浅野久男PHOTOGRAPHS>>>

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8.北海道の悲しい現実

ある写真協会の関係者と東京と関西の考え方の違いについてお話する機会があった。
要するに話しがあわないのだそうだ。
オープニングレセプションの事なんかがその違いがはっきりわかるんだけども、はじめて東京の写真関係のレセプション・パーティに出たときはびっくりしたんだけど、関西は、東京の人が驚くほど凄いらしい?
ただ恐らくどちらもが関係する人が集まって色んな話しをしたり、人間関係を広めていこうとしたりする為に、そういったレセプションパーティがあるのだけども、北海道の事を思い出すと風土の違いといえばそれまでだけどもとても閉鎖的な感じがして正直出てみたいと思えない。
12月のフォトコンベンションの時のレセプションに出た人は(酔っ払ってステージに昇って何やら言っていた人がいたけど)小さなグループの反省会か、お友達同士が集まっての飲み会でしかない。
写真展自体が外に広げていこうという考えがないのか内輪で何やら小難しい顔をしてアートっぽい事をこねくりまわすのがお芸術だという感じがしてまいっちゃう。
結局レセプションだけではなく、写真展というものに対しても小さな枠の中で一生懸命やってるからなのかもしれないけど・・・・・

気をつけようっと・・・・・






7.日常性について、そして記録としての写真の意味について


昨今「流行」のいわゆる「廃墟」写真、懐かしさを売り物にした町並みなどの景観写真について、5年ほど前のpassage展の際に書いた文章です。
考え方として浅野のスタンスはいまでもそう変わってはいません。


昔々大学生の頃に労働―生産―生活過程分析という方法論について、意味が良くわからないながらも、取り組んだ経験があります。

Sさんの写真についてここ数日考え続けています。

前に日常性について重要だと浅野は思うとしました。
そして近日中に文章にするともしました。
しかし、なかなかその真意がうまく文章化出来ずにいます。

懐かしさと「廃墟」についてそして、現実の生活について
ある面においてこれらは、並立するものなのかもしれないと浅野は思っています
ただ、その前提は何よりも生きている人に対しての共感であると思います

恐らく懐かしさ―いわゆるノスタルジーというものが過去の生活に対して、その痕跡を見せることによって、何らかの共感を得るものと考えます

したがって、例えばもう遺跡と呼ばれるようになってしまった廃墟(?)、例えば何とか古墳だとか何とか遺跡なんかの時代の日常生活などというものをちょっと共感するっていうことは難しいわけです。

それは結局過去のある「限定されたイメージ」をもとに人は目の前の光景を判断しているからなのだと思います。

単なるノスタルジーはそこに住んでいる人―そこにかって住んでいたであろう人の現実の生活について、本当のことを知っているわけではなく、勝手に撮影者が感じたイメージによって想像された世界に対して評価していると思います
したがって、もしかしたらその橋脚に人柱として埋められている中国人や朝鮮人の人の存在は何処かに消えてしまうわけです

人は良かった時代しか思い出せない生き物で、過去の辛かったことやひどかったことに関してあまりにも無関心なのかもしれません
踏んだ人は踏まれた人の痛みは分からないということなのだと思います
ましては足を踏んだ人々の子ども達にとって、父や祖父の世代の人々が踏み潰した人々の痛みには無頓着になってしまうのも仕方無い事なのかもしれません。
廃墟ものの写真群に対して浅野が感じる、無責任なノスタルジーはそんな無頓着さに対しての嫌悪感なのかもしれません。
それは廃墟に浅野が立つときに何時も感じるそこに住んでいた「念」のようなものに対する一種の怖れなのかもしれないのです。

昨年の夏、尺別の炭鉱の跡を訪ねました
その夜、浅野は暗闇の中で盆踊りのやぐらの灯りが光り、白いランニングと腹巻のおじさんや浴衣姿の子ども達が楽しそうに踊っている姿を見ました。
もう20年以上も昔に浅野が子どもの頃と同じ光景のようでした。
その光景は決して幻ではなく現実の光景なのだけども、浅野には尺別の炭鉱に住んでいた人々の「念」をそこに感じられました。

