長発の夢

近藤直子監訳 
訳:日大文理学部中文学科07研究ゼミ
大賀花月、大山ゆい、植野宏子、久保田有紀
小関真理子、下西恒太郎、遠山愛里、中崎卓也
深谷瑞穂、宮崎かおり、横山日輝


  サーカスの運搬係の廖長発(リャオ・チャンファー)には子供のころからひとつの夢があった。サーカスの役者になることで、できれば綱渡り、もしだめなら椅子重ねか組立体操でもいい。長発の両親はいずれも劇団の労働者でひとりは調理人、ひとりは清掃員だった。努力はしたのだが、長発は団の運搬係になってしまった。給料もきちんともらえるものの、あの理想の職業は見る間に遠ざかってしまった。長発の仕事は公演が終わる度に道具をもとの場所にもどし、公演の度にまた取り出すことで、とくに疲れはしはないが、面倒なものではあった。長発はすでに家庭をもち、農村出身の女房とのあいだには二人の息子がいた。公演の合間にはときに三輪自転車をこいで商品配送の手伝いをし、家計の足しにしていた。どうやらこの一生、運搬役しかできないらしい。
 長発は近ごろ気がめいっていた。団長に口答えをしてしまったのだ。経緯はこうだ。あの日、彼らの団はある大企業に公演に行った。長発はちょうど風邪をひいており、仕事を済ませた後、ぼうっとして舞台裏の物置で居眠りしていた。公演が終わると役者たちはみな夜の食事に招待された。ところが団長は暗い顔で彼を起こすと、道具をしまって、それが済んだら運搬車といっしょに家に帰れというのだ。そのときはもう夜中の一時になっていた。
 「いいか、あの人たち(企業)のおかげで、衣食にありつけるんだ。おまえのようにだらだらとやる気がなくては、おれたちの飯の種がなくなってしまう!」団長は憎々しげにそういい終わると、悠々と出ていこうとした。
 長発は頭が割れそうに痛み、たまりかねて団長の後姿に向かって大声で怒鳴った。
 「運搬係は人間じゃないんですか? あれこれ病気になったり痛みがあったりするのも許されないんですか?」  団長はぎょっとしたように足を止め、向きをかえ、それから長発の前まで来ると、まるで不思議なものでも見るようにじろじろと足の先から頭の先まで眺めなおし、へっへっとせせら笑った。
 「わかった、わかった、続けて努力しろよ、おまえならいずれ芽がでるだろう」
 長発は怒鳴ってしまったあと、自分のしたことに驚いて大汗をかき、風邪さえすっかりと軽くなったようだった。彼は思った、これで団長はおそらく自分をクビするだろう。ところが団長は何事もなかったように歩き去り、そのあばた面からは何も読み取れなかった。
 長発が道具を片付けていると、隣の小さいレストランから酒令の掛け声のような声が聞こえ、その波はしだいに高まっていった。道中ずっと長発は団長がいったことを考えた。彼にはわかっていた。あの言葉は彼の運命が変わることを意味しており、しかも悪い要素が多くを占めていることを。団長が彼の強情な性格を評価し、突然仏心を起こして役者にしてくれるようなことはまずあるまい(指導者の中にはそういう変わり者いるそうだが)。それに彼はとっくに鍛えられる年齢も過ぎている。事務をやらせてくれるかといえば、その可能性はさらに低い。団長の妻の弟が団の事務を仕切っているのだ。となると、どうやらひどいことになりそうだ。長発は家に着くまでずっとこのことを考えていた。
 それから何日も、彼は戦々恐々としていた。ところが不思議なことに、その後何も起こらない。団長も何度も見かけたものの、毎度ねずみが猫を見かけたように素早く身を隠した。
 「役者になって何のいいことがあるのよ。頭を手にぶら下げたようなもので、始終命の危険があるのに」 女房の秀梅(シウメイ)は彼のいうことに納得がいかないようだ。
