阿娥

                                      近藤直子 監訳

                         日大文理学部中文学科2005年度研究ゼミ
                      
太田睦、海老沢佳奈、寒河江京子、杉浦肇、
高堂倫子、根来哲平、長谷川利緒、樋上恵里、
右島真理子、三村絵里香、宮川菜央、山田周、山本渚


  ぼくたちは中庭で縄跳びをしていた。二人が縄を回し、五人が跳んだ。ぼくたちが縄跳びを始めて間もなく、阿娥(アーウー)がつまずいて転んだ。彼女はゆっくりと倒れ、顔色は真っ青だった。子供たちはたいへん驚き、うろたえてぐるりを取り囲み、ひとりが阿娥の父親を呼んできた。その父親はここの桶屋で、世の転変をいやというほど経験した顔をしていて、腰はまるで叩き折られたように直角に曲がり、見たところ阿娥の父親というよりも祖父のようだった。彼は阿娥の前まで歩いてくると、上半身を抱きかかえ、家に帰っていったが、下半身は地面をずるずると引きずっていた。見たところこの父親はすでに娘の発作をよく知っていて、全く奇妙には思わないようだった。事情を知っている女の子がぼくに教えてくれたが、阿娥は可哀想なことに生まれつきこの病気なのだという。遠くから見ると、阿娥はまるで死体のようで、あの身体の不自由な父親はよたよたと彼女を引きずっていった。
 春の間じゅう、ぼくたちは夢中になって遊んだ。親たちは空が暗くなると家の前の石段の上に立ってぼくたちの中にいる子の名前を叫び、全身で怒りをあらわにして怒鳴りつけ、その子はネズミのようにこっそりと飯を食べに帰った。毎日がこんな風だった。叩かれる子もおり、その子がありったけの力で泣き叫ぶと、親はうるさくなって、しばらく許してやるしかなかった。しかしぼくは久しく阿娥と会っていない。彼女の父親のほうはそのアヒルに似た姿をいつも現すのだが。

 小正(シャオジョン)は、ぼくに阿娥に会いに行きたいか、ときいた。ぼくはどきどきしながら彼について一軒一軒の古い家々の間をぬけていった。ぼくたちは最後に一軒のおんぼろな古い木造の家の前に止まり、小正は、ぼくを肩車して、高い窓の前から中をのぞかせてくれた。部屋の真ん中にガラスの戸棚がひとつあるだけで、阿娥はその中で横になっていたが、眠ってはおらず、度々動いたり、あくびをしたりしていた。もっとじっくり見たかったが、小正は面倒くさくなり、ぼくを下ろした。「どうしてあんなところで寝ているの?」ぼくは不安になって聞いた。
「彼女は病気で、あれは隔離室だよ」小正は得意そうに教えてくれた。「他人に伝染するのが心配なんじゃなくて、自分を隔離しなくちゃいけないんだ。さもないと明日まで生きられない」
「それでも縄跳びできるの?」
「短時間出てきて運動するくらいならいい。それくらいなら平気だと思う」
 彼が真面目な顔でまっすぐ手を伸ばしたので、ぼくは二元あげた。
 まだすきまからのぞいていたかったが、遠くからあの老いぼれアヒルのがやってきた。
「逃げろ!」小正はいきなりぼくを引っ張った。
 ぼくたち二人は、一斉に飛ぶように走って行った。そしてあの古い家々を通り抜け、また家の中庭に辿り着いた。途中、ある家の人が通路に干していたキクラゲをひっくりかえして地面にぶちまけてしまった。
 ガラス戸棚の中の女の子のことを思うと、ぼくはすぐ胸がどきどきしてほほが熱くなり、この発見をすぐ人にしゃべりたくてたまらなかった。

