東京のほぼ中央、大手町のビルの谷間にある小さな小さな森・将門塚。一千年の昔、坂東の野に斃(たお)れた武将・平将門の首と体をおさめた墳墓・首塚の跡という。墓前に手向けられる四季の花は絶えることがなく、墓に祈る人影もまた一年を通じて絶えることがない。この地に眠るのはどのような人物で、何がこうも人を引きつけるのだろうか。
新しい年平成二十一年・2008年は陽光のあふれるなか静かに明けた。花に包まれた墓前で手を合わせる人の姿はいつもと変わらない。
将門神輿をはじめ平成21年神田祭の写真を載せました。(2009年9月)
2009年 5月9日(土) 10日(日)
2年に1度の本祭りを迎えた神田祭は、夏の到来を思わせる陽光のあふれる中で行われた。
9日午前8時すぎ神田明神を発した三基の鳳輦(ほうれん)は神田明神の旧地でもある将門塚へと向かった。多くの人が見つめる中、三の宮・将門公の鳳輦が塚の正面に据えられ、墓前では神事が執り行われた。
10日、神輿宮入の日。将門大神輿は日差しが最も強くなる午後1時近くに神田明神に入る。白地に赤く神田祭と染め抜いた半纏がが涼感を誘う。境内を埋め尽くした観衆の歓声の中、神輿は本殿前で高く差し上げられた。
やはり神田祭は将門公の祭りである。
将門公とはどんな人物だったのか
なによりも東国の武士だった。10世紀平安時代、京の都は飢えと夜盗を隣り合わせにしつつ"雅=みやび"の世に浸っていた。その時来るべき武士の時代を体現したのが将門公だった。
その半生は所領をめぐるファミリー内の争いで関東の地を駆け巡って過ごしたように見えるが、間違いなく新しい時代の到来の可能性を感じさせた。その反乱が中央を震撼させたのは、新しい勢力の巨大な力を感じさせたためである。
武家出身で初めて最高権力者となった平清盛が、将門公を討った従兄弟の平貞盛(伊勢平氏の祖)の子孫であったことは歴史の皮肉といえよう。
生年は一説では延喜3年(903)、10世紀初頭である。下総の国(現在の茨城県)に生まれる。父良将は陸奥鎮守府将軍。母は下総国相馬郡の犬養氏の娘。公の通称は相馬小次郎。幼少年期に母の里で過ごしたことをうかがわせる。公の一族は桓武平氏の祖・高望王の一門。高望王は平安京を開いた桓武天皇の曽孫、上総介に任ぜられ平姓を名乗ることになり東国に赴任(9世紀末)。土地の有力者と婚姻関係を結んで土着化する。将門公は桓武天皇5代の末裔ということになる。
当時の有力者の子弟の習慣に従って京に上り、後の太政大臣藤原忠平の家人となって仕える。延喜11年(911)高望王、同17年(917)父良将死去。故郷に帰るが、そこでその後長く続く伯父国香、良兼らとの一族間の争いに入る。この間、公の妻が敵にとらえられ連れ去られる事件(結末については諸説)など曲折を経て、将門公が関東の有力者として立ち現れることとなる。争いは京に持ち込まれ公は上京して当局に主張を述べる。
結局関係者の断罪はないまま国香、良兼の死とともに一族の争いは沈静化するかに見えた。しかし東国の実力者として名を馳せつつあった公の元に身を寄せた興世王、藤原玄明らの求めに応じて地域の紛争に介入、国司ら中央の権力機構と対立するようになる。勢いの赴くまま天慶2年(939)常陸国の国府を攻略、続いて下野に兵を進める。同年12月上野国の国府を落とした戦勝を祝う席で、史書によれば「新皇」を名乗る。
将門公のイメージ図。江戸時代には草双紙、錦絵に多く描かれた。葛飾北斎も筆を執った
反乱の報を聞き驚愕した京の朝廷は、翌天慶3年(940)1月公追捕の令と褒賞の官符を発す。長く公と敵対した国香の子平貞盛とそれに加勢する下野押領使藤原秀郷(俵藤太)らが公に戦いを仕掛ける。2月14日下総国猿島郡石井(現茨城県坂東市)の野で公は矢に当たり討ち死に。首級は京に送られ獄門にさらされた。
「将門記」によれば将門公は平安京を開いた桓武天皇の五代の苗裔(びょうえい=子孫)であった。後に兵を起こした際、時の太政大臣藤原忠平に送った書状に「…帝王五代の孫なり、たとひ永く半国を領するとも豈(あに)非運と謂はんや(不思議ではないだろう、の意)」と宣言している。皇統の血筋に連なるということと勃興する関東の地の領袖であるというこの二点が、将門公を支えるものであったといえよう。
公の生きた時代の関東は、新旧の土着勢力の間の確執、任地には赴かず遠くから収奪のみを心がけた中央の高官とその実行者たち、一方にはその対象となった農民、土地からの離散者、蝦夷地でとらわれた虜囚ムこういったエネルギーの衝突する世界だった。東国だけではない。このエネルギーの噴出として西国では藤原純友を見ることができる。しかし純友の乱と将門公とのいわゆる共謀関係は否定されている。
父の残した下総の広大な領地が一族間の内紛を引き起こしたと見られる。公の事跡は当然のことながら下総、常陸が中心で、現在の茨城から千葉、埼玉に点在する。いまではベッドタウン化しつつある田園といったおもむきの景色の中に往時を思い浮かべるには想像力が必要だ。
将門公と伯父の国香、良兼らとの争いは所領をめぐるものと見られているが、その一方で「将門記」は公と良兼との間には「女論」すなわち女性をめぐるいさかいがあったと記している。恋のさや当てかそれとも親(良兼)の許さぬ結婚(娘と将門公との)ゆえか、諸説あるがそれはさておき「将門記」に現れる将門公は争いに明け暮れるだけではない人間味を感じさせる人物である。宿敵貞盛(良兼の息子)の妻が争いの中でとらえられ公の部下により辱めを受けたことを聞くと、解き放つことを命じなおかつその身を案ずる(これも解釈はいろいろあるが)歌を一首詠じた。後の史家に、ただの草賊ではないの言があるのもうなずける。
天慶の乱について。大日本史をはじめかつての史書は将門公を歴史の中でも第一の反逆者として扱っている。その言わんとするところは、明治7年、宗教行政を司る教部省(国家神道の総元締)が神田明神に対し将門公を霊神から完全に外すよう求めた言説に尽きるであろう。「謀反を起こした者はこれまでにもいたが、本当に天皇の位をうかがったのは将門ただひとりである(弓削道鏡ですら神勅を奪うことはできなかった!)」。確かに「将門記」によれば天慶2年11月上野国の国司を追い払った余勢を駆って「新皇」と自ら称すことになったとある。
