大正浪漫、大正デモクラシー、そんな言葉でしか知らない大正時代。実は意外に身近な存在なのではないか。そんな思いを胸に 街の中を歩いてみたい。浅草、東京駅、日本橋の三越など、大正の香りを残す場所は多い。また目白文化村、同潤会アパート、駒沢大学・耕雲館、四谷見附橋、理化学研究所跡、駒沢給水塔を訪ね時代に想いを馳せてみた。(2009年9月)
時代と場所
時代を彩る場所まずは浅草から。江戸で一番の繁華街だった浅草のにぎわいは明治へと大きく時代が動いても変わらなかった。そして大正は,といえば活動写真、浅草オペラ、最先端の遊園地と、あふれかえるほどのエネルギーを発散、長い歴史の中でもひときわ輝いた時代だった。その雰囲気を少しだけ味わってみよう。
時代を彩る場所まずは浅草から。江戸で一番の繁華街だった浅草のにぎわいは明治へと大きく時代が動いても変わらなかった。そして大正は,といえば活動写真、浅草オペラ、最先端の遊園地と、あふれかえるほどのエネルギーを発散、長い歴史の中でもひときわ輝いた時代だった。その雰囲気を少しだけ味わってみよう。
明治に入り政府は上野・寛永寺、芝・増上寺など徳川幕府と縁の深かった寺を公園とすることを決め、浅草寺の境内も公園として整備されることになった。明治17年までに7つの区画に分けられた。仲見世西側の7区はその後公園地から除外され、大正年間の地図には6区までが公園内に記載されている。ピンク色の部分が花屋敷、5区に属している。
一般に「六区」と言った場合は公園の区画ではなく盛り場を指す。現在「六区ブロードウェー」と呼ばれている通りがメインストリートだった。大正から昭和へかけ活動写真全盛時代の映像を見ると、この通りは文字通り人で埋まっていた。どちらかといえば場外馬券売り場が集客の中心となっている現在から見れば、まさに今昔の感に堪えない。
凌雲閣(十二階) 明治23年(1890)完成。設計は主に英国人W・K・バルトン。東京に登場した初めてといっていい高層建築。日本初の電動式エレベーターが設置されたが、火災の危険ありとして警察の命で供用開始直後に使用禁止となる。大正12年の関東大震災により8階部分から上が崩落したため、同年工兵隊により解体された。
奥山閣 園内のこの付近に建っていたのであろう。オープン(一般公開)は明治21年4月。建坪は46坪余り。1階部分はれんが造り、2階から上は紫檀、黒檀などの名木を使った木造。デザインは和風と中国風の混淆、館内には書画骨董が展示され一般の展覧に供した。4階部分には回廊が設けられ展望台の役目を果たした。十二階と同じく関東大震災で壊滅的打撃を受け再建されることはなかった。
大正元年(1912)ころの浅草公園の地図
六区と十二階
大通りは現在の6区ブロードウェーであろう。道の奥に12階が見える。明治26年(1893)ころの写真
Copyright (C) 2001 Hiromichi Hosoma
大正期の六区興行街
図の中央に今はないひょうたん池。その西側、南北を縦断する通りが現在の六区ブロードウェー。
木馬館 明治末に昆虫博物館としてスタート。大正期に回転木馬を備えた娯楽場となる。震災後は安来節のどじょうすくいが人気を呼び昭和52年まで営業。現在は芝居小屋。
大勝館 六区を代表する映画館。洋画封切りから松竹の邦画さらに戦後は洋画ロードショー館に。映画の黄金時代の終焉とともにさまざまな変遷を経て現在は建て替えのため休館中。
日本館 大正6年日本で初のオペラ常時公演劇場となる。浅草オペラ全盛時代は筋向かいの金龍館と激しく競う。藤原義江もここで初舞台を踏む。オペラ時代の閉幕後は映画館に。
水族館ここの2階で昭和期「カジノ・フォリー」が旗揚げ。喜劇王エノケンの時代が幕を開ける。
電気館 明治36年(1903)日本で初の映画専門興行場となる。大正期には洋画の封切り館として親しまれた。
上から東京倶楽部、常盤座、金龍館。3館は10銭の共通チケットで往来できた
東京倶楽部は映画専門館。
常盤座はオペラ・ブームの火付け役。
金龍館はジゴマで大当たりを取るが、後に浅草オペラの殿堂となる。
活動写真 オペラの黄金時代
ジゴマ登場 明治44年(1911)11月11日金龍館で活動写真「探偵奇譚ジゴマ」が上映される。花のパリかロンドンか…弁士の名調子で始まるこのフランス製の連続活劇は、たちまち帝都(東京)で爆発的な人気を呼び地方にも波及した。続編が次々と輸入されるだけでなく和製の作品(「日本ジゴマ」など)が製作され、ノベライゼーションも出版されるほどのブームとなった。ついには「犯罪を誘発する」として警視庁の命により上映禁止となってしまった。大正元年(1912)10月のことである(ジゴマ旋風については永嶺重敏著「快盗ジゴマと活動写真の時代」が詳しい)。
ジゴマは大正の始まりとともにとりあえず姿を消したが、ジゴマによって火がついた活動写真の人気は衰えることがないどころか高まる一方だった。その中心が六区である。
活動写真黎明期の大スター
山高帽にチョビひげ、ダブダブのズボン、言わずと知れたチャーリー・チャプリン。浅草登場は大正4年、電気館で2巻物の短編が上映されたのが最初と言われる。大正5年11月同じ電気館で上映された「チャプリンの拳闘」が評判となり、翌年から作品が次々と輸入されたことから人気は決定的なものとなった。