Sさんの写真に期待する生活感とはそういった念のようなものなのかもしれないと、浅野は思います。

廃墟との対比の中でそれらの生活感は互いに引き立つと思います

生きている人、そしてそこに生きていた人について考える時、共感を持って語りたいと浅野は思うのです。



6.子供達も少しだけ大人になった


考えてみると、始めてハンバーガーなるものを食べたのは16歳位の年のころだ。近くに出来たダイエーの食料品売り場の軽食スナックで「ドムドム」のハンバーガーを食べた記憶がある。まだマクドナルドが札幌に来ていなかったのかもしれない。
あの頃はファーストフードというよりは、田舎の子供達にとってハンバーガーというのは都会のご馳走だったのではないだろうかと思う。

ケアンズのマクドナルドでオーストラリアンバーガー(日本で言えばテリヤキチキンバーガーみたいなご当地バーガー)を食べていた。子供達は「ハッピーセット」(おもちゃ付きのセット)を食べてご満悦である。
海外に行く事だってままならない時代を経て今の子供達はやはり恵まれているなと感じる。

今回彼らには自分の食べたいもの、飲みたいものは自分で頼ませる事にした。
最初の「こーら」から「COKE」へと「おれんじじゅーす」から「orange juce」へと変わっていく過程が親として見ていてとても面白かった。

とはいえ、父は常に「わん びぁ ぷりーず」が関の山で、発音が妙に良いのが「えくす きゅーず みぃ」だけで後は妻を連れてきて「she said」(何故か過去形)でのかみさん任せなのだからあまりでかい事は言えない。

子供達も色々考えていたようだ。
最初は照れくさそうにしていたが、段々なれていくとオレンジジュースなどを自分で頼んで飲んでいたりする。
もしかしたら、僕より馴染んでいるのかもしれない。
子供の順応性の高さというのに感心する一方、時代の違いというものを痛感した。


ケアンズのマクドナルド


5.天国に少しだけ近い島‐オーストラリアで考えた事


先日オーストラリアに行った。
南半球に行って最初に気がついたこと、太陽が南ではなく北にあるということ。

グレートバリア・リーフにある小さな島の話をしよう。

ケアンズから高速船で45分、グレートバリアリーフの入り口にその島がある。
グリーン島という、その名前の通り緑の熱帯雨林とさんご礁の白い砂浜の小さな島だ。
観光用の島で夜になるとただ一つのホテルの滞在客だけが住人となる、そんな島だ。

昼間は観光客が次から次へと船に乗ってやってくる。
ただ大多数の客はすぐ帰ってしまうか、本格的なダイビングをする人は沖合いのポンツーンに行くので、中心から少し離れた海岸に行くとあまり人気がなく静かに過ごす事が出来る。

砂浜ではビーチパラソルとチェアを日本でいうところの「海の家」のような屋台が一日25弗で貸し出しをしている。
ちょっと高いかな、という気もするが、さんご礁の白い砂が反射する為か日差しが凄く強いので、パラソル無しでは結構きつい。
そういうわけで、10数本あるパラソルセットには結構貸しだし中のピンクの洗濯鋏が付いていて、商売繁盛という感じである。

屋台には髪を後ろに束ねた、「いかにも・・」という感じの白人のお兄さんと、レスキューのお兄さんがカウンターの木のスツールに腰掛け海を見ている。

ビールが一本5弗と少し高いが何回か買いに屋台に行く。
その時だけ兄さんはこちらに視線を戻すがあとはずーと海を見ている。

夕方の最後の船が出る2時間前にささっと屋台を片付け、洗濯鋏をちょいちょいと回収して、船に乗って町に帰っていった。

一日にパラソルのレンタルが250弗にビールの売上、物価の安いオーストラリアならば充分な暮らしが出来る金額であろう。

うらやましい。

一日ただ海を見ている生活というものがここには本当にある。
Have a Good day ! はぶぁ ぐっど だい !