一方で歴史をたどれば、将門公の罪は公式に許されているのである。すなわち江戸初期の寛永2(1625)年将軍家光への勅使として江戸を訪れた烏丸大納言光広卿が神田明神を通りがかった際宮司に祭神について尋ね、宮司が「将門公であるが勅勘を蒙っているため700年余開張していない」と返答。卿は「勇猛な者ならば国家鎮守の役にも立とう」と後水尾天皇に奏上、翌年再び江戸を訪れた時に逆賊の名を除く准勅祭を行っているのである。
このいきさつに関しては朝廷の徳川幕府への気配りが感じられるが、いずれにせよ皇国史観からしても将門公への非難は当たらないのである。にもかかわらずかくも公を敵視する人がいたということは、裏返しにしてみれば民衆の公への敬慕の念の強さを物語っているように思われる。実際、上に述べた教部省の見解も「衆庶」がかような信仰をなすことは捨て置けない、正さねば、と腹立たしげに述べている。
「新皇宣言」については取り巻きにのせられたとの見方が一般的だ。親族間の争いの過程で力を広く認められた公の下に現体制への不平分子(アウトローでもある)が集まり、国家機関と衝突するうち勢いが余ってしまった、というのである。しかし解せない点もある。忠平に宛てた上申書では新皇について触れていない。文意は、自分には資格も実力もあるのだから(天下ではなく)これまでに奪った土地の領有を認めてほしい、と取れないこともない。天皇の位うんぬんは、中央の廷臣がつくりあげた虚構だとの説もある。
論議はさておき、長く逆臣のそしりを受けてきたことは事実だから、それにもかかわらず篤い信仰の対象となってきたことに注目すべきだろう。
将門公の事蹟についての後代の知識は「将門記」によるところが大きい。乱が終息して間もない天慶3年(940)の6月ごろに書かれたと見られている。原本は失われ残っているのは写本(主に2種類)で、それも冒頭部分は欠けている。筆者は不明。戦闘描写が詳しいところから東国にいた僧侶、公式文書を掲載している点からみて都の知識人、あるいは複数説などいくつかの説がある。平安朝の難解な漢文で書かれているが、現在は詳しい注釈付きの現代語訳も手に入る。
謀反人として一方的に公を断罪するのではなく、その勇猛さあるいは心遣いなどを公平に記した部分もあり、現代人の共感を呼ぶ。単なる歴史文書ではなく、後世の軍記物の先駆けを成すとの見方もある。
| 古代 |
- |
房総半島から渡って来た漁民が安房神社(洲崎明神)の分霊を祀る。祭神はアメノヒリノメノミコト(天比理乃メ=口ヘンに羊=命)と思われる。 |
| 大宝2年(702) |
江戸時代刊行の「武蔵風土記」によれば江戸の地にスサノオノミコト(素戔嗚命)が祀られる。後の牛頭天王社、現在の江戸神社の起源とされる。 |
| 天平2年(730) |
神田明神の創建(江戸時代に幕府に報告された同神社の社伝による) |
| 天慶3年(940) |
平将門公、下総国猿島郡石井(現茨城県坂東市)で討ち死。首は京へ送られ梟首。体は石井に近い神田山延命院に埋葬との伝承。 |
| 築土神社社伝によれば公の首、京より持ち帰られ塚に埋められる。津久土明神(築土神社)の創建。社宝として公の首を洗った首桶が後世に伝えられる。同じ頃、体もこの地に運ばれ埋葬される。 |
| - |
同じころ、坂東を遊行中の空也上人、将門公の手勢を残党狩りの討っ手から救い、全国に将門伝説が広まる素地をつくる。 |
| 中世・近世 |
徳治2年(1307) |
真教上人、将門公に「蓮阿弥陀仏」の法号を追贈。塚を修復、板石塔婆を建てる。村人の求めに応じ近くの寺にとどまり、宗派を時宗に改め「芝崎念仏道場」を建てる。後の神田山日輪寺。 |
| 延慶2年(1309) |
真教上人、塚の傍らにあった社を修復、将門公の霊を祀って神田明神とする。社、塚の管理は日輪寺が行う(日輪寺の寺伝による)。 |
文明10年 (1478) |
「永享記」に太田道灌、江戸城内の北西、乾(いぬい)の方角に津久土明神を勧請との記述。同神社はその後、江戸初期に田安門付近に場所を変える。(築土神社社伝)。 |
| 天正18年(1590) |
8月1日徳川家康、江戸入城。町づくりが始まり、首塚にかかわる社寺も移転することになる。 |
| 天正19年(1591) |
日輪寺寺伝によれば、神田明神は駿河台へ、日輪寺は柳原・白銀町付近に移転。 |
| 慶長8年(1603) |
「江戸名所図絵」によれば、御城造営に伴いこの年神田明神は駿河台に移転。日輪寺は寺伝によれば浅草芝崎町(現・西浅草)の現在地に移転。 |
| 元和2年(1616) |
神田明神、現在の湯島の地に移る。築土明神は牛込に移り築土八幡と同じ境内に鎮座する。 |
| - |
首塚は江戸期を通じて大名屋敷の庭園の一角、現在の地に保持される。屋敷の主は土井大炊頭、酒井雅楽頭らの大名を経て江戸末期に三卿のひとつ一橋家へ。神田祭の際はこの地でも必ず奉幣の儀が執り行われた。 |
| 現代 |
明治4年(1871) |
維新政府、首塚の地に大蔵省を設置。塚はそのままに残す。民間の歴史研究者・織田完之が同地を調査、その模様を著書「将門故蹟考」に記す。 |
| 明治7年(1874) |
宗教行政を統括する教部省の圧力により将門公、神田明神の祭神の座を降り末社に。築土神社、鎧神社でも同様のことが起きる。 |
明治39年
(1906) |
大蔵大臣・阪谷芳郎「故蹟保存碑」を塚の上に建立。表書は松方正義。塚の由来を記した陰文(碑の裏面)は織田完之撰文、阪谷芳郎書。また徳治2年当時の板石塔婆を江戸期の拓本を基に復元、翌明治40年2月に建立。 |
大正12年
(1923) |
9月1日の関東大震災で塚は崩れ落ち、大蔵省庁舎も全焼。復興の過程で塚を発掘調査。その後、塚を取り崩して仮庁舎を建てる。 |
| 昭和3年(1928) |
仮庁舎を撤去。塚跡に礎石を復元、慰霊祭を行う。 |
昭和15年
(1940) |
将門公没後一千年の慰霊祭。震災で損傷していた故蹟保存碑を新調。表書は大蔵大臣・河田烈。板石塔婆も新たに建立。 |
昭和20年
(1945) |
敗戦に伴い塚の地は米軍が接収。駐車場建設予定地に。接収は昭和34年(1959)に解除。 |
