残雪 美しい南国の夏の日               
                                   
                                                     近藤直子訳

                                   (『中央公論文芸特集』1992年冬季号ー残雪特集号)

 一九五七年、父は『新湖南報』反党集団のボスとして「極右」のレッテルを貼られて湖南師範学院に労働教護に送られ、母は湖南省中部の衡山に労働改造に送られた。五九年、一家九人は新聞社の社宅から岳麓山ふもとにあった十平米ばかりの小さな平屋に移った。ひとり当たりの生活費は十元にも満たず、自然災害にもぶつかったが、父には蓄えもなければ外からの援助もまったくなく、家族全員が死線の上でもがいていた。

 南国の夏の夜は、この上なく神秘的だ。クツワムシやカミキリムシの類の小虫が外の木の茂みで鳴きだすころ、六歳のわたしはまた夢遊しはじめた。台所は露天のセメントの通路を隔てたところにあり、なかは真っ暗で、戸をあけるとなにやら怪しい物音が聞こえた。だれかがそこを歩きまわっているのだった。わたしはしゃがんで石炭箱に手を伸ばし、すぐさま石炭玉を作りはじめた。通路からフッフッというくぐもった声が伝わってくる、祖母が棒切れをもってあっちで幽鬼を追い払っているのだ。月の光がその年老いた毅然とした顔を照らし出し、魅力的だ。祖母は背を丸め、怪しげな手まねきをして、わたしに付いてこいという。手探りで台所の石段を下りると、祖母の氷のような手がぎゅっとわたしをつかんだ。わたしは祖母のあとについて我が家が新たに切り開いた野菜畑のはずれに行き、しゃがんだ、そのとき目が覚めたのを覚えている。月光の下、祖母は全身毛むくじゃらで、細い白い煙が頭から幾筋も漂い出ていた。わたしはその煙は祖母の腹のなかから出てきたのにちがいないと思った。
 「土がひんやりしてる」祖母がぼそぼそといった。撫でてみるとたしかにひんやりしている。「息を殺してじっと耳をすましてごらん、すぐ何かの音が聞こえるよ」祖母がまたいった。朦朧とした目で見上げると、澄みわたった夜空一面にきらきらと輝く青い大きなしずくが見え、かすかだがはっきりした音がいたるところから聞こえた。 
 タ、タ、タ−−−−。
 昼間、山の谷川に布の人形を捨てたことを、わたしは思いだした。
 「便所のなかに蛇がとぐろを巻いてるよ」わたしは祖母の黒い長衣をひっばった。彼女は身じろぎもせず、考えこむように頬杖をついた。からだじゅうから干し草のにおいがした。
 「もしもウワバミに追いかけられたら、後ろに回るんだよ、後ろにさえ回れば、ウワバミは向きを変えられないからね。わたしの伯父さんはウワバミに足に巻きつかれたけれど、傷口から流れる血を手の平で押さえながら、ポケットに入っていた雄黄(鶏冠石)を傷口に注ぎこんだ。ウワバミはそれを舐めたらころりと死んでしまった。おまえ、おなかがすいてるなら、そこにおまんまが埋まっているよ」
 祖母は土の中からなにかの植物の根っこを掘りだし泥を振るい落としてわたしに手渡した。わたしたちは露が下りるまでずっとそこに座っていた。そのうちにわたしは眠り、空に掛かっていたあの水滴が狂ったように落ちてきて、夜空一面がまばゆいく光に輝くのを見た。朝目が覚めると、わたしはもう寝床の上にいた。もしかしたらまったく夢遊などしていなかったのか? これは永遠の謎だ。 
 便所は山の坂にある掘建小屋で家から五十メートルも離れており、一匹のトカゲがなかで年じゅう待ち伏せしていた。わたしはよく夜に、肚を決めて用足しにいったものだが、途中できまってこわくなり、大声で泣きだした。
 「ツァイツァイや、ツァイツァイ!」 祖母が大声でわたしの幼名を呼び、足音がトントンと暗闇のなかを近づいてくる。その手に握った杉の木の皮に燃える火がすいすいと弧を描き、わたしを勇気づけようとする大きな咳が聞こえる。