そのような機会がやっときた。ぼくは細碎(シースイ)を誘ってワラビ掘りに山へ行き、男の子たちを避けて暗い溝にもぐりこんだ。いくつかの太いワラビを収穫した後、ぼくは細碎に声をひそめてあの秘密を打ち明け、おまけに尾ひれをつけて、阿娥が一匹の大蛇になったように形容し、夜になるとニワトリを食べにぶらぶら出歩くのだといった。細碎はたちまち泣きだし、暗い溝からとびだして、採ったワラビを地べたにばらまいて、頭を抱えて激しく泣いた。ぼくはその後についていって慌てて謝ったが、自分のどこが悪くて彼女をこんなに興奮させてしまったのかが、わからなかった。しかし、ぼくが口を開くと、彼女はいよいよ激しく叫びだす。ぼくはがっかりしてあのワラビを捨て、納得のいかないまま家に帰った。まだ家に着かないうちに、細碎の母親が追いかけてきて、ぼくが「女の子ろいじめた」と強く叱った。ぼくが弁解しようと口を開くと、彼女は乱暴にさえぎって、「でたらめはをいってはいけないこともある!自分の舌に責任を持ちなさい!!」と脅しつけた。
 やぶからぼうに頭ごなしに叱りつけられて、ぼくは深淵に落ちこんだように感じた。この深淵は底なしの謎だ。ぼくは小正に聞きにいきたかったけれど、小正もぼくを避けて遠くからぼくを見つけると煙のように行方をくらました。
 夕暮れになると、大人たちはいよいよひどく罵るようになり、大勢があてこすりをいった。自分の家の子どもは泥棒と一緒にいるようなものだ、足を叩き切ってやると罵った。ぼくは聞いていられなかったが、聞かざるを得なかった。自分が通りを横切るネズミのような嫌われ者になったように感じた。すべての子どもがみな家に帰っても、まだ二人の女が悪口をいっている。母はドアの陰で聞き耳をたてているぼくを見ると、やってきてぼくを抱き寄せ、苦労して変形した荒れた大きな手でぼくの背中をなでて、しきりにため息をついた。まるでぼくが大きな災難ににつっこみ、取り返しがつかなくなったように。
「なんでもないんだよ、母さん」ぼく負けずにいった。
「そうとも、そうとも、何があるものかね。いい子だ」
 母の恐れとまどった不安な視線は、目の前のあの壁を向いていた。あの表情は明らかに、ぼくに大きな災難が降りかかることを告げていた。ぼくは突然母を憎いと思った。しょっちゅうあることだが、ただこの度は、母と外の連中がぐるだと思った。ぼくは力いっぱい彼女の腕の中から抜け出し、そのせいで母はあやうく倒れるところだった。
 すべての子どもたちがみなぼくを避けているので、ぼくは自分と遊ぶしかなかった。土原で城攻めのような遊びをした。二つの城の兵士を互いに攻め進めさせた。ぼくは「行けて!殺せ!」と叫び、忙しくてんてこ舞いだった。さらに甲の城の兵士に一本の運河を掘らせ、乙の城の地下を通し、庭のあのみずたまりの汚水を引いてきて、乙の城を水没させた。一心にこういうことをしていたら、突然、革靴を履いた女の子の足がぼくの城を踏み崩すのが見えた。驚いて顔を上げると、阿娥が手を腰にあててぼくの上に立っていた。
「この臆病者!」彼女は傲慢にいった、「だれがあなたに余計なことを言えといったのよ、あなたにあのことがわかるの?」
「阿娥、阿娥、みんなはぼくのことを相手にしなくなった。もしきみまで相手にしなくなったら、ぼくはどうすればいいんだ」
 ぼくはもう少しで泣き出しそうになり、焦って彼女の手をつかんだ。
「もちろん、わたしはあなたを相手にするわよ」阿娥は突然吹き出した。
 彼女はぼくに手を握らせておいた。そこでぼくはまるで承認を得たように、さらにぼくの頬をその冷たい手にくっつけた。不思議なことに、ぼくの顔がくっつくと彼女の手のひらが熱を帯び、しかもますます熱くなって、高熱を出しているようだ。彼女の二つの小さなより目は、視線が乱れ、ぼくは阿娥が急病を起こすかと思い、あわてて頬を彼女の手から離した。彼女はあいているほうの手で、自分の胸をしっかり掴み、苦しそうにあえいだ。
「阿娥、阿娥、まさか倒れないよね?」ぼくは怖くなってたずねた。