昭和35年
(1960) |
史蹟将門塚保存会結成。塚の整地、植樹など整備修復工事を行い。翌昭和36年(1961)12月竣工。竣工報告を兼ねた慰霊祭を行う。 |
昭和41年
(1966) |
周辺のビル建設に伴い、参道を北向きから南向きに付け替え。今見る姿となる。 |
昭和45年
(1970) |
盗まれた後に折られて戻ってきた板石塔婆に代わる新しい板石塔婆を建てる。 |
昭和59年
(1984) |
将門公、末社から神田明神三の宮に復座。 |
とりあえずのまとめ 年表
これまで首塚の地をめぐる歴史と話題の概略を述べたが、実ははっきりしたことは分かっていないのである。社寺の古文書は戦災などにより失われ、その縁起はいつしか忘れ去られていった。幕府がまとめた「御府内備考」の神社に関する記述でも「祭神は何々であろう」といった不確実なものが多いのにいささか驚く。その一方で、一度定説となったものは絶対に間違いない事実として扱われるようになる。
とりあえず年表にまとめてみたのは、さまざまな言い伝えがあって、中には矛盾するものもあり、確実なところはよく分かっていない、ということを確認するためでもある。それだけ探求のしがいがあるともいえる。それにしても、この地の歴史がいかに変化に富んでいるかということに、誰も異論はないだろう。
首塚関係社寺の変遷
神田明神
芝崎の後に移った駿河台の場所は正確には分からない。湯島の現在地に移った際は、2代将軍秀忠が桃山風の壮麗な社殿を造営した。神田明神は江戸期に振袖火事など3度の大火で類焼、その度に再建された。
築土神社
草創の地に近い現在地に戻るまで5度6度と移転を繰り返した。江戸時代は長く牛込で築土八幡と同居した。同じ境内に同名の八幡と明神が鎮座していたことは江戸町民の目を引いたに違いない。
神田山日輪寺
日輪寺と神田明神の関係は深い。芝崎の地に同居していたときは、神田明神の境内の掃除など、管理は日輪寺が行っていた。日輪寺が浅草に移った後も、神田明神の隔年の祭礼の当日は、僧侶が明神社に参り念仏を唱え読経したという。
将門首塚とはどんなところか
地番は千代田区大手町1丁目1番1号、まさしく東京の中心。広さは約290平方メートル、90坪ほど、鬱蒼とはいかないまでも樹木が生い茂り大都会の真ん中で異彩を放っている。西側は内堀通り、お堀を隔てて皇居東庭園、お堀の周囲はジョギングする人の姿が終日絶えない。西には大手町通りが走り、二つの通りを結んだ道に面して玉垣に囲まれた正面参道がある。敷地内には東京都、千代田区教育委員会など碑、案内板などがいくつかあり、由来はこれらに詳しい。「樅の木は残った」で知られる伊達騒動の主人公原田甲斐の終焉の地となった酒井雅楽頭の上屋敷跡でもあることが分かる。
参道奥に建つ石碑は明治39年(1906)建立の「故蹟保存碑」。表書は昭和期の蔵相河田烈、撰文は渋沢栄一の女婿で建立時の蔵相阪谷芳郎、書は「平将門故蹟考」の著書があり塚の保存に尽くした史家織田完之。その記すところの大意は、明治となって大蔵省が置かれたこの地はその昔芝崎村と呼ばれ日輪寺という寺と(公の首を埋めたという)平将門の塚があった。徳治2年(1307)遊行真教坊が公に「蓮阿弥陀仏」の号を贈り碑を建てた。故事からもまた近代財政史の上でも重要な故蹟の地が忘れ去られないよう碑を建てる、といったものである。実際、明治の有力者が保存に意を用いたことにより塚の歴史は途絶えることなく今に続いている。
真教上人が建てた板石塔婆は焼失したり盗難に遭ったりと転変を経てきたがその度に再建、いま見る表書は昭和45年(1970)遊行七十一世他阿隆然上人の筆になるもの。カエルの置物が多いのは、公の娘・滝夜叉姫がガマの妖術を使ったとのお話からの連想であろう。
板石塔婆とその後ろの石灯籠。供えられる花は四季を通して絶えることがない
塚を正面から望む。奥に故蹟保存碑が見える
案内板には、将門塚、将門首塚と二通りの表記がある。 また石塔婆を建てた真教上人は時宗の僧で「蓮阿弥陀仏」は言うまでもなく仏式の号。一方で将門公は神田明神(神社)の祭神であり、毎年秋の彼岸中に行われる慰霊祭はおごそかな神式である。塚に参る人を見ても仏式あり柏手を打つ神式ありとさまざまである。もちろん決まりはない。この間口の広さも首塚の特徴である。
織田完之が明治40年に刊行した「平将門故蹟考」には平面図とともに当時の塚の状況が記されている。
それによると敷地内には大きな池がありそのほとりに塚があった。樅の木、しいの木などの巨木が生い茂り昼なお暗く鬼気迫るものがあったという。
塚の前に礎石が置かれその上に石灯籠が立っていた。板碑は紛失して行方知れず。また池の傍らには古い井戸があり将門公首洗いの井戸と伝えられていたとも書いている。
ところで地図を見ると大蔵省の正門は大手町通りすなわち東向きに付けられている。塚もそちら側に向いて全体がつくられていたと思われる。
現在、参道は南から北へ、板碑は西側を向いている。明治以降、この塚が幾多の変遷をたどったことがうかがわれる。
首塚の歴史をたどってみる
まずは塚の前史から始めなければならない。よく知られているように、古代には江戸湾は今よりはるかに内陸に入り込んでいた。現在塚のあるあたりは芝崎と呼ばれる海辺の寒村だった。
房総半島の漁民がこの地に移り住み安房神社を建てた、といった専門的な考証についてはとりあえず置いて、ここでは神田明神の創建が社伝によれば天平、現在明神内に祭られている地主神の江戸、八雲神社(スサノオノミコトを奉祭)が大宝年間と、ともに8世紀であることを確認しておけば十分であろう。漁業の民の信仰を集める神社が古くからあった、ということである。
首塚の歴史に関しては全面的に「神田明神史考」(同刊行委員会編)の論考と図像を参考にさせていただいたことをお礼とともにお断りいたします。
九段中坂の築土神社
(千代田区九段北1丁目)
10世紀、天慶の乱。戦いに敗れた将門公の体は、終焉の地に近い公の菩提寺に埋葬された。現在の茨城県坂東市の延命院である。寺のある地を神田山(かだやま)といい「(将門公の)からだ」が語源と言われている。延命院の境内には拓本から起こした真教上人真筆の石卒塔婆が建てられている。