 「なにか、赤くて明るく光るもののことを考えるんだよ」祖母は指で木戸をたたきながらいった。クツワムシとカミキリムシが鳴いていた。コオロギも鳴いていた。コオロギの鳴き声は暗くてきらいだったが、カミキリムシとクツワムシの声は明るかった。フクロウも暗かった。夏は明るく、四季のなかで一番好きだったが、冬は真っ暗で、樟脳のにおいがした。
 家では石炭を買う金がなかったので、祖母はわたしとふたりの弟を連れて山へ柴刈りにいった。太陽はぎらぎら照りつけ、林はツアッツアッと音をたて、松毛虫はやたらに体の上に落ちてきた。わたしたちの体に赤い腫れ物ができると、祖母は急いでそこに唾をかけ、ちょいちょいと擦りこんでいった「よし」。それから狡そうににやりと笑ったものだ。刺されたところはまだひりひりしていた。かごいっぱいの芝を刈ると、祖母は腰をおろして休んだ。額の汗の玉をふり落とし、目を細めて太陽を眺めてから、やおらまたあの古い古い昔話をはじめる。
 「家のある伯父さんがね、ある和尚さんからチョッキをもらった。それを着ると冬は暖かく、夏は涼しい」
 「千元もっていれば、すぐそのチョッキを買いにいくのになあ」わたしは目を見ひらき、想像の翼をはばたかせた。
 「そのチョッキはお金じゃ買えないんだよ、和尚さんだけしか持ってないんだから」
 祖母は若いころは目元の涼しい美しい人だったにちがいない。歯は白く丈夫で、針金を噛み切ることさえできた。めったにいない気丈な人だったが、全身に謎めいたムードが漂っていた。彼女は寝てから突然びくりと目を覚まし、腰をかがめて原因不明のなにかの物音を聞きにいき、手にした棒きれをビュンビュン鳴らしていた。だがあるとき聞いてみたら、目をぱちくりして、そんなことはないといい張った。祖母は山の野草やきのこをみな知っていた。毎日わたしたちが摘んできた野生の麻の葉で、ごはんがわりの真っ黒なだんごを作ってこういった。
 「かめばかむほど味が出るよ、唾には砂糖が入ってるから」
 ためしてみたらたしかにそのとおりだった。祖母はいろいろなきのこに、肉まんきのこ、涼山きのこ、赤シャツきのこ、おひめさまきのこといった響きのいい名前をつけていた。こうした野草やきのこのおかげで、わたしたちはようやく命をつないだのだが、祖母の方は食料不足と過労のため、ついに浮腫で亡くなった。家のあの大きな寝台のすみに横たわっていたとき、祖母のからだは空気枕のように膨れ、顔は経かたびらのように白く、落ちくぼんだ目は刺すような光を放っていた。祖母はくりかえしわたしたちにいったものだ。電灯の紐スイッチのところに二匹のきれいな白ネズミが立って、遊んでいると。
 「下りてきた! 下りてきた! つかまえて!」
 祖母は大声で叫そう叫び、目に涙を光らせ、顔にだらだら冷汗をかいていた。落ち着いているときは、窓のあの太陽の光をじっと見つめながら、笑みを浮かべてわたしたちにあの夏の事を覚えてるかとたずねた。
 「本当は幽霊なんていやしないのさ、六十まで生きて、一度も見たことがない」
 祖母はわたしの手を取っていった。その手の平はじっとりして熱をもち、普段のあのひんやりと冷たい手とはまるでちがっていた。死の直前、ある人が滋養になるようにと少しばかりの糠をもってきてくれたが、祖母はもう呑みこむことができず、わたしたち兄弟で分けて食べた。糠は甘かった、もしかしたらそれは祖母の血で、その血にも砂糖が入っていたのかもしれない。わたしたちは祖母の血を飲み、小さな命はようやく永らえた。
 祖母が死んでも、わたしは少しも悲しくなかった。まだ「死」の意味が理解できなかった。わたしの頭の中では、死は単になんだか暗い、いやなことでしかなく、考えさえしなければそれでよかった。ただ、火のように真っ赤な夕日が便所のむこうに落ち、池のあたりから霧が立ち昇るころ、しゃがんでじっと耳を澄ますと、あの足音が聞こえるのだった。 タ、タ、タ−−−−−
 焼けるように暑い空気はシューシューと音をたて、天地の万物はみな、この荘厳で神秘的な足音に和し、夕日の金の門の中からは数知れぬ蝙蝠が飛びだし、わたしの小さな顔は歓喜に赤く染まった。
 今でもわたしにはこの習慣がある。じっと息をひそめて耳を澄ますと、あの足音が血管の中に響いてくるのだ。それは、しばしばわたしの頭を震わせ、ぼうっとさせる。

