三橋節子美術館

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三橋節子さん
(みつはしせつこ)




女の子が川を流れている。

お花のいかだに乗って。

それを別の女の子が冷たく見ている。

そんな小さなモノクロの写真をどうしても忘れることができませんでした。

作者は勿論、その裏に有った悲しいストーリーも。

断片的に「花背峠?」、「花いかだ?」などの言葉がかすかに脳裏に残っています。



このキーワードでず〜っといろんな人に尋ねました。

でも誰からも答えを聞き出すことはできませんでした。

数日前、たまたま滋賀県大津市の「三井寺」周辺の地図を見ていて、

「三橋節子美術館」と言う文字が飛び込んできました。

思わず「これだっ!」と何か感じる物がありました。

さっそく「三橋節子」さん関連のページを閲覧させてもらいました。

間違いなく、それは「三橋節子」さんの代表作とも言える

「花背峠」ではなく、「花折峠」(はなおれとうげ)という作品と、

三橋節子さん自身の悲しくも充実した生涯と、さらに近江の民話だったのです。

20数年間の謎が一瞬で解けた思いでした。



これ以上の予備知識は不要と思い、

すぐさま大津へと向かいました。

途中、渋滞も少なく、

美術館にはすぐにたどり着くことができました。
入館料210円を支払うと

ピッ!と、いきなりリモコンのキーを押しながら

「ビデオを見てください」とのことでした。

先ず作品「三井の晩鐘」の説明があり、

三橋節子の生い立ちから

そのほかの作品の説明でした。


「ビデオはそれでお終いです。プチッ」

の声に追われいよいよ展示室へ。


しかし、この予備知識無しでは

三橋節子さんの絵は理解できないことが

間もなく分かります。


昭和14年(1939年)3月3日生

桃の節句に生れたので「節子」さん。

大阪出身。いま居られたら68歳です。

昭和43年(1968年)29歳で結婚し、

このあたりに住まわれたそうです。

ここで次々と作品を発表され、

画家としての充実期を迎えられたようです。



13歳のとき(昭和27年)にすでに右肩の痛みを訴えられていたそうです。

当時の医療技術は現代とは比較にならないものだったのでしょう。

昭和49年(1973年)3月、34歳のとき、

「右肩鎖骨腫瘍(ガン)のため、右利き腕を切断と言う苦難にあわれました。

その後、余命幾ばくもないことを知りながら、

画筆を左手に持ち替え、

からだと心の痛み、激しく揺れ動く心。

苦痛を微塵も感じさせない強い意志で、さらに意欲的に創作活動に励まれました。



入院、手術を待つ間に

「湖の伝説」を制作。


昭和50年(1975年)2月

35歳でなくなられるまでに

「菩提樹]を初め、描かれた作品は

「花折峠」、「三井の晩鐘」など

近江、琵琶湖の民話などを題材としたものが多く、

家族への愛情をメッセージとして

感動的な作品として残して逝かれました。


昭和49年(1974年)11月余呉湖への家族旅行は

死を決意した家族とのお別れだったのでしょう。

「辞世」 としての絵を感じます。



「ありがとう」の言葉と共に、亡くなられる7時間前に記した、

幼い(5歳と3歳の)二人の子供たちへのハガキは、あまりにも悲しく、

涙無しには見ることはできませんでした。



素人の私にはほとんど全ての花が白いのには多少奇異で衝撃的でした。

花鳥図のような華やかさも無く、美的に美しい絵とは思えません。

しかし、一枚の絵の中に一つの物語のすべてが描き表されている、

それが技法なのでしょうか。

私たちに伝えなければならないもの、

残したいものが訴えるような気迫でせまり、心で描いた絵というものを感じました。



哲学者の梅原猛先生との親交も厚かったようです。

1980年に出版された、「三橋 節子画集./サンブライト出版」など数点あるようですが、

いずれも現在では絶版になっているようです。



私がどうしても見たかった「花折峠」 とは、

