異端の境界  

(『残雪短篇小説全集』前言)
近藤直子訳

 

 魂は世俗のなかで圧迫され、ねじまがり、分裂し、変形し、致命的な重傷を負う。語りつくせぬ辛酸、屈辱と劇痛、語りつくせぬ恐怖、絶望と悲哀。魂は語らない。自身の内部の鉄の桎梏に抑えつけられているからだ。それが見渡すかぎり傷だらけの大地に生臭い風が吹き、血の雨が降る風景だ。しかし活きている魂は決して沈黙するはずはなく、反撃の陰謀が準備され、ついに爆発する。さらに強力なとてつもない抑圧の中で、蜂起はいよいよ一か八かの悲壮な様相を帯びる。革命運動のなかで、隔世のごとき奇異な画面が出現する――意思から出ていながら、意図せざる産物が。

 何年も昔、わたしはわたしの魂に語らせようとしたが、口を開くことはできなかった。黄昏のくちなしの花の香りが空気中を末日のにおいで満たし、わたしは息ができなかった。片方の足を動かすと、骨がカラカラと鳴る音が聞こえた。そのうえ夜間には枕元に集まる鼠が寝室を共同墓地に変えた。わたしは血管からどくどくと血を涌き出させたいと思った。かつてあったことのない形で肉体をもがき破りたいと思った。わたしは口を開き、最初のことばを語らねばならなかった。そのことばはかつてあったことのない、世俗から来ながら、世俗を脱け出たもので、天国の物語の端緒を開くものとなる。わたしは真空の中から音を発する試みをせねばならなかった。すなわち、ふつうの人には想像もつかないような形で語らねばならなかった。もしかしたら自分の声はわたしにも聞こえず、だれひとりにも聞こえなかったかもしれないが、その湧き上がる熱エネルギー、筋肉の動きは本当のものだった。しかもわたしの容貌もその運動のなかでしだいに変わってきた。

  わたしはついに口を開いた。けれどもいったことはすべて無駄話、あのことばは出てこず、天国の物語には入れなかった。世俗の澱に抑えつけられ、わたしは気が狂いそうだった。ひょっとしたら、それは唇を火傷させるようなことばなのかもしれないが、わたしが吐くことばはすでに冷えていた。あの異端の境界はどこにあるのか?どうすれば魂を穴から搾り出せるのか?なにもかもがふつうには思いもよらないことだ。しかし、思いもよらないことこそ、こうした小説創作の基本的特徴なのだ。もちろん絶望とあせりしかなかったわけではない。高度な奮起と、その解除のなかでの回想が生みだす幸福感が、創作の全過程に浸透し、そうしたものが自然に頽廃に打ち勝ち、もう一度奮い立つ原動力となった。

 では霊感は、わたしのような特殊な小説を創作するものにとって、なんなのか?霊感とは、やはり一種の語る衝動にすぎない。わたしは世俗の真空のなかで音を発する練習をし、最初のことばを吐こうと試みた。その試みは熱烈で、焦慮に満ちたものだった。ほとんど毎回、わたしはそれでも語りつづけ、「天国の対話」や「毒蛇を飼うもの」「天空の青い光」等々を語りだした。それはいずれも焦慮と吐き気、不満、そして奮起と幸福のまじりあった産物であった。わたしは低次元の理性によって妨害された、表面的な意味での構想は決してしない。なぜなら、ある深層のものの力のほうがはるかに大きいということを、ずっと確信してきたからだ。そのものが、わたしに二十数年にわたって発声練習をさせてきたのだが、今なおその楽しさに疲れを知らない。その一点に執着しているときにのみ、語り、世紀の澱の圧迫から脱け出す衝動はつづいていくのだ。とうの昔から、わたしは知っていた。これに忠実であることが、自我に忠実であることなのだと。

 わたしはさらに語りつづけ、世俗の虚栄にひたることもよくあった。自分がこの道の専門家になったのがひそかにうれしく、創作のなかでの屈辱や吐き気をすっかり忘れた。ああした作品のなんと不思議なことか(たとえば「伝説のなかの秘宝」や「阿娥」)。わたしはどうやってああいうものを書き上げたのか?今にして思えば、あの焦りや吐き気や不満が、陣痛の促進剤になったのだろう。さらにがんばりつづければ、悪性循環も止まらないが、唯一の慰めは、それに耐える力もしだいに強まっていることだ。それにしても人間の忍耐力の限界はどこにあるのだろう?身体の面では、わたしはしだいに老衰しつつあるはずではないか。この問題には常識をもとに答えは出せないし、そんなことにかまってはいられない。わたしの前にはまだあんなに多くの誘惑があり、あんなに多くのさらに大きな謎がある。あの永遠の、単一な、一切を呑みこむ虚無が迫りつつあり、その太鼓のリズムがますますはっきりしてきたのは、わたしも知っている。一切が急を要する。

 これはわたしの初めての完全な短編集であり、自分にとっての二十年の奮闘の総まとめとなるものだ。わたしは短篇によって、読者と通いあうチャンネルを開いてきたのだ。当今の読書界で、わたしの短篇が得た読者数も、中長篇を越えている。こうした奇想に満ちた文章は、わたしにとってなにを意味するか?どのように自分の短文を定義できるのか?固定的な解釈はなにもなく、すべては自然に発生した。わたしはあの異郷に行き、そして見た。ときには一匹の魚を見、ひとつの香炉を見、ときには長い間跋渉することのできる大きな山を見た。小さな奇妙なものは透明で精緻であり、耳もとによせると宇宙のこだまが響いた。こうした奇妙なものは無限に変換していくことができる。ちょうど人間が異郷のなかで無限に分身していくことができるように。そうして人の目をくらませながら、形はいかに変わっても本質は変わらない。毎日わたしは一定の時間俗世を離れ、暗黒の王国に降りていって冒険をする。そこで奇妙なものを、なんともいえず奇妙なものを見るのだ。地上に上った後は、そのあらましをそそくさと描写する。わたしの描写の道具はいかにも拙劣だ。しかし、かまいはしない。明快な、感銘深いものが文字のあいだの暗示のなかから解き放たれてくる――作品がこの道に通じた読者に出会いさえすれば。 もちろん、わたしがやっているのは錬金術ではなく、千万年来の人間に固有なああしたものの探索と開拓である。ああした奇妙なものは海辺の貝殻にも似ているが、貝殻よりはるかに美しい。不可思議なほど美しい。しいて形容するなら、それには神性が備わっているとしかいいようがない。わたしはその美しさを語ることはできない。だが暗示はした。読者はその暗示を通じて、そうしたものの風采を再現する途を見出すことができるかもしれない。永遠のものを前にして、人にできるのは暗示することだけである。だれが永遠をつかみ得よう?

 作家出版社はわたしに異郷を展示する機会を提供してくれたが、すべては一回かぎりのもの、わたしはもう一度旧い夢を見ることはできない。けれども読者は、短篇のなかに隠れた情報をたよりに、奇妙なものの姿を再現させ、そのなかに宇宙の構造を見出すことができる。わたしは長い夢から醒めることのない芸術工作者だ。わたしは作品を、夢を見、夢のなかに世界を築くことのできる読者に提供する。こうした読者は、ひとりであろうとも、一万人であろうとも、みなわたしの同盟者だ。わたしたちはともにひとつの不朽の事業に従事する。おわかりでしょう、永遠の黙契のもとに。

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