 父は近視で眼鏡をかけていて、なんでもこつこつと、きちんとやった。食堂から鉢で買ってくるごはんが哀れなほど少なかったので、父はある方法を考えた。わたしたちの茶碗のごはんを順に箸でほぐし、なんと山盛りにするのだ。それからさも満足そうにこういう。
 「どんどんほぐしてやれば、もう一膳増える!」 毎度飽きもせずにほぐした、わたしたちが大喜びするまで。お粥のときは茶碗をなめるよう指導した。
 「お米だぞ、もったいない」
  ぐるぐる回しながらすっかりなめてしまうので、茶碗を洗わずにすんだ。ある日、父はにこにこと戸口の日差しのなかでわたしを手招きし、湯飲みを箸でたたきながら、何が入っているかともったいぶってたずねた。それは十いくつかの南瓜の花にわずかな麦粉をまぜて揚げた団子で、ひとりひと口しかなかったが、後味はすばらしかった。そのあと父は何度も何度もたずねた。「うまかったろう」
 わたしたちが生唾を飲みながら全員でうまかったと答えると、それから幾日も自分の傑作に得意になっていたものだ。父は家の裏に南瓜の苗を十何本か植えて毎日仕事から帰ってくると世話をし、さかんに小便をかけ、授粉をした。おかげで茎は太く葉は大きく育ったが、南瓜はさっぱりならない。ひとつふたつは実ったものの、こぶし大しかない。父は大いに不思議がって、しきりにつぶやいていた。「おかしいな! おかしい!」
 父は薩摩芋も植え、いっそう真剣に世話した。うちは一九六二年に河むこうに引っ越したので、父は兄に大八車を借りて芋を取りにいくようにいい、ぐずぐずと心配までしていた。大八車一台で足りるかなあ? 積み残したら、人にやってしまうか? ところが兄が引っぱってきたのは車いっぱいの芋の蔓と、わずかばかりの根だった。父はそれをしばらく眺めていった。
 「だれかに盗まれたんじゃないか?」
 兄は、けっしてそんなことはない、畑は荒らされてなかったからといった。じゃあ、掘り方が足りなかったんじゃないか? それもちがう。場所によっては三十センチも掘っている! そしてまたぞろ「おかしい」が連発された。父の多少は金になるウールの服を何枚か食べ終わったころ、苦しい日々はもう過ぎており、なんとか毛皮のオーバーは残った。三百元もしたもので、父は逢う人ごとにいった。
 「これは救い出せたよ」
 あのころ、わたしの肺病がだんだんひどくなっていたので、家では牛乳を一本とってくれた。だが配給所から持ち帰る牛乳は、やけに澄んでいて、だいぶ水が混じっていた。わたしがそれを飲み終わると、父は瓶に半分水を入れて、懸命に振り、それから一気に飲みほすと、口をぬぐっていった。「牛乳は甘い、蛋白があるからな」 それを聞いて、わたしは牛乳の中に卵が入っているのかと思った(漢語では「蛋白」の「蛋」は卵を意味する)。あるとき父は傷を負った鷹の雛をうきうきと持ち帰ってきた。事務室にぶつかって捕まったもので、エサには肉を食わせないとだめだという。しかし肉などどこにあろう? すると父はカエルでもいいという。そこでわたしたちは必死になってカエルを探したが、カエルを持って帰ると、父は鷹を放してしまっていた。家では養いきれない、餓死させてしまうというのだった。
 「それにやつはおれの目玉をくわえようとしたぞ!」父は大袈裟にいった。
 父は世間と争わず、まわりの人と親しく行き来することもなく、毎日机に向かって唯物弁証法の著作に線を引いたり丸をつけたりしていた。年月がたつうちに、父のあの銅縁の眼鏡は錆び、レンズが落ちてきた。彼は小さな錐とブリキの板を探してきて、一日じゅうたたき、なんと眼鏡の縁を徹底的に改造してしまった。ただ、かけてみると、縁の前の方にブリキの小片がふえていた。しかし父は気にせず、自分の労働の成果に大いに満足してこういった。
 「まだ十年はもつ!」
 たしかに彼は、その二枚のブリキ板をかけたまま十余年を過ごしたのである。
 父は毎日三十分も進む腕時計を持っていて、数日おきに小ばさみで蓋をこじあけ、特製の工具で修理していた。あっちこっちと修理し、好ましからぬ現象と何年も闘争したが、あの時計は相変わらず進んだり遅れたり、振り子のようだった。けれども父はまったく気を落とさず、相変わらず興味津々で修理にいそしみ、人にいっていた。
 「この時計はスイス製なんだよ! もう三十年になるが、今どきこんなにいい時計がどこにあるものか−−南下するとき小川に落としたもので、拾いにいったが、目が見えなくて、あやうく命を落とすところだった」
 父は脚気と爪白癬にかかっていた。いつも薬屋で「殺烈癬軟膏」を買って塗り、丹念に辛抱強く爪を手入れをし、毎週一度大がかりに昼前いっぱいかけてやった。ひげそりの剃刀、刷毛、脱脂綿、赤チン、綿棒、掃除した爪などが、きちんと並んでいた。近眼のせいもあって、毎度皮を破って足の指を血だらけにし、見ていられなかった。父はこの労働を、わたしの知るかぎり、三十五年もたゆまず続けたのだ。
 「ツァイツァイ、父さんに殺烈癬軟膏を買ってきてくれ」
 「あんなに塗っても、よくならないのに」
 「いやいや、もう随分よくなったじゃないか! ただ、この小指にちょこっと残っているから、これもすぐ退治してやる。あとひと瓶、いや半分で、すっかり治るさ」
 親しい人が来ると父は足の手入れをしながら応対していたが、途中のひとことで両手がびくりと震え、あわてて綿で真っ赤な血を吸い取ることがよくあった。とはいえ、こうしたことは彼が「殺烈癬軟膏」を買いつづけるのに妨げにはならなかった。父は実に粘り強かった。もしかすると、この超人的な粘り強さのおかげで、今も相変わらず元気で、あれやこれやとトレーニングの方法を考えて、末期心臓病とたゆまず闘っていられるのかもしれない。(医者はかつて何度も、父は五十まで生きられないと断言したが、もう七十になっている)。文革中、造反派が家探しに来たとき、引き出し二つの「殺烈癬軟膏」が出てきて、連中のひとりが驚いて跳び退いた。しばらくしてびくびくしながら手を伸ばし、鼻先に近づけてにおいを嗅いだが、それでも安心できず、蓋を開けて検査した。
 「これは何のまねだ?」男は厳粛にたずねた。
 わたしはくすくす笑っていった。
 「足に塗るの。毒よ」
 男はぎょっとして、急いで瓶を放りだした。
 祖母が死んでから、大人が父は心臓病だといっているのを聞いた。あの真っ暗な夜々、わたしの小さな心臓は胸のなかでぴくぴくと跳ね、そばだてた耳は隣の部屋のいびきをじっと聞いていた。孤立無援の恐怖がわたしを吸い込み、心は優しい憐れみで縮みあがっていた。外のあの静まりかえった連山から、あの満天に散り敷く星から、わたしは生まれてはじめてある奇異な、恐ろしいことを連想した。わたしは真夜中に起きている勇気なくなり、目が覚めると、すぐ、無理にでもまた寝ようとした。そして翌日、朝日が昇り、空一面に赤い光が射すと、わたしはまた裸足で、狂喜して跳びまわるのだった。
                                       
