残雪  精神の階層

                                                                近藤直子訳

 

(日中女性文学シンポジウム報告集2002年1月)

 精神の階層は今、これまでのいかなる時代よりも明晰な形で突出している。これは一方では自然科学の飛躍的発展のおかげであり、他方では人類の精神自体への深い探索と絶え間ない開示のおかげである。後の仕事は哲学者、芸術家、心理学者、言語学者等が共同で成し遂げたものだ。複雑な精神世界が立体状を呈して現れたとき、文学は正式な分化を開始した。事実上、文学が誕生した日から、この分化はずっとひそかに意識的、あるいは無意識的に続いてきている。それは文学の本質によって決定されているのだ。

 あるタイプの文学者は、精神の表層に留まるのに満足しない。彼らはあの、かすかに感じられる未知の国土に強烈な好奇心を抱いている。その国土は、彼らが創造の過程で思いがけず発見したものだ。潜在する精神の王国は人々の共通認識の中にはない。もしかしたら、大多数の人々にその王国は見えず、ただあの勇敢な男女の芸術家たちが、たゆみなくそこに分け入り、探検し、それについてのさまざまな描写を持ち帰ってくるだけだといってもいいかもしれない。しかし歴代芸術家の描写はそのまぼろしの王国の境界を不断に押し広げている。この夜の世界に属する芸術家は、いずれも精神生活がきわめて複雑な人である。わたしの読書史の中では、この隊伍のメンバーは、ダンテ、シェイクスピア、セルバンテス、ゲーテ、ボルヘス、カフカ、カルヴィーノなどだが、ほかにあの古い聖書の物語の創作者たちもいる。これらの芸術家が注目するのは表層の生活ではなく、あのより隠された、ことばでは表し難い、だが、到るところに作用をおよぼしている深層の生活である。そういう生活は「マクベス」や「ジュリアス・シーザー」の劇中劇に表れているが、それはボルヘスのいう「二幕劇」でもある。彼らの作品は始めはべつに大衆のものでもなければ、多くの者に審美的な満足をもたらすこともできず、影響を与えるのも、始めは少数の者に限られている。だが、それは魂を震撼させ、人生観を変えさせるほどの影響なのだ。

 言い表そうとする対象が特別なため、このタイプの文学者のことばにはひとつの共通点がある。それは、人類が誕生したばかりのころの原始の記憶がそこに満ち満ちていることだ。ことばは探索とともに本源に到る。あの語りえぬことを語るために、ことば自身も自身の階層を意識する。その階層は対象の階層に対応し、「無中に有を生む」事業が大脳の隠れた場所で進行するのである。そして隠喩と幻の世界、高度な抽象、もう一種の時空が、ともに作品を構成する。外部の「事件」は深層のメカニズムをほのめかし、カーニバルのどたばた劇が厳粛そのものの正劇を包んでいる。シェイクスピアが築いたローマの町で、人々は幽霊のように大通りをぶらつき、口にまかせて寓言を吐く(「ジュリアス・シーザー」)。ゲーテの創造した古代ギリシアの夢幻境では、いたるところで粗野と高貴が直接合わさり、醜怪きわまる魔女が魂の最高の美を備えている。(「ファウスト」)。カフカの奇怪な物語の中で、人はおのれを罪人として裁き、ついに断頭台に送る(「審判」)・・・・・・人々に濫用されて損なわれたことばが、これらの奇妙なペンの下で新たな生命を獲得している。

 このタイプの文学は魂自身の文学とよぶこともできる。作家がこうした作品の中で描くのは、大衆が公認する現実世界と並ぶもうひとつの、さらに広広としたあの世界である。あの世界においては、常識、世俗のことば、一般的な観念理性などが、ひとつ残らず挑戦を受け、最終的には排斥される。現存することばも転覆させられ、否定され、否定を通じてあの思いがけない用途を獲得する。人々がごくわずかしか知らないこの茫茫たる真っ暗な世界の中で、なにが文学者のペンを主宰しているのか? 創造のメカニズムはまたどのように発動されるのか? 一切の外部の干渉を排除して、人は今や素っ裸になっている。素っ裸の人間は動物の水準に落ちるのではなく、逆に、もっとも純粋な精神の境地を備えるようになる。そのような境地の支配下での創造は、直接人の本性をむきだしにし、あの古い永遠の矛盾をむきだしにして、そこから一歩も逸れることがない。そして読者は生命のとどめようもないリズムを見、その原始的運動に対する高貴な理性の制御と促進、および両者の間のいささか神秘的な複雑な関係を見るのである。読者は作品中のこの基本構造をはっきりさせることによってはじめて、作家がいったいなにを語ろうとしているのかを悟ることができる。魂の物語は立体を縦に深く切り込んでいく物語であり、読者と作者の関係は、作品の意味を展開するプロセスにおいて共謀関係となる。どの読み手もみな、この創造の参与者であって、受け身の読みは徹底的に排斥される。だからこそ、魂の文学は国境を越えて、全人類のものとなるのだ。いかなる人種民族も魂の構造はみな同じであり、直面する矛盾も同じである。もしも交流の中で真に奇跡が生まれるとすれば、その可能性がもっとも高いのが、このタイプの文学である。