 「女は目先のことしか考えない」長発は容赦なく彼女をののしった。 

口答え事件の後、長発はしょっちゅう自分が舞台で綱渡りをしている夢をみた。ワイヤーロープの上でぶらぶら揺れながら、しょっちゅう心の中でなんともいえない戸惑いを感じた。自分は訓練を受けたことがないというのに、どうして、あの訓練を受けた役者たちのように演じ、しかも連中よりさらに自在にやれるのか? 彼は公演時にきょろきょろしてはならないのを知っていたが、夢の中ではこの禁忌を破っても何の事故も起こらない。妻と二人の子供が下にいるのが見えた。彼らはべつに喝采もせず、うつむいて何かを分けて食べている。団長も見かけた。団長は手にあごをのせて考え込んでいて、あのあばた面はあまり明るくない照明の下で打ち身のように見えた。長発は花傘を広げながら考えた。観客席にどうして照明がついているのだ? 突然、わけもなく、自分がどんなに無茶なことをしても、ロープから落ちることはないような気がした。彼はわざと空を一歩踏んだ。さらに一歩踏んだ。 けれども、そのロープはまるで磁力でもあるかのように、ずっと彼の足下にひっついている。そのとき、彼は気づいた。観客席の人がだんだん減って、彼への興味を失ったように次々と出口のほうへ歩いていくのだ。しまいには団長ただひとりが残った。長発はたちまちやる気がなくなり、舞台を下りようかと思った。ロープの端へ向かっていくと、その端がどこへ行ってしまったのかわからない。事実、劇場内の壁も果てしなく後方へ伸びていき、身体の向きを変えて反対側を見ても同じ有様だ。長発は焦ってびっしょり汗をかいた。
 「長発よ、お前はどうしてこんなにうまくできるんだ?」団長のしゃがれた声がホールに反響した。
 そのとき長発は目が覚めた。彼は夢の中で団長が明日の晩にまた公演させると約束したのを思い出した。
 あの不思議な夢を見てからというもの、長発はもう団長を避けようとしなくなった。彼はこの世はおかしなことばかりだと思った。団長がこんなに長い間彼をクビにしないのは、ひょっとしたら本当に彼を重く見ているのではないか。彼は団長のほうへ歩いていき、愉快そうにあいさつした。団長に呼び止めてほしかった。しかし団長はぽかんとして彼を藪睨みしただけで、少し驚いたように見える。自分が前にいったことをもう忘れているらしい。長発はその後どうも物足りないような気がした。夢の中のあの感覚を忘れられず、彼は思った。もしかしたらもうひとつの能力があるのかもしれない。全く訓練を受けずに綱渡りができるという能力が。ひょっとしたら団長はあの日にもう彼にそういう能力があるのを見抜いたのだろうか? 残念ながら団長はたしかに物覚えが悪く、すぐ忘れてしまった。しかしこれも無理はない。劇団のふところはますます苦しくなっており、彼が劇団全体の衣食に気を遣わなければならないのだから。 

長発は今やますます公演を見るのがいやになった。見るとたまらなくなり、とくにあの綱渡りの娘には、むかむかする。髪の毛をいじってあやしげにしなを作るのを見ると、ときに駆け上がって引きずり下ろしてやりたくなる。いつも稽古場で彼女の姿が目に入ると、彼は足もとにつばを吐いた。彼のこのような過激さに秀梅は気付いて、「犬がネズミに咬みつこうとする」とあざ笑った。さらには、「親にお金がなくてサーカス修行ができなくて、かえってよかった」といった。  彼はときに少しサーカス団の修理の仕事をする。ある日、椅子を修理していたら、あの娘がやって来た。徐姑娘(シュイクーニャン)はいつもは高慢な態度で長発を相手にしない風であったが、今回は面白そうなふりをして長発が修理するのを眺めている。長発は彼女がとぼけているのがわかっていて、相手にしなかった。
 「廖さん、ほんとうにすごい腕ね」
