使者と彼について

 

監訳 近藤直子
(日大文理学部中文学科 2004年度研究ゼミ)
泉朝子、大津哲平、小野麻友子、國武絵梨、椚舞由子
小林淳一、後藤徹也松本梨花、三ツ橋修平、安井理恵 

彼はこの禿げあがった山の頂に座り、地面から突き出た岩にもたれて居眠りをしていた。おおらかな態度で万物に対する月光は、もちろん彼の上にも落ちていた。彼と一緒にいるのはしっぽの短い栗色の猫だ。居眠りする彼はいかにも大儀そうな姿勢で身をよじっているが、猫のほうはぴくりとも動かずその足もとにうずくまり、飽き飽きしたような顔をしている。彼からそれほど遠くない場所には灌木の茂みがあって、野栗の木の類いのようだが、風が吹くとまばらな葉がかさこそとなった。真夜中に黒い雲が月をおおい、こぬか雨が少し降ると、彼は肌寒さを覚えてすぐ目を開けて立ち上がり、伸びをした。猫も腰を伸ばし、雨に濡れた毛をなめていた。またかすかに風が出てきて、黒い雲はすぐに吹き散らされ、月がまた出てきた。彼は東に向かって数十歩歩き、また南に向かって数十歩歩き、そしてゆっくり岩のあたりに戻ってくると、つま先で彼の羊皮のトランクを蹴り、もう一度しめっぽい岩の上に座ってうたた寝した。猫は雨にぬれて少し寒かったので、彼のひざに跳び乗って暖を取った。
 かつてしばらくのあいだ、山のふもとには硝煙がたちこめ、山じゅうの赤土は炸裂した銃弾の穴ができていた。追われた歩兵がしょっちゅうこの山頂をめざして登ってきたが、しばしば中腹まで来て流れ弾を受け、転げ落ちていったり、しかばねを荒れ山に残したりしたものだ。そのころ、彼は毎日山のうえをいらいらしながら歩き、使者がやってくるのを今か今かと待っていた。彼はつねに山を下りる準備をしていた。老猫のために丈夫な首輪を編み、荒縄でぶら下げた。それを猫の首にはめてためしに歩いてみると、猫はとても興奮し、いきいきと、張りつめた様子で彼の目配せに合わせて動いた。使者はしばしば太陽が真南に来るころにやって来たが、そのとき戦争は暫時停止し、硝煙は散って、二色の戦旗は各自の陣営で風にひるがえっていた。
 顔じゅう真っ黒な使者はあえぎ、一歩一歩足を引きずりながら山頂に登ると、岩の上に坐り、しばらく話ができなっかた。彼が使者の口もとに耳を寄せると、使者は彼の手を握り、大儀そうに、ひとことひとことゆっくり伸ばしながら、はっきりしない符丁のようなことばで彼に戦いの進展具合を報告した。彼は使者の話の風変わりなリズムに合わせていちいちうなづき、ゆっくりと満足げな表情を浮かべていった。その時彼は立ち上がり、両手を後ろへやった。彼の眼差しは潅木の群れを超え、何もない彼方の地へと達した。使者が去るときには、彼の内面のあせりは静まっていた。彼は山を下りようという考えを捨てた。このころはしばしばもう午後の二時か三時にくらいになっていて、山のふもとでは馬の蹄の乱れた音がまた響きはじめ、その震動が野生の栗の木をかすかにゆらした。老猫も活発になって、木々の間にもぐり込んであちこち駆け回って遊んでいた。 