一方首級は京に運ばれ河原にさらされたが、公の無念やるかたなく空を飛んで東国に戻り、武蔵国豊島郡の芝崎に下ったという。思うに有縁の者が願って(あるいは無断に)首を京より持ち帰り、当時は当局の目も届かない芝崎の地に埋め、しばらくして遺体も合わせて埋葬、塚を築いて供養したのであろう。
このときにつくられた神社が築土明神(現築土神社)といわれる。社伝によればこの地の井戸で首を洗い上平川村の観音堂で供養、さらに塚を築き祠を建てたという。首桶は秘宝として長く同神社に伝えられたが、関東大震災で焼失。しかし資料写真は残っている。
時代は14世紀鎌倉時代の嘉元年間、遊行二世真教上人がこの地を通りがかる。上人は念仏をもって仏教を民衆の中に浸透せしめるという時宗の祖・一遍上人の教えを受け継ぎ諸国を旅していた。この芝崎の地では飢饉、天災などに人々は苦しみ、放置され荒れ果てた公の塚のたたりではと言う者もいた。C
上人は公に「蓮阿弥陀仏」の法号を追贈、ねんごろに供養するとともに村人の願いに応じ近くの寺にとどまることとした。寺を天台宗から時宗の念仏道場に変え(神田山日輪寺)、ここが塚の管理に当たるようになった。徳治2年(1307)に上人は秩父石の板石卒婆を塚の前に建て、2年後の延慶2年(1309)傍らの荒れていた社を修復、公の霊を祀って「神田明神」とした。
嘉永年間(1849)に出版された江戸切絵図
塚の位置には酒井雅楽頭の名が記されている
さらに300年近い時を経て16世紀末、江戸の地に入った徳川家康は大規模な築城工事に着手、付近の寺社に転地を命じる。日輪寺は浅草芝崎町(現台東区西浅草)に、神田明神は神田山(駿河台)を経て湯島の現在地に移転する。
神田明神は江戸総鎮守と認められ、将門公は江戸の守り神として信仰を集める。
塚は手つかずのまま幕閣の有力大名に割り当てられた敷地いわゆる大名小路の中に残され、大老・土井大炊頭の屋敷の庭の一部となる。屋敷の主は江戸期を通じて十余人を数えるが、やはり伊達騒動の酒井雅楽頭忠清が有名。
忠清以降も酒井雅楽頭が主人である時代は長く、邸内には将門稲荷がつくられ、鳥居、玉垣などが寄進されたという。また神田祭りの神霊渡御の際は神輿を屋敷の前に据え、神主が塚まで赴いて神事を行い神楽も奏されたと伝わっている。単に塚が存続しただけではなく、限定的ではあったが一般とのつながりも保たれていたことがうかがえる。
築土明神はほどなくして後の江戸城内に移転、江戸城築城に伴い牛込に移り、地主神の築土八幡と社を並べたが第2次大戦で被災したため草創の地に近い九段中坂に移り、世継神社と同じ地に社を新設して現在に至っている。祭神は明治年間にアマツホコニニギノミコトに定め将門公は相殿。
明治16 年(1883)参謀本部陸軍部測量局発行の地図。大蔵省の構内、塚の形状が記されている。
「神田明神史考」より
明治に入り空気は一変する。
国家の力を背景に神仏の分離など神社の純化、統制化を押し進める動きが現れるなか、神田明神は(明神そのものは神号ではあるが)神田神社へと名前を改める。将門公への風当たりは特に強く、公は明治7年(1874)祭神の座を降りて末社(将門神社)へと移った。三の宮として本社の祭神に復座するのは1世紀以上後の昭和59年(1984 )である。
首塚はどうなったのであろうか。地図が示すようにかつての大名小路は官庁街となり、塚の付近には大蔵省、内務省といった枢要な役所の名前が見える。ここで上記の織田完之が登場する。織田は勤王の志士として活動、維新後は新政府に出仕、松方正義の知遇を得る。退官後は故蹟の保存に努め、首塚についても貴重な史料を発掘、保存している。
故蹟碑の碑文が言うように「故蹟が滅び誰にもわからなくなってしまうのを恐れる」心からからの運動だったのであろう。徳川体制の遺物として取り壊されるかもしれなかった塚は、逆に保存の対象として歴史を刻み続けていくのである。
大正年間の神輿の図。塚の前での奉幣の儀の後、鎮魂のために神輿が繰り出す。神輿振りと呼ばれ、宙に放り上げることもある荒々しいものだったという。
「神田明神史考」所載の写真より作図
大正期に大きな災厄が降りかかる。12年(1921)9月1日の関東大震災。大蔵省の庁舎は全焼、塚も崩れ落ちた。復興の過程で塚の学術調査を行うことになり11月、工学博士大能喜邦に依頼がなされた。その結果、地中から石の棺が見つかったが既に盗掘に遭っていたため塚は取り崩すことになり、池も埋め立ててその上に仮庁舎を建設した。
昭和に入って2年(1926)6月当時の蔵相早速整爾(はやみ・せいじ)が病死、その他現職の職員からも10人を超える死者が出たほか政務次官が仮庁舎で転倒するなどけが人も続出、たたりではの声が起こり庁舎を取り壊したうえ鎮魂祭を行った。既に見たように塚とたたりへの恐れの結びつきは珍しくない。それよりも塚が忘れ去られ、なおざりにされそうになった時にこのような声が起こったことに注目したい。
昭和15年(1940)6月20日。雨の中雷鳴が轟き、大蔵庁舎に落雷炎上する。ここでも塚との関連が取りざたされ、公の没後1000年にあたることから河田烈蔵相の指示で「壱千年祭」が行われる。また故蹟保存碑を新調し、表書は松方正義から河田烈へと変わった。
幸田露伴はその著「平将門」の冒頭で次のよう言っている。関東のあちらでもこちらでも、この天下の反逆者の霊を祀っている。その理由はなんであろうか。勇猛さをしのぶだけならば、こうはならないのではないか「考へどころは十二分にある」と。この疑問は今も生きている。
大岡昇平は著書「平将門」の中で、平将門は忠義のみに縛られない日本では珍しい「独立した英雄」である、と独自の見方を示している。
首塚の歴史をたどるとき、権力の持ち主は移り変わっても塚は残る、という事実に驚く。この地には東京に生きる者の心に根ざした何かがあるのではないか。これもまた、考えてみる価値があるだろう。
昭和8年(1933)の地図。現在の塚の位置には大蔵省が
第2次大戦の敗戦後、一帯はGHQが接収(大蔵省は移転、都有地となっていた)、駐車場をつくることが決まり工事が始まる。しかし墓のようなものの前でブルドーザーの運転手(日本人)が転落して死亡するという事故が起きた。