 「適当にごまかして飯を食っているだけさ、きみと一緒だ」
 長発の言葉にはとげがあり、徐姑娘はそれを感じ取った。顔がすぐに赤くなったのだ。
 「ちがうわ、廖さん」彼女は突然興奮し、弁解した。「あのね、わたしは自分の仕事なんて少しも好きじゃないの。わたし、わたしは演技するとき吐き気がするの。まったくもう、ときには吐き気がして落ちてしまいそう!」
 「ええっ?」長発は意外だった。
 「ほんとうだもの」
 「じゃあ、どうしてやっているんだ?」長発は彼女をにらんだ。
 「これをやめて、なにをやるのよ? 六歳で始めて、もうじき二十三よ、自分にはこれしかできないような気がする。ほかの仕事なんて考える気もない」
 「まだ小娘のくせに、なんでそう決めつけるんだ。ほかのことも試してみるべきだろう。スチュワーデスとか、旅行ガイドとか、たった二十三だろう……」
 「ふん! 冗談じゃない!」
 徐姑娘(彼女の姓は徐だ)は突然また怒りだし、ハイヒールでカツカツと床板を響かせて行ってしまった。
 長発はわけがわからなかった。あの娘はいったいどうしたのだろう。この世にどうしてあんな人間がいるのだ? 彼はすべての役者が仕事を楽しんで演じているとずっと思っていた。サーカスの技は一種非凡な技であるし、長発が子供のころから夢見てきた技でもある。それをなんということだ。 吐き気がするだと? ふん、大げさにいっているに違いない。しかし、彼女が嘘をついている様子もなかった。おおかた不愉快な出来事でもあったのだろう。もしかしたら失恋でもしたのかもしれない。彼女ときたら高慢ちきでサーカス団の誰とも付き合いがないものだから、いらいらして仕方がなく、自分のような運搬工に愚痴をこぼしにくるしかなかったのだろう。
 その後、長発は徐姑娘の演技を注意深く観察し始めた。だが何の新たな手がかりも見つからない。思うに、彼女は技はとびきりだが、残念ながら、あまりにもわざとらしく、虚栄心が強すぎ、なにやら成り上がり者といった感じがする。毎回そんな印象なのだ。もちろん観客はそれを見抜けず、いつものように喝采する。彼女のすばらしい技に、また彼女の美しい身のこなしにも。若者の中には舞台裏で花を渡そうと待っている者までいるのだ。公演が終わった後、徐姑娘はたちまち別人のようになり、打ちしおれてしまう。長発は一度、彼女が団長の事務室から、両目をニンニクのように泣き腫らして出てくるのを見た。長発は思った。まさか団長が下劣なことでもしたのか? そうでもなさそうだ。普段彼女は団長よりさらに気性が荒く、団長はいつも女中のように彼女のご機嫌取りをしている。あるいは彼女がついに仕事を変えることに決めたのに、団長が許さなかったのか? それも違うだろう、彼女がこれまで外に出て人付き合いをしているところなど見たことがない。つまり他の仕事には少しも興味がないということだ。
 長発はいつも徐姑娘が落ち着きのない様子なのを見ていたし、明らかにこの落ち着きのなさは団長とは無関係で、彼女自身の精神に生じた問題だ。彼女はもう長発に声をかけることはなく、また以前の高慢な態度にもどった。長発はそのあまりにも蒼白な顔から、彼女の心の中の苦しみを見てとった。徐姑娘は長発の信念を徹底的に揺るがした。ときには彼は戸惑いながらも、あの時自分がサーカスを学ぶことが出来なくて幸いだったと思った。彼は相手の身になって考えた。もし自分がいま他人には出来ない技をもっていて、最高峰に達したのに、自分の技がいやでたまらず、いつもあの地獄のような苦しみから逃れたいと思っているとしたらどうするだろう?徐姑娘みたいに我慢しつづけるか、それともいっそその技を捨てて運搬をやるだろうか。長発は、あの娘にこれまで楽しいときがなかったようなのを思い出した。両親が会いに来ても、彼女は仏頂面をしている。あの両親はいつも珍しい宝物でも見るように彼女を見て、ほめそやしながらも、心配を深く隠している。絶技というものが、人にこんな恐ろしい生活をさせるのかと思うと、背筋が冷たくなった。さらに、彼女は彼女に求愛するどんな若者にも無関心で、長発は、彼女が贈られたバラの花を窓から捨てるのをその目で見た。
