泡沫

監訳 近藤直子
 (2003年度日大文理学部中国語[A受講者)
訳:大垣寛子、栗田眞希江、栗原里枝、
小久保元、小林恵子、中元雅昭

                                                                 

 父のもっとも早い記憶は湖南省党委員会宣伝部のあの大きな官舎でのことだ。当時わたしは二歳くらいで、父はそのわたしをがっちりした掌の上に立たせ、もう片方の手で両足をつかんでひょいひょいと上下に揺すり、家じゅうの者がそばで笑っていた。
 昼、あの官舎の中は、子どもが泣きわめき、家政婦と祖母が行き交い、客が出入りして大忙しだった。わが家は大家族で、両親と全部で六人の子ども、それに母方の祖母とふたりの家政婦がいた。わたしの記憶では、家には一箇所だけ静かで神秘的な場所があった。それは狭く長い廊下のむこうにあった両親の寝室と仕事部屋(つながった二部屋だったかもしれない)だった。その壁際にはえび茶色の長いソファーと巨大な書き物机が置いてあった。机の上には柔和な緑色のスタンドがあって、そばにはうず高く積まれた書類の山がいくつもあった。父が机に向っているとき、母はわたしを部屋に入れなかった。壁のもう片側は天井まで書棚になっていて、色とりどりの精装本がぎっしりつまっていた。両親のベッドも広々としており、緞子の掛け布団には金色の竜の刺繍がしてあった。わたしは二歳で肝炎にかかってそこに寝たことがあるが、緞子の金の竜に顔をつけたときのあのひんやりした感触をまだ覚えている。
 その後、弟の狄狄(ディーディー)が生まれた。狄狄はまるまるとしておとなしく、愛らしく、わたし同様、父の机のそばにいるのが好きだった。父は新聞を見ながら弟をあやしたものだ。
「お父さんが好きか、お母さんが好きか?」
 狄狄は母の胸に飛びこんで叫んだ。
「お母さんが好き!」
 それからまた父の胸に飛びこんで叫んだ。
「お父さんが好き!」
 父は今度はわたしにきいた。
「小小(シァオシァオ)はどっちが好きだ?」
 わたしは叫んだ。
「お父さんが好き!」

 うちの一家がどうして宣伝部から追い出され、復興路(フーシンルー)のその二部屋の家に来たのか、わたしには僅かな記憶もない。ただわたしと狄狄が暗い部屋で寝ていたことを覚えている。わたしたちははしかにかかっていた。外祖母がだれかと声をひそめて話していた。
「うちのスタンド! スタンド! あいつらが持ってった! 持ってった!」
  狄狄が突然甲高い声で泣き叫んだ。   
 祖母の黒い影が急いでやってきた。彼女は汗びっしょりの狄狄を抱き上げ、口々によしよしとあやしていた。狄狄の叫び声はおさまっていったのだが、まだぶつぶつと「スタンド、スタンド・・・」と、つぶやいていた。
 祖母は、「スタンドは持っていかれていないよ。」と、わたしの耳もとで話し、さらに「狄狄が泣いたら、あの人はすぐ手を放したから、わたしがそれを木箱の中に入れたんだよ。この子ったら、わずか2歳半だっていうのに物心つくのが早いね。」と、声を詰まらせ、綿入れの長衣からハンカチを取り出して涙を拭うのだった。祖母は何故泣くのだろう?           
 わたしは頭を掛け布団の中へうずめて、頭にはしきりに幻が生まれていた。大きな石にのどを押さえつけられている感じがして、また裸で高い木の上にまたがっているようにも思えた。わたしは狄狄と話し、頬がひどくかさかさして口を開けると顔じゅうがつっぱって痛いといった。
「痛い!ほっぺたに針がささってる」 狄狄はいった。       
 わたしはまだその高い樹にまたがっていて、上に下にと揺れ、とても危なかった。わたしは祖母を呼んでわたしを抱きおろしてもらおうと思ったが、祖母は外へ小米(シャオミー)と話しに出て行っていた。わたしの目はついに周囲の暗闇に慣れた。わたしはぐるりと見渡し、部屋の中がとても込み合っているのに気づいた。なんとベッドが三つも並べてあって、どのベッドにもみな掛け布団が広げてあり、服が放り投げてあった。部屋の隅にはいくつか木箱が積んであり、それは我が家の衣装箱で、毎日目にしていたものだった。隣の部屋では、敏敏(ミンミン)と小海(シャオハイ)ぼそぼそと話しをしていた。ここはどこだろう?パパとママはどこへ行ったんだろう? わたしは思った、そして幻覚の中へと入っていった。今度は断崖の上にいて、依然として服は着ていなかった。下には大波がうねっていた。わたしは一つの岩の塊にしがみついており、 頭がクラクラしてめまいがした。とても耐えがたかったので、崖にぶら下がっていることを放っておいて、あの美しく素朴な淡い緑色のスタンドのことを思うことにした。あれは穏やかで平和の象徴だった。また一種の非常に不思議な趣があった。
「母さんがいうには、わたしたちみんな転校するんだって・・・。」 敏敏が壁を隔てた部屋から大声でいった。「わたしは学校はやめるの、仕事をするの!」 敏敏は言い終わると泣いた。非常に悲しそうに泣いた。     

 わたしもベッドに横になっているのがとても退屈で、周囲も暗いので泣きたかった。しかし、目は乾いてゴロゴロし、どんなにがんばっても涙は出ず、大声で少し何度か叫んだ。すると祖母がやってきて、氷のように冷たい手でわたしのおでこを押さえて、そっと言った。
「小小、泣かないでいうことを聞きなさい。おまえはお姉ちゃんなんだから狄狄のお手本にならなくちゃ。何日かすればすぐ治る、ぶつぶつが出ればすぐ治るから、おばあちゃんがおまえと狄狄を遊びにつれていってやるからね」
「ママは?」 とわたしはたずねた。
「ママは何日かしたら帰ってくるよ。ママは、おばあちゃんの言うことをよく聞いて、いい子にしているようにいってたよ」                             

 わたしは黙ってしまった。が、狄狄はパパとまた泣き出した。
「パパは出張に行ってる。ママは何日かしたら帰ってくる」祖母は狄狄を胸に抱いていった。「狄狄はいうことをとってもよく聞くから、パパも狄狄が好きだし、ママも狄狄が好きだし、おばあちゃんも狄狄が好き、ママは帰ってきたらまず狄狄に大きな林檎を買ってくれるからね・・・」
 わたしはその恐ろしい暗い部屋で随分と長い日々をぼんやりと過ごした。はしかが次第に良くなるにつれて、わたしは漠然とわかってきた。家の中に重大な変化があり、わたしたちはもうあの宣伝部の大きな家には帰れず、急に母もわたしたちの生活の中から消えてしまったのだ。
 ある雨の日に、しばらく会わなかった父が外から帰ってきて、その様子にわたしはとてもビックリした。父のひげはとても長く伸び、髪の毛もボサボサだったのだ。彼はわたしと狄狄を見るとふたりを抱き上げ、一人一人にキスをして、それからすぐにそそくさと敏敏と小海のあの部屋へ行った。つづいて敏敏が泣いているのが聞こえた。父はため息をつき、敏敏がなにかいったことに同意したようだった。それからまたひそひそと話し声が聞こえた。父は大声で言った。
「敏敏と小海は大八車を一台借りてきて、この木箱や本棚をひっぱっていきなさい。ぶつからないように気をつけて。それから河を渡るとき、気をつけるんだよ。お父さんとおばあちゃんはこの掛け布団や洋服をもっていくから、小米はお父さんについて来なさい。小小と狄狄はおばあちゃんから一歩も離れてはいけないよ。みんなしっかり気をつけなさい。事故が起きないようにね。一度では運びきらないから、敏敏と小海は何度かやってくれな。」 
 みんなが一体どんなふうにして引越したのか、わたしは見なかった。わたしと狄狄は祖母についてその長い長い木の橋を渡り、とても怖かった。祖母はわたしたちに自分の綿入れの服の端をそれぞれつかませて河に落ちないようにする一方、自分は二つの風呂敷包みまで持っていた。それはわたしたちが生まれてはじめて越えた河で、急で濁った河水が粗末な木の橋の下を流れており、わたしたち二人はおっかなびっくり祖母の綿入れにしがみついて、ちょこちょこと先を急ぎ、木と木のつなぎ目に来るたびに冷や汗が出そうだった。ついに橋を渡り終え、わたしたちは混み合っている汽船に乗った。汽船はわたしたちを河の西側の目的地まで乗せていった。
 父と上の姉敏敏、二番目の姉小米、二番目の兄小海は岸でわたしたちを待っていた。道中、父はわたしたちにいった。 敏敏は町内で仕事を見つけた。飲食店で酒を売る仕事で、これからはもう自力で生活できるようになったと。けれども敏敏は何もいわず黙って歩き、だれも口をきかず、空気は沈んでいた。わたしにはそのことがいいことなのか 悪いことなのかよくわからなかった。父はさらにいった。 母は谷山というところに行っており、これからはあまり戻ってこられないから、みな父と祖母のいうことをよくきいて家の手伝いをよくするようにと。わたしはそれを聞いて、やはり、そのことがいいことなのか悪いことなのかわからなかった。


