川田のファイトスタイルは、決してU系ではない。

プロレスらしいプロレスである。

ただ蹴りが主体であるということからそっちのイメージも強い。

蹴りと関節技主体のU系の選手にも、プロレスを見て育ったひとが多い。

ともなれば、川田との闘いというのはイメージしやすいものだろう。

それが現実のものとなった。

ゲーリー・オブライトが全日に移籍。

95年10月25日の武道館で川田とのシングルが決定した。

試合は、全日本プロレスらしからぬ展開を見せた。

プロレスには、誰しも両者ががっちりと組み合うイメージを持っている。

実際、TVゲームにおけるプロレスは、組み合ってから技が出せるようになっているものが多い。

ところが、川田とオブライトは、相手と距離を取った。

いわゆるUスタイル。

いかにUWFで実績のあるオブライトとはいえ、全日マットは初めてだ。

川田は、オブライトのスタイルに歩み寄ることで、オブライトの実力を引き出してやろうとしたのだ。

オブライトはすばらしいスープレックスをいくつも川田に決めたが、最後は川田の腕ひしぎ逆十字固めにギブアップ。

これもまた全日本では珍しい決め技。

ギブアップで決まるということ自体がけっこう珍しい。

川田の懐の広さを見せつけた一戦であった。


川田とUWFで忘れてはいけないのが、96年9月11日の神宮球場。

全日所属の川田がUWFインターのマットに立ったのだ。

当時「U系のアンドレ」と呼ばれていた高山善廣を相手に、ジャンピング・ハイキックで完勝。

これをきっかけに高山の目標は川田になり、「レスラーである限り川田を追う」とまで宣言して、全日に参戦。

その高山の実力は、川田も認めている。

特に高山のヒザ蹴りを誉めていた。

高山もヒザには自信があるようで、これは全日マットで猛威を揮った。

川田も高山の影響なのか、この攻撃をするようになった。

両者による2度目の一騎討ちは、97年10月21日の武道館。

実に異質な闘いであった。

約15分間、川田はほとんど手を出さず、高山の攻撃を受けまくった。

そのうえで、川田が反撃を開始、3分弱で高山を沈めた。

試合後の川田のコメントは、「(高山の攻撃は)効いてない」。

川田の「受け」のすごさを震撼させられた一戦だった。

その後もふたりの対戦は過激さを増していき、ついに99年7月の後楽園ホールでは、川田は高山を顔面蹴りでKOした(裁定はリングアウト)。

ここ数年の間では、もっとも「全日らしからぬ」試合となったのが、川田VS高山であった。


97年10月の高山戦を前にしたとき、川田は「キングダム(当時高山が所属していた団体)のルールでやってもいい」と発言した。

それを聞いて、自分も川田と闘えるのでは、と奮起したのが垣原賢人。

UWFに所属していた頃から川田との対戦を熱望していた垣原は、98年9月11日の武道館、川田と初のシングルを迎えた。

垣原は全日に参戦してからあみ出したカッキー・カッターやマウントポジションからの掌底などで川田を攻めた。

しかし川田はそれらを軽くあしらい、デンジャラス・バックドロップで垣原の動きを止めると、ビンタを連発。

それでフォール勝ち。

垣原は無念のあまり武道館のマットで涙を流した。


小橋は垣原との初対戦を終えた直後に、その感想をこう語っている。

「秋山がきたころのことを思い出した」

そう思ったのは、小橋だけではない。

川田もそうだ。

その証拠が、98年10月31日の武道館。

川田&田上対高山&垣原のタッグマッチ。

そこには、注目すべき場面があった。

川田は、垣原にボディスラムからのサッカーボールキックを決めたのだ。

秋山以来、川田の激しい攻撃を受けるレスラーは出てきていなかった。

それがついに出てきた。

9月11日のビンタ連発も、またその一環であると見て間違いない。

垣原のイメージカラーは黄色。

川田のイメージカラーは黄色と黒。

垣原に川田の黒が注入されると、おもしろいことになると思っていたが、全日を退団し、ノアに移籍した垣原には「黒」が注入されていた。

オープンフィンガーグローブをつけて、問答無用のパンチ攻撃を繰り出し、ノアの台風の目になった。

そのとき、このファイトスタイルならば「痛みの伝わるプロレス」を掲げる新生全日に残ったほうがよかったという批判めいた意見が多数あった。

その意見に同調するかのように、垣原はノアを退団し、全日にUターン復帰。

理由は「川田から3カウントないしギブアップを奪う」ため。

それ以外の目的はなにもない。

だからタッグマッチにおいても、川田と垣原の絡みになるとほとんどシングルマッチの様相を呈してくる。

内容は単純明快にして豪快な打撃戦。

このときの垣原はとても輝いていた。

また長井満也と「ストロングス」を結成し、アジアタッグを獲るなど新日との対抗戦でも全日代表として戦っていたのだが、負傷欠場後いきなり新日へ移籍。

もともとフリーの選手なので、そのあたり細かいツッコミは不要だろう。

いずれまた川田とのシングルを見てみたいと思う。


UWFからきた上記の3名オブライト、高山、垣原に対して、全日(G馬場・三沢)がとった政策は「純プロレスへの適応の強制」であった。

その3人で組んでいたユニット「U−TOP」も社命で解散させ、「全日のレスラー」として育て上げようとしたのだ。

オブライトは不運にも病死してしまったが、垣原は三沢主催のユニット「アンタッチャブル」のメンバーとなり、高山は大森と組んでノーフィアーを結成した。

その後、高山が大森とのコンビで世界タッグを奪取するなど、概ねうまくいったと思われるが、この方針にそれとなく逆らっていたものがいる。

川田だ。

川田だけはこの3名と戦うとき、全日ルール内で、できる限りUスタイルに歩み寄ってみせた。

3人からUのニオイが消えるのを防いでいた。

これこそが垣原を全日へUターン復帰させるきっかけとなったと思われる。

垣原は自分の望む戦いをできる相手は川田だと思い、ジュニアヘビーなのにヘビー級の川田に真っ向から勝負を挑んできた。

そして高山は川田に「自分だけ追うのではなく、もっと幅広くやったほうがいい」といわれ、大森とノーフィアーを結成し、ヒールとして覚醒。

同時に標的を川田からベビーフェイスの小橋へと移し、UWF経由の純プロレスラーに生まれ変わって、いまもノアにいる。

すべては95年10月25日の武道館、川田VSオブライトからはじまった。

通常は男女の仲をたとえていう言葉だが、これで締めたい。

縁は異なもの味なもの。

 
川田利明ファイル