 魂の文学の書き手は、後へは退けない「内へ内へ」の筆遣いで、あの神秘の王国の階層を一層また一層と開示し、人の感覚を牽引して、あの美しい見事な構造へ、あの古い混沌の内核へとわけ入り、底知れない人間性の本質目指して休みなく突進していく。およそ認識されたことは、均しく精緻な対称構造を呈するが、それはもう一度混沌を目指して突撃するためでしかない。精神に死がないように、その過程にも終わりはない。書くことも、読むことも同様である。必要なのは、解放された生命力である。人類の精神の領域に、最下層の冥府の所に、たしかにそういう長い歴史の河が存在している。深みに隠れているせいで、人が気づくのは難しいけれど。それが真の歴史となったのは、無数の先輩たちの努力が一度また一度とその河水をかきたて、何年たっても変わらずに静かに流れ続けるようにしてくれたおかげだ。これはまるで神話のように聞こえるが、もしかしたら、魂の文学とはそういう神話に他ならないのかもしれない。それは不断に消え失せては、不断に現れる伝説であり、人間の中の永遠に治癒することのない痛みでもある。個人についていえば、魂の書き手の苦痛は、おのれの苦痛を証明できないことにある。彼は一篇また一篇の作品によってその苦痛を刷新するしかなく、それが彼の唯一の証明なのだ。こういう奇妙な方式のせいで、永遠に破られることのない憂鬱が彼ら共通の特徴となっているが、その黒く重い憂鬱こそ、まさに芸術史の長い河を流れる活水の源なのである。たゆみない個体がこうして内へ掘り進む仕事に励むとき、彼らの成果は例外なく、あの永遠の生命の河へと合流する。なぜなら歴史はもともと彼ら自身のものであったし、彼らがいたからこそ、歴史が存在し得たのだ。教科書の上の歴史と並行するこういう魂の歴史は、もっとも鋭敏な少数の個人によって書かれる。だが、その歴史との疎通し、通い合いは、すべての普通の人に起こりうる。これはもっとも普遍性を備えた歴史であって、読み手は身分、地位、人種の制限を受けない。必要なのはただ、魂の渇きだけである。

 では交流は可能なのか? またそれはいかにして生じるのか? これは理性のみに頼っては答えられない問題である。あるいは、この手のことには少しばかり「からくり」があるといってもいい。ある人に、幾重にも抑圧されたその魂の構造が、数十年もの間、現れたことがなかったとしたら、彼が一夜にしてそういう魂のシーンに感応するはずはない。魂の作品に属するものが目の前にあっても、自分の内部にあの必要条件をあらかじめ「備えて」いなければ、それを読んでいるとき、どうしても話したいという例の欲求を感じることはできない。だが、そのひそかな衝動を通じてでなければ、作品と真の交流をすることはできないのだ。もちろん、条件を備えるといってもその備え方には多くの階層がある。読者は上から下までピラミッド型を呈し、下の者は上段の者の助けを借りて登っていくことができる。あの先端にいる読者たちが指導的な働きを果たす。作品をどのように解釈すべきかを他の読者に教えるのみならず、さらに重要なことだが、ある独特の精神運動を開示して、芸術の形式感の魅力を他の読者の魂深く注入し、それによって彼らの内部のメカニズムを作動させるのである。一群の人が期せずして同時に、ある純粋な世界の存在を「感じた」とき、交流の範囲は広がり、虚なるものが人々の心の中で真実の存在となる。そしてその存在こそ、芸術家が長期にわたって突出させようと努力してきたものなのだ。人はそういう存在を「語りだす」ことはできない。ただ、あなたが語り、わたしが語り、彼が語る中で、その存在に近づいていくことができるだけである。先に挙げた作家との交流は高度に難しい仕事であり、にわかにその作品を把握することはだれにもできない。そればかりか、自分が把握できないことに苦しみ、当惑し、悩み、判断力を失ってしまう。このすべてが、まさにこうした新たな読書の特徴なのだ。わたし自身の経験は、表面的な理性による判断を放棄し、作品の中で当惑させられたことに感覚を導かせ、休みなく深みにわけいっては繰り返し立ち止まることだった。それから自分の人生体験の助けを借りて離陸し、見知らぬ領域に突入する。判断や判別は後まわしにして、自然に感覚から昇華してくるものを新たな理性に凝集させるのだ。この過程においては、作品中の語感がなによりも重要であり、作者の魂がほのめかすものを、ぴたりと密着して追いかけていかなければならない。あの激しい、どこへ向かうのかわからない波涛からふり落とされないように。これは意思の力比べであり、生命力のテストでもある。

 以上語ったのは、わたしの精神の追求であり、わたしの創作と読みの体験でもある。

                                                            2000年6月4日英才園

原題:精神的階層 
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