時代劇すなわちチャンバラの大スターが「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助(1875-1926)。生涯に1000本を超える作品に主演、日本映画が生んだ最初のスターであると同時に時代を代表する人物でもある。特撮を用いた「児雷也」などその作品は今見ても楽しめる。愛称は、実際に目が大きかったからではなく、歌舞伎風に見栄を切る表情からきたという。
上記の「快盗ジゴマと活動写真の時代」に興味深い一節がある。活動写真館が不良化の温床と見なされたというのである。
上映時間中は無照明で、館内は異様に暗い。
遅れて入場してきた観客を、懐中電灯を持った女給が手を引いて席まで案内する。この『手引き』が、淡くエロティックで同時に『暗黒の館』とも見なされた活動写真館を象徴している。
それまでの芝居小屋とも寄席とも異なる新しい娯楽場の出現と言えよう。
明治22年(1889)浅草生まれ、昔気質の文人久保田万太郎は大正7年発表の随筆「自動車。活動写真。カフエエ。」でこう書いている。
…活動写真のなかの空気に私は親しめなかった。主として、それは、フロックコオトに扇をパチつかせる弁士といふものとメリンスの着つけに大袈裟な油やさんをかけた女案内人といふものが醸し出すところのもの。あざとくって、取ってつけたやうで、しらじらしくって、とてもつきあい切れたものぢやない。そこに、寄席でみいだすことの出来るやうな安住感を微塵みいだすことが出来ない…
浅草 いま
宝蔵門、五重塔の向こうに浅草ビューホテルがそびえる。
五重塔は戦災で焼失後昭和48年現在の場所に移して再建された。
かつて浅草のどこからでも眺められた十二階は大震災で崩壊。現在ランドマークといえるのは国際劇場跡に建てられたビューホテルであろうか。
ひょうたん池は昭和26年(1951)観音本堂再建資金調達のため埋め立てられ、いまは場外馬券売り場が周囲を圧している。
日本館が建っていた場所は ROX2に変身。 ファーストフード店のガラス壁面がまぶしい。
電気館いまは賃貸マンション。
手前、金龍館をはじめ興行場が軒を連ねた場所はフットサルなその競技場。
六区の中心は平成7年(1995)オープンした総合レジャービル R0X。国際通りに面して派手なつくり。若者に浅草の未来を託している。
六区ブローウェーから観音境内に向かう「奥山おまいりみち」に建つ木馬館・木馬亭は大衆演劇の館。かつての興行街の雰囲気を再現しようとする。
明治以来、西洋音楽輸入の前史を経て浅草オペラが誕生したのは、大正6年(1917)1月12日から常盤座で上演された伊庭孝と高木徳子の一座の歌舞劇「女軍出征」が大当たりを取ったことに始まるとされている。歌舞劇とはミュージカル、これを見ても分かるように浅草オペラは今から振り返れば純粋オペラというよりは、オペレッタあるいはミュージカル、軽演劇といった色彩が濃いものだった。
浅草オペラの歴史について詳述する余裕も能力もないが、六区との関係で少し触れてみたい。
上述の常盤座での公演と同じ年の10月、石井漠、沢モリノらが東京歌劇座を結成、日本館で「カフェーの夜」「女軍出征」を上演。これを機に日本館はオペラの常打ち劇場となる。翌7年2月歌劇座に清水金太郎夫妻が参加「天国と地獄」を上演、オペラ人気が高まる。大正8年、清水夫妻、田谷力三らが七声歌劇団を結成、金龍館で公演を始める。以後、金龍館はオペラ専門館として日本館と競合しながら浅草オペラ黄金時代を支える。
では浅草オペラを代表するスターはというと、知名度からいって田谷力三と藤原義江だろう。
田谷力三(1899-1988)は晩年もテレビ出演、リサイタルと衰えを見せず、浅草時代を知らない若い世代にも親しまれた。神田の生まれ。三越少年音楽隊を経て赤坂・ローヤル館に参加、オペラ歌手となる。浅草デビューは大正7年の観音座。以後、実力人気ともに浅草オペラを代表するテノール歌手として活躍。「90歳現役歌手」の記録達成目前にして昭和63年死去。得意曲「恋はやさし野辺の花よ」「ベアトリねえちゃん」(スッペ作オペレッタ「ボッカチョ」より)を歌いあげる美声は今も耳に残る。
その田谷力三の舞台に見せられてオペラ歌手を志したと言われるのが藤原義江(1898-1976)。戸山英二郎の芸名で新国劇に出ていたが大正7年日本館のアサヒ歌劇団に参加、頭角を現す。大正9-12年の外遊からの帰国後は「我らがテナー」の愛称でも人気を集めた(マスコミがつくり出したブームともいわれるが)。スコットランド人の父と日本人の母の間に生まれ、華やかな女性関係でも知られる。妻の藤原あき(後に離婚)はタレント議員の先駆けとなる参議院議員。第二次大戦後は「藤原歌劇団」を設立、後進の育成とオペラ振興に努めた。
大正とともに 浅草オペラは大正12年9月1日の関東大震災の痛手から立ち直ることのできないまま衰退の道をたどったといわれる。既に大正9年日本館は外国映画の上映館へと転身、ライバル金龍館の独擅場となっていた。金龍館は震災のため(六区の他の興行場とともに)壊滅、オペラ常打ち館として復活することはなかった。震災後に急造されたバラック建築のオペラ館が主となって浅草でのオペラ公演は続いたが、大正時代の終焉と時を合わせるように幕を閉じ消えていった。震災に加え映画がますます隆盛となり完全に娯楽の主役となったことも浅草オペラ消滅の原因として挙げられる。
音楽的な評価は措いて、人々をかくも熱狂させた浅草オペラは長い浅草の歴史の中だけではなく、大正という短いが個性豊かな時代の中でもひときわ輝いている。(増井敬二著「浅草オペラ物語」を参考にさせていただきました)
