残雪 険しい新生の路
――「ハムレット」分析の1――

近藤直子監訳
日大大学院文学研究科博士前期過程2004年度)
訳:一見幸、猪野木伸介、大垣寛子
中元雅昭、桃井麻依子

1、亡霊と交わる事業

人間とは魂と交わる術を知らないものである。しかし、どんな時代にもごく少数の奇怪な人間は存在する。彼らは俗世にとことん絶望しながら人生を放棄しようともしないため、行きつくところまで行きついて、曖昧で、いかがわしい事業をはじめるのだ。ハムレットの、まともな人間から「狂人」までの変化の過程は、この暗黒の事業が次第に実現していく過程である。表面的には思い通りにはならず、追い立てられているのだが、実は自由な選択であり、血の気の多さからくる衝動のあらわれなのである。
 亡霊と交わることは一つの革命であり、亡霊の登場はテーマへとまっしぐらに向かう。彼は完全武装で空中を殺気で満たす。彼、矛盾を引き起こしたこの張本人は、他人には興味はなく、ハムレットに一途に突き進む。なぜかといえば、ただ王子の肉体だけが彼のよりどころだからだ。亡霊は嵐を巻き起こして王子の分裂した人格を育て上げようとする。一方、世間の人の目には、神秘的な亡霊は先王の姿として現れ、高貴で厳かで、また人を怖がらせる。一般的に言って、世間の人々はごく特殊な瞬間にしか亡霊を見ない。すなわち、「天罰が下る」瞬間ではあるが、そういう非自覚的な予期しない出会いは、普通、人の人生を変革することはない。ただ王子だけが、天変地異の前夜にすでに革命の条件を備えている。つまりは、陰謀で構成されたこの世俗の生活をかなぐり捨てようとの考えが芽生えているのだが、一方ではまだ俗世の因縁からの衝動も徹底的に断ち切ってはいないので、亡霊のところから精神の動力を手に入れて、自身の矛盾を解決しなければならないのである。
 ハムレットの舞台である社会生活の現状を、在位の国王は以下のように描いている。彼は兄を毒殺してその葬式を出したばかりで、すぐに続けてさらに盛大な婚礼を挙げ、兄の妻をめとった。「いわば打ち拉がれた喜びをもって、片目は幸せに輝き、片目は涙に濡れ、葬儀には歓喜、婚儀には挽歌、愉悦と悲歎を等分に量って…」(以下の引用は本篇翻訳上支障のないかぎり野島秀勝訳『ハムレット』(岩波文庫)を使わせていただいた)。これはどんな社会にもあてはまる人間のあり方である。人はこのようにしか生きられない。しかし、ハムレットはその社会の先覚者であり、そのような人生に甘んじなかった。彼にしてみれば、汚濁の中を波のままに漂い、平凡な日を過ごすくらいなら、むしろ死んだほうがましだ。生きることもできず、死ぬこともできないちょうどその時、亡霊が現れた。地獄の火に焼きあげられた亡霊、それはハムレットを解き救いに来たのではなかった。誰も彼を救いきれない。彼に必要なのは革命であり、分裂である。自己を真っ二つに割る過程は最終的な意味では大人になる過程である。でなければ、ハムレットはハムレットではなく、ただの国王、ただの王妃、ただの大臣のポローニアスでしかない。この種の成長の激痛は地獄の硫黄の猛火にも少しも劣ることがないといえる。苦しみの持続のなかでは、人は発狂するしかない。亡霊の責任は王子の自我分裂を促すことであり、分裂のなかで、王子は必ず何度も亡霊と交流しなければならない。たとえ亡霊がそこにいようといまいと、その交流の努力を中断することはできないのである。
 父王の逝去は王子の人格分裂を開始させた。彼は突然、自分がすでにすべての人から遊離して、十分に危険な境地に立っているのに気づく。彼はもはや二度と自分の親族や愛する人と一緒に生きてゆくことはできない、なぜなら生きるということはすなわち死者に対する冒涜であるからだ。彼の心配事も口にはできない。なぜならそれは表現することのできない、暗黒のことばに属しており、ただ心の中に秘めておくことしかできないからだ。自由人の負担は彼の肩の上にこのように圧し掛かった。熱血のハムレットはそれを引き受けるだけではなく、なおも行動をしようとする。亡霊が間接的に彼を招いたとき、彼はこういった。「もし父王のお姿を借りて現れたなら、たとえ地獄が口を開いて黙れと命じようと。話しかけてみる……」彼のことばは死んでも亡霊と話し合ってやろうという決心を充分に現している。父王は彼に何をさせたかったのか?彼がすでに生きてはゆけない状況のもとで、父王の亡霊はどうしても、あのもっとも不可能な事をさせようとする―――引き続き悪人に混じって一緒にいるよう求めるだけではなく、さらに謀殺せよというのだ。自ら天使と悪魔の両職を兼ねた亡霊であって、はじめてかくも自己矛盾し、欲望に衝突の中で一筋の血路を切り開かせるのだ。亡霊は王子にただ一点を要求する。「父のことを忘るるなよ。」王子にとっては、それを忘れないことは自分の心を忘れないこと、自分の焦燥を忘れないこと、自分の愛と憎しみを忘れないことである。それ以上に忘れられないことが他にあろうか?亡霊との交流のなかで成長した王子は、ついに自分が引き受けなければならないものが何か、行動によってことを成し遂げるのがいかに不可能であるかをはっきりと見て取った。血生臭い殺戮はまず自分から始めなければならない。すなわち心を引き裂き肺を引き裂いて自分を真っ二つに割る。半分は霊界に属し、もう半分は依然として俗世を徘徊する。もしかしたらこの種の分裂こそ、さらに高次元の性格の統一なのかもしれない。英雄主義的な理想に満ち満ちた王子は最後まで本当に発狂はしない。強靭で冷めた理性を保ち、自分の事業をぎりぎりのところで頂点まで押しあげ、それによって魂の塑像を成し遂げるのだ。

