自体の実体を欠いている。だからこそその「実体」への飢えと、その欠如を満たそうとする欲望を生む問いであり得るのだ。読者はその声のない問いを聞くやいなや、自分の記憶の底知れない暗がりをさまよい始め、問いへの答えに耳をすませる。ときにはすぐに答えが聞こえることもあれば、ときには「半年以上」も待たねばならない。ある人はおのれのうちに答えを聞いてから語りはじめ、ある人は待ちきれずに、たまたま思いついた大して自信のないことを語ってみる。始めに自信のあった人を、必ずしもそれを持ちつづけられるわけではない。答えは常に変わり得る。
 もしも、永遠に読み切ることのないものを、人が文学と呼ぶのだとしたら、永遠に最後の答えを得られないのも当然である。われわれが先に見てきた批評はいずれも、その時点時点での断章にすぎず、言い過ぎているか、さもなければ言い足りず、大胆すぎるかさもなければ慎重すぎ、あまりにも荒っぽく、いい加減で、無責任であり、あるいはあまりにもうまい文章を書こうとしすぎている。いずれにせよ、評者が評しているのは他人の文章だが、語っているのは自分のことなのだ。
 しかし、作家は他人の批評にきわめて敏感にならざるを得ない。なぜならば、作家とは結局のところ、他人に見せるために作品を書いているからだ。もしも自分に見せるだけのためであれば、一番よい手は何も書かないことだ。なぜならすでにここにもう、出来合いの傑作があるのだから。書きすぎることも書き足りないこともなければ、疚しさも裏切りもない、完全に自分自身と一致した自分が、すでにある。しかし、作家はどうしても書き、他人にそれを読ませたい。読者は多いほどよいというわけではない。世界中の人間を読者にしたいわけではない。文学の価値が多数決によらないことを、彼らはよく知っている。しかし、それでも読者は欲しい。少なくとも、最後のひとりの他人に自分の作品の存在と価値を承認してもらいたいのである。さもなければ、彼の努力は何でもなかったことになってしまう。
 文学に限らず、美術や音楽も同様である。芸術というものが、人が選ぶ職業であるというよりも、ひとつの運命であるのだとしたら、芸術家とは、存在させることの不可能な作品を存在させるために、生涯他人の承認を渇望しつづける人々なのだ。

「痕」の主人公痕もそういう人種のひとりだった。彼が芸術を選んだというよりも、ある神が彼を選び、いやおうもなく彼を芸術家にしたのである。物語はある山の中で始まる。痕は山の小道で、「三角まなこ、眉のない凶悪な人相で、ぎらぎら光る鎌をもっている」ひとりの老人に出会う。

 「この荒れ山の野っ原で、もしもおれがおまえを殺し、それから穴を掘って埋め、上に草でも敷いておけば、造作もないわ、だれにもわかりっこない。おれはとうの昔からおまえを知ってるし、おまえのようなやつにはとうの昔からうんざりしてる。今までおれたちは少なくとも年に一度か二度は顔を合わせてきた。ときには道で、ときには人混みの中で。まさかこうも忘れっぽいとはな!  まったく、おまえのようなやつにはうんざりする」