  ほどなく、彼女が溺れる事故が起きた。知覚を失ったのか、それともわざとやったのかは分からない。あの時、彼らは他省のG市の公演に出かけており、長発は彼女が壇上でいかにも得意気にしているのを見て、精神状態はもう正常にもどったのだと思った。みなで談笑しながらホテルに帰り、寝床について真夜中になると、だれかが叫ぶのが聞こえ、団の全員が起きてきた。その後男はみな外に立ち、何人かの女が中に入って彼女を浴槽の中から救いだした。長発は団長がとても腹をたて、がっかりしているのを見た。団全体の生計のことをあれこれ考えたからであろう。 

  徐姑娘の事故が起きて間もなくのこと、ある日、団長が彼を事務室に呼んだ。長発は団長が呼んでいると聞いて運命が変わるときが来たのを知った。緊張で足まで少し震えた。
 「長発、来週の木曜日に徐姑娘の代わりをやってみないか?」
 「えっ?!」長発は口をぽかんと開けて一声うめいた。
 「盧(ルー)師匠について何日か訓練しろ」団長はさらに言った。どうやら長発の反応にうんざりしているらしい。「冗談はやめてください!」長発はついに勇気を出していった。
 「だれが冗談をいってる?ええっ?」団長は厳しく言った。「こんなに長い間、この仕事にあこがれていたくせに、今チャンスをやればいらないという、いったい何を考えているのだ?」
 長発は団長の態度にすくみ上がった。どうして団長と争いつづけられよう。この仕事がいらないというのか? 彼は喜ぶべきか、それとも災難が降りかかったと感じるべきかわからなかった。のろのろと足を引きずって稽古場へ向かう途中、彼は団の何人かの職員を見かけた。みな遠くに立って長発を眺めていて、好奇心いっぱいの様子だ。緑色の正門のそばに着くと、盧師匠がもうホールで待っているのが見えた。ホールには数名の新入りの弟子たちが稽古している。みな、歳は若くはないようだ。長発はどういうことかわからず、まっすぐ盧師匠の方へ歩いて行き、それからあのベンチに並んで坐った。
 「盧師匠、あんなに歳のいった人たちが、どうしてまだ学べるのかわかりません」
 長発は遠回しに自分自身の問題を持ち出した。
 「今がどういう時代だと思っているんだ。いいか、芸を学ぶのに年齢は関係ない。八十歳でも学べる」
 長発はこの驚くべき言い草を聞いて、こっそりとしかめっ面をした。顔を上げると、遠くのあの何人かの中年がちっともまじめに訓練せず、そのふりをしているだけで、実はどの動作も様になっていないことに気づいた。あの歳では骨はとても硬いし、どうして訓練などできよう? つぼ回しの女はマットに横たわり、両足でつぼを操る格好をしているが、実際は足の上にはなにもない。長発はほっと一息つき、団長の采配に少し合点がいったような気がしたが、もちろん、こういうことがいったい何のためなのかはわからない。盧師匠に聞きたいと思ったが、そこはやはり我慢した。自分がなぜこんなに恐れているのか、彼にはわからなかった。
 盧師匠は身じろぎもせずにそこに坐って目を伏せている。もう眠ってしまったのではないかと長発は怪しんだ。辛抱づよく長いあいだ待っていたが、本当に眠っているようだ。長発が立ち上がってもやはり反応しない。そこで長発はあの連中の方に歩いていった。