 一九六六年文革が始まり、わたしは小学校を卒業すると学校へ行けなくなった。兄弟はわたし以外はみな下放して農村に行き、父は監禁され、母は知識人の思想改造のための強制労働所である五・七幹部学校にやられた。家は没収され、わたしはひとりきりで、あてがわれた真っ暗なひと間の小屋に住み、やがて父に差し入れしやすいように河むこうに引っ越し、ある建物の階段下の物置に住むようになった。一九七〇年、上の姉が知人を通じて、わたしにある町工場の仕事口を探してくれたので、わたしは十年にわたって製鉄工、組立工をやった。一九七九年、父は名誉回復され、一九八〇年には湖南省政治協商会議の仕事を与えられた。わたしは子供を生んでいて、職場まで遠すぎたため、町工場を退職した。けれども政治協商会議と統一戦線部のある人達が、わたしに新たな仕事を分配するのを拒否した。そのどうしようもない状況のもと、わたしと夫(有名な指物師だった)は、最後のあがきをするしかなかった。わたしたちは裁縫の本を何冊か買ってきて、独学で勉強を始めた。夫は昼は勤めに出かけ、夜帰ってから裁断した。夜に日を継いで精を出し、ほぼ三、四箇月で注文を受けて服を仕立てるようになった。その後次第に腕をあげ、すでに多少は名の知られた自営の仕立て屋になっている。今では夫が退職して一切を切り盛りし、わたしの方は家事と子育てをしながら、ときには服のデザインをする。まずまずの暮らしむき、豊かではないが、なんとかやっていける。