そこでこの土地のことについて町会長に尋ねたところ塚の由緒が知れる。町会長ほか住民がGHQに「この地にとって重要な人物の墓である」と陳情、危ういところで工事は中止、塚の周りに柵が巡らされることになった。
昭和34年(1959)に接収が解除され、都から民間に払い下げられる。塚は地元の管理となり、町会有志、関連企業が発起人となって史蹟将門塚保存会が発足する。
36年(1961)植樹、玉垣つくりを含めた修復工事が行われ、東向きだった塚を西向きに改め、北側から参道を付けた。12月に慰霊祭を行う。
高度経済成長の中、その後も変化は続く。北側にビルが建設されるため北参道を閉鎖することになり、また日比谷通りと内堀通りとを結ぶ道ができることに伴って土地を提供し、その新道に面した南参道を新たにつくる。ここで四方をビルに囲まれた現在見る姿となる。
江戸以前 そして郷土誌の中に
ここで江戸時代の人間が描いた首塚および祭りなどについて眺めてみたい。
取り上げるのは斎藤幸孝の著書である。幸孝は安永元年(1772)に生まれ文化15年(1818)に47歳で没。神田三河町一帯の名主を務め「江戸名所図絵」の著述、編纂に関わった。
この書は幸孝の父幸雄の代に作業が始まり、幸孝の子幸成(月岑)の時に完成、天保5年から7年にかけて(1834-1836)出版。多くの図版とともに江戸の繁栄を伝える書として今も広く読まれている。
幸孝はその一方でより身近な神田一帯の地誌、郷土誌も手掛けており、ここで取り上げるのはそちらの方である。
「衢の塵(ちまたのちり)」は神田、「駿河台志」は駿河台を扱っている。神田明神旧地として首塚に言及している。
直接見聞したものもあろうが、古老曰くといった伝聞さらにはうわさ話の類もあり厳密な考証ではないが、貴重な史料ではある。
旧地での祭り 幸孝は「衢の塵」の中で神田明神の旧地は一ツ橋御館の中にあり、隔年の神田祭の際は代々この屋敷前に神輿を据え、お神酒を供えることになっていると述べている。さらに「同旧地祭式」という小見出しを立て、その模様を詳しく紹介する。
まず御館の中に椎(シイ)の木がありその下にしるし(社跡か)があったので、寛政4年(1792)正月25日に(神田明神)社司芝崎美作に命じてその古跡にあらたに社を立て神霊を鎮座奉った。以後、正月、5、9月25日には社司が奉幣の式を行った。古跡のほとりには小さな池が残っており、そこで魚を釣ることは禁じられていた。
祭りの際は館よりも神馬二疋が引かれる。館の門より獅子舞が入り玄関まで進む、そこで先導の社家(神職)2人がとどめ、獅子は付き人の太鼓、発声とともに退出。その跡に神輿安座を設け、社家が屋敷の目付にその旨を告げる。二つの神輿が安座したところで神酒、白銀などが供えられる。
時も宜しと社家が目付に(屋敷主人の)御代拝を申し伝え、用人がこの代拝を勤める。神主が奉幣拍手して用人は退座。神主は神慮平安に御着座あり目付に祝して儀式は滞りなく終了、神輿は立って門より出る。
その前にまず左の図をご覧いただきたい。「家康入城のころ(1590)の江戸」と題した図は、鈴木理生氏の著書「幻の江戸百年」(筑摩書房刊)所載の図を基に彩色、作図させていただいた。当時の地形に現在の主な地名を重ね、あわせて今のおおよその海岸線も示した。
注意されたいのは、将門首塚から下(南の方角)に延びる半島のような地形は房総半島ではない、ということである。これは「江戸前島(まえしま)」、現在の大手町から銀座方面へと突き出ていた陸地である。
日比谷の入江は城の間近まで入り込んでいた。「江に面する地(戸)」という意味でこの入江の奥こそ江戸の地名発祥の地と著者は言う。であるならば、首塚は江戸そのものと言える。
首塚のある場所は、海を渡って来た者が武蔵野の国に最初に足を踏み入れるに格好の地である。ここに房総に起源を持つ神社が建てられたことに不思議はない。
ちなみに斎藤幸孝は平川(図で日比谷入江に流れ込んでいる川)を境に三の丸の地は江戸の郷、反対側(日輪寺)は神田の郷と言った、との古老の説を伝えている。図にある本郷台地の突端は神田山(当時何と呼ばれていたかは別として)となって海に迫っている。
鈴木氏はこれまであまり触れられることのなかった前島に着目して、江戸の町づくりの跡をたどる。そこで非常に興味深いのが川あるいは広く水と町との関係である。
図を見て分かるように、川の流れは現在とは大きく異なっている。江戸の町づくりの歩みは河川の流れを変え、運河をはじめとする水路を建設し、海を埋め立てた歴史と言っていい。目を大きく関東平野に向ければ、江戸期の歴史は利根川治水の歴史とも言える。
先に将門公の本拠地下総を現茨城県と書いたが、平安期の関東の名称を現代の行政区分に当てはめることは、ほとんど意味がない。将門公の活動した現埼玉平野は利根川の水の中に所々乾いた土地が顔を出しているといった状態だった。そのような水と密接な関係を持った暮らしぶりは「将門記」の合戦場面からもうかがうことができる。
では、大きく変わる江戸の町で首塚がどのように記憶され記録されたかを見てみたい。
移転先 幕府の江戸建設の進展により神田明神、芝崎道場は移転することになったが、その点についても幸孝は言及している。
「衢の塵」では、神田明神は慶長8年(1603)に御城造営のころ駿河台・松平備前候宅の地に移ったが、元和2年(1617)に湯島の地に鎮座。芝崎道場は柳原(松枝町あたり)の南に移転、明暦の火事の後、浅草に移される、と述べている。
また「駿河台志」でも移転先について触れている。神田明神が移った駿河台の地はどこであろうかと疑問を出した後、芝崎道場は今の戸田日向守邸の所であろうと述べる。さらに「紅梅坂辻甚太郎屋敷で先ごろ石室を掘り出した。中には髪と太刀があったとか。掘った者は狂気となってしまった。そこで元のごとく収めて、上に妙見社を勧請し、後に八岐彦と祝い、白川少将の額を与えた。この石室はもしかしたら神田の社地にあった墓ではないか」といった(うわさ)話も紹介している。
いずれにせよ神田の郷で台といえるのは駿河台の甲賀町付近くらいで、神田山日輪寺(芝崎道場)というからには、このあたりにあったのであろう、といった意味のことを述べている。
