残雪 井戸の中の戯言 −−私の創作と中国新時期文学に対する評価及び批評

                                                                         近藤直子訳  

  (『ユリイカ』1990年8月号)

     三十七年前、筆者がこの世界に生まれ出、眼を見ひらいたとき、初めて発見したのは全 世界が彼女に対する敵意に満ちているということだった。そしてこの改造と反改造の闘い の中で、一種ひそかな暗殺への欲求が体内に芽生えてきた。復讐と暗殺、もしかしたら、 これこそ、最初の創作の導火線だったかもしれない。七年来、筆者の創作はすでにこの初 一年を超越している。筆者が開拓した領土での狂熱の奮起の中で、ひとつまたひとつと、 見知らぬと同時に熟知してもいる精霊が誕生した。しかし筆者がふとふりかえってみると 、それらはまたすべて硬直した化石と化している。そこでどうしてももう一度奮起して、 また空無の中からおのれの熱と力を頼みに新たな生命を生み出さねばならなくなる。こう した営みの中では、筆者は完全に孤独であり、同類も見出せなければ、頼るべき何物もな い。だが同時にまた筆者は、ひそかにあの復讐のよろこびをも覚えるのだ。なぜなら今日 の中国文学界でだれひとり、筆者の到達したこの種の境地に達した者はおらず、世界の文 学においても、筆者が創造したこうした生命体は、ふたつのないものだからだ。よろこび が過ぎると、また新たなもがき、新たな奮起、新たな開拓が始まる。回を追ってますます 困難に、ますます不可思議になる開拓が。開拓のたびに直面するのは深い淵である。開拓 者は墓掘り人に似ている。新たな格闘はその都度、生と死の格闘であり、おのれの創り出 す生命が、おのれの血肉をむさぼり食う。これが筆者七年の創作の概況である。  ところで中国文壇、とりわけ若手世代の作家はどうであろうか。実際のところ、筆者と 中国文学界との間にはとりたてて深い関係があるわけではない<筆者は自分はまったくの 偶然の産物だと考えている>が、ここでいささかの見方を語ってもさしつかえあるまい。  
   新時期十年の文学(中国では文革後の文学を「新時期文学」とよぶ)が転機を迎えたと き、中国の文学界は喜びに沸いて勇みたち、国外の中国文学界は眼を見はった。かつて曹 雪芹や魯迅のような偉大な作家が現れたこの古い国の文学に、天地をも覆すようないかな る変化が起ころうとしているのか。いかなる巨人が生まれようとしているのか。ひとたび 束縛が除かれたからには、百花一斉に開き、鳥うたい花香る日もすぐそこではないか。少 なからぬ楽観的な人々が、これに大きな希望を抱いた。いわゆる流亡作家の劉賓雁(大胆 に中国社会の暗部を暴いたルポルタージュ作家、現在は米国にいる)はかつて、中国には 数十年の内に大文学者が現れるだろうと予測するとともに、若手作家に、彼の求めに応じ て、いわゆる「学者化」の道を歩み、大文学者たるべく勉学に励むようにと呼びかけた。 今や新時期の十年はとうに過ぎ去ったが、中国の文学界はいったいどれほどの様変わりを 見せたであろうか。あくまでも独自の個性をもち、作品は首尾一貫し、重複のない作家は 、いったいどこにいるのだろうか。答えはもう徐々に現れつつある。おもしろくないこと でもあり、他人のことなどどうでもいいとしても、国外の純文学界はすでに中国の新文学 のほとんどに興味を失いつつある。学者化の道を歩む霊丹妙薬も、明らかになんの効き目 もなく、もともと十分混乱していた文学の観念を一層混乱させ、我らが貧血した想像力と 、青ざめた無気力な、性衝動なき難産を覆い隠しただけであった。  中国の人々は得意になってこういったことがある。我々には「赤いコーリャン」のよう な良い作品があるが、これは外国人も見くびれないりっぱなもので、こういうりっぱなも のが出たからには、中国文学も世界へ乗り出すのに成功したのだ、と。この問題について 、筆者の意見は大方の人々とまるで反対である。思うに、ああした原始的な民俗、神話の 類いに粉飾を加え、いい加減にでっちあげ、生命そのもの衝動に見せかけたまがい物は、 我々の民族にとって、正に麻酔薬にほかならない。それはべつに目新しいものでもなく、 魯迅が数十年も前に描いた阿Q精神の延長でしかない。「赤いコーリャン」が強調するの は、我々の「昔の羽振り」はよかった、大したものだったということなのだ。