 老人はなぜ彼にうんざりしているのか? なぜ彼を殺そうとするのか? われわれにはわからない。なぜこんなに理不尽なのか? なぜこうも唐突なのか? やはりわからない。しかし、われわれはこういう唐突な、理由も何もない、まったくの災難としかいえないような絶対の暴力−−死−−を知っている。この老人の現れ方は、その外観も含め、われわれの想像する死神にあまりにもよく似てはいないだろうか? 似ていようが似ていまいが、痕が見たのは確かに死であった。
 もちろん、それはひとつの芝居にすぎず、そこで演じられたものも、やはり威嚇にすぎず、比喩にすぎず、予告に過ぎない。しかし、人間が知ることのできる死とは正に、永遠に威嚇にすぎず、比喩、予告に過ぎないものではないのか? われわれは絶対の虚無というものを想像することはできないのだし、たとえ何かを想像できたとしても、それもまた比喩にすぎない。
 しかし、死神に見つめられた者は、芸術家になるしかない。なぜなら、死神が演じてみせるのは、ある奇妙な芝居であり、見る者にその芝居こそが唯一の現実であって、他の一切のことは劇にすぎないと思わせるような、そのような芝居だからだ。死神はいう。結末はとうに決まっている。残るのは単に時間の問題にすぎない。しかもその時間にしても、彼が与える一種の執行猶予にすぎないのであって、要するに、希望などありはしないのだ。本当の死を待つまでもなく、ただたとえることしかできない絶対の虚無が無言で待ち受けているがゆえに,すべての希望は希望される前に無効であり、すべての計画は計画される前に無効なのだ。死に神が痕に思い出させたこのことは、もちろん彼がもともと知っていたことであった。もしも今までと違う点があるとすれば、それは痕が今や、自分がもともとそれを知っていたことを、つまり自分がもともと死刑囚であると知っていたことを、改めて知ったという点である。だから彼は山を下りて村に帰ると、本当の芸術家になった。
 いや、もしかしたら順序は逆だったかもしれない。痕はもともと芸術家であり、だからこそ繰り返し死神に出会い、ああいう芝居を見たのかもしれない。いや、もしかしたら、痕が見たのは死神でもなんでもなく、ただの三角まなこの老人でしかなかったのかもしれない。さらに、もしかしたら、ここで起きたすべてが、痕が見たまぼろしか、あるいは夢にすぎなかったのかもしれない。しかし、いずれにせよ、結論は同じである。痕は山を下りて村にもどり、引き続き芸術家をやるしかなかった。なぜなら、彼はすでにすべての現実を失っているにもかかわらず、まだ生きており、生きているものは何かをして時間をつぶさなければならないからだ。時間をつぶすために,彼は自分が失ったすべてに代わるものを作ろうとする。それはもちろん、一種の演技にすぎず、一種の象徴、一種の芝居にすぎない。しかし、今、彼が直面している唯一の真実もやはり一種の演技、一種の比喩、一種の芝居にすぎないのだ。あの三角まなこの老人も痕とともに山を下りて鍛冶屋になる。

 痕はむしろ織りの職人である。だが、痕が織りたいのはむしろではない。

  彼は人が来るたびに、性分で、どうしても大口をたたかずにはいられなくなる。自分のむしろ織りの技術を大げさに宣伝し、この世に二人といない織り手と豪語するのだ。そんなとき、客は例外なく彼を横目で見ながら、うんざりした顔をしている。すると痕はいよいよ声をはりあげ、むきになって吹聴し、相手の横面をひっぱたいてやりたいとさえ思う。客が帰ると痕はいまいましげに戸を締め、妻に言い渡した。「これからはあいつを家に入れるな、おれは留守だといえ」

 痕が織りたいのは、今までにあった何かの影ではない。彼は巧みに何かを模倣反復したいわけではない。なぜなら彼は創造主の役割を演じたいと妄想しているからだ。彼はなにがなんでも、この世に存在したことのない唯一無二の、初めての物を作ろうとする。そうやって初めて、想像の中の虚無に対抗し、彼の存在の痕跡を残しうると思っているのだ。

 彼は虚無に向かって作品を織る。しかし、一方で彼の作品を迎えるの一面の虚無、虚無の絶対の沈黙であることには耐えられない。なぜなら、彼の作品は相手の承認によって初めて成就するような不確かなものだからだ。彼は虚無に承認を求める。彼の作品の存在と、虚無の敗北の承認を求める。けれども虚無には視線もなければ、言語もない。彼はやむなく、すでにまぼろしと化した世界にもどり、虚無の代理人を探すのである。ここに痕の致命的な矛盾と二重性、すなわち「身分の曖昧さ」がある。彼はこの世界を超え出なければならない何ものかに関して、この世界の内側の人間の批評と承認を求めようとするのだから。
 しかし、彼はこの世界においては、永遠に彼の指さしたい物を人に指さして見せることはできない。「神業のような技術」であれ、「芸術」であれ、「美」であれ、人は触ることもできなければ、指さすこともできない。痕が指さしてみせることができるのは永遠に一枚のむしろでしかないのだ。そんなわけで、彼は「むきになって吹聴し」、彼の視線と他人の承認の視線が交わるその一点に、彼の作品を浮かびあがらせようとうする。彼に必要なのは共謀者なのだ。共謀者になりたがらないような客など来てほしくもないし、そんな客はたとえ来たとしても主人に会うことはできない。なぜならそんな客の前に、芸術家は存在し得ないからだ。

  景蘭だけは毎月一度やってきた。痕のいちばん古い友だちで、なんでも話す間柄だったが、しゃべり方がやけに気取っていてまわりくどく、朦朧としてわかりにくかった。痕のことを「すばらしい織り手」だの「非凡な創造者」だのとはいうのだが、「世界一」の類のことばは決して使わない。痕はそんな態度に気づき、幾分気にしていたものの、それでも彼を相手にしゃべり、しゃべりだすとまたどうしても大口をたたかずにはいられなかった。そんなわけで毎度、景蘭が来た当座は何でもないのに、帰るときにはすっかり腹を立てていて、戸をバンと閉めてしまうのだった。