 組み立て体操の二人の男がしているただひとつの練習は、ひとりが別のひとりの太ももの上に立つというものだが、これさえしっかりできず、壁につかまっている。長発は、彼らが一回また一回と飽きもせずに練習するのを見て、思わずひどく息苦しくなった。一度など、上の男が下の男の肩の上に立とうとしてすぐに落ちてしまい、なんと頭を抱えてわんわんと声をあげて泣いた。長発は彼らと話そうと近づいていき、どこからサーカス団にきたのかと聞いた。二人の男は長発への興味をさらにつのらせ、先を争って彼の訓練について聞き、さらに、長発にはきっと「後ろ盾がある」、さもなければどうしてこんなによい仕事がもらえるのか、といった。
 「あんたは本当に運がいいな。おれたちにはだれもコーチがいないのに、あんたひとりだけいる。きっとすぐに上達して、何日もたたないうちにロープの上を飛んだり跳ねたり出来るようになるよ」少し太り気味の男が言った。
 長発が心配してむこうを見ると、コーチはまだベンチで居眠りしている。長発はなぜこの男が彼がロープの上を飛んだり跳ねたり出来るようになるというのか分からなかった。二人は長発をひどく羨み、その芸は「いちばん将来性がある」といい、さらには彼が「すぐ人に抜きんでるだろう」という。二人は互いにもたれあうように長発の前に立って話しているだけで、練習もしなくなった。長発は盧師匠が知ったら怒るだろうと、急いで詫びをいってそこを離れ、盧師匠の方へ戻った。
 「廬師匠!盧師匠!」長発は軽く叫んだ。
 「うるさいなあ」 盧師匠は目を覚ましてちょっと手を振った。
 「おれは疲れているんだ、静かにしてくれ。おまえたちときたら小鳥みたいにピーチクパーチク……)」彼はぶつぶつつぶやきながらまた寝てしまった。
 長発は盧師匠が自分を小鳥にたとえたのを聞いて、思わず吹き出した。彼はおとなしく盧師匠のそばに坐ってきょろきょろ見回した。そのとき彼はようやくあの最大の疑惑に思い至った。彼は道具を探してこなくていいのだろうか。ホール全体にひとつも道具がない。これは奇妙なことだ。さらに奇妙なのは、あの何人かの弟子があんなに一生懸命やっているのに、そばで指導する人がいないことだ。
 「盧師匠、盧師匠!」長発は堪え切れずにまた叫んだ。
 「なんだ?」盧師匠が怒っていった。「うるさいやつだな、なんでも底まで洗い出そうとする。以前団長におまえがおれのお荷物になるといわれたときは信じなかったが……おい、団長さんが見えたぞ」
 団長は本当に稽古場に来ていた。長発は彼がそわそわとあたりを見回しているのを見て、ひょっとしたら徐姑娘を探しているのかと思った。しかし彼はまっすぐ彼らの方にやってきて、目の前まで来るとにこにこ顔になった。
 「ああ、二人ともここにいたのか!すべて順調か?」
 「まあまあです。ただこいつが少し落ち着きがなくて」盧師匠は長発を指差していった。
 「こら!ちゃんと練習しろ。さもないと・・・」団長は指を鼻先に立てて長発に警告した。
 長発が答えようとすると、団長は踊るように身をひるがえし、元気よくあの見習いたちの方にいってしまった。
 「どうだ、おれが言ったとおりだろう?」盧師匠は言った。目はずっと団長の後姿を追っている。
 「盧師匠、わたしはどう練習を始めればいいのでしょう?」
 「それはおまえが心配することではない。肝心な点はむやみにおれの邪魔をしないことだ。いっておくが、おれは寝ている時も公演の事を心配しているんだ。あのいまいましい徐のやつのおかげで、ぼろぼろになりそうだ。さあ、帰って休むぞ」
 「じゃあ、わたしはどうしたらいいのですか?」長発は焦っていった。
 「おまえがどうするか、そんなことをおれに答えろというのか。だれが綱渡りをするんだ?おまえか、それともおれか? ここに坐って、そのことをとくと考えろ。おまえというやつは・・・」彼はさっさと行ってしまった。