京都から八瀬大原(やせおおはら)を通って若狭へ行く、

この地方で呼ぶ若狭街道の京都と近江の間にある峠の名前です。


その里には、

心根が優しく誰の目にも愛くるしく映る評判の娘と、

何かにつけ評判のよくない娘が住んでいました。

評判の良くない娘にとっては心中面白くありません。

何かの機会が有れば評判の良い娘をうんと痛い目に

あわせてやろうといつも考えていました。

そんなある日のこと、

夕方からすごい勢いで雨が降ってきました。

評判の良い娘はいつも雨具を用意して持ち歩いていました。

評判の悪い娘はそのような心遣いは無いのでとても困りました。

でも評判の良い娘は思いやりも深く、一つの雨具を二人で使い帰途に着きました。

しばらくすると三本の丸太を並べた橋に差し掛かりました。

もう少しで橋を渡りきるところで、評判の悪い娘にいつもの性の悪い心が生れました。

次の瞬間評判の良い娘は急流の真っただなかに身を呑まれてしまいました。

走って里に帰った性悪娘は驚きました。

死んだはずの娘がせっせと夕飯の支度をしているではありませんか。

すぐさま評判の悪い娘は橋まで引き返しました。

峠に差し掛かると不思議なことにそのあたり一面に茎の折れた花が散らばっていました。

突き落とされたとき、そのあたり一面の花がいかだになり、その娘の命を救ったのです。

その話は瞬く間に一帯に広がり、何時しかその峠を花折峠となったということです。

このお話がこの絵の画題となっています。


もう一つの代表作が、「三井の晩鐘」です。

琵琶湖のほとりで若い漁師が蛇を助けました。

その蛇は竜神の娘でした。

助けられた蛇は恩返しのため若い娘に姿を変え

若者と結婚しました。

やがて二人の間にひとりの子供が生れました。

ところが湖に戻る日がおとずれた妻は

子供と夫を残して湖へと返っていきました。

やむなく夫は昼間はもらい乳をして子供を育て、

夜は浜へ出て妻を呼びました。


すると妻があらわれて乳を飲ませてはまた沈んでいきました。

こんな毎日が続いたあと、たまりかねた竜神の娘は自分の右目をくり抜いて

「これからは乳の代わりになめさせてください」と夫に渡しました。

半信半疑で泣く子にその目玉をなめさせると、不思議に泣き止みました。

しかし毎晩のこと、やがて目玉をなめ尽くしてしまいました。すると今度は左の目玉を与えました。

目が見えなくなった彼女は「夫と子供が無事である証に、

毎晩子供を抱いて三井寺の鐘を撞いて欲しいと頼むのでした。

それから毎晩,、三井寺では晩鐘を撞くようになり、今も近江八景の一つに数えられています。




昭和50年(1975年)

絶筆となった 「余呉の天女」

これも幼い子供を残し、

別れていかなければならない自分と、

ただ流れに身を託さねばならない子供。

どの絵にも共通して感じる、

親の悲しみと生への隠された執着

彼女自身の涅槃図を思わずには居られません。




古都、奈良から京都に都が置かれるまでの短い期間、

ここ大津にも都が置かれました。

この地は都を置くにも相応しく、

今もなお関西と関東をつなぐ交通の要所でも有ります。

比叡山、比良山をはじめ琵琶湖に注がれる川は無数と言うほどあるのですが

流れ出る川は瀬田川のみで、そこにも詰め込まれた夢を感じます。

その自然と共に織り成す人々の生活に育まれ、何千年、何百年の時間を封じ込んだ民話の数々。

古寺古仏など、文化財の集積度は京都、奈良に匹敵するそうです。

玉手箱の中のようなこの地で製作活動ができた事は、

彼女にとっては、苦しみを一時的にせよ、かき消すほどの幸せだったと思います。





展示室の中には数冊のノートがありました。

それぞれのページには、感動の思いが書き表されていました。

その中の1ページに、

失意の思いでこの美術館を訪れました。

でも、一瞬のうちに勇気を与えられました。

それは三橋節子さんと同じ芸大の後輩の学生さんでした。




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