幸孝が載せている寛政4年の駿河台の図で該当すると思われる箇所をマークしてみた。もとより 厳密な話ではないのではっきりとしたことは分からない。当時の駿河台付近は、神田川が両岸を深くえぐって流れ、川に臨んだ崖は絶壁となってそそり立っていた。周囲の景観は大きく変わったが。その面影はお茶の水付近でかすかに偲ぶことができるように思える。
紹介した記述を見ても、既に江戸時代を通じて土地や事柄についての記憶が薄れつつあったことが分かる。慶長から文化年間まで約200年、幸孝ら郷土誌家が古地図に当たってみても神田明神、芝崎道場(日輪寺)の移転の足取りはたどれなくなっていた。
石室に関するエピソードは、取るに足らないうわさ話のように思えるが、首塚にまつわるさまざまな伝説のひとつと考えると、示唆に富むところがあるように思える。
薄れつつある記憶がある一方で、一橋館での神事に見られるように連綿と続く人々の思いもある。神田明神の旧地という理由だけでは、江戸時代を超え現代までは続かないと思う。
神田山日輪寺。最終的に落ち着いたのが浅草。かつては芝崎の町名も残っていたというが、現在の地番は西浅草。浅草ビューホテルのすぐ近く。周囲の建物の中に埋没してひっそりと建っている。注意深く探さなければ見つからない地味なたたずまい。石塔には「時宗檀林神田山日輪寺」とある。
神田の起源 ここで神田という名称について少し考えてみたい。既に述べたように真教上人が荒れていた公の塚と傍らの祠とを整え、つくったのが神田明神である。神田明神はその後場所を変えたが名前はそのままに残り、湯島の現在地に至り江戸の総鎮守となった。将門公と深く結びついた神田という名称(地名)は江戸・東京を代表するものとなったのである。
しかし、そもそも神田という地名はどこから来たのか? 神田明神があったからその付近が神田と呼ばれるようになったのか。それとも逆に神田という地に塚、祠があったから上人は神田明神という名を与えたのか? 文政2年(1826)に記された「神田山日輪寺寺伝」は「(上人は)境内の一社荒れ果てたるを修復し、(将門公の霊を)これに配祀し、神田一郷の産土神として隔年祭礼を怠らず。今の神田明神是なり」と書いている。霊を祀った際に「神田明神」という名としたのかどうかは、この一文だけでは判断しがたい。
神田の地名起源に関しては二つの説に大別できる(「神田明神史考」を参考にさせていただきました)。
からだ ひとつは将門公の「からだ」という音から来たもので、時とともに音が変化して「かんだ」となったという説。
享保15年(1730)刊の「江府神社略記」は、将門公の首を追って体が常陸の国から武蔵国豊島郡に至り倒れたが、その後妖怪が出没して人民を悩ませた。「是将門の怨霊の祟りなりと謂うに因りて、郷民等一社の神と祭りて体(からだ)大明神と号す。後に神田(かんだ)と改むと云う。」と記している。「からだ」が「かんだ」になったという説明は、これより前の元禄7年(1694)刊の「増補江戸咄」にも載っているという。
この説は、公ゆかりの地(本拠地)である下総国岩井、現茨城県坂東市周辺にある地名や寺社名と密接に関わっている。猿島郡にあった神田山(かどやま)村は加戸山または一作門山(まさかどやま)」と称することもあった。現在は坂東市岩井町となりその名称は残っていない。
一方、神田の字を残す坂東市神田山(こちらも「かどやま」)の延命院本堂の北側には公の死後その体を埋めたといわれる「胴塚」(将門山ともいう)があり信仰を集めている。「からだ」から「かんだ」という音の変化は、まずこの地で起こり、中世に芝崎の地で将門公の霊を祀る社を整える際にその名称を引き継いだということは十分考えられる。
みとしろ もう一方の説は「神田」は「みとしろ」すなわち伊勢神宮(大神宮)に初穂を供える田である「神田(しんでん)」があった所というものである。享保17年(1732)刊の菊岡沾涼著「江戸砂子」に見られる。著者は足立郡にも神田村という地名があり「みとしろ」が武蔵国の各地にあったことを示すといったような説明をしている。これに対して古代、中世の芝崎は海(入江)に面した地であったことは間違いなく、大神宮の御料になるような良田があったはずがない、との反論がある。「江戸砂子」が人気を博したことからこの「みとしろ」説は普及し、斎藤月岑の「江戸名所図絵」にも受け継がれている。
興味深いのはこの説が、上に述べた茨城県の地名にも適用できることである。平凡社の「日本歴史地名体系」(1982年刊)の茨城県編を見ると、神田山村は古代、中世には伊勢神宮領相馬御厨に含まれていたと見られ、村名は神宮の「神田=しんでん」に由来するのではないかと記載されている。そうだとするならば、話は大きく一回転し「からだ、かんだ」の音が岩井から芝崎へと伝播したとしても、ルーツは「みとしろ」ということになる。しかしながら、語源がどうであれ岩井の人々が「かんだ」と読める「神田」の字に将門公の「からだ」の音、イメージを重ね合わせていたことは疑いないように思える。

現在の神田明神の地番は千代田区外神田2丁目16-2
神田の歴史 ここで別の資料を見てみよう。昭和13年(1938)に出版された東京市役所編の「東京市町名沿革史」である。
「神田区」の項を見ると、神田には古くは韓田の表記があったことを記し、さらに「江戸記聞」を引用して古代には「神田=みた」があった所と、みとしろ説を採用している。
この書の特徴は「神田」の語を文献史料の中にたどったころにある。まず、13世紀末から14世紀にかけて成立したとされる「吾妻鏡」の中に神田三郎なる人物の名が見える。この神田氏は平将門の後裔か、あるいはこの地に長く住んでいたため地名を氏の名にしたのではないか、と「沿革史」は公との関係にも触れて推測している。
15世紀室町時代、太田道灌の歌集「慕京集」に「神田の社にて読める」の語が見えるが、この書には疑義があるとしている(どの点かは不明)。
一方、16世紀半ばに成立、小田原北条氏配下の武士たちの所領について記した「小田原役帳」の中に、太田新六郎の知行として「江戸神田の内新掘方六貫五百八十文ノ」との記述があることから、この時点で神田の名称があったことは間違いないとする。