音楽評論家・宮沢縦一はこの「浅草オペラ物語」への序文「浅草オペラを見聞したものの喜び」の中で思い出を綴っている。
「浅草は良家の子女の行くところではない」といわれた時代、日本橋に生まれ、母親の実家が浅草だった宮沢は、子どものころから紺絣の着物に鳥打ち帽というスタイルで浅草に遊びに行ったという。小さい時は「目玉の松ちゃん」の、長じてからは田谷力三のファンとなった。
しかし肝腎の舞台は、今思えばお粗末なものだった。…人気に溺れて自己流に歌いくずし、アチャラカに走ってその場限りの大向うの拍手に得意になる者もいた。そんな中で田谷力三は独特の田谷ぶしとあざやかな台詞(せりふ)まわしで人気を博し、彼が登場すると客席のあちこちから「田谷、田谷!」「力ちゃん」との声がかかり、歌い終わればワーワーと大喝采だった。
浅草オペラ誕生
花やしき・ひとつのシンボル
花やしき(テーマパークとしての表記)は浅草を代表するスポットのひとつである。浅草を理解するうえでもその歴史振り返ってみたい。
花屋敷の誕生は江戸末期嘉永年間の1852-1853年、創始者は千駄木の植木屋(初代森田)六三郎。当初は文字通り花を見せるための庭園で、しかもたぶんに向島の百花園を意識していたらしい。浅草の花屋敷は牡丹、菊人形の見事さが評判となり、文人墨客の愛でるところとなった。
しかし花屋敷は花の屋敷としてとどまることはできなかった。明治以降、時代の流れにほんろうされ植物園兼動物園さらには遊園地と姿を変えていった。その「何でもあり」といったエネルギーが浅草の象徴ともいえる。動物園について言えば、大正12年(1923)にはトラの五つ子誕生、昭和6年(1931)には日本で初めてライオンの子が生まれるなど、並の動物園ではなかったことを強調しておきたい。
忘れてはならないのが奥山閣(おうざんかく=鳳凰閣ともいう)である。3代目森田六三郎から経営を引き継いだ山本金蔵(名義人は息子の松之助)が明治20年(1887)に移築を申請、許可を受けて園内西北に建てたもの。
元来は本所区五橋町の材木商信濃屋丸山伝右衛門(しな伝)所有の木造瓦葺き5階建の家屋。屋上に据えられた木製金箔の鳳凰が特徴で、神田明神の祭りの際に出される神田雉子町の雉(キジ)を改造したものといわれる。5階部分には料理屋も開業、当時としては高層建築であり浅草名物として、近接する凌雲閣(通称十二階)と人気を二分した。
山本金蔵の次男万次郎は後の長谷川如是閑(1875-1969)、大正期を代表する言論人である。「ある心の自叙伝」で花屋敷の思い出を綴っている。
明治20年ころ、まだ奥山閣の建つ前の花屋敷には、丘の上に数寄屋造りの座敷があり大官連や名士たちの小宴が張られた。が7、8歳の幼い皇太子だった大正天皇が訪れたこともある。はるか昔華やかな時代の花屋敷である。
奥山閣(左)と十二階
浅草の人気を分けた二つの建物。だが、十二階のほうは戦後も似たようなビルが建てられるなど人気は衰えないが、奥山閣の記憶は歴史の彼方に消え去ってしまったようだ。
奥山閣の落成にあたり花屋敷は庭園を広げた。明治31年刊行の「新撰東京名所図絵」は、園内を彩る樹木草花として梅、福寿草、水仙、椿、山茶花、桃、李、桜、ツツジ、山吹、バラ、芍薬、牡丹、朝顔、菊、さらには菊細工などを挙げている。
昭和に入ってから花屋敷はいったん閉鎖、再開してからも花屋敷の名前は消え、苦難の時代が続き、太平洋戦争期間中は休業となる。戦後、昭和22年(1947)松竹と東洋娯楽機(のちのトーゴ)の共同経営により「花やしき」の名称で営業再開。同24年からはトーゴの単独経営となりジェットコースター・ブームの先駆けともいえるローラーコースターの導入(1953)などで人気を集めた。
平成16年(2004)トーゴが会社更生法を申請、花やしきの存続が危ぶまれたが、ゲーム産業のバンダイナムコ・グループの一員であるバンプレストが継承、子会社「花やしき」が経営、現在に至っている。
宇野浩二と乱歩
苦の世界 花やしきが登場する小説、宇野浩二の「苦の世界」を見てみよう。大正9年(1918)の刊行である。苦の世界とはわれわれが住む人間世界のこと。同じ世界の住人・山本が主人公を誘う。
「さあ」とやがて山本はロハ台(注:公園のベンチ)から立上って、「これから一つ浅草へでも行きましょうか?」と言った。
「えゝ、行きましょう、浅草へ!」と私も勇んだ声で応じて立上った。
「浅草へ…」と彼は歩きながら、一寸考えている風であったが、「花屋敷へ行きましょうか?」と言った。
「えゝ、それが宜しい、花屋敷へ!」と私は更に勇んだ声で応じたことだった。
後半部分ではこの二人に大学生・鶴丸が加わって花屋敷へと繰り出す。
その頃、花屋敷には、その入口間近くの所に、メリイ・ゴオ・ラウンドがあった。私たちが花屋敷の門をくゞって、その前に行った時、そこの客引らしい、小倉の服を着て、赤地にメリイ・ゴオ・ラウンドと白く染め抜いた腕章をつけた、白髪白髯(はくぜん)の、上品な老人が片手に真鍮(しんちゅう)の喇叭(らっぱ)を持って、それを一吹(ひとふき)吹いては「さあ五銭です、五銭です。今すぐ動きます、」斯(こ)う皺枯(しわが)れた声で叫んでいた。
3人は結局メリーゴーラウンドに乗り、主人公の道連れ二人はおおいにはしゃぐ。花屋敷は苦の世界とは別世界のように。
十二階下 著者は十二階についても触れている。