 「世界一」でないような芸術は、まったく芸術でもなければ、他の何でもない。しかし、他人はたとえ彼の共謀者になってくれるにしても、どういうわけか、いつもその肝心なひとことをいわない。景蘭の批評も、もちろん痕を満足させない。しかし景蘭は彼を満足させないことによって、彼に対する支配力をもちつづける。その肝心の、胸のすくひとことを聞くために、痕は永遠に他人から離れられず、その他人によってどうしてもこの世の芝居の中に引き戻されてしまう。金銭の効果はさらに大きい。むしろの買い付け人がくれた金は、始めは「世界一」の批評に匹敵する効果をあげて、痕に一定の満足を与え、なんと「自分の技術を吹聴する」のを忘れさせる。金というものは、どうやら、いかなる視線や批評よりも確かな承認であるようだ。それは痕の作り出したものが、この世で価値をもつことを、少なくとも交換価値をもつことの無言の承認である。痕はその金を米や石炭やらの品物に変え、価値生産者としての自らの生命を養うことができる。しかし、そういう満足はやはり一種の堕落であり、少なくとも一種の自己欺瞞である。なぜなら、彼は金の無言の承認を信じるために、すでに芝居でしかないと知っているこの世界というものを信じているふりをするのだから。
 彼は張り合うべき相手をすり替え、彼の作品をこっそりとその世界の芝居の中に置き、その芝居の中でのその存在を信じようとする。しかし、まもなく彼は山の中で、自分の作品の末路を見ることになる。

 しばらく登ってから顔をあげると、前の山栗の木になにかの束が立てかけてある。胸がどきどきした。近づいてみたら案の定、彼の織ったむしろで、下には天秤棒まで落ちている。

 芸術作品は結局のところ米や石炭ではないし、そういう確かな物ではない。他人は米や石炭を必要とするように芸術を必要とはしない。もっと率直にいえば、他人は芸術などまったく必要とはしないのだ。あらかじめ何であるかを知らないものを、人は必要としたりはしない。芸術とはある種の偶然の経験である。あるいは、ある種の偶然の経験があって、人は初めてある物を芸術品と呼ぶことができるのである。しかもたまたまそういう物に出会ったとしても、それは人の欲望を満たすどころか、逆に心の奥底に隠れていた欲望を激しくかきたてる。激しすぎる欲望はしばしば堪能、つまり満足の過剰のように思えたりもするが、実はそこで過剰なのは、満足ではなく欠乏なのだ。芸術作品の前で人が感じるのは、充足ではなく、自分も芸術家になる以外なだめることのできないほど強烈な、虚無を埋めたいという欲望である。もしも、この世界の芝居の中にとどまりたいのならば、芸術などもちろんいらない。もしも、この世界の芝居を超え出たいのならば、やはりそんなものはいらない。なぜならば、つまるところ、それは他人の作品にすぎないからだ。こうして痕の作品は、だれにも見られず、広げられることもないまま、ただ朽ちていく。

  痕はどうしても我慢できずにあの山へ見にいった。中腹のあの栗の木の股には、もう三束もむしろが載せてある。最初の束にはすでにかびが生え、もうひとつは黒く変色し、外側の魚網状のむしろはあちこちが脱け落ちていた。痕は木の下に物思わしげに坐っていたが、実は、頭の中は空白だった。

 痕は一方で他人に下界へ引きずりおろされながら、一方でなにかの衝動に駆られて山の上へ引き上げられる。彼は結局のところ、真実から視線をそらすことができないのだ。彼は知っている。他人ばかりでなく、彼自身さえもあんなむしろは必要とはしないことを。あの「真ん中が欠けた」むしろにしても、あの魚網のようなむしろにしても、彼自身にとってさえ、すでに朽ちている。それを織っていたときの至上の快楽も興奮も喜びも、そのとき限りのものだ。作品は、それが成就したその一瞬にもう朽ちており、来たときにはもう過ぎ、現れたときにはもう消えている。残るのは一瞬のうちに過ぎた快楽の残骸にすぎない。それだにもかかわらず、彼は、そのろくでもない、何でもない物を売って暮らしをたて、他人よりよい暮らしさえしている。純粋に個人的なものでしかない快楽にふけって、他人より多くの肉を買っているのだ。彼は村人の視線の中に、彼の疚しさに対応する現象を見いだす。米屋に行列する人々は「伝染病にでもかかっているかのように」彼から距離を取り、彼を「痕先生」と呼ぶ老人は彼にこの土地を出ていけとほのめかす。茶店のおかみは「とがめるように彼をにらみつけ」「彼が使った湯飲みを床にたたきつける」。