天国に少しだけ近い島で感じたことだ。


グレートバリァリーフに浮ぶグリーン島


4.コンビニエンスな時代

コンビニエンスな旅

僕の仕事は地方をまわって撮影する事が多い。
だから月によっては、月曜にたって、金曜日の夜までホテルや旅館暮らしという生活が続く事がままある。
大体がいつもお馴染のホテルか旅館なので、ナイトフロントのおじさんや、掃除のおばさんなんかとは軽口をたたける様な気楽な関係だ。

北海道の地方都市というのは口の悪い人に言わせると死に絶えた様な町ということになるらしい。確かにその町に住んでいた若者達は高校を出るとそのまま札幌の町に出ていってしまうという、昔の浜田省吾の歌に出てきそうな町ばかりだ。

しかし僕に言わせるとそいつは本当なの?と思わざるを得ない。
コンビニだ。

実際札幌の町に住んでいて仕事に終われていると(結婚もして子どももいる40台の中年として通う回数は相当減ったとしても)コンビニ以外に行く機会はほぼ確実に無いと言ってもよい。


ある時期から北海道のあちこちに様々なコンビニが進出し始めた。
夜でも煌煌と灯りをつけたコンビニの進出ともに、旅先で少なくとも雑貨屋の薄暗い店先で雑然と置かれた菓子パンの中から「カビ」の生えていないパンを選ぶという作業は消えたのは間違いないし、国鉄のキオスクで買ったカップヌードルと竹輪で過ごす夜という事も無くなった。

そこが例え何処であろうともコンビニに置かれた弁当は、ほぼ同じ中身、内容で手に入れる事が出来る。

礼文島でも美瑛でも東川でも札幌でも、そして東京でも同じ様な生活がおくれるのだ。
コンビニは確かに地方にも同じ「文化」を供給しているのだろうという事が出来る。

ただ礼文島にコンビニが出来て、漁師のおじさん達がコンブ漁の前に缶コーヒーとオニギリを買いにコンビニに列が出来るという光景は少し寂しい。

便利と言うのは便利なのだけど。
そう思いながら出張の夜は必ずビールと弁当を買いに行く。

札幌でも礼文でもコンビニがあれば変らない生活が出来るというか、それしか使えない毎日になるんだったら別に田舎暮らしでも良いような気がするんだけど……


3.PEI プリンス・エドワード島の思いで

カナダ東部にあるプリンスエドワード州。愛媛県くらいの小さな島は全島が花と湖に彩られとても美しい夢の島だ。
そこを訪れたことのある人は誰もがPEIと親しみをこめて呼ぶ。
モンゴメリの「赤毛のアン」の舞台になったところといえば、その美しさは想像がつくのではと思う。

今から数年前、僕は12時間あまり飛行機を乗り継いでPEIの唯一の飛行場シャーロットタウン飛行場に降りついた。成田からトロントまでのカナディアンエアーのB747からハリファックスへの国内線のB737へと飛行機がだんだん小さくなり、ハリファクッスからシャーロットタウンへは数人しか乗れないプロペラ機になっていた。

空港に降り立った僕達は確かに一発でこの島のとりこになっていた。

一言で言えば富良野−美瑛の風景に小さな湖がたくさんあって、しかも周りの農家が皆洋館(当たり前だけで)なのだ。

目の前にあるすべてのものを僕は撮りつづけた。

その時撮った500カットのポジはまだあまり人には見せていない。

今年の秋、始めて芦別にあるカナディアンワールドを訪れた。
秋の空の下、誰もいない町並みを模した公園の中を子ども達とサッカーボールを蹴って駆回った。
かってバブルの時代に大金を浪費してPEIを金儲けに使おうとした人々がいた。

それから10数年公園となって、かえって本当のPEIのようにのんびりとしたカナディアンワールドは、あの時僕のお気に入りだった空と同じように高く澄んでいた。

「また来ようね」
子ども達が満ち足りたようにそうつぶやいた。
「そうだね、また来ようね」
僕もそう思った

 


