東京には江戸開府から明治、大正、昭和、平成への400年の歴史が積み重なり、さらにその下には古代、中世の武蔵国が眠っている。平成のいま、東京の街を歩いてみながら今に生きる江戸を見つけ、そのまた昔への想像力を働かせてみたい。
まずは千代田区の一口坂から出発しよう。(2009年9月)
われらが先人、江戸の人々は健脚だった。どこへでも歩いて行き、その脚の届く範囲が生活の空間だった。ならば、われらもまた車を、バスを、地下鉄を降り、脚を使って江戸の空間を体験してみよう。平成・江戸東京ウォーキングの小さな旅へ
江戸の町並みの変貌を再現するには時代の異なる切絵図を並べてみるのがいいだろう。街道となると一般にはなかなか地図は手に入らない。しかし拡幅され舗装されても道筋は意外に変わっていない。ここはひとつ歩いてみよう
もちろん謎はオーバーだ。だが小さな坂もその名の由来をたずねてみるとおもしろい。一口坂は「ひとくち」坂か「いもあらい」坂か?
坂の入口付近に立つ道標には千代田区教育委員会による坂の名前についての考証が記されている。
かつての区名を冠した「麹町区史」を引用した説明文の大意は「一口坂は関西にある地名同様”いもあらいざか”と読むべきであろう。その名は疱瘡除けの神社に由来すると思われるが、神社の存在は古地図でも確かめられない」というものである。
スペースの制約もあっていささか簡潔に過ぎ、読後いくつかの疑問が浮かんでくる。一つずつ確かめていってみよう。
靖国通り交差点から外濠へと通じる一口坂を見下ろす
坂の名の由来を記した道標
坂の下側から撮影している
まず「関西の地名」とは京都府久御山町にある大字の名「一口=いもあらい」のこと。京都市の南、宇治川沿い、京都競馬場にも近い地である。かつて淀川と宇治の中間にあった巨椋池(おぐらいけ、昭和の初めに干拓により消滅)の西岸を指す地名で、要衝の地として古くから文献に登場する。難読で知られ名前の由来については幾つか説があるが一般に流布される言い伝えを紹介、後により詳しく見てみたい。
「巨椋池は流入する河川がなく、淀川に流れ出る開口部はこの地だけだった。そのため”淀の一口(ひとくち、いちくち)”と呼ばれ、それが地名となった。ある時、疱瘡=ほうそう(イモと呼ばれた)が流行、病気退散を願った神社の霊験あらたかだったことから”いも祓(はら)い”の神社として有名になり、いつしか一口は”いもあらい”と呼ばれるようになった。
「いも」は「いもかさ」の略で天然痘を意味した。いもかさの語源はまた別の問題であろう。各地に残る「かさもり=瘡守、笠森」神社の名は、人々がいかに天然痘を恐れたかを物語っている。
先に進む前に、ここで地図で一口坂の変遷をたどってみよう。幕府の普請奉行が編纂したものと、一般によく知られた尾張屋版切絵図と明治初期の地図を並べてみた。どの地図にも一口坂の文字の記載はないので、場所を特定する資料を載せた。この地域は番町の名の通り旗本・御家人の屋敷が立ち並んでいた。現在靖国神社のある場所は火消御役屋敷、馬場などと移り変わり、明治7年の地図には招魂社と表記されている。いずれの地図にも神社は見当たらない。また、現在の新見附橋は明治初期に至っても存在せず、一口坂は長い間行き止まりの道だったことを覚えておきたい。
切絵図の方位は北が上とは決まっていない。従ってここに掲げたものは現代の地図とは上下が逆なので磁石を添えた。
…表六番町通りに、法眼坂通りの北端が突きあたる丁字点より少し東方から、北方へ三番町通りを横切り、さらに表四番町通りを横切って富士見坂下に出、さらに進んで外濠端にいたる道…のうち旧時の三番町から四番町へ下る坂を一口坂という。正しくは「いもあらい坂」と訓(よ)むべきだとの説もある。(綿谷雪著「考証 江戸切絵図」)
そこで京都府の一口だが、平凡社の「日本歴史地名大系」は文献の中にその表記と読みをたどっている。
それによると、この一帯は中世には芋洗と記されたが近世になっては一口の表記が用いられるようになった。芋洗は、「平家物語」巻四の宇治橋での戦(12世紀)や承久の変(13世紀)を綴った「吾妻鏡」などの史書に登場、京都南部、淀川に近い戦略上の拠点と見られていたことがうかがえる。