 山の下の騒ぎは夕方までずっとつづき、鬨の声があちこちで起こった。つづいて何度か大きな爆発音がして両側の兵馬はちりぢりになり、総崩れとなった。山の下をながめると、敗将や残兵が各自の陣に戻っていくのが見えた。夜のとばりが降りると、彼の内心のあせりがまた急激に強まった。彼は張りつめた思索の状態に入りはじめ、交戦する双方についてさまざま予想をたて、眉根をよせ、顔をこわばらせた。そんなとき、猫があまえてきても、彼は冷たかった。彼の全身全霊は戦争にあった。彼は月明かりの下、緊張して木の枝で図案を描き、心のなかで黙っていくつかの数を数えた。一夜のあいだに、鬢にまた白いものが増えた。明け方はいちばん落ち着かない時間だ。彼はもう山を降りる決心がつき、猫にも首輪をはめて、縄を手にしていた。彼のありったけの服と道具はあの大きな羊皮のトランクにしまってあり、もうかたわらに置いてある。なぜまだ行かないのか?彼は使者を待っていた。万一彼がここを離れて使者と行き違いになれば、戦争の進展状況を詳しく知ることができず、真の情況を知らないまま戦場に入れば、誤って待ち伏せに遭い、命を落としかねない。彼は辛抱強く往ったり来たりし、ときには止って耳をそばだてたり、またときには手をかざして遠くを眺めた。けれども一面の白い霧に視界を遮られ、何も見えなかった。彼はしゃがみこんでため息をつき、いらいらして落ち着かなかった。首輪をはめた猫は異常に興奮し、出征前の軍馬のようだった。
 使者の姿がついに後ろの山のむこうから現れた。彼は白装束をまとい、苦労しながら登っている。突然、足もとの土がゆるみ、使者は禿げた坂を転がり落ちた。十数メートルも落ちてやっと止まった。彼は上で見ていて思わず叫んだが、しばらくすると使者はまたもがきながら立ち上がり、そのまま上によじ登ってきた。
 使者はついに目の前までたどりついた。全身土ぼこりだらけで、白い服がほとんどが赤くなっている。いくらか休んで口の中の土を吐きだすと、ようやくとぎれとぎれにいくつかの不完全なことばを話しだした。彼は耳を使者の顔に近づけ、一心にその話を聞こうとした。使者の話す声はますます弱々しくなり、彼は両手で外界の騒音を遮らねばならなかった。そうやって効果はあまりなく、相変わらずよく聞き取れない。しまいに使者は話し終わらぬまま岩の上に頭をのせて眠ってしまった。彼は自分の太ももをぽんとたたいて跳び上がり、まず猫の首輪を解いた。それから羊革のトランクのなかの道具を取りだして地面に置き、ひとつひとつ並べた。こうして彼は山を下りる考えを捨てたのだった。
 使者はずっと眠っていて午後にようやく目を覚ました。その間に、山の下の戦争は非常に激しくなり、一発の砲弾が近くで爆発して野栗の木の茂みは半分吹き飛ばされた。使者はその爆発で目を覚ましたのだった。
 「怪我はしていないか?」
使者はぼんやりとたずねた。
 それからふたりは轟々と響く砲声のなかで雑談を始めた。話したのは戦争とはまったく無関係なことで、猫は神妙に使者の膝の上にうずくまってぴくりともしない。
 「戦争のないところでは、たとえば、ああいうはるか遠くの辺鄙な漁村では、人々はどんな風に日をすごしているのかね?」彼は使者に尋ねた。
 「もちろん忘却に頼って時間をつぶしている。しかし、これを完全にやってのけるのは難しい。どうしてもいくつか最後のイメージが頭に残ってしまう。たとえば一匹の蜘蛛の模様とか、レースの縁取りのハンカチとかなにかだ。おれにはひとり隣人がいるが、痴呆症の老人なのだ。彼は道路で落ち葉を掃いていて、突然ほうきを置いたと思うと「鈴だ、鈴だ」といって、それから泣きだした。人の記憶というものは本当に頑強無比なものだ」
 使者はこう言い終わると笑っているようないないような顔で、砲弾が遠くで発射されるのをながめ、山のふもとにはためく戦旗が見え隠れするのを見ていた。
 彼は使者がいったその老人についての話を信じなかった。使者はきっと大げさにいったのだと思った。何度も実践してみて、彼はがらんとした黒い家に入るのは完全に可能であるのを体験した。もしかしたら、はじめはその中にいる時間はごく短いかもしれないが、だんだんと慣れてくる。