 長い流刑生活は、社会科学院光明村の暗くてじめじめした二間の家から始まった。当時わたしは五歳で、それから後に起こったことははっきりと覚えている。

 光明村は山の中腹にある一棟の古い平屋で、建物の前にも後ろにも木々があり、くねくねと曲がった小道を通っていくとようやく社会科学院の大通りに出る。わたしたちが住んでいる二部屋前後につながった平屋は、およそ十一、二平方メートル、石灰と砂、粘土を混ぜた三合土の床で、漆喰壁はとても古く、大部分が剥がれ落ちていた。父は表の部屋を使い、ベッドと机と粗末な藤の本棚を置いた。机の上にはあの見慣れたスタンドと、インク瓶と筆立てが置いてあり、本棚にはマルクス・レーニン主義の書籍――『レーニン全集』、『スターリン全集』、『マルクス・エンゲルス全集』、『資本論』、『毛沢東選集』、艾思奇の『弁証唯物論』等――がずらりと並んでいた。壁に並べて置いた二つの木箱はわが家の以前からの衣装箱で、父と母が以前着ていた服が入っていた。その中に母の毛織物のスカート何着かと、父の灰色の毛織物の中山服何着か、それに毛織物の吊りズボン、薄い絹の下着などが入っており、みなきちんと畳んで、ナフタレンが入れてあったことを覚えている。しかしわたしは父がその服を着たのを見たことがない。奥の部屋を使ったのは祖母、小海、小米、狄狄とわたしで、部屋のなかには全部で二つ寝台をしつらえ、古い木箱を積み重ねて、その中にわたしたち子どもと祖母の服が入れてあった。いちばん上の姉敏敏は外で仕事をして、たまに帰ると台所の隣の狭い廊下で寝た。                               
 わたしのそのころの印象では、父は言葉少なく、とても親しみやすかったが、外観はよくなかった。近眼鏡をかけ、年じゅう古いカーキの人民服を着て、平底の布靴をはいていた。服はほこりこそついていなかったが、襟元は少し油で汚れていた。長いあいだ洗っていないせいだろう。父は笑うととても愛らしかったが、口の中の歯はみな黄色だった。父の話によると、故郷の水には歯の表面のエナメル質を腐食させる元素が入っているので、そこの人たちはみな歯が黄色なのだそうだ。わたしはさらに大人から、父が以前、省の共産党委員会の宣伝部長だったということを聞いた。しかし、そのころのわたしは家に起きたことがよくわかっておらず、大人たちがそのことを妙に秘密めかしく話すと思っただけだった。
  母が労働改造に行っていた谷山から、ついに初めて帰ってきた。とても古い服を着ていて、ゴム底靴は黄泥で汚れ、顔色は悪く、表情は疲れきっていた。網袋を一つ手に持っていて、そこには大根が何本か入っていた。あの日はちょうど旧正月で、正月が過ぎればわたしは七歳になるのだった。わたしたちはそろって母を囲み、大喜びした。 狄狄は表の部屋から奥の部屋へ駆けていっては、また駆けもどり、しきりに叫んだ。
「ママが帰ってきた!ママが帰ってきた!」
 母は一方の手で狄狄を、もう一方の手でわたしを抱いて、わたしたちに餃子を作ってくれるといった。大根と白菜を中に入れて。
「餃子だ!餃子だ!」
母はしっかりとわたしたちを抱きしめ、突然傍らの父に向かってひとこと奇妙なことをいった。
「しっかり改造しましょう。他に道はないわ」

 わたしが五、六歳で物心ついたときから「人にぬきんでる」というのが、わたしたち兄弟の合言葉になった。父はわたしをえこひいきしていたため、当時はお腹いっぱい食べるのは困難だったにもかかわらず、いつもわたしに少し、いい物(ひとかけのビスケットや飴ひとつぶなど)を残してくれた。もちろん他の者には見えないようにくれるのだが、ときには彼らの目を逃れられないことがある。すると平等意識の何人かの兄弟はわたしが「だれよりもぬきんでた」といって、からかうのだった。  父は湖南省社会科学院の監督下で改善をさせられており、毎日仕事が終わったあと、いつも表部屋のあの机の前に坐り、マルクス・レーニン主義の本を読み、鉛筆でしるしをつけていた。そしてわたしはというと、用があってもなくてもいつも父のそばにいた。それはいい物を食べるためでもあり、父と一緒にいたいためでもあった。よく夜になると父に
「小小、部屋に行ってねなさい」 といわれ、やっと名残りを惜しみながらそばを離れるのだった。当然、ものを食べる回数は限られていた。家族みんなが一日三食食べる分はすべて定量配給だったし、おやつを買うお金などどこにもなかった。                         
 
 あの日母が谷山から帰ってきたときは、顔色が悪くむくんでいて、話をするのも元気がなかった。なんと黄疸肝炎を患って、労働改造から休養にもどって来たのだった。祖母は痛ましそうに、首をふってぶつぶつと、かわいそうに、かわいそうに、といっていた。