2.富良野―美瑛について


昔、というには僕的にはつい最近の出来事のような気がするけれども、夏のある時期僕はほぼそこに住んでいた。

バイクの後ろにテントとほんの少しの食料と撮影機材一式をくくりつけ、富良野―美瑛の農道を走り回って撮影をしていた。

今から思うと全く信じられないくらいに人がいなかった。
見るのは農家の人たちとたまにエージェント用に写真を撮っている同業者を見るくらいで、その気になると一日人と口を利かないですむというのが気楽で良かった。

木々に囲まれた芝の綺麗な公園にテントを張り。天気が悪くって写真にならない日には、ずーっとテントの中で酒を飲んで本を読んでいた。

雨の日のテントは柔らかい光が射し込んで、ぽたぽたとフライシートにあたる雨の音がとても心地よい。経験の無い人には信じられないかもしれないが、一日中狭いテント寝転んで本を読んでいるととっても柔らかな気持ちになる。

公園には同じような境遇というか似たような人種があちこちにテントを張って生活をしていた。
夕方近くなると共同で食事を作ったり、酒を持ち寄ったりしてわいわい騒いだ。
気が向くと色んな話をしたり、ただぼんやりと焚き火を見つめていたりした。

ある夜、話しつかれて空を見上げると満天の星空だった。
誰かがテントからラジカセを持って来て、宗次郎の音楽をかけ始めた。
オカリナの音が森の中を良い感じで通りすぎて行った。

焚き木のはぜる音とあのときの音楽、静かに流れていった時間。
それが今の僕の原点なのかもしれない。


あれから20年。
数年振りに富良野から美瑛を家族連れで訪れた。
バスがうなりをあげてあたりを走り回り、静かだった花畑には団体客が押し寄せていた。しかもそれは台湾からの団体であたり一面賑やかな雰囲気の言葉に取り囲まれ、記念写真のシャッターを頼まれたりする。

丘の上には瀟洒なペンションだとかレストランが立ち、信じられない位の人がガイドブックを片手に信じられない位の山の中を歩いていたりする。

あの夏ヘルメットのシールドごしに見えた右コーナー。20年前の記憶では暗く狭い林道だった道が、広く立派な舗装道路に変わっていた。
僕ら家族を乗せたステップワゴンを、20年前の僕がバイクに乗って、左の手を軽く上げて抜き去っていった気がした。




1.「旅」についてのよもやまごと


ここ数年ひょんな事から関わってしまった事が、いつのまにか自分自身の殆どの関心事になっていて、寝ても覚めてもという言葉もあるけど、寝てるときもその事を考えているというか、考えなければならないという状況がここ数年続いている。

正直良い事ってのはそんなに無い。面倒くさいこととか、他人の嫌な向上心とか、虚栄心だとか、そんな他人の悪い面やら金銭的な問題だとかそう言う事に費やされる時間が殆どで、自分の作品について携われる時間というのは恐ろしいくらい少ない。

いつも、何か困った事態に遭遇したりすると、「もう辞めよう」と皆んなに言いつつ、また性懲りも無く続いている。

ふと、これまでに自分が費やしてきた時間だとか、金だとかそんなものが馬鹿らしく思えてきた。
たまたま在った仕事で室蘭に出張して、要領良く仕事を片付けると夕方にはぼ〜っと海を見ていることが出来るという仕事があった。

数日後、僕は請求書だとか予定表だとかそんなクソみたいなものを車のダッシュボードの上にふっ飛ばして、海を見ていた。
数年前、まだ結婚する少し前に妻とこの海岸にきた事を思い出した。
あの時見ていた夏の海と同じように青い海と白い雲が浮かんでいて、サーフィンに興じる若者達がいた。

やれやれ、信じられないくらいにあの時見た光景と目の前に広がっている光景ってのには変わりばえはしないのだ。

まったく
そう、僕はつぶやいた。

結局何年もの間自分が苦しんでいようとも、恐らくお気楽に暮らしていようとも、結局自分の心の中だけの事なんだ。

ただ、今では家には妻と二人の子がふらふらとほっつき歩く父の帰りを待っているという事実だけが昔と違うのだろう。

だからこそ、僕は今こそ旅について語ろうと思う。


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