 彼はそのことを使者に言おうとして口を開いたが、使者は突然眉間にしわを寄せ、猫をひざから押しのけて、立ち上がって言った。
 「おれにはまだ急ぎの用がある。おれとしたことが、どうしてこんなところでぐずぐずしていたのか。もう午後だというのに、まだここに坐っている。まだふたつも山を越えなければならず、彼らがみなおれを待っているというのに。」
 使者は身体の土ぼこりをはらって、いくらかうんざりしたようにその人を一瞥し、足踏みをするとすぐ山を下りて行った。彼は飛ぶように歩き、なにごともないように砲弾のなかをぬけていった。
 使者が山を下りていった後、彼はすぐ使者のことを心配しはじめた。手をかざして、使者が行こうとしているあの山を眺めていると、限りない不安が胸の内に沸きあがってきた。山の下のふたつの陣営の死傷者は相当出ていたが、大砲はまだ轟々と鳴り響いている。
 老猫は使者に押しのけられたあと面白くなく、彼から遠く離れてうずくまり、自分の足を舐めていた。砲撃された野栗の木の葉の大部分が黄色くなっていた。
 彼はたしかに一度、使者について山を下りたことがある。そのときは、老猫と道具を山に残し、手ぶらで行ったのだった。山を下りたのは夜中で月の光もなかったので、彼はとりあえず使者の後について当てずっぽうに突き進んだ。使者は彼を連れて一列一列のテントに入り、そこが野営地だといったものだ。だがテントのなかにどうして誰もいないのか?人の声がしないばかりか、寝るためのベッドや日用品すらなく、どのテントのなかもみながらんとしている。あるテントのなかで使者は彼に声をかけて地べたに坐らせ、それから一本の蝋燭を灯した。
 「皆、どこへ行ってしまったんだ?」彼は思わず聞いた。
 「ああ、今にわかる」使者はあわてず騒がずそういって、蝋燭で煙草に火をつけた。煙草の火が薄暗がりの中でちらっちらっと光った。「今度はまた相手方のあの陣営を見に行ってみよう。ここは静かすぎる」
 彼らはまた暗闇のなかを手探りでずっと遠くまで歩いた。彼は夜道を歩くのはまるで自分に合わないことに気付いた。ひっきりなしに転び、びくつき、幾度も全身に冷や汗をかいた。使者が立ち止まったとき、彼は一列一列の巨大な黒いきのこを見た。使者は彼になかへ入るかと聞き、彼は入ってみてもいいと答えた。しばらくして彼らはまたいくつかの空のテントに入った。あるテントのなかで、使者は彼にしゃがむよう声をかけ、それからまた蝋燭に火をつけた。そこで彼が突然たずねた。
 「戦旗はどこにあるんだ?覚えているぞ。一枚は赤で、もう一枚は黄色で、とても鮮やかだったはずだ」
 「そうとも。だがそれはみな、おれがお前に教えたことではないか。おれが暗示をかけたのだ。そうだろう?お前が山の上をいらいらしながら歩いていたから、おれが情報をお前に伝え、お前の思惟を活発にしてやった。まさかそのいきさつをすっかり忘れてはいまいな?」
 「そういわれて、少しわかってきた。しかし、まだちょっと聞きたいことがある。われわれは今夜ここで誰にも出会わないのか?」
 「残念ながら。」使者は煙草を投げ捨て、蝋燭を一息に吹き消した。

 彼は思った。使者にはきっとひどく心配なことがあるのだろう。彼らは、暗闇のなかにまた長いこと坐っていた。地面は氷のように冷たく、外はしんと静まり返っていた。
「納得がいったか?」使者はついに口を開いた。
「いった」
「では、いこう。お前はもうここを見た、面白いものは何もない」