さらに下って16世紀後半の天正年間の文献「天正日記」18年の条に「神田の台」の語が散見され、神田が地名として定着していたことは明らかと述べている。天正18年(1590)8月1日江戸に入った徳川家康は町づくりに着手、神田の台は湿地埋め立てのため取り崩され、後の駿河台となる。いずれにせよ、家康入府のときに地名・神田は存在していたのである。
以上ざっと神田を巡る論議をたどってきたが、冒頭の問い、神社名が先か地名が先かについては、明確な答は得られなかった。今後の研究課題としたい。しかし起源がどうであれ、神田、江戸と将門公との切り離すことのできない関係については確認できたように思う。
言い伝え 祟りについて
将門公に関する言い伝えは多くの読み物、芝居の中で取り上げられ、庶民の心の中に「将門像」を形づくってきた。歴史上の人物・平将門とは当然異なるが、人々が将門公に託した思いをうかがい知ることはできる。もとより仔細な検討は手に余るので、ここでも史書に表れた将門公の言い伝えをいくつか拾い上げ、あわせて今も語られることの多い祟りについても考えてみたい。
鎧神社 JR大久保駅から歩いて15-20分
鎧と兜 まず鎧と兜、武具の名を冠した二つの神社を訪ねてみよう。どちらも将門公との関わりを今に伝える。
北新宿3丁目の鎧神社は日本武尊が鎧を納めたことを縁起として神社名がついたという。将門公の縁者が鎧を納めたとの言い伝えも残る。さらには、公を討った藤原秀郷がこの地で病を得て、祟りではないかと思い公の鎧を奉ったとの伝説もある。境内に立てられた同神社の説明板にはこの3つの説が並んで載せられている。
いずれにせよ同神社は日本武尊とともに将門公を祭神とし、柏木、淀橋地区の産土神として信仰を集めてきた。
兜神社 巨大な高速道路の下にひっそりと
兜町の地名の由来である兜神社は東京証券取引所の近く中央区日本橋兜町1丁目にある。同神社世話人会のパンフレットによれば、江戸時代、楓川の鎧の渡付近に将門公を祭った鎧稲荷と兜塚があり、地元の鎮守として漁民の信仰を集めていた。
明治以降、幾多の変遷を経て鎧稲荷と兜塚は兜神社となり証券業界の守り神となった。祭神の主神は商業の守護神・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)。
境内にある兜岩の言い伝えには源義家が兜を埋めたというもののほかに、将門公の首を兜に添えて持ち来った藤原秀郷が兜を埋めて塚となしたという説も紹介されている。
巨大化 「将門記」では公の最期は、矢に当たって倒れ、首は京に送られて獄門にさらされたと書くにとどまる。しかし、京を震撼させたこの大事件は、人々の想像力の中でさらに巨大化していく。
将門公の首に関する伝説の典型は「太平記」に見ることができる。軍記物の古典とされるこの書は、室町前期14世紀中ごろから成立したとされ、南北朝の動乱を主題としているが、将門公の首に関する記述は巻16「日本朝敵事」にある。概略は次の通り。
俵藤太に(2月に)切られた公の首は3月まで色変ぜず眼もふさがず、常に牙をかんで「わが五体はいずれのところにかあらん。ここに来たれ。頭(くび)ついで今ひと軍(いくさ)せん」と夜な夜な叫ぶので、恐れおののかない人はなかった。そこに通りがかった者が「将門は米かみよりぞ斬られける 俵藤太が謀(はかりごと)にて」と詠むと、首はからからと笑い、眼をふさいでついに朽ち果てた。
江戸時代に刊行された歴史読み物「前太平記」では、このエピソードに続いて、こう記す。
「それでも東国が懐かしかったのであろう、首は空を飛んで帰り武蔵の国のとある田の辺りに落ちた。それより毎夜光を発し、人々の肝を冷やさないではおかなかった。稀代のくせ者であるだけにどんな祟りをなすやもしれないと、その場所に祠を建て神田明神と祝い祀ったところ、怒りも鎮まったのか、その後は何事もなくなった」。
ところで通りがかりの者が詠んだという歌である。その後も多くの書に引用されて今に伝わっている(「斬られける」が「射られける」というバージョンもある)。その意味は現代人にはいささか分かりにくいが、要するに「米」「俵」「はかり」が縁語になっている、いわば言葉遊びである。
この歌に関するエピソードは「太平記」以前の史書にも登場、人々の間でよく知られていたことをうかがわせる。源平の争いを描き、鎌倉時代(12-14世紀)に成立したとされる「保元」「平治」物語のうち「平治物語」中の巻、源義朝の首が京で獄門にかけられた場面。過去の例として将門公の首のエピソードと共にこの歌が引用されるのである。その一節では、詠んだのは「藤六といふ歌読」ということになっている。岩波書店刊の新日本古典文学大系の注によれば、藤六というのは滑稽な歌を詠む人間の一般名称との説が載せられている。確かに、義朝の首に添えられた歌も滑稽(むしろ悪趣味といいたい)なものである。そこで「太平記」の将門公の首の場面を読み返してみると、機智に一本取られた首が引き下がるという、読者の笑いを取るための場面ではないかと思えてくる。「平治物語」では「義朝の首も笑うのではないか、とうわさした」と結んでいる。
切られた首に対する人々の恐怖は、多くの史書にうかがえるが、それに関するエピソードは、現代の感覚では、おおらかな怪異譚といった趣きである。俵藤太にしても、もともと田原という地名を姓にしていたが、ムカデを退治して龍神から与えられた俵が使えど使えど中身が尽きないところから俵と呼ばれるようになった、という民話的世界を背景とした人物として立ち現れる。。
将門公の祟り伝説を考えるとき、日常と超自然がいわば混然一体となった世界に生きた人々の心情に思いをいたさなければ真の意味は理解できないように思える。
イメージ 祟りの話に移る前に、当時の人々が思い描いた将門公のイメージを史書に見てみたい。
「保元物語」 その昔承平のころ(原文のまま)、平将門が八カ国を討ち取って都へ攻め上がるというので、諸山では将門討伐のための祈祷が行われた。天台の座主・法性坊大僧都尊意は、比叡山大講堂で不動安鎮国家法を修したところ、弓箭を帯した将門が炎の上に現れ、ほどなく討ち取られたーと比較的シンプルに記している。