その頃の(注:明治末年ころ)、あの十二階下の細い路次は、知らない人々には想像もつかないであろうが、日本全国何処に行っても見られない、不思議な、恐いような、面白いような、逃げ出したいような、覗(のぞ)いてみたいような光景を呈していたものであった。
十二階下には私娼の宿があったのである。
こよなき舞台 宇野浩二に私淑し、個人的にも親交のあったのが江戸川乱歩。日本の探偵小説の祖といわれるが、近年は特にその耽美浪漫的な作風のほうに人気が集まっているようだ。乱歩の作品にも浅草は多く登場する。
彼はもうとっくに飽き果てていた、あの浅草に再び興味を覚えるようになりました。おもちゃの箱をぶちまけて、その上からいろいろのあくどい絵の具をたらしかけたような浅草の遊園地は、犯罪嗜好者にとっては、こよなき舞台でした。(「屋根裏の散歩者」 大正14年8月「新青年」)
あなたは、十二階へお登りなすったことがおありですか。ああ、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体、どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこれんな代物でございましたよ。(「押絵と旅する男」 昭和4年6月「新青年」:作品中の設定は明治28年ころ)
浅草趣味 昭和9年発表の「人間豹」では、人間とヒョウの混血児は追われて浅草公園に逃げ込む。
人間の姿をした猛獣は、彼に最もふさわしい隠れが、都会のジャングルに逃げ込んだのである。山あり池あり林あり、それに大小さまざまの建物が、あらゆる形態、あらゆる角度をもって雑然紛然と立ち並ぶ大通り、横丁、抜け道…東京じゅうのどこを探したって浅草公園ほどよくできた迷路があるだろうか。
乱歩は浅草への思いを大正15年9月「新青年」に発表したエッセー「浅草趣味」で端的に語っている。
浅草の魅力はまず第一に、小屋で演じられる「およそデリケートの正反対」である圧倒的かつ野蛮極まる安来節であり、それに加えて怪しげな人間が横行する深夜の公園であり、早朝から声をからす新聞売りの少年である。一週間浅草に通いつめたことがあるという乱歩は、ひょうたん池で写生に没頭する画家と寄り添う妻の周囲から超然とした姿をいささか感傷的に綴っている。
乱歩にとって、まさに「浅草ゆえの東京住い」といえるのだった。
街を歩けば
目白文化村 田園の中の洋館
大正12年(1923)に箱根土地株式会社が当時造成中だった郊外住宅地を目白文化村と名付けたことから、新しい時代の住まいを象徴する言葉となった。この地を開発したのは堤康次郎、言うまでもなく今に続く国土開発、西武グループの創始者である。
もう一方の私鉄の雄、東急の五島慶太は同じころ田園調布を開発、こちらは今も高級住宅地としてその姿を保っている。
目白文化村の所在地は当時の下落合、現在の地番では新宿区中落合。
斬新な洋風家屋が建ち並び、テニスコートも備えた文字通り文化的な一角として知られたが、その面影は残っていない。
箱根土地株式会社はその後、国立や大泉に学園都市を建設。その意味で目白文化村は新時代の都市開発のフロントランナーであった。
新宿区中落合
山手通りを南西、新宿方面を望む。かつては画面中央付近に箱根土地株式会社の本社があり、右側、北西の方角に文化村が広がっていた。
当時の絵はがきを見ると田園の中に住宅群が島のように浮かんでいる。
洋風の一般家屋がまだまだ珍しかった時代、文化村が見る者に強い印象を与えたことは想像に難くない。
文化村には建築様式だけではない新しい理念も込められていた。武者小路実篤の「新しい村」運動に見られるようなコミュニティづくりの理想追求といったものである。住宅に加え公共施設も兼ね備えた地域の誕生であり、目白文化村にもその理念がうかがえる。しかし現実の都市化は、そうした理想をはるかに追い越すスピードで一帯を家で埋め尽くしたように思える。
今、起伏に富んだ中落合の付近を歩くと、落ち着いたたたずまいの中に住宅地として風格を感じるが、かつての文化村をしのばせるものは、少なくとも探訪者には何もない。まさに大正の夢である。
大正14年(1925)に発表された岸田国士の戯曲「紙風船」の冒頭。ある晴れた日曜の午後。新聞を読み上げる夫。
「米国フラー建材会社のターナー支配人が一日目白文化村を訪れて、お ゝ ロスアンゼルスの縮図よ! と申しましたように、目白文化村は今日瀟洒たる美しい住宅地になりました。…四万坪の地区には、整然たる道路、衛生的な下水水道電熱供給装置テニスコート等の設備があり多くの小綺麗なバンガローや荘重なライト式建築、さては、優雅な別荘風の日本建築などが、富士の眺めや樹木に富む高台一帯の晴れやかな環境に包まれて…」
同潤会アパート アーバンライフの始まり
同潤会アパートは主に昭和初期に建設されている。しかし、大正期の社会と住まいの関係を見る上で欠かすことはできない。なにより、その影響、遺産は今も目にすることができる。
同潤会は大正13年(1924)9月、政府が関東大震災の義捐金から3100万円を出資して、内務省社会局の外郭団体として設立した近代日本最初の公的な住宅供給機関。当初の事業内容は、住宅の建設経営、不具廃疾者の収容と授産などであったが、昭和に入り住宅建設に特化、昭和16年(1941)に国策により住宅営団が設立されるまで事業を続けた。すなわち関東大震災という、それまでの東京の町並みを一挙に消し去った大事件により生まれた時代の産物である。