  痕は身じろぎもせず、さらに数分坐り続けてからようやくのろのろと腰を上げ、米をかついで帰っていった。この村では、自分はもう幽霊になってしまったと改めて感じていた。

 この世界の芝居の中で彼の役柄は不確かであるのみならず、どこかいかがわしい色彩を帯びている。戸を締め切った室内で行われる、公にはっきり説明することもできない作業は、なにやらけがらわしい不吉な色彩さえ帯びている。実際、痕が行っているのは一種の交合なのだ。相手はあのいまわしい虚無であり死である。要するに彼はもはやこの世界の芝居に属することはできない。痕が織るむしろはますます減り、ますます粗雑になり、ついに織るのをやめてしまう。そして彼は、何もすることがないときに人にできる唯一のこと、つまり待つことを始める。彼は一心に、やむことなく、景蘭の従弟を待ちつづける。まるでそうして待つことが、むしろを織ることの代わりであるかのように。そう、始め、彼は欠けたところのない完全なむしろを織っていた。それから「真ん中の欠けた」むしろを織り、それから「魚網のような」むしろを織った。もしも痕が織ろうとしたものが、むしろではなく、欠如自体、虚無そのものであったのだとしたら、今こそ、彼のもっもと恐るべき、もっとも真実な傑作が成就しようとしていた。
 彼はむしろの買い付け人を待ち、景蘭の従弟を待ち、金を待ち、他のあれこれの人や事や物を待った。そのひとつひとつの対象は、待ち時間の長短こそあれ、みな最後にはやってきた。しかし、それでも彼は待つことをやめない。なぜなら、その人や事や物は彼が真に待っている対象ではなく、その代理にすぎないからだ。では代理されたものとは何か? われわれはもちろん知っている。われわれはみな、それを待つために生まれた。われわれが待っている唯一の対象とは死である。人が生きている限り、死は近づいてくるだけで、決して到着はしない。だから生涯、とりとりめもなく待ちつづけるしかないのだ。人はその真実の対象に耐えきれないがゆえに、さまざまな別な対象を発明する。待つことのとりとめのなさに耐えきれないゆえに、時間をこまぎれにし、しばしば人生のすべての時間をこまぎれにして別なものを待ち、自分が待っているのは死ではないふりをする。はては、茶店のおかみのように、何も待っていないふりをするのだ。
 しかし、結局のところ痕は自分が待っている真実の対象から眼をそむけることができない。彼の作品が眼に見えようと見えまいと、彼は結局のところ芸術家なのだ。今や彼はなんの口実も、別な対象も必要としなくなった。彼は落ちつきなく、いらいらしながら、勇敢に、誠実に待つ。始めは恐れていた鍛冶屋の眼の「あの冷たい光」をも、もはや避けようとせず、毎日「ぼんやりと窓辺に坐り、むかいの鍛冶屋と声のない対話」をしていた。思えば、痕に最初の作品を織らせたのも、この「悪鬼邪神のような老人」であった。その老人は痕とともに山を下り、まとわりつき、しかも彼を脅して作品を織らせつづけたわけだが、われわれはすでに彼の別名が死神であることを知っている。しかし死神とは一体だれか?

  彼は窓辺に坐ってあの男と対峙していたいと思った。あの男は日に日に老衰し、身に着けた服も日に日に襤褸と化していく。だが腰の鎌は相変わらずぎらぎら光り、両眼は鷹のように鋭い。痕は直観的に知っていた。彼だけが自分の一生の道連れなのだ。他の人間はみなひとりまたひとりと消えていく。景蘭や従弟のように。むしろの買い付け人も消えてしまったら、だれが金をとどけてくれるのだろう?  それは大した問題ではない。またもとの仕事を始め、他の者たちのようにあの普通のむしろを編めばいいのだ。
 いつも窓ガラスに出現し、鋭い眼でいつまでも自分をみつめ続ける者。それはガラスに映った自分自身の影である。死に神の視線とは、自分が死を待っていることを知っている自分自身の視線に他ならない。自分の虚無の視線に見つめられた者は、芸術家になるしかない。なぜなら、その視線の持ち主こそ「一生の道連れ」である最後の他人であり、最後の批評家だからだ。そのガラスに映った他人こそ、もっとも厳格で苛酷で、容赦のない、真実の作品を得るまでは決して許してくれない批評家なのである。それにしても痕はなぜ、その影を見つめるのか? 彼がみつめなければ、相手もみつめはしないというのに。