「日本歴史地名大系」は芋洗の地名の由来については触れていない。一方、一口に関しては「山城名勝志」の「昔は三方が沼で入口は一方だけだったので一口と書いたと古老は伝えている」との一節を引用、「しかしこれは一口の用字に基づいてのものである。」と論評している。
これらの記述から推測できるのは、この地は古くは「芋洗=いもあらい」と呼ばれていた。しかし、その語源は定かではない。その後、たぶん地形によるものから「一口」と表記が変わった。だが、呼び名は従来の「いもあらい」がそのまま残り、結果として表記と読みの間に連関がなくなり、難読地名となった。そして、それぞれ(表記と読み)の由来について説明もしくは言い伝えが残された、ということではないか。
では、この山城の国の一口とわが九段の一口坂との間には間違いなく関係があるのだろうか。そのことについて考えるには、まず東京の中の「いもあらい坂」を調べなければならない。「日本歴史地名大系」の東京編には芋洗の地名がいくつか見られるが「芋洗坂」は2カ所(一口坂は入っていない)である。その二つは、お茶の水の淡路坂と六本木の芋洗坂。
山城の一口と関係があるとされているのが淡路坂である。「日本歴史地名大系」によると、この坂の名は近くに鈴木淡路守の屋敷があったことに由来すると説明。さらに別名として相生坂、一口坂(いもあらいざか)と呼ばれたこと(「風俗画報」などによる)を紹介している。相生坂は二つの坂が並行しているときに付けられる名のようで、神田川をはさんだ対岸の湯島聖堂前の昌平坂との対比によるものと思われる。面白いことに現在は湯島聖堂前の坂が相生坂と呼ばれている。
「いもあらい」坂の名称のほうは近くの太田姫稲荷神社に因んだものとされている。同神社について昭和13年(1938)東京市発行の「東京市町名沿革史」は駿河台4丁目の項で「東京案内」を引用して「昔時太田道灌山城一口(いもあらい)の里の稲荷を城内に勧請し後此処に移す。故に一に一口稲荷と言ふ。明治5年村社に列す」と解説している。この神社は昭和6年(1931)に総武線建設のために神田川沿いの地から少し神保町方面に下った現在地(神田駿河台1丁目、明大通りの東側)に移転しているが、上記の記述は旧地のことと思われる。
神社の社記など由来について書かれたものをいくつか読むと、太田資長(道灌)の娘が疱瘡を病んだとき、関東にもその名を知られた山城の一口稲荷を勧請したという点では一致する。しかし「いもあらい」の語については、穢(けが)れや災いを洗い清めてくれる「穢(え)もあらい」から来ているとするものもある。また、山城の一口稲荷の創建については、平安前期の公卿・文人小野篁(おののたかむら)によるものと伝えるが、山城の稲荷が現存していないので詳しいことは確かめようがない。
幕府普請奉行編切絵図 元禄元年(1688)ころの地形
淡路坂の坂上に鈴木淡路守の屋敷がある。だが太田姫稲荷の記載はない。淡路守の東側に松平伊豆守の広大な屋敷が見える。
ほぼ170年後の尾張屋版切絵図。こちらには太田姫稲荷の記載がある。淡路(アワジと表記)坂はあるが淡路守の名前はない
切絵図では神社や坂の名を必ずしも記載するものではないようだ
現在の淡路坂周辺 江戸期太田姫稲荷は聖橋のたもとにあった。このことは明治に入って撮られた写真からも確かめられる。淡路坂の下、神田川にかかっていた昌平橋(現在の昌平橋とは位置が異なる)は一名「一口(いもあらい)橋」と呼ばれていたという。
聖橋のたもとから淡路坂の先、秋葉原方面を望む。意外に緑が濃い
移転した現在の太田姫稲荷神社。巨大なビルの谷間、村社の名の通りひなびた趣き
太田姫稲荷神社と山城の一口稲荷との関係についてはまだよく分からない点があるが、この駿河台の地に「一口(いもあらい)坂」と呼ばれる坂があったことは間違いないだろう。
六本木の芋洗坂は六本木交差点から麻布十番方面へと下る坂で今も多くの人が利用している、というより東京で最もにぎやかな場所のひとつと言っていい。
しかし尾張屋版の切絵図、すなわち江戸も終わり近くなっても、江戸の境を表す朱引のすぐ近くに位置している。かろうじて「江戸のうち」といったところである。いまに残る狸穴(まみあな)の地名を見てもわかるように草深い所で、ひっそりと稲荷神社が建つにはふさわしい場所ではある。だが、文政年間(19世紀前半)に幕府が江戸市内各町の名主に提出させた「町方書上」を見る限りでは一口とも稲荷とも関係がない。