都心に住みたいという人々、特にその数を増やしつつあったサラリーマンの希望にこたえるべく鉄筋コンクリート(RC)造りのアパートメント建設に力を注ぎ、その印象的なスタイルは昭和期を通じてモダンであり続けた。平成の今、大きく姿を変えながら新たな歩みを始めている。
同潤会アパートは、青山(渋谷区)、中之郷(墨田区)、代官山(渋谷区)、清砂通り(江東区)、虎ノ門(港区)、大塚女子(文京区)、江戸川(新宿区)など15カ所(数え方により多少の異同はある)。3階建から6階建、戸数は最小の東町(江東区)が21戸、最大の清砂通りが663戸、その多くが食堂、娯楽室、児童遊園地などを備え、都市化に伴う新しい住まい方を模索した造りが特徴だった。。
最も初期(大正14年)に建てられた青山アパートと最後(昭和7年)に建設され「集大成」と言われた江戸川アパートを眺めてみたい。
青山アパート 大正14年(1925)に土地買収したときの地番は東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町大字穏田、都心をはるかに離れた場所だった(その牧歌的な雰囲気は第2次大戦後もしばらくは残っていた)。しかし同時に青山アパートは大正9年(1920)にできた明治神宮に続く表参道に新しい都市景観を生み出した。確かに表参道の広い道と両側に並ぶ統一の取れた建物群は、ある時期まで東京には珍しい落ち着いた雰囲気をかもし出していた。その中心が青山アパートだった。
2期にわたる工事で完成したのはRC 3階建10棟138戸。高層住宅に慣れていなかった当時の市民は、多くが1階への入居を希望したという。
階段を挟んで両側に住戸が配置されるスタイルは英国の労働者改良住宅の様式をとりいれたものといわれ、住む者、見る者に都市の時代の到来を実感させたと思われる。階段室の屋上には共同浴場があった。耐震、耐火構造のこの建物は大戦中の空襲をも耐え抜き(一説には米軍が爆撃を避けたという)、80年に近い歴史を刻むことになる。戦後生まれの者にとって青山アパートはツタで壁面が覆われ1階部分にブティックが並ぶクラシックでトレンディーな(まさに横文字が似合う)ビルといったイメージが強い。
青山アパートは平成13年(2001)に取り壊しが始まり、跡地には安藤忠雄の設計による表参道ヒルズが完成、平成18年(2006)2月にオープンした。ブティックや飲食店の入ったビルの中は回遊式とも呼びたい構造で見物客、観光客の流れが絶えない(また、見て歩くのに適したようになっている)。外観は青山アパートのイメージを保ったつくりで、一角にはかつてのアパートを再現して残してある。
訪れる多くの人にとって同潤会青山アパートは、過去のものというより全く聞いたことのないものであり、六本木ヒルズと並ぶ名所として表参道ヒルズを楽しんでいるように見える。世界の高級ブランド直営店が軒を連ね、原宿を訪ねる少年少女や観光客の人の波で埋め尽くされる街の中では歴史の感傷にふける余裕はない。
江戸川アパート 名前が誤解を招きやすいが、東京の東端を流れる江戸川ではない。飯田橋の近くを流れる神田川の旧名で江戸川橋の名が今も残る。かつては付近に江戸川町の町名があったが、江戸川アパートは地番としては昔も今も新小川町(誕生時は牛込区、今は新宿区)。同潤会のアパートづくりの総決算といわれる江戸川アパートが完成したのは昭和9年(1934)。中庭を囲む4階建と6階建の2棟からなり総戸数260戸。エレーベーター、セントラル・ヒーティング、ガス風呂、共同浴場、理髪店、社交倶楽部を備えたそれまでに例を見ない画期的な集合住宅だった。
家賃は独身者用の四畳半一間で7円というものもあったが、主に高収入の層(月収120-130円)を対象とし8、6、6、4畳の間取りでは48円。
「東亜の盟主たるべき日本の中産階級の住所として指導的なるアパート」との理念がうたわれた。注目すべきは、当時このアパート付近が必ずしも高級住宅地ではなくむしろスラムも見られる地区だったことである。それだけに来るべき時代の都市生活の姿を、との建設する側の理想が伝わってくる。
社交倶楽部で週末に開かれるダンスパーティーは、住む者に新しいライフスタイルの誕生を感じさせたに違いない。
江戸川アパートは質の高さを保ちつつ昭和から平成へと歩みを続け、青山アパートが建物全体としてショーウインドウ化したのとは対照的に、あくまでも住むためのスペースであることにこだわった。周囲の環境が誕生時とは大きく変わり、むしろ高層建築に囲まれた老朽ビルとなっても、居住者は元の姿を維持することを選んだ。
しかし、築後70年近くを経た平成14年(2002)ついに建て替えが決まり、同17年(2005)新しい江戸川アパートが登場した。6棟233戸で構成、オリジナルの江戸川アパートのイメージを保とうとしていることが、クラシックな外壁をはじめここかしこに感じられる。階段室には、かつて使われていたステンドグラス、手すり、家具、面格子が転用もしくは再生されている。見学のためには公開されていない。
これらのアパートメントを見ると、それまでの長屋とは異なった新たなコミュニティをアパートの中につくろうとしていたように思える。ひるがえって現在のマンション・ライフを見ると、近所付き合いのわずらわしさがないことがマンションのメリットと考えられていることに気がつく。どこで変わったのだろうか。
耕雲館 癒しの場として