 

二、毒のある愛

 

 オフィーリアはこう描写している、「(ハムレット王子は)私の手首をおとりになり、きつくお握りになると、腕いっぱい伸びきるまで後ずさりなさって、片方のお手をこのように額にかざされ、私の顔をじっとお見つめになりました、絵でもお描きになるかのように。長いことそうしておいででしたが、やがてわたくしの腕をそっと揺すられ、こんなふうに三度も、うなずかれながら、それはそれは悲しげな深い溜息をつかれました、五体がずたずたに裂け、お命もこれ限りかと思われるほどに。……」これはハムレットが自己を切り裂く成人の儀式である。これ以上痛いものがほかにあるだろうか?告別は結局のところ免れず、彼は人間と亡霊の狭間の境地に入らなければならない。そこでは世俗に属する愛は受け容れられない。その愛がどんなに強烈であろうとも。こうした結果が発狂である。彼の「物狂い」は偽装でもあれば、真の狂気が垣間見えているのでもあって、両者の間の繋がりは天衣無縫である。
 亡霊はハムレットの両目を交換させた。今までとは違う境地に立って、王子は彼のあの理想のもっとも美しい愛の暗い汚い一面を見る。両極はいつも相従い、愛の光が輝くほどに、ぼろぼろで凄惨なもう一つの一面が、いよいよ人を悲しませる。決して王子は以前からこれについて全く知らなかったわけではない。ただ今の異変が彼に改めて愛の本質を認識させたのである。天から降ってくる縁もゆかりもない愛はなく、オフィーリアも天使ではない、ただごく普通のしつけのよい娘にすぎない。もしも王子の愛が嵐のように強烈でなく、比較的温和なものだったならば、もしかしたら彼はオフィーリアの世俗性を許せたかもしれない。しかし実際は彼は彼女を許せず、自分のことも許すことが出来なかった。彼はどうしても自分を窮地に追い込み、彼の愛する人をも窮地に追い込まねばならなかった。このような一種の極端な形式によって愛し、自殺する事によって心の内を明らかにするのである。この一切は、亡霊とのあの恐ろしい対話から起きたものた。亡霊を見た後、殺気が王子の体内にこみ上げた。事情を知らないオフィーリアは愛の変質に気付かず、愛する穏やかな人がすでに悪魔に取り付かれているのを知らず、この狂った愛の犠牲になってしまう。以上から分かるように、亡霊は彼を世俗の愛から遠ざけようとしたのではなく、彼に世俗の愛を引き上げさせようとした。すなわち「狂うほど愛する」までに。亡霊の境地では人は愛すれば必然的に発狂する。人は自身の冷酷を引き受け、血の滴る心によって、表現できない愛によって愛そうとする。ハムレット式の愛も芸術の境地のなかの愛である。数百年前の先輩は早くも愛の本質に通暁していた。彼は成熟し、独立した愛を極致まで発展させ、人々にそのなかの憂鬱で恐ろしい内核を理解させる。彼は主人公に、その恋人に修道院に行くよう薦めさせ、これによって悪縁を断たせようとする。しかし一方でまた決してこの悪い因縁を断ち切らせず、ますますきつくからみつかせ、最後には生命の消失をもって終わりを告げさせる。こうやって引き上げられた愛は毒のある愛ともいえる。すべてが毒を帯び、淫蕩淫猥な意味を持ち、主人公のような魂にとっては、愛するよりはむしろ死ぬほうがましだ。だが亡霊は彼を死なせない。彼に生きたまま、毒を帯びた愛をとことん発揮するように要求する。それは剣の山にのぼり、油の煮えたぎった鍋に入るようなものだ。王子のそれら愛の戯言を通して、読者は彼の内心の溶岩のような熱と、硬い氷のような冷厳を感じることができる。人はいかにしてこの両極を魂のうちに統一し、奇跡のような性格を作り出すのか?ひとりひとりの体内に深く眠っている亡霊が、ひとたび起き上がって波風を立てたとしたら、どのような恐怖と壮麗な美しさが演出されることだろう。これこそ試してみる価値があるのではないだろうか。
 オフィーリアの悲惨な運命は王子の内心の苦難の深刻さを際立たせている。彼女が事情を知らず、無辜であればあるほど、王子はますます心を痛め、その過程は一つの心をゆっくりと二つに引き裂いていくかのようだ。彼女の無邪気さ、やさしさと純潔はいずれも王子に虚偽と陰謀と悪辣な計画に関わる存在を思い起こさせる。両者は陰と陽、コインの両面のように分けることができない。 そして事情を知ると知らないとに関わらず、罪悪は先天的な生存の構造なのである。それには尋常ではない性格の人(王子のような)にして初めて反抗できる。こうして、事情を知る王子は、自らの手で彼のもっとも大切な人を破滅させる。半分は盲目で、半分は醒め、悪魔に取り付かれた彼は、何も考えずに重大な罪を犯す。ひとえに体内の火山が爆発したがゆえに、ひとえに血管の中に前世の因業が流れているがゆえに。