 わたしは両親が夜中に話していたことを耳にした。真夜中だったようだ。目が覚めると母が「もちも買ってこなかった」というのが聞こえた。ふたりは年越しの相談をしていたのだ。あらましは、金がなくて買うつもりだった年越しの品も買ってこれなかったということだ。そのころは苦しい時期だった。両親はそろって給料がなくなり、自分と子供一人あたり十元の最低生活費しか出ず、祖母には生活費さえ支給されかった。その後ふたりは延々と細かい勘定について討論し、長いため息をついた。突然父がいった。「今日また病院に行ってきたんだが、先生がいうにはこの病気はほとんどの人が五十まで生きられないそうだ」わたしはこれを聞いて驚いて、布団の中で縮みあがり、いろいろなことを次々と連想して、なかなか眠れなかった。
 翌朝起きると、わたしはまた父が夜話していたことを思い出した。父からずっと目を離さず、父がそのままわたしから離れて行ってしまうのではないかと心配した。父に尻尾のようにくっついて歩いて、不思議がられたものだ。
 夜になると、両親は表部屋で話しをした。みんな寝てしまったが、わたしは寝ようとせず、ずっとその部屋で見守っていた。
「……もちろん、つらいわよ」と母はいった。「レンガを担ぐとき、ある男の人は百キロも担いで、体をこわしてしまったわ。わたしは、一番多いときで六十キロ担いだことがあるのよ。雨が降っても担ぐから、雨水と汗が混じって、もう全身ぐしょぐしょよ」
 「そんなに無理をする必要はないんだ。体をこわしたら、もともこもないじゃないか」と、父は低い声でいった。
 「仕方ないわよ。今はただ、しっかり労働改造をすることが唯一の活路なのよ。そうでなければ、この一山の子どもたちはどうしたらいいのよ」
 「おまえが死にもの狂いで改造をして、身体を酷使しても、人様は必ずしも見ていてくれるわけじゃないんだ」父はいった。
 「小小、どうしてまだ寝てないんだ。大人の話は側で聴くんじゃない。」
 わたしがまだ行かないでいると、母が言った。
 「もういいわ。小小、ここで寝なさい。」
 そこで、わたしは父と母のベットの反対の端で寝て、うつらうつらと夢の中へ入っていった。その間、また幾度か目が覚めたのだが、その度に、どうやって年を越すかと小声で話し合うのが聞こえた。                              
 年越しの少しばかりの品々は、つぎつぎと買ってくるとすぐ、父の机のそばにある戸棚の中に置かれた。その日、わたしと小米は学校から帰ってきて、父の部屋でお姫様ごっこをし、彼女は王子さま、わたしはお姫さまになった。遊んでいるうちに、小米が突然いった。
「小小、わたしパパが白砂糖をどこかに置いたかを知っているのよ。」
 わたしは目を輝かせ、あわててきいた。
「どこ?」
「すぐそこ」彼女は本棚にある磁器製の瓶を指さした。
 そしてわたしたちふたりは腰掛を持ち出し、瓶を下ろしてふたを開け、中の小さなさじで白砂糖をひとさじすくって机の上に置いた。小米はそれを慎重に二つに分け、それからふたりで舌を伸ばしてきれいになめた。ひとさじ食べ終わってももっと食べたくてたまらず、小米はまたひとさじすくって二つに分け、ふたりでまた舌を伸ばしてきれいになめた。わたしたちはこんな具合に同じ手順で、五、六さじの白砂糖を盗んで食べた。
 午後、父が帰宅すると、わたしと小米はこれはまずいと大いに緊張した。心の中では、今回はたたかれずにはすまないと思っていた。どうしてか分からないが、あの時、父はわたしたちふたりをたたかなかった、ただ、わたしたちがいうことを聞かず、盗み食いをし、悪い子で、みんなの年越しの品をだめにしたと激しくしかっただけだった。もしかしたら父は、わたしたちを不憫に思ったのかもしれないし、ふたりが父のお気に入りの娘で、しかもわたしが「人にぬきんでて」いたからかもしれない。もし兄たちだったら、間違いなくたたかれていた。
 わたしと狄狄は一度生の大根を盗み食いしたこともある。大根は小さくてまるまるとしており、大方計画カードで買い、豚骨スープで煮込むつもりだったのだろう。わたしと狄狄は家人がいないのを見ると、すぐに台所に忍び込んで、ひとりひとつ持ってかじりはじめた。大根はひどく辛く、わたしたちはかじりながら床に皮を吐き、床じゅう皮だらけにした。あとで父と祖母が帰ってくると、かんかんに怒り、わたしたちのお尻をたたいた。別にひどくはたたかなかったが、たいへんな罵り方で、わたしと狄狄は小さく身を縮めて、震えあがっていた。

まもなくわたしと狄狄、小米は肺結核にかかり、中でいちばん重いのがわたしだった。祖母はわたしの肺には大きな穴があってとても危ないのだという。そこでわたしは医者にいわれたとおり学校を休んだ。父はわたしのために牛乳をひと瓶取ってくれた。牛乳は水っぽく、飲んでもあまり牛乳らしい味はしなかった。毎朝父は瓶のふたを開け、瓶の口をぺろりとなめてから、じっくりと、またたきもせずにわたしがそれを飲むのを見つめた。おそらくひと口飲むたびに、父の心の中のなにかも、わたしのあの小さな痩せた身体に入ってきていたことだろう。わたしが飲み終わると、父は空いた瓶にお湯を少し入れ、何度も強くふって自分の口に流しこんでからいった。「これは栄養だからな。少しでも残すともったいない」 

 あのころは食糧が足りなかったので、光明村の住人はみな野菜を植え、どの家もおまるに大小便を取って野菜にやっていた。
 父は家の前の菜園で畑仕事をするのが好きで、仕事から帰るとすぐ水をやったり耕したりした。わたしたちは青梗菜や白菜、ヒユ、かぼちゃ、へちま、フダンソウなどを植えた。使った肥料はみな一家の大小便だった。わたしの記憶では、わが家の菜園の野菜のできは、どうもよその家にはおよばなかった。父があれほど丹精し、大きな期待をもっていたにもかかわらず、なにか肥料が足りなかったのか、やり方がまずかったのか、菜園はどうもぱっとしなかった。青梗菜は痩せており、かぼちゃはこぶしほどにしかならない。葉っぱはよく茂り青々しているのだが、雄花しか咲かず、なかなか実がならない。やがて父は小便をやりすぎてはだめだというようになった。ヒユだけは手がかからず、取っても取っても新しい葉が生えた。水がわりの人尿さえやっていればいいのだ。そんなわけで夏の間じゅう、わたしたちは毎食のようにヒユをおかずにお粥を食べていた。

 うちの菜園で唯一見事に育ったのは痩せ地に耐えるフダンソウだけだった。この野菜は茎も葉も厚く、緑もきれいでほとんどなにも手がかからなかった。ただフダンソウはまずく、とくに油を使わないと口にも入らないようなしろものだった。わたしたちはその油を入れないフダンソウを毎日食べてついに皮膚病にかかり、大人も子どもも背中がかゆくてたまらなかった。だが皮膚病になっても食べなければならなかった。腹いっぱいにできるからだ。

 かぼちゃは父が丹精したにもかかわらず、収穫はわずかだった。ある日父と狄狄が戸口の石段の上からわたしを呼んだ。父が呼びながら手にしたコップを叩いていたので、わたしは急いでとんでいった。
「おいしいものがある」父がずるそうに目をぱちぱちさせた。「あててごらん、あたったらやる」
「見せて、見せて」背伸びするとコップの中に黄金色のなにかが見えた。
「かぼちゃの花に小麦粉を少し混ぜて油で揚げたんだ。ひとりひと口だぞ」父はいった、
 彼は箸でコップの中身を長いこと箸でつつきまわしてわたしたちをじらし、生唾を呑ませてから、ようやく心を決めてひと口つまみ、わたしの口に放りこんで大声でいった。
「ほい」
 そしてまたひと口つまんで狄狄に食べさせ、自分は最後に食べた。
 かぼちゃがどんな味だったかもうほとんど覚えていないが、あの情景はありありと目に浮かび、わたしも弟も今でもよく覚えている。「きらきら光っていた」弟は後でそういった。菜園のかぼちゃのことだったろうか、それとも油で揚げたかぼちゃの花のことか、ひょっとしたらあの日の太陽のことだったかもしれない。

 食堂から買ってくる鉢のご飯は日に日に減っていった。毎度小海と小米が竹かごにいれて食堂からぶら下げてくると、わたしたちはすぐさままわりに集まった。ひと鉢ひと鉢のご飯は見るからに少なく、自分の分が配られるのを待ちかまえて、くるやいなやがつがつと平らげた。やがて父がある方法を思いついた。毎食のごはんを箸でほぐし、お碗に高々と盛り上げ、わたしたちに配りながらこういうのだ。
「ほぐしてやればほらもう一膳!」
 わたしたちが大喜びするまでほぐしたものだ。
 お粥を食べた後は、父は率先してお碗をなめた。ぺろりぺろりときれいになめあげるので、お碗を洗う必要がない。彼はお粥を食べながらわたしたちにいった。お粥は重湯の部分にいちばん栄養があり、だれやらは重湯しか飲まないのに色白で太っていると。実はそのころわが家では、お粥は大量の水にほんの少しの米しか入れることができなかった。炊き上がってもほとんど味がせず、銘々に配られるのは重湯にほんのわずか、ご飯のかすが入っているだけだった。わたしは外祖母が重湯しか飲まず、決してご飯のかすを口にしないのに気づいた。

 全国的な食糧難の苦しい日々は果てしなく続いた。祖母の顔はむくんで風船のようにふくれ、死人のように青白くなった。あるとき祖母は1キロほど離れたところから米をかついでくる途中、足の力がぬけて、山の坂道でころんでしまった。米桶はひっくりかえり、顔にもけがをした。通りすがりの親切な人がそれを見て助け起こし、家まで送り届けてくれたのだった。
 父の顔も少しむくみ、一日じゅうため息をついていた。毎晩夕食の後、彼は机に向かって正座し、災難を生き延びたあの緑色の電気スタンドの下でマルクス・レーニン主義の書物を読んでいた。彼が外出するのは見たことがなく、友だちもだれひとり訪ねてこなかった。そのころわたしはもうかなり字が読めるようになっており、父のそばにいるうちにあのマルクス・レーニン主義の書物の表紙の題名にも馴染んできていた。机のそばで一年生の教科書もたくさん読んだ。親子でひとつ灯りの下、黙って交流したあの夜々は、わたしの心に深く刻み込まれている。
 ある日、わたしは自分の小さい友だちと遊びながら、ふとこんなことをいった。
「この苦しい日は、あとどれくらい続くんだろうね。今年の農村の作柄は少しよいそうだけど」こういったとき、わたしは八歳だった。