一度見たら忘れられない建物。稲妻あるいは折り畳んだ屏風のような外壁(地震の揺れを分散させるためという)に八角形の天井が覆う。中に入れば1階メインホールは3階部分まで吹き抜けとなり万華鏡を思わせるステンドグラスから自然光が差し込む。
駒沢大学のキャンパス(世田谷区駒沢、東急田園都市線駒沢大学駅)の中にある東京都選定の歴史的建造物「耕雲館」は、大正14年(1925)駒沢大学の大学昇格に合わせ図書館として建設が決まり、昭和3年(1928)に完成した。
現在は高い校舎に囲まれビルの谷間にあるよう。しかしその存在感は他を圧し、一歩中に入れば別世界である。
平成11年(1999)都の歴史的建造物に選定されたことを機に外装、内装の修復工事を行う。平成14年(2002)6月1日「駒沢大学禅文化歴史博物館」として開館。
昭和48年(1973)新図書館完成に伴い宗教的行事をも行う「癒しの場」へと変わり耕雲館と名付けられる。
昭和の初め一帯は深い緑の中にあった。隣は駒沢ゴルフ場だった。
菅原栄蔵(1892 - 1968) 主な作品は耕雲館のほか旧大日本麦酒(現サッポロビール)銀座ビアホール(通称ライオンビヤホール)、旧新橋演舞場、吉田時計店日野工場など。
メインホールには一仏両祖(釈尊、道元、栄山禅師)像が置かれ、禅文化についての常設展示がなされ一般に公開されている。2階部分も使った企画展が開催されることもある。
ホールに入ると思ったより明るいのに驚く。図書館時代は大閲覧室だった。天井(天上に通じる)から差し込む光、対照的に稲妻型の外壁がつくり出す窓のない暗室のような小部屋。光と陰が組合わさった個性の強い図書館だったであろう。
建物の名称は禅語の「耕雲種月」から来ているという。一知半解の講釈は控え、館内に掲げられている沢木興道禅師(同大学の教授でもあった)の言葉を紹介しよう。
坐禅は龍の蟠(わだかま)るがごとく颯爽たる姿勢と凛々たる気迫がこもっていなければならない。借り物の猫のようにふにゃっとした坐禅、気の抜けたビールのような坐禅は何年やっても無駄だ。
四谷見附橋 ネオ・バロック
四谷見附橋は大正2年(1913)9月に完成10月5日に渡り初め式が行われた。鉄骨づくり(装飾部分は鋳鉄)長さ37m幅22m、東京で最初の鋼製陸橋だった。見附を取り払った(石垣の一部は今も残っている)この橋の開通によって、半蔵門から新宿方面へと直進できることになった。また、埋め立てられた外濠には鉄道が走り(当初は甲武鉄道、現在は中央線)、それをまたぐ橋はすなわち陸橋となり、広重の絵にも描かれた(絵本 江戸土産)四谷の風景は一変した。
設計は橋梁が川地陽一、装飾部分が田島せい(ノギヘンに斉の本字)造。クラシックな感じの高欄(手すり)や橋灯はネオ・バロック様式で、これは近くにある迎賓館とスタイルを共にしている。
迎賓館は片山東熊の設計、ベルサイユ宮殿を思わせる壮麗な建物。大正天皇の成婚後の住居・東宮御所として明治42年(1909)に完成、赤坂離宮とも呼ばれた。四谷見附橋の設計者がどの程度東宮御所との一体性を意識したかは定かではないが、少なくともこの橋が周囲の景観と調和して、東京でほかに例を見ないほど落ち着いた街の雰囲気を醸し出してきたことは間違いない。
上智大学、イグナチオ教会、雙葉学女学園といった建物を背後にして橋の上に立つと、左は赤坂見附へ右は市ヶ谷見附へと緑深い坂がなだらかに下っていくのが望める。
道路拡幅のため昭和62年(1987)から架け替え工事が始まり、平成3年(1991)に現在の橋が完成。解体された橋の主な部分は多摩ニュータウンの長池公園に移設されて長池見附橋となり、その姿に往時をしのぶことができる。また新四谷見附橋はれんが造りの橋脚などできる限り元のイメージを残すようデザインされ、橋灯や高欄、石台など多くの装飾用部品はそのまま使われている。
とはいえ、橋の下にひっそりとたたずむ風情だった駅舎が駅ビル風に変身し、上に挙げた建物もすべてその外観を一新した風景を眺めるとき「橋はどこへ行ってしまったたのだろう」との思いを禁じ得ない。もちろん、休むところを知らない現代の景観も躍動的かつ魅力的ではあるが。
昭和初期の四谷見附橋。四谷交差点は市電の十字路だった
近くの新宿歴史博物館にはかつての高欄が展示されている
永井荷風の「大窪だより」に四谷見附橋の渡り初め式に関する一文がある。式の前日大正2年10月4日の記述である。
四谷通りは電灯、提灯、旗などが飾られ、ひとかたならぬにぎわいと紹介。当日は四谷芸者が手古舞をするので既にその姿があちこちに見られる。また麹町から大木戸にかけては里神楽、娘手踊り、小屋掛け芝居、素人相撲などの催し物もあるとかで、実に山王祭りにも見られぬ張り込みかたであると述べる。
現代の橋の開通式とは雰囲気が全く違うことは言うまでもないが、新たに架かる橋に寄せる住民の熱い思いが伝わってくる文章ではある。そして荷風には珍しい上機嫌な調子でこう結ぶ。
自分もお祭りは嫌いなほうではないので「この際、橋普請の出来栄えいかがなぞと、例の美術家ぶりたる兎角の批判は野暮の骨頂」、謹んで差し控えるというのである。
理化学研究所 緑の中に
四谷交差点から四谷橋を超えて半蔵門方面を望む。道幅が非常に広いので橋が架かっているとはちょっと気づかない。
JR駒込駅の近く本郷通りと不忍通りが交差する地点にひときわ目立ってそびえ立つビル群。文京グリーンコートはビルの威容だけではなく、その名の通り緑深い環境でも異彩を放つ。通りを隔てた江戸期の名園六義園とも調和している。