 

三、人の心は監獄である

 

物を考える大きな力を人間に与えた神は、この能力を、神に近い理性を、持ち腐らし、かびを生えさせてしまうために与えたんじゃなかろう。おれの態度は畜生の忘れ物か、それとも、事の成行きをあまりにも細心に考えるための躊躇か、言いかえれば、四つに裂いて見ると、知恵はわずかに一分、残る三分は臆病というためらいか。 

結局はずっと引き伸ばしているのだ。もちろん、世故によるものでもなく、臆病によるものでもなく、つまりはひとりの生身の人間であるがゆえに、王子には生きることから離れられなかったのである。生きるとは何であろうか?生きるとは、心の内なる二つの対立面の殺し合いであって、その殺し合いはデンマーク王国に象徴される心の監獄のなかに生じ、王子の事業の最後の完成を妨げる一方で推し進める。張りつめては緩みながら造られたそのZ字形の軌跡は、殺し合いの過程のなかで残されたものである。
 亡霊は王子に復讐の道を指し示し、王子はそれを実行してみてはじめて復讐の意味とは身動きがとれず一歩も進めないことであるのを知る。そこで体当たりし、その体当たりのなかで自らを殺し、自らを殺すなかで亡霊とあの一方向の交流を行い、「復讐」の二字をじっくり味わう。ところが、もともと復讐とは自身の魂が肉体に対して行うものである。およそ行ったことはすべて振り返えるに堪えず、報いを受けねばならない。およそ存在するものは、みな消滅せねばならない。しかし、肉体を消滅させてしまえば、霊魂も拠り所がなくなる。そこで、いつもいくらかのものを残そうか残すまいかという躊躇のなかにいることになる。まずにオフィーリアの父親を殺し、続けてオフィーリアを殺し(剣によってではない)、それから彼女の兄を殺し……細かに考えてみると、それぞれ殺された者は実はみな王子の一部分である。ハムレットが彼らを殺すことは、つまり自分と世俗との関係を断ち切ることであり、世俗とは、彼の血と肉の身体を育んだ土壌なのだ。俗世の因縁がすでに尽きた王子はついに今わの際においてあの幻の理念のもとへ帰依する。この過程はなんと恐ろしいものであろうか!囚人は刃物を高々と掲げて包囲を突破したが、たたき切ったのはおのれの身体であった。しかし、どうして包囲を突破せずにいられようか?満腔の恨みと憤りを抱きながら、うやむやのままに生き、あるいは死ぬことができようか。人の心とは、いったいどういうことなのだろう?衝動と理性はどうしていつもいつも対立するのか?どうして、このふたつの間をのこぎりが何千年も押しては引きながら、強靭な神経をいまだ断ち切れないでいるのか?自分のために監獄を自ら造った囚人は、一体何をしようというのか?ハムレットは知らない。彼にはただ心の呼びかけに聞き従うだけで、その神秘的な呼びかけが彼の行きたい場所――暗黒の虚無へと彼を導くのだが、彼はまだ生きている。生きているのは引き伸ばしであり、仇を討つというのは理念的な象徴にすぎないのだが、それが最後の落ち着き先へと彼を引っぱっていく。 
 亡霊に啓蒙されて、心の囚われはようやく真に王子に意識された。意志が強すぎるハムレットは、本当に発狂することはできない。すべての“狂気”はみな意識されていた。たとえ事後の意識であったとしても。しかし、この種の“狂気”は世間でよく言う“狂ったふりをする”のとは、まったくちがう。なぜなら、それはたしかに心の衝動から出ていたからだ。衝動に駆られながら意識する、これが“監獄”の意味である。たしかに、強力で自覚的な監禁がなければ、魂の舞いを繰り広げる術はなく、理念さえもこれに従って消え失せてしまう。