 あるとき父が仕事から帰ってきて、うれしそうにみなにむかって宣言した。
「今日医者が父さんは水腫病だという証明書を書いてくれた。おかげで大豆をひとさじもらったよ。これからは毎月、何度かもらえる。残念なのは1キロも歩かねばならないことだ。父さんの職場には、毎月大豆をもらって食べていたのに顔がどんどんふくれ、今月とうとう亡くなった人がいる。ということは、この大豆を食うようではいかんのだ。食っているときはうまいが、心の中では、自分がもうすぐ死ぬとわかっている」彼は笑いながら、はばかることなく死を口にした。わたしは怖くてたまらなかった。
 わたしはむかいの李ばあさんが死ぬのをこの目で見た。前の週、彼女は、自分は死にたいわけではないが、生きつづけて家族の食い扶持を減らすより、むしろ死んだほうがましだといっていた。それから三日して彼女は病気で死んだ。張ばあさんも、その年に病気で死んでいた。祖母はいつも彼女たちに「わたしが先だ」といっていたが、まだ生きていた。人はどうしてこんなに簡単に死んでしまうのか? もし父が死んだら、わたしたちはみな乞食にいかなければならないのではないか? だから父は死んではならない。
 わたしは敏敏と小海が文句をいっているのを何度も耳にした。父が職場で食事をしているのにたまたま出くわしたら、一人前十五銭もする肉を勝手に食べていたというのだ。あのころのわが家の生活水準は人並以下で、肉などひと月に一度も拝めなかった。たまにありつけても、一人前七、八銭の「肉」野菜炒め(実はまったく肉など入っていない)をみなで分けて食べるのだ。祖母もときに議論に加わった。祖母はわたしの大好きな人で、一家の大黒柱だった。あるとき祖母は父と口論し、どちらも怒りで身をふるわせ、とくに祖母のほうは興奮していた。争いの種はいつも家のお金の使い方だった。父は祖母が計画的でないと責め、祖母は家のことは彼女が一手に引き受け、家じゅうの食事も着せかぶせもこの六十の年寄りが心配しているのにといって泣きだし、父は子どもが死のうが生きようがかまわず自分のことばかり考え、母は目がふしあなでその父の正体を見ぬけなかったとこぼした。わたしは祖母も好きだったし、父も好きだったが、あのふたりはなぜいつもいがみあっていたのだろう?

                     二

 祖母は若いころは目もとの涼しい美女だったにちがいない。目鼻立ちはやさしく大作り、歯は真っ白く丈夫で針金も噛み切れた。剛毅で気短かだったが、全身に謎めいたムードが漂っていた。彼女は寝入った後で急に目を覚まし、腰をかがめてなにか原因不明の物音に耳をすまし、手にした棒きれをビュンビュン鳴らしていることがあった。
「おばあちゃん、なにしてるの?」わたしは目を覚まし、そばにいってたずねた。
「しーっ! 声を出すんじゃない」
 月の光が老いた毅然とした顔を照らした。身につけた黒い服が闇夜に融けている。祖母は背を丸めて妙な手まねをすると、突然棍棒でなにかに打ちかかった。
「逃げた」彼女は面目なさそうにわたしにいった。

 便所は山の坂にある掘っ立て小屋で、家から五十メートルも離れており、一匹のトカゲが年じゅう中で待ち伏せしていた。わたしはいつも夜、度胸を決めて用足しにいったが、どうしてもこわくなって大声で泣きだしたものだ。
「小小や、小小!」
 祖母の足音がとんとんと近づいてくる。火をつけた杉の木の皮をふり回してすいすいと弧を描き、大きな咳をしながら指で木戸をたたいてわたしを励ましてくれる。

 祖母は山の野草やきのこをみな知っていた。毎日わたしと狄狄を連れて山に行き、麻の葉やヨモギを摘んできて黒いだんごのようなものを作り、一家じゅうのごはんがわりにしてこう言った。
「かめばかむほど味が出る、唾には砂糖が入ってるから」
 わたしたちがきのこを採ると祖母はそれにすてきな名前をつけてくれた。肉まんきのこ、涼山きのこ、赤シャツきのこ、お姫さまきのこ等々だ。
 家には石炭を買う金がなかったので、祖母はわたしと小米、狄狄を連れて山へ柴刈りに
いった。太陽がぎらぎらと照りつけ、林はざわざわと鳴り、松毛虫がやたらに体の上に落ちてきた。わたしたちの身体に赤い腫れが出ると、祖母は急いでそこに唾を吐きかけ、ちょいちょいと擦りこんでいった。
「これでよし」
 それからずるそうに笑ったものだ。刺されたところはまだひりひりしていた。かごいっぱい柴を刈り終わると、祖母は腰をおろして休んだ。額の玉の汗をふり落とし、老いた目を細めて太陽を眺め、またあの古い昔話をはじめるのだった。
「実家にひとり、おじさんがいてね、和尚さんからチョッキをもらった。それを着ると冬は暖かく、夏は涼しい」
「千元あれば、すぐそのチョッキを買いにいくのになあ」わたしは目を見ひらき、想像の翼をはばたかせた。
「そのチョッキはお金では買えないんだよ、和尚さんしか持っていないんだから」

 ある日わたしと狄狄が祖母について山に柴刈りに行き、中腹までいくと、祖母が動けなくなって地べたに座りこんでしまった。祖母はこういった。
「わたしは老いぼれて役に立たなくなってしまった。、柴ひとつかつげない。お父さんはわたしを見下して怒鳴るけれど、わたしが死んだら大勢の子どもたちをどうするのだろう! あれは冷たい人だよ。以前宣伝部の官舎にいたときも、わたしが家の仕事をあれほど手伝っているというのに、あの人ときたら、家政婦には料理を取り分けてやるくせに、わたしにはとってくれない。つらい運命だよ」祖母はそういいながら泣きだし、狄狄もつられて泣いた。わたしはふたりを見ながら途方に暮れ、なんだか祖母がよその家の話をしているような気がした。祖母は柴刈り用の鉤竿をもっていたが、もうとても支えきれないため、わたしたちが熊手でたくさん松葉を取って竹かごに入れた。それを祖母がかつぎ、わたしと狄狄がそれぞれ熊手と鉤竿をかつぎ、並んで家に帰った。だがひとかごの松葉は十数回も焚きつけるとすぐなくなってしまい、ものの役に立たなかった。
 その後外祖母はまた新しい方法を見つけた。製材所が捨てるかんな屑の中から木っ端をひろって焚きつけにするのだ。わたしと狄狄はそれぞれこも袋をたすき掛けし、祖母は大きな竹かごを提げて、いっしょに製材所に向かった。新鮮なかんな屑がぶちまけられると、わたしと狄狄は突進していき、ほかの子どもたちといっしょに中にもぐりこんで、木っ端や板切れを探し、全身かんな屑だらけになる。こうして昼前じゅうやっていると、かごひとつ、こも袋ふたつをいっぱいにできることがよくあった。わたしと狄狄は凱旋兵のようにぎっしり木がつまったこも袋をさげて、勇ましく、意気高らかに前を歩き、祖母は疲れ果てた顔をして後を歩きながら、しきりにいった。
「えらいえらい、きちんとうちの手伝いができるのだから。この木と湿った柴をいっしょにすれば、二日分の煮炊きができる」
「わたし、明日も拾いにくる!」わたしは英雄的に祖母に継げた。
「いい子だ! 小さいのに力もちで、どっさりひろってくれたし、狄狄もひろうのが速かったね。帰ったらごほうびにひとつずつおにぎりをあげよう!」 