これが「太平記」では、概略「平将門は、その身、鉄身で矢も剣も歯が立たない。そこで諸卿は詮議して鉄(くろがね)の四天王を鋳(い)奉って比叡山大講堂に安置。四天合行の法を行わせたところ、天から白羽の矢が一筋降って将門の眉間に立った」と、劇的に盛り上げる。
「前太平記」は、これらをミックス、他の要素も加えてさらにドラマチックに仕立て上げている。
「将門記」の中で公の最期を描いた場面に次の一節がある。「ついに琢鹿(たくろく)の野に戦いて独り蚩尤(しゆう)の地に滅びぬ」(漢字の表記には異同がある)。蚩尤は中国古代の書「山海経」などに見える神話世界の人物。銅の頭に鉄の額、人の体に牛の蹄、角があるといわれる。雨、風、霧などを巻き起こす力を持ち、兄弟と共に天帝である黄帝と戦い敗死した。もちろん将門公を直接描写したわけではなく、その運命についての比喩ではあるが、いわば人間離れした力の持ち主というイメージは後世の将門像形成に影響を与えたことは間違いない。
そうでなくとも、情報(ビジュアルの面で)の乏しかった古代、はるか離れた東国を瞬く間に席巻した武将の人物像が京の人々の間で、人間離れしたものへと肥大化していくことに不思議はない。ましてや、その首がさらされた時の興奮はどのようなものであったか想像に難くない。

江戸後期、天保12年に刊行された絵草紙「源氏一統志」(松亭金水著)は「洛中の貴賎是を見んとて、群集すること、あたかも蟻の途渡(とわた)るに似たり。」と表現している。
現代のように、さまざまなメディアを通じて人物のイメージに接することのできなかった時代に、生身の体(その一部)が持っていた力を感じ取らなければ、伝説の多くは理解できないように思える。
「源氏一統誌」の挿絵
葛飾北斎筆の平将門
祟り 神田山日輪寺の寺伝はこう言う。
承平の乱(まま)の後、所縁の者の所為であろう(芝崎の地に)平将門の墳を築いたのだが、星移り物換わりいつか塚は荒廃し花を手向ける者もなくなった。よって凶霊祟りをなし、病災、天災、枚挙にいとまなく大いに村民を悩ました。村民は恐れおののきながらも逃れる術もなく空しく歳が過ぎた。
ときに嘉元年間、遊行二世他阿真教上人が東国に教えを広めに来られ、この地に至った。村人は上人に凶霊をなだめんことを乞い願い、そこで上人が法号を授与し供養回向したところ霊魂の祟りは退き、死に向かっていた者もことごとく回復した。
もとより寺の立場から書かれたものではあるが、塚に関わる祟り、言い伝えの基本的なものである。江戸幕府が文政年間(19世紀初め)に町々の旧事・伝承を報告させ、それを基にまとめた資料文書「御府内備考」(正続)にも、塚の祟りについての記述はあるが、ほぼ寺伝と同様である。言い伝えの中で、古いところでは、天暦4年(950)、すなわち将門公敗死の10年後、首塚が鳴動、光を発し異形の武士が現れたという怪異なものもある。
ところで寺伝に見られるような祟りの話は、明治以降の怪談的な祟り物語とはかなり印象が異なる。そこから浮かび上がるのは、塚の荒れるのを嘆き(もちろん恐れ)ながらも、霊を鎮めるためのしかるべき人物、徳の高い人物が現れるのを待っている人々の姿であるように思える。祟りはその願望の裏返しの表現ではないか。
菅公 ここで菅原道真すなわち菅公の祟り伝説と比べてみたい。「将門記」では将門公に皇位を授けるお告げという重要な場面に菅公の霊が登場する。将門公と菅公になにかしら共通のものがあると、人々が感じていたことをうかがわせる。しかし、祟りという点で見た場合にはどうであろうか。菅公の怒りの雷は内裏を直撃する。菅公を陥れた(とされる)藤原時平の子孫は早逝する。すなわち祟りは、直接に対峙した者(その子孫)に向けられる。将門公を討った平貞盛、藤原秀郷(俵藤太)に目に見える祟りはなく、子孫も繁栄した。秀郷の息子・千晴は謀反に連座して流罪となったが、これは祟りとは関係ないであろう。また、鎧神社の伝承に秀郷が、自らの病は将門公の祟りではと思ったとあるが、これも菅公のすさまじい怒りに比べれば祟りと言えるほどのものではない。
将門公の祟りといわれるものは、公に害をなした者に関することではなく、塚が荒れ、魂が鎮まらないことに関するものだ、という点が特徴であるように思える。
八所御霊 寛永年間(17世紀半ば)江戸にやって来た公卿の大納言烏丸光広卿が神田明神に足をとめ、将門公の勅免についてとりなそう、と請け合ったエピソードがあるが、その際に言及したのがが「八所御霊の例もあるので」ということだった。八所御霊は伊予親王(桓武天皇の皇子)、橘逸勢ら主に謀反の疑いで処罰され、その後冤罪と認められ許された高位高官の人物の魂を鎮めるために祭ったものである。もちろん菅原道真公も含まれる。
しかし将門公の場合は、謀反の疑いをかけられたが後に冤罪と分かったというものではない。天皇の位を望んだか否かについては異論があるが、中央に対して(結果的にであれ)反乱を起こしたことは公自身、上申書の中ではっきり認めている。
勅免の後、明治に入って朝敵論がむし返されたゆえんでもある。公のこの世に残された思いは、疑いをかけられ、あるいは陥れられた無念さではなく、史書にあるように「今ひとたび戦をせん」というものであったろう。怨霊、祟りといったことを考える際に参考になるように思う。
明治以降の祟りについては、時代が近いだけにより具体的なものとなり(いわゆる犠牲者の名前も特定されている)、マスコミの発達により話が増幅され広まっていった。それは今も続いている。いわく、ビルの谷間に塚が残っているのは、大企業といえども触れるのを恐れているからだ。現に、しかじかの不可思議な出来事があった…。これらの話を面白半分に受け止める者もいれば、まじめにとらえる者もいるだろう。受け取る者の自由である。ただ、将門公の祟りといった話は広く知られているだけに、これだけは確認しておきたい。
祟りが怖いから塚には手を触れないというのであれば、祟りを恐れない時代が来た時に(そう遠くはないかもしれない)塚の命運は尽きるであろう。一方で、塚が荒れ、あるいは潰されそうそうになるなど危機に瀕したときに、塚の存続を願う人々の危機感が祟りを現出させるのだとするならば、塚はまだまだ今の場所にあり続けるだろう。

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