  きのうの夜、鍛冶屋が窓辺にやってきて彼に告げた。彼の日々はもう多くはない。まもなく、彼は二度と目覚めぬことになるだろう。とはいっても本当に眠ったままというのではなく、あの石ころのように底無しの狭い空間をとめどなく落ちていくのだ。それは永遠に果てのない管状の空間で、まわりの壁はセメントでできている。「なかなか詩情があるではないか?」しかし痕は、その詩情のおかげで全身に冷や汗をかいた。

  わざわざ「全身に冷や汗をかく」ために、痕はなぜ鍛冶屋を見つめ、なぜ一緒に「あの墜落の実験」をしたりするのか?

  「帰ってちょっと家の事を片づけて、夜が明けたらまた来よう」
 「夜が明ける?  ここで夜が明けることはない。もし時間を引き延ばしたいなら、少し眠ってもいい。ここはどこでも寝られる。適当にその辺で横になればいい。おれは他人が寝るのに反対はしない。だれでも寝ていいし、おまえも例外ではない」
    痕は両手で地面をなでまわし、やや平らな場所をみつけた。横になって寝ようとしたら、手がある物をつかんだ。林檎だ。がぶりとかじるとぷんとよい香りがした。そこで寝るのも忘れてむしゃむしゃ食べはじめた。食べ終わってみると、また不思議な気がした。ここにどうして林檎があるのだ?
  「それはおれが持ってきたんだ」鍛冶屋が静かにいった。「処刑前の囚人の頭の中に最高の連想を生み出してやりたい。これがおれの唯一の弱点なんだ。おまえはべつに最初の囚人というわけではない。いいか、おれたちがいっしょに落ちていったあと、おれは帰路につかねばならない。これがおれとおまえとの違いだ。将来、おれはまた別の者のために林檎を持っていかねばならん。もちろん村の者じゃない。おまえの村の者はだれもおれを知らない。連中はおれを何の関係もない人間と見なしている。ところがおまえはおれに気づいた。だから囚人になり、林檎を食う特権も得たんだ。これこそ、おまえがずっと努力して目指してきたことではないのか?」 

 これが夢であろうと現実であろうと、痕は真っ暗な夜に他人の最後の評価を聞いた。虚無と向き合う者が得る賞−−林檎−−とは、彼が虚無と対峙したそのこと自体の中にある。痕はたしかに耐えがたい恐怖と不安の中で暮らしてきた。しかし、もし真実を正視した結果がそうであるならば、そうして生きていくことの慰め以上に大きな慰めがありうるだろうか? 彼は真実に行きたいと思い、真実に生きた。彼は自分が恐れるしかないあのこと以外は何も恐れない。だからこそ「夢の中でふっくらした赤ん坊になり大きなまくわ瓜にむしゃぶりつく」ことができるのだ。彼は自分が死なねばならないことを真に知っていたからこそ、自分がもしかしたら真に生きられるかもしれないことをも知っていた。

  「おれとおまえでいっしょに最後の一枚のむしろを編みあげ、この穴の口から投げこもう。これは小さくはない賭けだぞ。おれとおまえはずっと同じものに賭けつづけてきた。どっちが最後に勝つか、おれはまだ決められないんだ!」
  「もちろんあんたが勝つさ。しかしときたま、もしかしたらおれが勝つかもしれないとも思う。そんなことが誰にわかる?  おれには知りようがないし、気にもならなくなっている」

「痕」はたとえ話でもなければ、ひとりの芸術家のひとつの物語でもない。これはすべての芸術家の赤裸々な魂の物語である。ここでいう芸術家とは、もちろん、実際にむしろを織るかどうかとは関係がない。芸術家とは、虚無を凝視する勇気のある者のことである。なぜなら、虚無を凝視することがとりもなおさず作品を、真実の作品を織ることであり、しかも、芸術が追求するのが美であるとしたら、真実以外に、他のいかなる美もありはしないからだ。
 残雪の作品は問いである。それは読者にこう問うだろう。
「この作品は存在しているだろうか?」 
 ひょっとしたらこうも問うかもしれない。
「この作品は美しいだろうか?」と。

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