 わたしは祖母が布靴の底に使う麻紐をよるのを見るのが好きだった。買ってきた麻は漬けた水の中で黒々と光っている。祖母がズボンのすそをまくり、分け終わった麻をむきだしの太ももの上に置いてそっとひとよりすると、二本の麻がつやつや光る麻紐に変わる。そこにまた麻を加えてさらにより下ろしていくのだ。毎年祖母は山ほど麻紐をよった。大小八人、家じゅうの布靴はみなこの麻紐で底を打たねばならなかったからだ。祖母が麻紐をよりはじめると、わたしはそばでずっとそれを見守りながら祖母の話を聞いた。祖母はわたしの父親ちがいの長兄、文匯のことをよく話した。
「……小さいとき、あの子はいつも他人にいじめられ、頭をたたかれて怪我をしていた。わたしはあの子を連れて相手の家に文句をいいにいったが、どうしても言い負かせない。あの子が私生児だと罵る人もいたし、つらかったね。あの子の父親は国民党で、とんでもない男だった。うちがあいつに金を借りたら、おまえの母さんを無理やり妾にしてしまった。でもわたしはあの男がひどいとはいえなかった。ひとこというとおまえのじいさんに殴られ、刀で切りつけられる。腕を六回も切りつけられた、ほら」祖母が袖をまくると両腕それぞれに三つのくぼみがあった。「その後、おまえの母さんは逃げた。文匯の父親はわたしのところに来て娘を出せといい、火ばさみでわたしの頭をなぐった。文匯は不憫な子だよ。わたしひとりで育てあげたのさ。日本人が来たときは、あの子をおぶってあちこち逃げまわり、食べ物もあったりなかったりだった。解放後ようやく少し楽になったと思ったら、今度はおまえの父さんの問題だ。今、あの子は田舎にやられてしまって、お腹いっぱい食べているのかねえ。長いこと手紙も来ていないから、わたしにはどうしようもない」
 わたしも外祖母のまねをして麻を足の上に置いてよったが、よりあがる紐は太さがふぞろいで少しも見栄えがしない。祖母はいった。
「辛抱強くやらないとね。同じ力でより、麻はしっかり分けるんだよ、ほらこうやって」彼女はわたしの足の上で模範を見せてくれた。「田舎の実家の者はほとんど死に絶え、三番目のおばさんが一度宣伝部に訪ねて来たっきり、後はだれも来なくなった」
 わたしは祖母の話はよくわからず、ただなにやら古い、遠い昔の物語を聞いているような気がした。その物語はわたしの知っている人の身に起きているのだが、そのときのわたしの生活とは無関係だった。長兄の文匯はわたしの記憶の中ではぼやけ、そんな人がいたことさえろくに覚えていなかった。彼は一九五七年、父が右派にされてから農村に行って師範学校に入り、ふだんはめったに帰れなかった。わたしが唯一覚えているのは、彼がのっぽで痩せっぽちの男の子で、いつだったかわたしを病院に連れていった帰り、肩車に乗せてものすごい勢いで走ったので、こわくて死にそうだったことだけだ。祖母は話を続けた。
「その後、日本人がやってきて、文匯のあの父親は殺された。国民党の軍人だったから、日本人はもちろん放っておかない。死んでよかった、わたしはうれしかった。おまえのじいさんも日本人に追われて池に跳びこみ、溺れ死んだ。わたしはひとりで文匯を連れて逃げて山に隠れ、日本人が行ってからもどって見たら、家は焼け落ちていた。文匯は勉強ができたから本当は大学に行けるはずだったが、お父さんの問題で、もう希望はなくなった。そっとよるんだよ、強くよると靴底が打ちにくい。もう一年になるが、文匯はもどって来ない。お金がないのかもしれない。おそらくわたしはもうあの子には会えないだろうね。こんな身体じゃ、長くはもたない。明日、小米にまた、ちょっと帰ってくるよう手紙を書いてもらおう。」
 祖母はランプの下で靴底を打った。決して指ぬきは使わず、歯を使った。歯でぐいと咬みしめると針はすぐ出てきて、すいすいと魔法のように、ときにはひと晩で一足の靴底ができあがるのだった。祖母は作りながら小米に文匯への手紙を口述した。 

「文匯、お元気ですか?おなかいっぱい食べていますか?勉強は忙しいですか?身体に注意して、食べ物はえり好みせず、あるものはなんでも食べ、少しでも伯父さんの家の手伝いをして、ただ飯を食わないようにしてください。夜はきちんと布団をかけて風邪をひかぬように。勉強もしすぎないように、身体を大事にしなさい。休みになったら一度帰ってきてください。会いたいです。わたしは長くは生きられません。水腫病です。おまえにひと目会わないと安心できません。旅費は母さんにもらってください。祖母より」 

 ようやく二年生になった小米が石油ランプの下で一筆一画丹念に祖母の手紙を記し、ノートからその紙をちぎり取った。祖母は小米に封筒も書かせ、その紙を入れてから枕の下に入れた。重荷をひとつ下ろし、同時にほのかな希望を燃やし始めたように見えた。
 幼かったわたしには祖母の心の深みは探るよしもなかった。ただ彼女がくり返し語る母や外祖父、文匯の物語を引き込まれるように聞いていると、魅力的な異郷のなまりとともに、その貧しい南国の小さな町が目に浮かんでくるのだった。そこには怠け者で阿片ばかり吸っている男ども(外祖父もそのひとりだ)と、勤勉で忍耐強い女が現れる。ひ弱な文匯は幼年時代をそこで過ごしたのだ。
 祖母はしだいに気が短くなり、顔がむくんで目も見えなくなった。彼女は小米にいった。
「残念だけど、もう歩けないよ。足の力がぬけて。毎朝起きあがると倒れそうになる。もう少し元気なら汽車に乗ってひと目文匯に会いにいくのにね。父さんに、少し旅費をもらおう。あの子に会わずには死んでも死に切れない」

 だが、その後も祖母は父にお金のことを切り出さなかった。昼間は相変わらず家できかない足を動かして家事をしたが、二度と山に柴刈りにはいけなかった。祖母は一度、怒ってわたしを少したたいたことがあった。わたしは大声で泣きながら家を跳びだし、山道を駆けおりて密生した林に着き、泣きながらそこに横たわって地上の厚い枯れ葉を身体の上にかけた。祖母がうらめしく、みつからないようにして、狼に咬まれてけがをし、祖母を怒らせてやりたかった。ぼうっとしてただ泣いているうちにとうとう寝こんでしまうと、朦朧とした中に祖母の呼ぶ声がした。
「小――小! 小小! 帰っておいで! おにぎりをやるよ!」
 わたしはすぐさま木の茂みから跳びだして祖母の胸に跳びこんいき、大声で泣きじゃくった。祖母は片手でわたしの涙をぬぐいながら「いい子だ、いい子だ……」とあやし、続いてもう片方の手を開いて中の小さな冷めたおにぎりを見せた。「はやく食べなさい。さっきにぎったんだよ」わたしはすすりあげながらおにぎりを食べ、心はたちまち軽くなった。
 祖母はさらにわたしのぼさぼさの髪をなでていった。「ちょっととかしてあげようね」
 家に入ると祖母は食器棚から油の瓶を取り出し、瓶の口を人差し指でちょいとぬぐってわたしの髪の毛になすりつけると、木の櫛でそっととかしてくれた。ぱさぱさの髪は油ですべりがよくなり、目をつむってその愛撫を受けていると実に気持ちがよかった。髪をとかし終わると、祖母は輪ゴムを見つけて薄い黄色い髪の毛を束ねてくれ、「できあがり」といった。わたしは外へ遊びにいった。 祖母が死んだ後は自分で髪をとかすようになったが、わたしの髪はいうことを聞かずとかしにくく、力を入れてすくと痛くて口がへの字になったのを覚えている。祖母がわたしの髪をどうやって征服したのか、どうしてもわからない。

 ある日、わたしはまた父と祖母がいい争うのを聞いた。
「どうして金がもうなくなってしまったんです?」父が顔をしかめていった。
「あるわけがないでしょうが! 今月は子どもたちが学費を納めたし、鍋も壊れてもう補修もきかないから新しいのを買うしかなかった。それにここしばらくわたしが動けなくて焚く物がなかったから、石炭を20キロ買ったし……」