「人間とは何という造化の傑作か、高貴な理性、無限の能力、優美な姿、敏速正確な身の動き、天使さながらの活動、神のごとき悟性、この世の美の極致、生きとし生けるものの典型。」この大書された“人”の方向へと努力するために、ハムレットはようやく自ら自己を囚人に変えようとする。さもなくば、“天地の狭間でもがく”ものになるだけである。デンマーク城は、長年日の光があたらず、いたるところがかび臭い。しかし、その内部にもたしかに、先王やハムレット王子のような、太陽のように光り輝く一代の英才が育まれている。彼らが放つ光は、世紀の黒煙や瘴気を突き破り、人間性の不滅の真理を明らかにしている。このような監獄は、陰気で気味悪くもあり、気高くもあるのである。

……泥のように意気地なしの役立たず、夢見心地のものぐさ太郎よろしく、ぼんやりふさぎ込んでいるばかりだ。大義を忘れて何もせず、何も言えないていたらく、王冠も妃も貴い命までも奪われ、煉獄に落とされた国王のためにさえ、なにもできないとは。おれは卑怯者か?おれを下司と呼び、おれの横っ面を張り倒し、この髭ををむしって、顔に吹きつけ、この鼻をねじあげ、心底、貴様は嘘つきだと罵るのは誰だ?

引き伸ばしの一刻ごとに、心はこのような残酷な拷問、苦しみを受ける。監獄の刑務官は情け容赦なく、人は逃げ場がない。人は強制されながら彼のもっとも愛する、もっとも貴重なものの一切を少しづつ差し出していく。愛情、肉親の情、友情、最後には肉体を。仮にも少しでも赦免があるとは思ってはいけない。逆に刑罰はますます恐ろしいものになるだけで、もし自分の意思がそれに耐えられなければ、ひとりの「人間」となる努力をあきらめ、単に「天と地の間でもがく」輩に落ちぶれるしかない。いわゆる「英雄の面目」とはこういう無限の忍耐力であり、こういう致命的な束縛のなかの衝動なのだ。衝動は一度ごとにすべて自分によって冷酷に撲滅されるが、とどのつまり、なおも死灰は再燃し、運命に向かって更なる猛烈な突撃を開始する。これによってハムレットの運命はこういうパターンを成す。忍耐――爆発――再忍耐――再爆発。もし芝居に必要なければ、この過程は終結しないはずだ。爆発はただ一瞬のことだが、忍耐は彼の日常生活を構成し、彼は歴史上もっとも憂鬱な王子となるのだ。
 「ああ、今このときより心よ、血みどろの残忍になれ!」王子のこのことばは自分の引き延ばしへの痛恨でもあり、激烈な督促でもある。決心がついたとしても、人は自分の本性は変えられない。ハムレットの受けた教育、堅固な理性、奥深い思想により、彼は「ハムレット式」の復讐しか出来ないよう運命付けられている。ハムレットの体内に住む亡霊はもちろん始めからこの全てを知りぬいており、王子にいかなる具体的な教示もせず、ただ「私を覚えておけ」と要求しただけであった。もちろんこのことばもいわずもがなだ。先王は王子の魂であって、彼のもっとも激しい衝突と、もっとも熱い血はことごとく王子に受け継がれている。王子がどうしてそれを忘れることが出来よう?復讐とは何か?復讐とはあの古い永遠の矛盾をもう一度演じること、すなわち人生の大舞台で生命を演じることなのである。しかるに、真実の上演は、一歩で到達出来るものではない。それは結果のない、痛ましいひとつの過程である。したがって、亡霊の描写のなかで、王位、国家などはわきに放り出され、亡霊は王子にひたすらその仇と恨みを話すことで、彼の内なる矛盾を起動させようとする。恨みはかきたてられ、亡霊の目的も達せられた。同じひとつの精神の図式のなかにいる先王と王子、その精神世界はまさに人類精神の発展の大河の縮図であり、この芝居がもつ不朽の生命力もまたここにある。自らを敢えて拘禁する勇気を持つ芸術家、その作品は必然的に不滅の生命の光に輝く。