 長発はわけもなく怒られてひどく落ち込んだ。もしかしてあの人たちはただ長発をからかっているだけなのか? こうしてどんな目的を達しようというのか? 盧師匠は彼に自分で自分を訓練しろというのか? あの数人の弟子たちと同様に。長発はここでひとつ考えを決めた。道具部屋からあの大巻きの麻縄を持ってこよう、それから台を二つ、あれは初心者の訓練用だ。盧師匠が何といおうが、彼も段取りを踏んで自己訓練をし、自分にこの方面の天分があるかないかを試さなければならない。
 急いで道具部屋にいって戸を開けると、中に鉄塔のような男がひとりいた。顔に見覚えはない。
 「何だ?」
 「訓練道具を取りに来た」
 「盧師匠のメモは? ここから物を借りるには親方のメモがいるんだ。ついでにいっておくが、わたしは新しい保管員で苗字はは張(チャン)だ」
 部屋の中は散らかっていた。張保管員は掃除をするふりをして長発に何度もぶつかり、ドアまで追いたてると、突然大きな手で払い出してしまった。長発は悶々としながらしばらく立っていたが、ついにあきらめ、沈んだ気持ちで家に帰った。 

団長は長発にあと五日たったら公演に出すと告げた。長発は熱い鍋の上の蟻のように焦った。朝早いうちから稽古場に行き、盧師匠ときちんと話しをつけなければならなかった。ずっと待ちつづけ、そろそろ正午になるころ、盧師匠はようやく現れた。顏には悲痛な表情が浮かんでおり、長発は驚いて口を開くことができなかった。
 「徐姑娘が行ってしまった」彼はベンチに坐って、両手で顏を覆った。
 「どこへ行ったんです?」
 「実家だ。くそったれ!」
 その時、稽古場はひっそりとしてだれもいなかった。昼食の時間になっていたからだ。しばらくして、盧師匠は顏を覆った手をようやく開き、前方をじっと見据えた。長発はもともと稽古のことを話しに来たのだったが、今この様子を見ると、何もいえなくなった。だが焦ってもおり、立ち去る気にもなれない。彼は立ち上がり、盧師匠の目の前を行ったり来たりした。
 どれくらいたったことだろう。盧師匠はついに彼に気付いたらしく、そばに呼んで坐らせた。
 「おまえはこれがどういう仕事かわかっているのか?」盧師匠はつかみどころのないことを聞いた。
 「よく分かりません。」長発は正直に答えた。「わたしの印象では、綱渡りは反復訓練ではないかと思うのです。 それをやるにはわたしは歳をとりすぎているでしょう?」 

 「訓練? なにが訓練だ!」盧師匠は荒っぽくののしった。「こいつは命懸けの仕事だ! これを選んだんだからには、死ぬ覚悟をせねばならん。早くからあの娘にもそれを教えてきた。あの娘はおれの自慢の弟子だと思い、最後までがんばりぬくと思っていたら、なんと途中で投げ出しやがった。そこにお前がまた来た。お前が聞きたいことはわかっているが、おれに聞く必要はない。ただ胸の内でその覚悟しておきさえすればそれでいい」彼は思いにふけった。
 「けっ! 根掘り葉掘り聞ききたがって。考えてもみろ、十メートルの高さから真っ逆さま、コンクリの上に落ちてみろ。おまえは鉄でできてはいまい。覚悟しとけよ」
 「なんとわたしに死ねということだったのですか?」
 「そんな聞き苦しいこというんじゃない。人によっては百年も生きるが、それがどうだというんだ。おまえは臆病者には見えんが」