 彼女はずいぶん経ってようやく落ち着き、近くにある大きな石を指差して、並んですわろうと合図した。彼女の手はまたひんやりと冷たくなり、顔は苦しそうだ。中庭の入り口あたりにいくつかの頭がかすめたのが見えた。明らかに前の通りの子どもだ。連中は阿娥とぼくがいっしょに坐っているのを見ると、すぐ隠れてしまった。おかしなことだ。阿娥は鋭い目でぼくを睨んでいった。
「わたしはもう、人に顔向けできないわ。みんなあなたのせいよ、あなたは自分勝手で後先かまわない」
「ぼくはまったく知らない、なにも知らないんだ! あぁ、誓っていうけど、もしもぼくが知っていたら、この手を切り落とす」
 ぼくがそういったとき、顔色が変わったにちがいない。ぼくは阿娥がつづきを話してくれるといいと思った。そうすればすぐにことの原因ははっきりし、なにもかも明らかになるにちがいない。ぼくは彼女の手を握って待ち続けたが、彼女は決して口を開こうとはせず、なにかほかの事を考えているようだった。ぼくは思った。阿娥の世界とは一体どのようなものだろう? きっとぼくが話しにならないと思っているのだろう。阿娥の沈黙はとても安らかで、明らかにぼくが口を開くのを望んでおらず、どうやらぼくの疑問が多すぎて、答えてもきりがないのをあらかじめ知っているかのようだ。とうとう彼女はため息をついて身を起こし、行かなくちゃといった。ぼくは彼女を送りたいと思ったが、彼女は手で制した。彼女が歩く姿は父親と同じで、あひるに似ていた。きっとガラス戸棚の中に帰るのだろうとぼくは思い、思ったとたんについ怖くなった。もしさっき彼女がぼくのそばで死んでいたら、えらいことだった。
 そのころぼくは気が動転していて、しょっちゅう阿娥の家の方に飛んでいきたくなった。戸口は閉まっていて、声をかける勇気がなく、窓もとても高い。ぼくは心配しながら外をうろうろし、阿娥の父親が現れるとすぐに、軒下で城作りの遊びをしているふりをした。ある日、阿娥の父親は家に入った後、阿娥と部屋の中で声高に話し、ぼくは外ですべてを聞きいた。
 父親はいった。「外のあの野郎はどういうことだ?」
 阿娥はいった。「多分わたしに妬いているのよ。」
 それからまたなにやらほかの、ぼくには理解しがたい話をした。阿娥の声はつぼの中から出てくるように、ウォンウォンとこだました。
 ある日阿娥がついに出てきた。病気でやみ衰えていた。彼女は軽蔑のまなざしでぼくが作った城をさっとひと睨みし、だるそうに椅子に坐り込んだ。
「なんて日差しが明るいんだろう、阿娥! 茶の木の花が咲いたね! 山に登って小鳥を捕まえようよ!」ぼくは彼女の機嫌を取ろうとした。
「わたしは日に当れないの」と彼女はぶっきらぼうにいった。
「残念だな。年中あんな戸棚の中に隠れているなんて、ああ、恐ろしい」
「ばかね、 戸棚の中はとてもおもしろいわ。わたしは外に出るとすぐ具合が悪くなるのがあなたにはわからないの? 日光はわたしの血を黒くして、花粉は気管粘膜を腫れさせる。もっともいけないのは、外に出ると考えることができなくなること。わたしが考えたああいうことは、あなたには永久に考えられない。あなたのような人はそんな古い遊びしかできない。だれもがみんなこんな遊びをしているなんて、本当につまらないわ。」
 阿娥はそういいながら家の中へ歩いていった。
 ぼくは急いでついて行った。阿娥もぼくが家を見るのに反対ではないらしい。ガラスの戸棚は手が込んでいて、部屋の粗末で大雑把なしつらえと鮮やかな対照をなしている。長方形の戸棚の大きさは大人一人の体よりも少し長く、前は押し扉で、四本のきらめくステンレスの柱が上部に旋盤で美しい螺旋模様を刻まれて、戸棚を支えている。その柱はいかにも贅沢な感じがした。ガラスの扉の脇にはパイプがはめこまれていて、それが小さな機械につながっている。阿娥はこの機械が動くと戸棚の中を真空状態に保つことができるのだといった。
「あれはもう、本当にすばらしいのよ」
 ぼくは腰を曲げてその機械を見に行った。ちょうどそのとき、外で咳をする音が響いた。阿娥はとたんにぼくを外に押して、小声でいった。