このグリーンコートは大正から昭和、平成へと日本の科学技術の発展、さらには広く学術研究に大きな足跡を残した理化学研究所(理研)のあった場所である。理研は埼玉県和光市へと本拠を移し、今はコート内にオフィフィスを置く科研製薬に名残をとどめている。
理研の歩みは長くさまざまな分野に及んでいる。その歴史に関する書籍も多い。簡単にその沿革をたどりながら駒込の地との関わりをながめてみたい。
理研は大正6年(1917)ジアスターゼの精製の高峰譲吉、グルタミン酸ソーダ(味の素)の精製で知られる池田菊苗ら化学者の建議を基に、財団法人として創設された。化学だけでなく長岡半太郎ら物理学者も交え、生物学、工学も含めた自然科学全般の基礎研究を目的とする機関として活動することになった。運営には政府予算のほか皇室からの下賜金、さらに渋沢栄一の肝いりで財界からの寄付金も充てられた。
研究機関としての大学の体制が整わなかった時代に、主任研究員制度を導入して基礎研究に力を注入した理研の役割は大きい。湯川秀樹、朝永振一郎ら多くの人材が輩出した。 理研建設の場所として駒込が選ばれた経緯については定かではないが、大正6年当時この地がかなりの郊外であったことは想像に難くない。現在日本アイソトープ協会のある建物(旧23号館)は三菱からの提供という。
日本アイソトープ協会本館
(旧23号館)
理化学研究所
駒込分所
(旧43号館)
文京グリーンコート
平成10年(1998)3月に竣工。住宅、オフィス用の3棟の高層ビルと飲食店などの入った商業ビルから成る。広い敷地の中には多くの樹木が残されている。全容は残念ながら航空写真でないとつかめない。
理化学研究所・化学部本館 大正期の姿
大正10年(1921)の竣工、設計は北村耕造。戦災で失われたが、場所は現在のグリーンコートのほぼ中央と思われる。装飾の少ない直線的なデザインが特徴。
東京都文京区本駒込2丁目28
理化学研究所・ビタミンA部門が製造販売していた「理研ヴィタミン」の広告。昭和13年4月。
ACAR(アジア歴史資料センター)写真週報9号(国立公文書館)
理研の活動できわめてユニークなのが、企業としての側面を備えていたことである。研究を行うだけでなく、その成果を商品化し販売することで運営費用に充てたのである。多くの企業を傘下に持ち、理研自身は持ち株会社として機能した。最盛期には理研コンツェルンとして15大財閥のひとつに数えられた。
しかし、このために太平洋戦争敗戦後グループは解散を命じられ、理研は大きな変革を迫られることになる。1948年理研は「株式会社科学研究所」を設立、ペニシリン、ストレプトマイシンなどを生産、販売する。この会社は後に(1982)科研製薬となる。研究機関としての理研は1958年に「理化学研究所」に改組、2003年に文部科学省所管の「独立行政法人理化学研究所」となって今日に至っている。
理研の歴史の中で中心的な役割を果たしたのが仁科芳雄博士である。仁科博士は東京帝大で電気工学を学んだ後、理研の研究生となり1920年代に欧州に留学、物理学研究の最先端に身を投じ「クラインー仁科の公式」を発表するなど大きな業績を残した。帰国後は各地の大学での量子力学の講義、理研の仁科研究室での研究活動を通じて日本の物理学をリードした。
もとより仁科博士の業績を評価することは門外漢には無理なことなので、仁科博士がこの地に日本最初のサイクロトロンすなわち素粒子加速器を大小2基作成、設置したことを挙げるにとどめたい。
このサイクロトロンは終戦後、米軍により接収、東京湾に廃棄された。仁科博士は戦後、株式会社科学研究所社長として理研の復興に奔走、1951年1月に死去した。60歳という若さだった。
博士を顕彰するために1955年仁科記念財団が設立され、物理学のさまざまな分野で活動を続けている。本部は日本アイソトープ協会と同じ建物の中にある。
仁科博士の人柄をしのばせるエピソードをサイトで見つけたので紹介したい。
(http://www3.ocn.ne.jp/~tmmiyake/NEW/new_nishina.htm)
昭和12年(1937)3月、お茶の水高女の生徒だった筆者は卒業記念の社会見学に同窓生と共に理研を訪れた。バラックのような木造建物が点在する中に「仁科研究室」の木札を見つけた。小学校の教室一部屋分くらいの広さの粗末な建物だった。 ガラス戸を開け土足で上がると、床の上に玉を半分切ったようなお椀の形をしたものが据えてあった。当時素人向けの科学雑誌を読んでいた筆者はこれがサイクロトロンかと思いあたった。皆が出て行ったあと一人見とれていた筆者の前に博士が現れる(雑誌のおかげで博士の名前も知っていた)。 思い切って話しかけ、おずおずと(たぶん)質問する筆者に博士は答え、その話は尽きることがない。取り残され少し不安な筆者。話を続ける博士。
力を入れて話されるでもなく、ただ淡々と何か自分の信念を述べようとするように、話をして下さった。
これだけである。が、何か伝わってくるものがないだろうか。
駒沢給水塔 コマQの魅力
写真を見て何を思い浮かべるだろうか。ヨーロッパ中世の城塞、これであろう。しかも一塔ではない、双子、いまふうに言えばツインタワーが向かい合い、その間を鉄橋がつなぐ。周囲を住宅やビルで埋め尽くされたいまでもその威容は周囲を圧する。畑の中にそびえ立った大正、昭和期は、まさに遠くから城を仰ぎ見る思いだったろう。