 長発はかんかんに腹をたてて家に帰り、どすんと音をたて寝台に倒れ込んだ。全身の骨がはずれたような気がする。団の人たちがあんなに悪辣陰険で、よってたかって長発を死なせようとしているとは思いもしなかった。彼らは明らかに長発の自己犠牲を求めている。チケットの値を引き上げるために。長発は早くから、今の観客はみな、血に飢えた連中だと聞いていた。先週、ボクシングリングでひとり死んだ。その結果、スタジアムでは毎晩試合が行われるようになり、毎度超満員、チケットの値も跳ね上がった。それにしても盧師匠はどうしてあけすけに彼らの企みを話したりしたのだろう? その裏がどうもよくわからない。 長発は蚊帳の一角をにらみながら、団長の様子を思い出していた。つづいてまた、自分がもう長いこと綱渡りの夢を見ていないことを思い出した。だが一度、死んだ妹が夢に出てきて彼にこういった。
 「至るところ綱だらけだわ。お兄ちゃんはどれを渡るの?」
 長発は団長の気性性分を心得ていた。彼が役者に転業しろと命じれば、自分はただ服従するしかなく、さもなくば荷物をまとめて出ていくしかない。追い出されたらどこに行けるだろう。長発はすでに三十八になっている。また別の技術を身につけるには少し遅すぎる。肝心なのはやはり、彼にそんな興味がないということだ。生まれてこの方、彼が唯一興味を持ったのがサーカスの演技だった。今こうしてチャンスが来て、学ぶ必要さえなしにすぐさま舞台に立たせてもらえるというのに、彼は逆に尻込みしている。「葉公竜を好む」の故事のように、好きというのは口先だけの小心者だったのだろうか?長発はそこに寝転んだまま、自分に問いただした。
 長発はそのまま二、三日寝込み、食事やお茶はすべて秀梅が枕元に運んだ。彼は、自分が少しずつ衰弱してきているのを感じた。三日目の朝、空が明るくなり始めたころ、長発は秀梅が窓辺でだれかと話しているのを見た。
 「人を換える?それもいいわね、この様子じゃ、おそらく役者になる運はないわ」
 長発はどこから力が出たのか、ぐいと体を反らし寝床から起き上がった。
 「だれと話していたんだ?」彼は焦って聞いた。
 「だれって?だれもいないわ」女房は笑った。
 「おまえが人を換える、おれは役者の器じゃないというのをたいかに聞いたぞ」
 「それはわたしが心の中で考えていることよ、おかしいわね、どうしてわたしの心の中が読めるの? そんなに気にかかるなら、仕事に行けばいいのに」
 「仕事に行けだと!おれを早く死なせたいのか?」
 
「まさか、死にそうにというほどじゃないでしょう?」彼女はもぞもぞとつぶやきながらいってしまった。

 長発は台所で歯を磨き、顔を洗い、制服を着て鏡の前で髪をとかすと、二人の子どもにもなにもいわずに、まっすぐ仕事に行った。
 この度は稽古場には行かなかった。彼はやはり運搬係をやろうと決めており、団長が彼を解雇しない限りは、働く権利があると思っていた。道で盧師匠にばったり出会ったが、盧師匠はまるで彼のことなど知らないように前方を見据え彼にはまったく目もくれなかった。彼は道具部屋に入って、普段どおりに雑用をした。新入りの張という保管員は彼を見て、少しいぶかしげな様子だったがすぐに納得し、そばに坐ってお茶を飲んだ。
  一ヶ月が過ぎても、長発は相変わらず働いており、月末には給料をもらった。一度、彼は廊下で団長に会った。団長はにこにこ笑って彼の肩をたたいていった。
 「長発、覚悟はどうかね?」
 長発は目の前が真っ暗になったような気がした。しかし団長はそれ以上何も聞かずに、突然彼を押し退けた。まるでこの話題にうんざりしているようだ。長発は団長の疲れた後姿を見て、ゆっくりと息をついた。
 さらに一ヶ月が経ち、長発は夢でまたあの壁のない劇場に帰った。彼はあのワイヤーロープの上に立ち、がらんとした足元には不気味な風がうずまいていた。最初のうちはまだ団長の老いた影がぼんやりと見えていた。その影はたくさんの空席の間に佇んでいた。しだいに足元が深淵に変わり、上からは煌々と舞台のライトがさして、眼前は一面白く茫茫としていた。