本当に羽振 りがよかったのかどうか、どうせ外国人にわかりはしない、ほらをふくにはもってこいと いうものだ。図体のでかい西洋人が龍袍(昔、皇帝が着た刺繍入り長衣)をまとい、あや しげな声と調子で「娘よ大胆に進め」(映画「赤いコーリャン」の歌の一節)などと歌う とき、筆者には、実に、これにまさる悲哀はないように思われるのだ。数年前、「赤いコ ーリャン」の大きくも小さくもない騒ぎの中で、筆者の心は日に日に沈み、やりきれない 気持ちで一度ならず思ったものだ。中国人に自分自身を見せ、外国人にありのままの中国 人を見せるのは、盲目の人に太陽を見せるのと、おそらく同じなのだ、と。古くからの歴 史の大河の中で、「赤いコーリャン」は正にこうしたまぼろしの水の泡にすぎない。それ は多くの人々に幻覚を見せ、かなりの程度まで真実を粉飾した。この手の水の泡がこの河 にはまだいくらでもある。人眼をひきはしないが、いずれも大同小異だ。  新時期十年来、創作上のいわゆる多彩さと、批評界の新名詞、新概念が、続々と現れて いる。個々の一定の才能をもった作家は別として、これらの「新たなものを創りだす」運 動のいずれもが、何らめざましい成果をあげていない。すべてが予想どおり、すべてが期 待はずれである。我々の作家はとうに、どうやって性交するのか、どうやって生命を創造 するのかを忘れている。彼らが馴染んでいるのは、無性生殖と、他人の身体に寄生するこ とだけだ。貧しい大脳で考えだしたあやしげな手管は、決して生命の奇跡にとって代わる ことはできず、見る眼がある者にはもちろん、この違いはわかる。生命が消え失せれば、 野草さえも痩せ細ってしまう。魯迅の当時の悲哀は、依然として我々の民族全体の悲哀な のだ。筆者がこういう状態を記すのは、べつに民族の責任感なるものを喚起したいためで もなければ、何らかの社会現象を指弾したいためでもなく、ただちょっと言ってみただけ なのだが、言っても言わなくても同じ事である。中国には身体の不能を救うため「三鞭酒 」「虎骨」といった類いの伝来の秘方があるが、いかなる秘方も精神の不能を救えはしな い。専門家にせよ学者にせよ、一度真の性交をしてみれば、どきもをぬかれ、あやしげな 手管など、すっかり忘れてしまうはずなのだが。  いつになったら人々はああしたくだくだしいおしゃべりや、苦心惨憺の概念操作を放り だし、すっぱだかになって、いきいきした、血の沸きたつような性交活動をするのであろ うか。それがたとえ一度でも、すばらしい奇跡だろうに! 我らが作家たちはきちんとし た身なりをして、高尚かつ優雅に、さもなければ故意に下品な口ぶりで話すのだが、ただ ひとつはっきりしているのは、だれひとり、性交するときすっぱだかになるという恐ろし い習慣をもっていないことである。大部分の者はズボンさえ脱ごうとしない。あんまりみ っともないし、醜悪だ、しかも事をやるだけの力もない、脳卒中でもおこしたら大変だと いうわけだ。たしかに空無の中から生命を創造するのは、今日の中国の作家にとって、夢 のまた夢だ。創造どころか、他人が創造したものを見る力があるかどうかさえ、大いに問 題なのだ。まがいものが文化の市場に満ち満ちているのに、ひとりで悦に入り、本物より 上等だと思いこむ。話せば摩訶不思議なことではあるが、いちいちごもっともである。  
 筆者がこうした無駄口をたたくのは、一種の癖で、分に安んじない本性のなせるわざか 、さもなければ口のへらないおしゃべり女だからであろう。みんながきちんと服をきて「 文学をやろう」というときに、時宜もわきまえずにズボンを脱いで実演し、本当に「でき る」かどうか見せてみろと要求するのだ。あげくはもちろん、袋叩きにあう。だが幸いに して、筆者は早くから刀も槍も歯がたたない気功術を心得ている。殴られても蹴られても 屁の河童、相変わらずへらず口をたたき、四の五の言いつづけるのだから、むしろ面倒が ないというものだ。  時今日に到り、筆者には、中国では、すっぱだかになって、のるかそるかの芸術ショー をやる以外、ほかに活路があるとは思えない。今日、すべての退路は閉ざされている。瀕 死のあがきの中でひとつ、血と肉の格闘をするか、さもなければ徹底的に滅びるまでであ る。
原題:井底的囈言(原文未発表) 
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