 わたしは突然三十間近になっていた。十年ほどの青春は、もがいているうちにすり抜けていってしまった。わたしはこの十数年について、その後について、多少の話をすることができるような気がした。それも、普通の人は意識したこともなければ言ったこともないような話で、わたしはそういうことを文学によって、幻想の形式によって語りたいと思った。ある抽象的な、同時に純粋ななにかが、わたしの内部で徐々に凝集してきていた。わたしは書きはじめた、毎日少しずつ、なぜこのように、あるいはあのように書くのか完全には知らないままに、ただひたすら自分の天国に執着し、くりかえし味わい、ひとり楽しんだ。それが「蒼老たる浮雲」やその他のすでに発表した、あるいはまだ発表していない作品である。これらすべての背後で、わたしの情緒を奮い立たせてくれたのが、あの美しい南国の夏であり、南国の烈日であり、あの熱っぽく明朗な境地なのだ。少女時代、わたしは幾度となく、帽子もかぶらず裸足のまま、長い時間、烈日の下を歩いたものだ。歓喜と、あのはてしない遐かな思いに満ちて。

 わたしの友人Aは、まじめで温厚な、なかなか教養のある男だ。ある日彼が突然死にたいといいだした。妻さえ死んでくれればいいともいった。わたしはびっくりした。彼はくどくどと長いことしゃべったが、すべて妻の悪口だったが、ふだんは決してそんなことはなかった。わたしには彼がすっかり潰れてしまったのがわかったし、心底から妻の死を望んでいるのもわかった。法律の邪魔さえなければ、毒でも盛ったにちがいない−−その後、彼は死にもせず、相変わらず妻とひとつ屋根の下に暮らしており、わたしに打ち明け話をしたのをひどく後悔している。
 わたしの友人Dは、みかけは弱々しいが、内心は負けん気の女だ。彼女は嫁いで間もなくすっかり潤いをなくして氷のように冷たくなり、やたらに怒りっぽくなって、靴を引きずって街に醤油を買いにいっている−−。
 友人のEは、いつも「一から出直し」たがっている。わたしが本を借りにいくたびに、ぺらぺらと自分の計画やら案やら、輝かしい見通しをしゃべり、怪しいほど気持ちを高ぶらせている。その後、自分の目下の境遇のひどさや、家族の妨害について語る。毎度彼が何かを「やらかそう」とすると、思いもよらない出来事で計画をすっかりかき乱されてしまうというのだ−−−彼の女房は荒っぽく、彼の父母の目の前で彼の横面を張り、顔に唾をかけて、彼は「ペテン師」で「何の能もなく」、自分は「見損なった」といったことがある。今、彼はひとり暮らしをしている。妻が逃げてからは、人と本の話もしなくなり、わたしが行くと相変わらず話はするものの、声が少ししゃがれてしまっている。最近の彼の計画は、改革中の新たな問題に関する大著を書くことである。
 わたしの父方の従弟のMは、夫婦とも軟弱無能だ。中学に上がった息子はその父母を馬鹿にして、ひとりで家出してしまった。今、彼の妻は精神病にかかり、毎日家で茶碗を割り、あらゆる手を尽くしてMをいじめている。この前合いにいったら、彼はもう痴呆のような目をして、凄惨そのものだった。

 敢ていうが、わたしの作品は全編光明に満ちている。それは字間、行間のいたるところから漏れ出ているのだ。もう一度強調しよう、わたしを創造に駆り立てるのは、美しい南国の烈日である。心の中に光明があるからこそ、暗黒は暗黒になり、天国があるからこそ、地獄の骨身に刻まれる体験がある。愛に満ちているからこそ、人は芸術の境地で超越、昇華することができる。凡人と浅薄な人間には、この点が見えないのだ。

原題:美麗的南方之夏日 (《中国》1986年11期) 
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