「金は計画的に使わないと」父が乱暴にさえぎった。
「自分の腹に呑みこんだわけじゃなし!」祖母が怒りだした。「あんた、自分で計画してみたらどうだい、これだけの大所帯にあれっぽちの金。いつもぎりぎり節約しているんだよ」
「義母さんのこんな使い方では、みんなが半月腹をへらしているしかない」父はまだ暗い顔をしていた。
 祖母は地団太を踏み、顔を真っ赤にした。怒りは収まらず、その後何日も父が恩知らずだといっていたものだ。自分が家のためにやったことすべてを弁論するように並べたて、自分がわが身に打ち勝ってやったことを並べたて、並べながらズボンの裾をまくって脛をわたしに指で押させた。押すと祖母の皮膚はそのままへこんで深いくぼみになり、長いこともとにもどらない。祖母はため息をついていった。
「おそらく、今年いっぱいは生きられまい」
 それを聞いてわたしはひどく怖くなったが、祖母のいうことは信じなかった。祖母が死んだりするものか。死ぬわけがない。わたしが身につけているのは上から下まで、中から外まで、学校にかついでいく布製かばんに到るまで、すべて祖母が縫ってくれたものだし、一日三食とも彼女が作ってくれていた。それに山の柴刈り、市場の買い物、夜は夜中まで靴底作り、朝は早くから食事の支度、こんな祖母が死ぬはずがない。もちろんわたしは当時そんなことにまでは考えが及ばず、ただ頑固に祖母は死ぬはずがないと思いこんでいた。
 祖母は何通も小米に口述して手紙を出させたが、文匯はとうとう帰ってこなかった。祖母は絶望しつくし、動作ものろくなって足はますますきかなくなり、むくんでひと筋の隙間になった目にかすかな光がまたたいているばかりだった。彼女はそれでもなんとかご飯を作り、家の掃除をした。ぼやけた目はなにも見えないのが常になっていた。

 祖母はついに病気で倒れた。直前に父とまた大声でけんかをしたが、わたしの感じでは、その声の大きさときたら山も崩さんばかりで、わたしと狄狄はほとんど知覚を失いそうだった。祖母は心から悲しみ、怒り狂い、地団太踏んで罵り、突然血が頭にのぼって脳卒中で倒れ、意識不明になった。わたしの記憶では父は祖母の病に冷淡だった。ひょっとしたら医者くらい呼んでいたかもしれないが、それ以上なにもしなかった。祖母は終始ひとりぼっちで乱れた大寝台に横になっており、夜になるとわたしと小米がいつもおそるおそるそのふとんにもぐりこんで寝た。祖母の氷のように冷たい両足に触れるのがこわかった。祖母は全身が空気枕のようにふくれ、顔は死人のように白く、おちくぼんだ目からは刺すような光が出ていた。彼女はくりかえしいった。電灯の紐のところに二匹のきれいなハツカネズミが立って遊戯をしていると。「下りてきた! 下りてきた! つかまえて!」彼女は大声で叫び、目に涙を浮かべて顔に冷や汗をかいた。祖母は落着いているときは窓の上のあの太陽の光をじっと見つめ、笑みを浮かべてわたしたちに山に柴刈りにいったときのことを覚えているかとたずねた。「実は幽霊なんていやしないのさ。わたしは六十余りまで生きて、出会ったことがない」祖母はわたしの手を握っていった。彼女の手の平はぬれて熱く、いつものあのひんやりと気持ちのいい感触とはまるでちがっていた。ひょっとしたら自分が死ぬにきまっていると思ったせいか、祖母はますます食べなくなり、ほとんど絶食同然だった。水腫病の彼女に支給された栄養補助食であるわずかな大豆類に祖母は手をつけず、断固としてわたしたちに残した。わたしたちはお腹をすかせていたので、たちまち平らげた。祖母はわたしたちが食べるのを見ながらかえってうれしそうで、恐ろしいほどむくんだ手で順にわたしたちの頭をなで、わたしたちが無事に成人できるよう、なにか祈っているようだった。死ぬ前にある人が少しばかりの糠を栄養補助にくれたが、彼女はもう呑みこむことができず、わたしたち姉妹が分けて食べた。糠は甘かった。もしかしたらあれは祖母の血だったのかも知れず、わたしたちは祖母の血を飲んで、小さな生命をながらえさせた。

 母がついに労働改造から帰ってきた。絶望し、憔悴し、落ち込んでおり、家の状況を見てことばを失った。最後に母は祖母を大八車で市立病院に運んでいったが、たった一日でもどってきた。「死んだわ」、母はうな垂れて父にいった。狄狄はすすりなき、小米も泣いた。敏敏と小海はうな垂れ、父も長いため息をついた。わたしだけは悲しんでいなかった。わたしにはまだ死の意味が理解できなかった。死は単に暗い、いやなこととつながっているだけで、そのことを考えさえしなければそれでいいのだった。
 文匯は葬いに帰らなかった。彼本人はそれほど祖母を大切に思っていなかったのかもしれないし、母が帰れと知らせなかったのかもしれない。人はもう死んでしまい、家には儀式ばる者もいなかったので、母もそのことを無視したようだ。だがもし彼女が家にいて、祖母が文匯の帰りを今か今かと待ちわびているのを見ていたとしたら、どう思っただろう?

 外祖母はこうして声もなくわたしたちの生活から消えていった。わたしはもう彼女を懐かしむこともなく、ただときどき祖母がわたしに話してくれたお話を、その口調をまねて仲間たちに聞かせたり、彼女が残した麻を水に漬け、自分で麻紐をよったりした。またやはり祖母のまねをして冷や飯を握って狄狄に食べさせたりした。そんなことをしながらも、わたしはたしかに祖母をなつかしんではおらず、どうやら無意識の行動であるようだった。覚えているが、わたしは十二歳になってもまだあの異郷のなまりをまねて祖母が話してくれた笑い話を友達に聞かせ、自分から腹を抱えて笑ったものだ。その後わたしはついに麻紐のより方を覚え、錐を使ってどうにかこうにか一足の靴底を作りあげた。歯で針をくわえるのもやりたかったが、わたしの歯は祖母にはかなわず、すぐ力がぬけるので、あきらめるしかなかった。今でもわたしは相変わらず暗闇が苦手だ。何度か祖母の後にくっついて中庭で幽霊を追いたてた経験が魂に焼きついているのだ。 

                              

   三年にわたった全国的な食糧難の日々は終わりに近づき、母はまた宣伝部総務課に配属された。わたしたち五人の子どもたちは母に従って宣伝部の外にある、わたしと狄狄がはしかの時に住んだ復興路二八一号の二部屋の家に引越した。その家は光明村の家よりはるかにましで、木の床の古い家だった。
 わたしたちが引越した後、父はひとりで河西の社会科学院の単身者用宿舎で暮らした。口論の後、父は長いこと母のいるこちらには来なかった。ある日、母は暗い顔で小海に一通の手紙をわたし、小海はそれをわたしと小米に見せた。それは父からの手紙で、事ここに到っては、彼としてはどうしようもないとあった。もし母がどうしても離婚したいのなら、彼は子どものうち三人を引き取る。敏敏、小米と小小を。父は括弧して、とくに小小は必ず入れてほしいと書いていた。小海と小米は離婚の意味がよくわかっていなかったようで、その手紙のことでひとしきりわたしをからかった。わたしはそれ以上にわけがわからず、手紙を見てこわくてたまらなかったが、少しほっとしてもいた。今までと変わらず父といっしょにいられるからだ。
 続いて何人ものおじさんおばさんが母の離婚を思いとどまらせようとぞろぞろやってきて、大勢の子どものことを考えるようにといった。当時わたしはもう小学二年生で、狄狄もそろそろ小学校に上がるころだった。
「あんな身勝手な人といっしょでは生きていけないわ」母は過激にいった。
「何十年もいっしょにいたのに、今さらそんなことをいってどうするの」二階に住んでいた林おばさんはいった。「ここ数年は、あの人がこの大勢の子どもたちを引き連れて、たいへんな苦労もしてきたというのに、あまり厳しく要求してはだめよ。あの人がそんなに悪い人だとしたら、あなた、何十年もいっしょにいて知らなかったの?」
 母はだまってしまった。ある日曜、母は小米と敏敏を前に呼び、おごそかな顔で、父に家に帰るよう呼んでくるようにいいつけた。ふたりが行ったあと、母は落着かず、しきりにため息をついていた。 午後時分になって、父がふたりの娘についてもどってきた。みなに少しばかり土産のお菓子をもってきて、自分で分けてくれた。みな大喜びで、とくにわたしは浮かれて部屋じゅうを走り回っていた。両親の表情は不自然だったが、しばらくするともとにもどった。夕食の後、父は家じゅうで街に甘酒を飲みにいこうと提案した。わたしたちはぞろぞろと復興路をぬけて三王街まで長い道のりを歩き、とある小さな飲食店に腰を下ろした。店主が甘酒を運んできた。甘酒とはいえい、実はひと碗のお湯にサッカリンを加え、そこに少しばかりの酒粕を浮かべただけで、一杯わずか五銭しかしなかった。それでもわたしたちは懸命に飲み、まわりは甘酒をすする音ばかり、だれもが鼻の頭に汗を浮かべ、父はあの銅線で修理した古い眼鏡をはずしてレンズの曇りをふいていた。帰り道はみなすっかりくつろいでいたのを覚えている。青い空には星がまたたき、そよ風が道ばたの栴檀の木の葉をそよがせ、人っ子ひとりいないアスファルト道路はいかにも広々と見えた。