「はやくはやく。あなたのにおいが部屋の中に残ってる。お父さんがすごく怒るわ。」
 彼女が急に力を入れたので、ぼくは玄関の外の石段に倒れた。まだ起きあがらないうちに、阿娥の父に襟髪をつかまれた。彼は力いっぱいぼくを地べたにたたきつけてぼくの額から血を流させ、十数回もたたきつけて、やっと手を止めた。ぼくはたぶんそれから気を失ってしまった。

 ぼくはあの日、自分がどうやって家にたどり着いたのか覚えていない。ぼくが心に受けた打撃は頭の傷よりもはるかに大きい。母は、ぼくの寝床の傍でそっと涙を流しながら、くりかえしくりかえしぼくのために復讐しなければといった。
「母さん、どうやって復讐するの?」
 ぼくはうんざりして彼女の言葉をさえぎった。
 腫れ上がったまぶたの下から彼女のぼうっとした表情が見えた。

「そうねえ、どうやって復讐しようかねえ?」
 彼女はためらいがちに、ささやくようにいった。
 ぼくにとって、家の中で横になっていたあの数日はもっとも暗い日々であった。息子を亡くした一人の老婆が、家の外の通りで夜通し大声で泣き叫び、ぼくは世界の終わりがやってくるような気がした。ある晩、ぼくが眠りにつくやいなや、だれかがぼくの額の傷をいじくって、急にかさぶたを剥がした。ぼくは激痛に襲われて悲鳴を上げ、そしてそそくさと去っていく老婆の猫背を見た。傷口から流れ出た血で顔が血まみれになった。すぐ母がランプを持ってやってきて、苦労してようやくぼくを落ち着かせてくれたが、彼女はぼくのいいわけを聞かず、ぼく自身が悪夢を見て傷を開いてしまったのだといいはった。目を閉じると、傷口がズキズキと痛んだ。ぼくは思った。あの老婆はきっと、ぼくを彼女の死んでしまった親不孝者とみなしたのだ。おそらくだからこそ、復讐のために訪ねてきたのだ。このたびの傷口の悪化は、ぼくの額に大きな傷跡を残した。
  阿娥が十日目にやって来た。ちょうど炎症と高熱が治まったあの日だった。あの子の顔は白く紙のようで、床の前まですうっとやって来ると、しきりに「ごめん、ごめんね」とつぶやいた。彼女はぼくの耳に近寄り小さな声で、ぼくが病気の最中に騒がしに来た人がいたかと尋ねた。ぼくは老婆のことを話した。
 「人違いしたんだろう?」
 「いいえ、そのことは父の考えだと思う」 彼女はぼうっとした表情で答えた。
「きみがガラスの戸棚の中で横になっているのも、お父さんの思うがままなんだね」ぼくは恨みを込めて皮肉った。
「ああ、いいかげんなことはいわないで。今、わたしたち二人はもう同じ蔓に生えた瓜になったのだから。あなたがわたしの家に飛び込んできたりするから、こんなことになってしまったのよ」
 彼女にこういわれて、ぼくの怒りはすべて消えた。ぼくは起き上がって彼女と握手をしようと思ったが、窓に頭がいくつかちらりと見えた。町の子供たちだ。つづいて、またあの大人たちが当て擦りをいうのが聞こえた。ぼくは身震いして、両手を蒲団の中にひっこめた。阿娥は萎れきっているように見え、彼女の羽織っているジャケットがやせ細った肩を押しつぶしてしまいそうだった。彼女は苦しそうな表情だった。
「もう帰らないと。ここの空気はたまらない。」彼女は弱々しい声でいった。