麻布編の記述を要約すると「大久保加賀守の屋敷と北日下(切絵図の表記はケ)窪町とに挟まれた往還坂を俗に芋洗坂と読んでおります。これはここに前栽問屋(青物問屋)が多くあるためと伝えられております」。そのあとに、芋問屋家主源六に関する記述が続く。
六本木交差点から芋洗坂を見下ろす
ここで、これまでに分かったことを整理してみたい。まず言えるのは「一口」という漢字の表記から「いもあらい」という音は、ただちには出てこないということである。
山城の場合は、先に「いもあらい」の音があり、それが後の地名表記である「一口」の字と結び付いたため、表記と読みの間に有機的なつながりのない難読地名になったと推測した。すなわち「一口=いもあらい」の名称は山城の特別な事例であり、であるならば同様の地名は山城と関係があるに違いないと推定できる。その実例を淡路坂に見ることができた。
もちろん全国のどこかで、山城とは全く関係のない「一口=いもあらい」の地名が見つかれば、この推定は覆される。その場合、その地にいもあらい稲荷神社があれば、偶然別々の場所で同じような表記と読みの結び付きが起きたと見ることができる。もし神社がなければ、一口という字それ自体が「いもあらい」の読みを導き出すということだろう。
では、九段の一口坂の場合はどうであろうか。
というわけで一口坂に立ち返ろう。まず、道標が言うように「いもあらい」稲荷の存在は確かめられていない。山城と関係があるなしに関わらず、である。
さらに、この坂が「いもあらい」坂と呼ばれていた記録、言い伝えもないようである。ただ「一口」の表記と「ひとくち」の音が残されているだけである。
これらのことを考え合わせると「一口」坂が「いもあらい」坂であったと考える根拠は少ない。
既に述べたように一口坂は長い間、外濠で行き止まりの入(出)口がひとつの坂であった。この坂は地形から「一口(ひとくち)坂」と名付けられ、それがそのまま伝承されたと考えるのが自然のように思われる。
ここで気になるのが淡路坂の存在である。淡路坂と一口坂はすぐ近くとは言えないまでも、さほど離れた距離ではない。
淡路坂の別名一口坂と番町(当時の)の一口坂はたまたま名前が同じなだけで全く無関係なのであろうか? それとも何か関係があったのか?
太田姫稲荷神社の分社があったのではないか…切絵図が神社を必ずしも記載するものでないことは既に見た通りである。
あるいは神社とは関係なく、形状その他なんらかのつながり、連想からいわば姉妹坂として番町のほうも一口坂とされたのではないか。そうならば読みは当然「いもあらい」坂である。
十分あり得る推測ではあるが、残念ながら裏付ける史料はないようだ。
探索もとりあえずここまで。当然かもしれないが、一口坂の謎の解明はならなかった。もっとも探索のほうは機会があれば続けたい。では最後に一口坂を歩いてみよう。
靖国通りへ向かう車の列
新見附橋たもとの土手
坂そのものは50mほど。法政の大学院、オフィスビルに挟まれ、まさに谷間。交通量も多い。旗本・御家人の屋敷が立ち並んでいたさまは想像すべくもない。
坂を降りた右側にあるNTT九段ビル脇の道は靖国神社の裏門に突き当たってT字路になっている。この道が切絵図にある表四番町通りだろうか。
表四番町通り?
靖国神社裏門で行き止まり
落ち着いてはいるが特にこれといった見所はない。
江戸の昔も一口坂は「江戸名所図絵」には登場しないし、仇討騒ぎで知られる市谷・浄瑠璃坂のように世間の耳目を集める事件の舞台となったこともなかった。今も昔も静かにそこにあるといった感じだ。
しかし、その名前に興味を持ったことが縁で、江戸さらにその昔のことをほんの少しだけでも勉強することができた。多謝。
坂を下った道は富士見坂とぶつかり交差点となっているが、昔はここで土手に突き当たり終点となった。今でも夏には土手の深い緑が涼感を誘う。ここから外濠にかかる新見附橋を渡ると外堀通りに至る。
ここまで歩いても坂の上からせいぜい数百メートルといったところ。
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