 両親の言い争いは止まなかった。父は毎週土曜の夜に河西から家にもどり、月曜の朝早く帰っていった。いつもふたりはしゃべっているうちにけんかになり、どちらもとてつもない大声を出した。わたしたち子どもにとっては驚天動地の音に聞こえた。わたしたちは隣の部屋で声もたてず、心の中で心配していた。ときには急にドアが大きな音をたてるのが聞こえた。父がたたきつけるようにドアを閉めて出て行ったのだった。そしてまた一、二週間帰らず、さらに後になってまた帰ってくるのだったが、母が小米を呼びにやったのか、それとも彼がこの家を捨てるにしのびなかったのかはわからない。
 父母がけんかをしない休日は、家じゅうが落着いて和やかで、わたしたち姉妹も比較的静かだった。冬は家じゅうでひとつの小さなストーブを囲み、ひとりひとりが手に本をもって読み、母は家の中で忙しく立ち働いていた。
 両親が仲直りすると、みなの気持ちも伸びやかになった。父は一週間着た下着を取替え、母はその父の服をたらいにつけて洗いながら、わざと怒ったふりをして「べとべと」「きたなくて死にそう」などといい、父は母が「洗濯がへた」「小米に洗わせたほうがましだ」などと嘲笑した。
 あるときわたしは父がこういうのを聞いた。
「当時おれがあの貯金を動かさなかったのはわけがあるんだ。あの苦しい時期がいつまで続くかだれにもわからなかっただろう? 生きるか死ぬかのような時でなければ、あり金を使い果たしたりできない。人には万一の備えが必要だからな」母は黙っていた。父の考えに賛成のようだった。
 その後父はまた祖母のことをもちだし、祖母が「小商い」をして「プチブル意識でいっぱい」で、「心が狭かった」などといった。母も反駁せず、どうやら同意しているようだった。
 父と母はまた新たな仕事をあてがわれ、どちらも給料がでるようになった。父は六十五元、母は三十五元だ。一般の人に比べれば、家計は依然厳しかったが、一九六〇年の食糧難に比べれば天国と地獄だった。

 両親の正統な教育と苦しい生活に鍛えられて、わたしたち子どもは五人ともみな克己心が強く、強烈な平等意識をもっていた。なにを食べるにも平等に分け、平等に享受した。食堂からよいおかずを買ってくると、年長年少を問わず、すぐさま先にそれに手を出す者はなく、悪いほうのおかずにまず箸をつけ、父がそのよいおかずをそれぞれの碗に少しずつ取り分けてくれるのだ。配給の菓子を買ってきたときは、父がきっちりと頭数の七人分に分けた。今考えてみると、当時母は父を愛していたにちがいない。よいおかずやお菓子を食べるのはいつも土曜か日曜、父がいるときだった。父はそれでもときどき社会科学院の食堂の料理は「まずくて食べられない」といっていた。

 わたしたちが復興路二八一号に引越して一年め、父はもといた光明村にさつま芋を運びに行くように敏敏と小海にいった。その芋畑は父が丹精したもので、とくに収穫を期待していた。彼はあれこれと迷った。
「大八車は一台で足りるだろうか? なんなら早めに出て、二往復するか?」
 母はかたわらで笑っていた。
「掘れる芋があるかどうかもわからないわよ。父さんの腕前はみんな知っているから」
 父は真っ赤になって怒っていった。
「おまえになにがわかる! 畑さえあれば芋は生えるんだ!」
 母は譲歩した。
「わかった、わかった。敏敏と小海は明日早起きして行って、たくさんあるようならら、二往復しなさい!」
 敏敏と小海はいいつけ通り早起きし、大八車を引いて河むこうへ行って、夕方になってようやく帰ってきた。車いっぱいの芋の蔓と茎を積んで。小海がこぼした。大八車で河を渡るのにまた五十銭かかったので、彼と敏敏は昼、冷えたマントウをふたつ食べただけだと。
 父は大八車のまわりをぐるぐるまわり、いぶかしげに聞いた。
「場所を間違えたんじゃないか?」
 小海がぷりぷりしていった。
「まちがえるわけがない、あのあたりで芋を植えてるのはあそこだけだ!」
「掘り足りなかったんじゃないか?」父はまだあきらめきれない。
「一メートル掘ったところもあるよ。自分で行って掘ればいい!」
 母がたまりかねてなだめた。
「わかった、わかった! みんなご苦労さま」
「おかしいな、おかしい……」父はしきりにいった。

 狄狄が宣伝部の食堂から猫を拾ってきた。わたしたちは父といっしょにその世話をする責任を負った。毎土曜、父は街の露店で五銭の干魚を買ってきて、さびたはさみで干魚を一匹か二匹粉にし、ご飯に混ぜて猫にやった。父が魚を切っている間じゅう、小猫は父の足にまとわりついて死にものぐるいで鳴き、わたしと狄狄はひそかに気をもんだ。だが父は相変わらず慌てず騒がず切りつづけ、どうやら楽しくてたまらないらしい。干魚がすっかり粉になると、彼はようやくご飯を古い碗に入れ、この粉末をていねいに混ぜる。猫はますますあせる。父は充分混ざったと思うと、ついにそれを床に置き、猫に享受させるのだった。この手順をひととおり踏むのに毎度半時間以上かかったが、わたしは毎度そばで見ていて見飽きることがなかった。またこのせいでますます父に近づいたようだ。
 小猫に蚤がわいたため、家じゅう蚤だらけになり、母は何度も他人にやってしまうと脅した。わたしも弟も母に不満だったが、父は母を「残忍だ」とからかった。
 干魚をもらうせいか、父が動物を溺愛していたせいか、父がストーブのそばでマルクス・レーニン主義の本を読んでいると小猫はすぐ膝に跳び上がり、じっとそこにうずくまって深夜父が寝るときようやく下りるのだった。
 土曜日、父が上機嫌で一羽のけがをした小鷹を連れてきた。事務室に飛びこんできてつかまったもので、こういう生き物は肉以外食べないのだという。しかし肉などどこにあろう。すると父はカエルで代用してもいいという。わたしたちは必死になってカエルを探した。しかしカエルをもってもどると、父は鷹を放してしまっていた。わたしたちには飼えない、餓死させてしまう。「それにあいつはおれの目玉をつつこうとした!」父は大げさにいった。

 動物を飼い、野菜を育てるほか、父にはもうひとつお気に入りのことがあった。修理仕事だ。彼は家の時計、眼鏡、鍋、雨傘、靴などを修理した。やる気満々で、いつもいらなくなった物を修理用の部品として自分しか知らない場所にしまっておき、時機がくると取り出して使うのだ。わたしたちがその「部品」を捨てたりこわしたりすると、彼はかんしゃくを起こしたものだ。
「小小、父さんは今日、この傘を修理するぞ。どうだ、できると思うか?」
 父はてっぺんのこわれた防水布の傘をもって、目配せしていった。
「物がないのにどうやって修理するの。できないと思う」
「物がないって? もちろんあるさ、その一番下の引き出しからあの灰色のナイロン布を取ってくれ」