 彼女がまだドアから出ないうちに、ぼくは目を閉じた。その日の残りの時間、ぼくはずっとこの問題について考えた。彼女は何をしにきたのだろう? 彼女の父に遣わされたのだろうか? ぼくはますます不安になった。そしてまた阿娥の境遇を想い、また彼女は決して彼女の父の一味ではあるまい、そうではなくて父に握られた道具なのだと思った。ぼくの見方は、両極端の間で揺れていた。
 ぼくは傷を治している間、ひそかに心の中で計画を立てた。この計画は誰にも教えられない、 母にも。
 傷が良くなるとぼくは表へ走って行き、あの子どもたちは相手にせず、ひとりで前に向かって走った。不思議なのはこうやってみると、みなは足を止めてぼくを眺め、まるで見とれているようなのだ。ぼくはまた得意になって、もっと高く足を上げ、馬に跨っているかのようだった。ぼくは走りに走って山の麓まで来ると、大きな松の木を抱きしめて初めてふと気がついた。ぼくは走りすぎてしまった。あの通りの子どもたちが叫ぶ声が大きく小さく風にのってかすかに伝わってきて、ぼくに突然一種の穏やかな幻覚を起こさせた。 ぼくは向きを変えて阿娥の家に向かって走り出し、まもなく彼女の家に着くころ、その塀の前で停まった。阿娥がぐったりして家の前に坐りこんでいるのが見えた。「阿娥……阿娥!」ぼくは手には汗を握って、そっと彼女を呼んだ。
 阿娥は眼を光らせてすぐ立ち上がり、小走りにぼくのところにやってきた。
「よくもまあ、また来たものね、命がいらないの?」
 彼女は低い声で、厳しくいった。
「阿娥、ぼくはきみを誘いに来たの。逃げよう、その山を越えて、ぼくの伯父さんの家に行こう。きっとぼくたちを受容れてくれるよ。伯父さんは、決してつまらないことで大げさに騒がない人なんだ。逃げよう!」
 阿娥は意外にも反対せず、それどころか憧れるような表情さえ見せて、こうつぶやいた。
「山のむこう――山のむこうね、いい考えね。わたしはまだ山のむこうには行ったことがないの。へえ、あなたって人は…」
 彼女は片手を伸ばして軽くぼくの頭をちたたき、再び幻想にふけった。
「なにを待っているの、走ろう、走ろう!」ぼくは阿娥を引っぱって何歩か走った。彼女はすぐにぼくの手をふりはらって飛ぶように走りだした。なんと彼女はまったく病気でなどなく、ぼくと同じどころかぼくより速く走った。ぼくは初めて彼女の顔がほんのりと赤みを帯びるのを見た、その紅色はまるで二輪の花のようだった。彼女の鼻先から玉状の汗が浮き出ていた。まったく奇跡だ! ぼくたちはまたあの松の木の下に着いた。これから山に登るのだ。ぼくは依然として少し心配だった。
阿娥、本当に父さんを捨てたいの?」ぼくはたずねた。
 阿娥は笑いだし、くどいといった。また父親は捨てられるものではない、人が父親なしでいられるわけがないといった。「あなただって自分の父親は捨てられないわ」と彼女は補足した。
「それじゃ、やはりぼくといっしょに行く?」
「行くわ、だって面白いもの。おばかさん、さあ行きましょう」
 ぼくは少ししょげたけれど、結局は阿娥といっしょになれたのだ。ぼくが彼女を騙して連れ出したことで、あのばかおやじはどんなに悲しむだろう。ぼくたちは山に登りはじめた、阿娥はぼく以上にわくわくしていて、絶えず伯父のことをたずねてくる、ぼくは自分が知っているたいていのことを話してやったが、彼女はまだ満足せず、しつこく細かなことまで聞いた。
 瞬く間にぼくたちはあの小山を超えた。風がヒューヒューと林の木々に吹きつけ、青色の屋根がまるで樹海に浮かぶカメのようだ。