建物は駒沢給水所。大正12年(1923)に給水を始め、平成11年(1999)に機能を停止、70年余におよぶ歴史を閉じた。
本来の役目を果たし終えた給水所に新たな灯が点る。平成14年(2002)には世田谷区の地域風景資産に選ばれ、同じころ周辺に住む人々が中心となった保存会が結成される。改修の施された給水所の見学会や撮影会などさまざまな活動を続けている。目標は「”せたがやのたからもの”を世田谷の名所に」。会の愛称「コマQ」は同時に給水所のシンボル給水塔への思いでもあろう。
上に述べたように駒沢給水所は大正年間に稼働を始めたがその範囲は「渋谷町」、正確に言えば東京府豊玉郡渋谷町だった。渋谷町は現在の渋谷区、目黒区、世田谷区を含み、給水予定人口は15万ー20万人と記されている。
急速に増加する市街地と人口の需要に応えるため町営水道の建設が決まったのが大正6年(1917)。多摩川を水源とし、採取した水を砧の浄水場で濾過した後、ポンプで東京府荏原郡駒沢村字新町に設置した駒沢給水場の給水塔に送り、さらにそこから渋谷町に自然流下で配水することになった。
塔の高さは約30m、内径は約15m、容量は2750立方メートル。日本で初めてのコンクリート造りの高槽型給水塔だった。北側の2号給水塔の完成が大正12年3月、南側の1号棟が同年11月。
前年11年9月には関東大震災に見舞われたが、建設途中の2基は損傷なく耐え抜いた。当初の計画では3基が並ぶ予定のところ結局第3塔は建設されず、いま見る双子の塔となった。
円形の基壇の上に台座を据え、そこから立ち上がる塔の円周には12本の付け片蓋柱(ピラスター)が付けられている。屋上近くで一度、飾り窓の付いた層に切り替わり欧州の城の雰囲気を醸し出す。
昭和の初め給水塔は野菜畑に囲まれてそびえ立っていた
頂上には装飾として薄紫色の球が置かれている。球は建設時はガラス製だったが現在はポりカーボネート製。屋上円周の柱頭の形(装飾的な三角形)とあわせて眺めるときだれもが王冠を連想するだろう。
設計の顧問として近代日本の水道事業、工学に大きな足跡を残した中島鋭治工学博士の名前が記されているが、建物の意匠設計そのものも博士の手になるものかどうかは資料からは定かではない。建築様式としては古典主義を簡略にしたものが基礎となっているという。
敷地の中には給水塔のほか第1、第2のポンプ室の建物が残り、丘のような地形は地下の貯水池。給水所としての機能は停止したが、震災時の非常用飲料水の蓄えは続けている。
南側塔の脇には庭園といった趣きで二つの池が配置されほとりに水道敷設記念碑が立っている。
碑文の撰者は渋谷町町長藤田信次郎、昭和2年3月の建立である。その内容は給水塔の沿革を知るに便利なだけではなく、増大発展を続ける大正期の町にとって水道事業がどれほどの重みを持っていたかを今に伝える。
駒沢給水所の存在感は実際に見ないと分からない。「一体これは何?」とまず思い、給水所(塔)と知ったときの驚き。さらにデザイン面でも細かな配慮がなされていることを知ると、この建物が単に「水を供給する施設」以上の意味を持っていたと実感する。もちろんこれは、水の出る生活に慣れきった現代人の過去に対する思い入れが強過ぎるのかもしれないが。
大正末から昭和にかけて急激な都市化に対応するため建設された給水施設としては、駒沢のほかに中野区の野方、板橋区の大谷口給水塔が知られている(大谷口給水塔は既に撤去)。
どの給水塔もランドマークという以上の「時代の風景」といった風格を感じさせる。
碑文の言うところはー。
渋谷町は住宅地として最適で、明治44年に町制が施行されたときは人口3万人余りだったものが、大正10年には9万人を超えるまでになった。しかし井戸水の質は悪く、常に飲料水の確保に悩まされてきた。そこで町営水道を実施するため大正6年中島鋭治博士の助力を得て水源地の調査を始め、砧村字鎌田付近の多摩川に求めることを決めた。同9年町議会で水道敷設案を全員一致で可決、ここに長年の懸案が解決されることとなった。
大正10年5月8日に起工式を行った後は昼夜を分たず工事を進め、12年5月8日に通水式、13年3月14日に竣工式を盛大に祝った。 思うにこの事業は町にとって空前の壮挙であり、その成否には町の消長、町民の利害がかかっていた。13カ月という短い期間で工事を完成させて予算を節約しただけでなく、その間に起こった関東大震災に耐えて広く信用を勝ち得たのも、すべて関係者の熱意が可能にしたものである。
通水3年有余にして利用者は人口の7割5分に及び経営もまた順調であり、町民の喜びこれに過ぎるものはない。 今日この事業の成果を目の当たりにして携わった人びとの功績を思うことしきりである。ここに事業の経過を記すとともに関係者の姓名を刻して千載の記念としたい。
また二つの給水塔の外壁にはそれぞれ竣工時の内務大臣水野練太郎の筆になる銘板がはめ込まれている。
南側1号棟は「清冽如鑑(セイレツカガミノゴトシ)」、北側2号棟は「滾々不盡(コンコントシテツキズ)」。
碑文といい、この銘板といい時代がかった表現だが言わんとするところは時を超えて読む者の胸に迫ってくるように思える。
点灯された給水塔
駒沢給水塔は6月の水道週間に点灯されるなどさまざまなイベントが開かれているが、敷地内は立ち入り禁止。見学会など情報については、駒沢給水塔風景資産保存会のホームページを参照されたい。
(http://setagaya.kir.jp/koma-q/index.php)
ページ・トップへ