 わたしはナイロンの布を手渡した。彼はちょっと見比べ、大きさはぴったりで、まるでこのために準備したもののようだといった。
「それからベッドの下の小箱からビニールの瓶の蓋を探してきてくれ」
 わたしはしばらく箱をあさり、糊の瓶のビニールの蓋を探してわたした。
 その後彼は小ばさみと一本の錐、ひと巻きの銅線、桐油を塗った綿糸、一本の特性大針を取り出すと、着々と仕事にかかった。落着きはらって自信ありげに、てきぱきとやるさまに、わたしはそばから見とれていた。「いつも一歩先を考えておかないとな。たとえばこの布だが、破れたところと比べ、折り返しの分も計算に入れなくてはならん。それに、修理の前に全部の手順を頭の中でひととおり計画しておくことだ……」彼はそういいながら修理をし、一時間余りたつと傘は修理されていた。見かけはあまりよくないが、長持ちするようにしっかり修理されている。彼はその雨傘をぐるぐる回しながらくりかえしわたしに聞いた。「どうだ?」

  わたしは覚えているが、父は毎日三十分も進む腕時計をひとつ持っていて、数日おきに小ばさみで蓋をこじあけ、手製工具で修理していた。あちこち直し、よからぬ現象と何年も闘争したが、あの時計は相変わらず進んだり遅れたり、振り子のようだった。けれども父はまったく気を落とさず、相変わらず興味津々で修理にいそしみ、わたしたちにいったものだ。
「これはいい時計だ。スイス製なんだ」
 長いこと使っているうちに父のあの眼鏡の銅縁が錆びて、レンズが落ちてしまった。父は日曜になると小さな錐とブリキ板を探してきて、一日じゅうたたき、なんと眼鏡の縁を徹底的に作り直した。ただそれをかけたところ、縁の前方にブリキの塊がふたつ残ってしまっていた。しかし父はまるで気にせず、自分の労働の成果に大いに満足していった。
「あと十年はもつ!」
 はじめわたしはそのブリキの塊が気にかかってならなかったが、時がたつと慣れてしまった。

 父は脚気と爪白癬にかかっており、いつも薬屋で「殺烈癬軟膏」を買って塗り、丹念に
辛抱強く爪の手入れをし、あの厚くなった爪を平らにならしていた。毎週一度、午前中いっぱいかけて大がかりにやった。剃刀、刷毛、脱脂綿、薬瓶、綿棒、掃除した爪などが、きちんと並んでいた。近眼のせいもあって、いつも皮を破って足の指を血だらけにするので、見ていられない。だが父が爪の手入れをするとき、わたしはいつもそばで見守り、父は手入れをしながらわたしに話しかけた。そしてしょっちゅう話の途中で手が震え、あわてて脱脂綿で真っ赤な血を吸い取るのだった。
「小小、父さんに殺烈癬軟膏をひと瓶買ってきてくれ」
「あんなに塗ってもよくならないのに」
「いやいや、ずっとよくなったじゃないか! あとはこの小指にちょっと残っているだけだ。これもすぐ退治してやる。あとひと瓶、いや半分ですっかり治る」
 わたしは父の修理の腕前に感心し、父を見習おうとずっと努力してきた。わたしもこわれた傘や靴を修理したが、いつもあまりうまくいかなかった。思うに、わたしにはやはり父のような構想力が欠けていたようだ。わたしの仕事は無計画で、後先の順序もなければ、結果の予想もなく、なにもかも即興的だった。その特徴はやがて生活の中で少しずつ克服されたものの、さらに後になって小説の創作の中で思い切り発揮されることになった。

 わが家で両親は一九五七年反右派闘争の時期の真実の状況をひた隠しにしていたため、わたしたちはことばの端々から推測するしかなかった。人々には悪くいわれていたが、両親の思想は正統で、愛憎ははっきりしていた。わたしの記憶では、父は同じ敷地に住む梁(リャン)さん一家を嫌っており、彼らは「まぎれもない網を逃れた地主」(梁さんはもとは高級役人だったが、後に「網を逃れた地主」の烙印を押された)、「人間としての品性が劣る」といっていた。母の反応はさらに激しく、わたしがその家の子どもと遊ぶと不機嫌になり、顔をしかめて怒った。しかし梁さん一家はほがらかで人付き合いがよく、両親が自分たちをどう見ているかも知らなかったので、相変わらずわたしたちを遊びにおいでと誘っていた。二階の林おばさん(やはり一度右派とされた後レッテルをはずされた「帽子を脱いだ右派」だった)がこういうのも聞いた。
「あなたのお母さんの犯した過ちは軽いし、自己改造の態度もとてもりっぱだったから、最初に「帽子を脱ぐ」人たちのひとりになったの。でもお父さんの問題はずっと複雑だわ。組織もあの人の過去の党への功労を考えて、なんとか社会科学院で仕事をさせてくれているのよ」
 他人はそんな風に論じ、母も自分と父が過ちを犯したことを認めはしたが、父の口から父が過ちを犯したと聞いたことは一度もない。父はひそかに多くの上告書を書いてA省の党小委員会に送り、自己弁護をし、処分の撤回を要求していた。だがそれらの上告書は大海に沈んだ石も同然だった。不思議なことに父は決して落胆せず、相変わらず冷静沈着に机に向かってマルクス・レーニン主義の本を読み、絶え間なく『資本論』に「××年×月第×回通読」などと書き込んでいた。父のこうした態度は母の焦り方とは対照的で、疑いなく、わたしたち兄弟姉妹の性格形成に大きな影響を及ぼした。外界に対する父の態度も母とはちがっており、わたしと狄狄には格別印象深いことがあった。

 宿舎の外に酒造工場の労働者が住んでいた。その家の子どもは労働者という出身のよさを頼みにいつも狄狄をいじめ、「右派のがき」と罵り、路上で彼を追いかけてはなぐった。狄狄は頭をかかえて逃げ帰ってくると、わたしに泣きながら訴えた。
 ある日曜、父が家で昼寝をしていると、その男の子がまたやってきて、我が家の窓の前の木にのぼって大声をあげ、父の昼寝の邪魔をしたあげく、しきりに「右派分子を打倒しろ!」とスローガンを叫んだ。父はかんかんに怒ってふとんから跳びだし、庭に走っていくと、その真っ黒な顔をした子どもを木からひきずりおろし、背中をばしばしとたたいた。その小は泣きながら家に帰っていった。
 夕食どき、その子の父親が彼を連れてうちに来て、父の鼻先に指をつきつけていった。
「きさまがやったのは階級的な報復だな。おれたちがきさまの問題を知らないと思うな。きさまの問題は並の問題じゃない、それをこっちが追究せねばならんというのに、おれのせがれをたたくとは、きさま、いったいどうするつもりだ?」
 父はいった。「怪我をさせたのなら、連れていって医者に診せ、治療費をはらおう」
 翌日小米がその子を連れて医者に行き、しめて二元を賠償した。母は父が人をたたくなんてと文句をいったが、わたしたち子どもはたたいてくれてよかった、胸がすいた、賠償金を払うかいがあったと思った。わたしたちはあのちんぴらをとことん憎んでいたので、もっとたたいてやってもよいくらいだった。とりわけ狄狄はすっかり父を崇拝し、机にむかって一枚の絵を描いた。絵の中では父が、あのちんぴらに向かって五本の指を開いたがっしりした手をふりあげているのだった。そこには、狄狄のあの異常に抑圧された感情が見事に吐き出されていた。それから随分たってからも、狄狄はしょっちゅう父がちんぴらをひっぱたいた格好をまねしたものだ。
「パーン!パーン!」狄狄はいった。
 彼の人生において、こういう痛快な瞬間はたしかにあまりにも少なすぎた。しかもその痛快さを与えてくれたのが父だったため、彼はそれまでに倍して父を敬愛するようになった。

 わたしの子どものころの印象では、父は一本の大木で、そびえたって動かず、風に揺らがず、人に信頼感と確かさを感じさせる人だった。狄狄はいつも父のことを話すときは必ず「ぼくたちの父さん」といい、決して「ぼくの父さん」とはいわない。                                                                                               

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