「よし」 

 その後、彼は二度と山を降りていない。使者は相変わらず、それぞれの山頂のあいだを忙しく走りまわっており、その姿は日を追うごとに老いぼれていった。白い中国服をだらしなくきて、いつも髪はぼさぼさであかだらけだった。彼のところに来る時間も規則的ではなくなり、あるときは昼に来たかと思えば、あるときは夜に、そしてときには続けて何日も来ないこともあった。
 近ごろ、彼は自分がもはや今までのように彼を待ってはいないことに気づいた。彼はますます渺茫としたことを考えていた。ときにはじっと空中をみつめたまま、何時間も完全に使者のことを忘れていた。
 山の下の戦争は依然として激しく、赤旗と黄旗が空にたなびき、殺戮の叫び声は絶えることがなかった。ある日、一人の兵士が突然彼の視界にあらわれた。その負傷した男は、爆撃でできた穴のところまで登ってきて、それからそこに倒れて死んだ。男の口からは血が流れ出て、ひどく恐ろしかった。 その兵士のイメージはいつも彼の視野のなかに横たわっていて、何日も彼を不安にさせた。たまたまその何日か使者も来ていなかった。彼は不思議に思った。使者は彼に何も伝えていないというのに、なぜ彼はこの兵の死を目撃したのか。これは彼本人に今、ある種の根本的な変化が起きているということなのだろうか?使者が駆けつけて来たときには、その死体はすでに臭いはじめていた。彼は使者を砲弾の穴のところに連れて行き、鼻を覆いながら、しきりに使者と同じあいまいな言葉で兵士の死について論じた。使者は顔をこわばらせ、とても冷淡な様子で、どんな感想を持ったのかわからなかった。
「じゃあ、おれはもう来ないことにする」使者は突然彼の話を遮り、とても傲慢そうに腕を組んだ。「そうか?」彼はぽかんとしたが、すぐに落ち着いた。「思うに、きっとどうにかなる。おれはもう山を下りる道は知っている。あるいは、まったく二度と山を下りる気はない。ただここでひたすら妄想にふけっているだけだ。おれが周りをぐるりと見渡したとき、お前の影が山の間に見え隠れすることもあるかもしれないな」
 使者はじっと彼の話を聞いていたが、突然ため息をつき、表情が悲しげになった。彼は手を伸ばし、思うところがあるように何度か彼の肩を叩いた。彼の手はひどくざらざらしていた。
 彼は使者がもの思わし気にふもとへ降りて行くのを見ていた。数秒見てから、まわれ右して引き返し、岩に座った。そのとき老猫が突然、それまでの沈黙を破り、ミャオ!ミャオ!ミャオ!と使者が消えた方向にむかって三回鳴いた。鳴き終わるとすぐ彼に寄り添い、飽き飽きしたようにうずくまって動かなかくなった。兵士が灌木の茂みのそばで倒れてからというもの、老猫は二度とそこで遊ぶことはなくなった。やけに自分をいたわるようになり、一日中数えきれないほど舌で自分の毛を整えている。

使者はそのまま消えてしまった。彼は不思議だった。なぜならこんなに長い歳月が過ぎても、彼には相変わらずあの周期的な興奮が起きていたからだ。ふもとの戦争のせいでしょっちゅう眠れない夜を過ごし、ラッパの音が谷間に響きわたるたびに、なんと、流れる涙を抑えることができなかった。そのせいで、彼は何度も何度も自分が脆弱すぎるのを責めた。
 初冬のある日、老猫は砲弾の穴のあたりを通り、ゆるんだ土塊に足をとられてそのまま穴に落ちた。猫は幾度か痙攣して、それから全く動かなくなった。そこにはあの兵士の骨があった。彼は穴のそばに立って長いこと物思いにふけり、そして立ち去った。彼はこれまで埋葬ということを考えたこともなかった。