 

 四、語りのスタイル

 

 この一場の悲劇の始めから終わりまで、ハムレットは完全に世俗の意味での「現実」を無視しているといえる。王位も、国家の前途も、彼の頭のなかにはまるでないようなのだ。彼は作者の芸術的自我の現し身として、焦点をすべて人の心そのものに合わせようとしている。そこで彼は自然に人間性の探険者となり、しかもその種の恐れを知らぬ探険をひとたび開始すると、決してふり返ることがない。ひとりの人間が、すでに人の心の恐ろしさを見通し、生に対していかなる幻想もなくなっていながら、なぜ、それでもこの世に生きようとするのか。もちろん、あのもっとも偉大な事業――「語る」というの事業のためである。暗黒の汚れを背景にして、人の夢想、人の憧れ、人の追求を語ることである。単に口で語るばかりではなく、もっとも重要なのは行動によって語り、世間の人に演じて見せることだ。彼はみんなに知らせなければならない。彼がむざむざと死にゆくことにどれおほど甘んじないか、彼の追求するあの世界がどれほど真実の存在であるかを。自殺を図ろうとする親友のホレイショーに彼がどういったかを見てみよう。

 ああ、ホレイショー、真相がこのまま知られずに終わったら、死後にどんな汚名が残るか知れない!ぼくのことを少しでも大切に思ってくれるなら、いましばらくこの世から解き放たれる幸せを諦め、現世の苦しみに耐え生きながらえて、ぼくの物語を伝えて欲しい・・・・・・

 彼は決して自ら死のうとしたのではない。生きるのは死ぬよりもずっと難しいけれど、彼の心に死への衝動はなく、ただ生を求めるもがきがあるだけだった。気高い父親の死が彼のために成人の儀式を行ってからというもの、彼がしたことのすべては、陰鬱な監獄のなかでいかに生き延び、生き延びるばかりではなく、さらに生命についての一切をいかにしてみなに告げ、受難のこの身をもって人々の範たらしむるかということであった。彼の口と身体の語りを通じて、人々は、心が恐ろしい監禁のなかでどのように苦しみ、愛情と骨肉の情がどのように無惨に扼殺されるかを見、極度な憤怒と憎しみ、そしてその憤怒と憎しみに対する無制限な抑圧、そして生を消滅しようとするとめどない欲望の制裁を見るのである。一切合切は、あの大書されるあるべき「人」の誕生を促している。もしかしたら、世俗の現実のなかで、ハムレットは永遠に「人」のイメージの基準に達することができずに、彼の身に生じたことはむしろその反対であるかもしれない。しかし、魂の現実のなか、王子のあの不屈な「語り」のスタイルのなかに、「人」のイメージはすでにそっくり現れている。ひとりの先王よりさらに強靭で、さらに執拗なイメージ、新たに誕生した若い亡霊が。

 もう一度王子の言ったことを思い起こしてみよう。「人間とは、なんと驚くべき造化の傑作だろう!高貴な理性と無限の能力、風貌と立派な立ち居振る舞い…」。

彼自身も、私たちもみな彼がいうあの「人」になることはできない。ただ「語り」のスタイルだけが未来への可能性を示している。