 ぼくと阿
は疲れて木製のソファーに横になってあえいだ。伯父と伯母は、とてつもなく大きい図体をしており、二つの家がぼくたちの目の前を行ったり来たりしているようだった。ソファーからそれを見ていると、こらえきれずに笑いだしそうになった。
、ついに魔王の手の内から逃げ出てきたのか」伯父の声は胸腔内にウォンウォンと響いた。
 その後、ぼくは起き上がって坐りなおし、伯父に告げた。がもとの生活にもう耐えられないため、ぼくたちは伯父の家に長いこと住むことにした。はまったく病気ではなく、あのおいぼれの馬鹿が彼女に人間のものとは思えない生活をさせていたのだ。ぼくの母についていえば、きっと承知してくれるに違いなく、自分でも日頃からぼくを伯父の家にやりたいと冗談をいっていたと。ぼくが話しているとき、はかたわらでぼくの足を蹴り、ぼくが「でたらめだ」といった。
自身はどうするつもりなんだい」
 伯母はたずねながらを懐に抱き寄せ、ソファーのように広い自分の太ももにすわらせた。彼女のこの行動はを少し驚かせ喜ばせた。
「どうするつもりもない、どうするつもりもないの!」阿娥の顔は真っ赤になった。
 伯母は慈しむように小娘の疎らな髪を撫でて、大笑いした。つづいて伯父も笑い、部屋じゅうに雷が鳴っているかのようだった。ぼくはふいに、少し嫌になった。ふたりがこんなに嫌らしくなるとは思いもしなかった。なぜ根掘り葉掘り問い詰めるのか? しかし、阿娥はあの
「ソファー」に気持ちよさそうに坐って首を傾げ、なんと寝てしまった。伯母は立ち上がって阿娥を鶏のように脇の下に抱えて部屋へ行き、ゆっくり眠らせた。
 晩御飯の時にも阿娥は起きてこない。伯母はぐっすり眠っているから起こすのが可哀想だといった。どうしても伯母の言葉にはまだ別の意味かあるように思える。ぼくを責めているようだ。ぼくは阿娥をここに来させるべきではなかったのか? 一方、伯父は明らかに喜んでいるようで、大きな手でぼくの肩を軽く叩き、「見込みあるよ」、「まさかあの魔物にこんなうまい手を使うとは」といった。そういいながらぼくに事の経緯を事細かに話すようにいった。そこでぼくは、小正という男の子がぼくを連れて阿娥の家に行きガラスの戸棚を盗み見したことから始めて、だらだらと長いこと話した。伯父は興味津々で聞き、しきりに口をはさんだ。「本当に頭がいい!」、「すごい!」 ぼくは何がなんだかさっぱりわからず、また恥ずかしかった。晩御飯は随分と長く食べていた。伯父は、ありとあらゆる事情を全てはっきりさせた後でぼくに宣言した。ぼくと阿娥は彼らの家に住んでもかまわない。住みたいだけ住めばいい。もちろん、ぼくは足があるのだから明日すぐに出ていってもかまわないが、と。伯母はひたすらぼくにいい聞かせた。「阿娥の病気を心配してあげなさい。ああいう女の子は長くは生きられない」

(テキスト:残雪短篇小説全集538頁まで)
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